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id:md2tak  よく考えれば、被害者が自身の行動・思考について内省する自由を侵害するようになる可能性もあるなぁ。そんなこと考えてもいないんだろうけど。

はてなブックマーク - Non-Fiction(Remix Version) | [ツッコミ]にしては底が浅い


「もっと気軽に女が男をレイプできる世界になると良いね。」「性別に関係なくみんな気軽にレイプできる社会が来ると良いですね。」という別の人の発言も目にした。その人は「表現の自由」の旗幟に立つ論者だった。別れたい……ではなく。――md2takさん。


「自由」とは差別の撤廃と同時に達成されることであり、また達成されてきたことです。そして、当然のことながら、この社会では達成されていないどころか「遠い夜明け」でしかない。だから、言うまでもないことですが、陵辱表現の商業的流通と――ミニスカートがそう指されるような――「女性の自由なファッション」は同じことではない。


「女性の自由なファッション」を「性的な自己決定」とも言います。そのような性的な自己決定は、ずっと、そして今なお、抑圧されてきた。女性の身体に「性欲をかき立てられる」男性と、そのことを女性の存在へと転嫁する男性によって。21世紀の「自由な社会」にあってなお、自衛論は斯様な責任転嫁そのものとして主張されている。すなわち、このような性差別ある限り、女性にとって「自由」などない。


そして、男性にとっても「自由」などないことに気が付いた多くの男性がいる。かくて女性専用車両が取沙汰されただイケが叫ばれ「女尊男卑」が堂々主張される。自分たちで話を極端にしておいて「話を極端にするフェミが問題」とは典型的なマッチポンプですね、と私としては言うほかないけれど、しかしそれは、男性ジェンダーの差別構造に「差別される者として位置付けられる」多くの男性が気付いたということではあるでしょう。


「被害者が自身の行動・思考について内省する自由を侵害するようになる可能性」とはどういう了見ですか。繰り返しますが「自由」とは差別の撤廃と同時に達成されることであり、また達成されてきたことです。それがこの社会において達成されていないどころか「遠い夜明け」であるのは、陵辱表現の問題ではない、自由主義の名のもとに「自由」と「御勝手」を概念において取り違える人が絶えないからです。「被害者が自身の行動・思考について内省する自由」なんてのは「自由」ではない。「被害者が沈黙する自由」が「自由」でないように。「私の勝手」が「自由」の問題であるとして、「貴方の勝手」は「自由」の問題ではない。少なくともそれを公言することは。「選択の自由」とはそういうことではない。


インターネットで自衛を説く人の多くは「貴方の勝手」を前提して「私の勝手」を説いている。そこに、「貴方」と「私」の立つ位置における決定的な非対称性に対する認識はない。その決定的な非対称性を隠蔽するために持ち出される概念が「自由」なら、それは冷戦時代の旗幟としてあった自由主義ではあるでしょうが、リベラリズムでもなんでもない。私はサルトルのよい読者ではないけれど、サルトルが聞いたら卒倒するか憤死するでしょう。「自由」とは、現存する「決定的な非対称性」を撃つための概念として、少なくともサルトルにおいてはあった。

自由で自立した個人なんて、一体どこにいるのだろう。誰でもしがらみの中で、執着の中で、生きている。自由かどうかなんて知らないが、ただ、自分そのものを引き受けて生きたいとは思う。それは少なくとも、自由であることに向けて生きることではあろう、と思う。たとえ奴隷であっても、奴隷根性の染みついた奴隷にだけはなりたくないな、と思う。

個として生きること - モジモジ君のブログ。みたいな。


ポストモダニストが往々にして人間の不自由をこそ享楽するために人間の不自由を自明と縷説力説するシニシストであることは自己批判も含めてよく知っているけれど、冷戦が終結した現在、こうも自由主義者シニシズムに満ちた建前論を聞かされると、たまには私もサルトルを引きたくなる。mojimojiさんのことを言っているのでは当然ない。


「性差別は存在しない」などと私は絶対に言えない。ならば「被害者が自身の行動・思考について内省する自由」などとは口が裂けても言えない。「自由」は、自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性を「私の勝手」「貴方の勝手」へと解体することが可能な概念ではあるけれど、「では、そのためにどうするか」が同時に、それを掲げる者において問われる概念でもある。サルトルが「私の勝手」「貴方の勝手」をこそブルジョワ的と唾棄したのは、それが現存する差別と帝国主義的な権力関係をなんら解体せず、すなわち人をなんら「自由」にしないことを知っていたから。繰り返しますが、保守主義者である私はサルトルのことが好きではないですが。


つまり「自由」は、現実に存在する差別と権力関係に基づく「私の政治的/社会的身体」「貴方の政治的/社会的身体」を――その「差異」へと決して還元されはしない決定的な非対称性を――一切合財「個人」へと返却してウヤムヤにする魔法の言葉としてあるのではない。「個人の自由」という返却先においてそのことがウヤムヤにされるとき、他者の問題も、マイノリティの問題も、ウヤムヤにされる。「御勝手」として説かれる「自由」においては。


