「獣」などいない
⇒http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20091206/p1
⇒http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20091206/p2
何から書いたらよいものか。いや、hokusyuさんに対してということではない。むろん批判でもない。
「獣」などいない。社会化された悪意に基づく人間のあまりに人間的な行為と、それによって裁かれる者しかない。そして、そのような者をもってして「獣」のレトリックを週刊新潮誌上で用いる――社会化された悪意に基づく個人の暴力を「獣」という「男性の本性」へと手間味噌に変換する――高名な作家先生がいる。その社会化された悪意がある。そういう話。そのような構造とその問題の話。その、理不尽極まりない暴力の話。それがなぜここまでこじれるか。この件について言及した人の中で、渡辺淳一の発言それ自体に同意した人を私ははてな界隈で見たことがない。
少なくともこのような場合において、理性こそ暴力的である、という話で、だから私は保守主義者なのだが。社会化された悪意に基づく個人の暴力を「男性の本性」へと変換する渡辺淳一が使用する「獣」のレトリックこそ、社会化された悪意に基づく個人の暴力を隠蔽し糊塗し欺瞞する理性による暴力そのものであり、それこそが社会化された悪意の言論における現前であり、そのような詐術に乗っかってどうする、という話を、Francesco3さんもhokusyuさんもずっとしているはずなのだが。それがなぜ予防拘禁の話になっているのか、ということについて。
自身の欲望について葛藤する人があることを私は改めて確認した。「くだらない自分語り」になるが、それが「葛藤」の問題であるならば、自分がそうであることについて私は葛藤したことがない。いや、私とて葛藤しなかったわけではない。しかしそれは、他者との性愛に際してのこと。自他の