「私」と「貴方」という問題において問われることがある。「私」と「貴方」という問題から「誰か」という第三項も導き出されうる。そうではなく、「自由」の名のもとに「個人の御勝手」とその肯定に一切が回収されるなら、「誰かの御勝手」というアウトソーシングも「自由」の肯定において導き出される。「誰かの御勝手」という発想が「性別に関係なくみんな気軽にレイプできる社会が来ると良いですね。」「被害者が自身の行動・思考について内省する自由を侵害するようになる可能性もある」という発言を用意する。――むろん、これは自己批判を込めて言いますが。


「自由」の名のもとに、この差別的な社会において、「個人の御勝手」をただ肯定することは、「個人」を肯定することでも「自由」を肯定することでもない。なぜならそれは、「被害者が自身の行動・思考について内省する自由」「被害者が沈黙する自由」をも「個人の御勝手」「誰かの御勝手」において肯定することだから。


――だから。今更言うまでもないことですが、そして表現規制問題について「表現の自由」の旗幟に立ってきた論者として私には言う筋合があると思うので言いますが。

id:KoshianX そりゃそうだ、誰でも理性ぶち切れることはあるさ。性欲かき立てるポスターは排除されるのに、性欲かき立てる格好した人間を排除する必要は無いってのはバランスを欠いてる。

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/shisokan/20091130/p1

http://d.hatena.ne.jp/Francesco3/20091201/1259700298


「バランスを欠いてる」とかKoshianXさんは放言も大概にしてください。少なくともそれが「自由」の問題である限りにおいて、表象と人間は違います。公共空間に――あるいは差別的な――消費されるための性表象が溢れ返ることが商業主義に基づく「表現の自由」の帰結であったこと、而してそれが――ことマイノリティにおいて――性的な自己決定の蹂躙と指摘されていること。そのことが問題の要諦です。「バランス」の問題ではない。

id:letterdust 2009/12/11 00:06


予防拘禁」されてるのは女の方だというのは28年女をやってきて痛いほどわかってるつもりなんですが、
「(俺以外の)男は獣」というアウトソーシングされた獣を持ち出す時に「女の誘惑」で月光みたく変身されても困るし
それが嫌だからこそ「キモいオタク」を請負先に選ばれるのも黙って見ていたくはないと思いました。
思い返せば、80年代の連続幼女誘拐事件の被害者と同世代なのでそういうカースト制みたいなのにうっすら反発していたんだと思います。

お答え - シートン俗物記


この差別的な社会におけるマジョリティである私が考えていたことは――陵辱表現愛好者もまたマイノリティである、と正真正銘のマイノリティである性犯罪被害者に対して主張できるか、そもそも陵辱表現愛好者はマイノリティなのか――「キモいオタク」がこの差別的な社会におけるマイノリティであっても――ということでした。マジョリティ/マイノリティとは、単なる数の多寡の問題ではない。先のエントリに付されたkogeさんのコメントから。

「他者」を認識すること自体が耐え難い苦痛であるヒト、「対人認知能力」を持たずに生まれついたヒトであっても、同様の「人権」を持つ人間なのか。それとも、人間は「社会的動物」である以上、「社会性」がなければ「獣」に過ぎない(たとえ「獣」だというのが真だとしても、その「獣」を檻に入れること、あるいは「獣」に襲われる人間を檻に入れることの是非は別問題だとも思うのですが)ということなのか。
私には猫氏やhokusyu氏の考えは後者であり、それは私という『獣』の生存権を奪うものだとしか思えないのですが。

「獣」などいない - 地を這う難破船


「猫氏やhokusyu氏の考え」は御本人にお尋ねくださいとしか言いようがないのですが、人間が「社会的動物」であるとして、その社会が根本的に差別的なものなら?――というのが先のエントリの趣旨です。そのとき「社会適応」とは、サディストの無葛藤を贖うものでしかない。そして、そのような発想に対して、hokusyuさんも「猫氏」も、明確にNOと言っていると私は理解していますが。


社会が根本的に差別的であるとき「自由」は「個人の御勝手」とその推奨によって贖われるものか。その点について、私は「猫氏」と延々意見交換してきました。見解に、今も変わりはありません。つまりこういうことです。「個人の御勝手」が真に可能であることと、差別が撤廃されることは、同義である、と。少なくとも「自由」とは言論においてはそのことを目指すべき理念であると。


だからこそ、このとき、陵辱表現は、臨界点として問われる。自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性について忘却されているとき、「個人の御勝手」は差別を温存するものとしてある。一部の自由主義者においては、忘却されているのでしょう。冷戦終結の後遺症か、あるいは冷戦時代の再現前ということか。だから、そのような言論に対しては私は批判します。それをして「ネオリベ」と呼ぶことは、蔑称の類と思いますが。


私たちが、男性でも女性でもなくマジョリティでもマイノリティでもなく構造差別の加担者でも犠牲者でもなく真に「個人」であることは、大変に困難なことです。あるいは不可能なことです。なぜなら、この社会には、差別が存在するからです――サディストの無葛藤を贖うための「永遠の嘘」と共に駆動する現在の差別が。リベラリズムが、忘却という「永遠の嘘」において、そのことを看過する主張であってはならない。無視する主張であってもならない。それが、「キモいオタク」が請負先に選ばれることを否とするリベラリズムなら、なおのこと。地上のあらゆるイデオロギーが「永遠の嘘」であったなら、なおのこと。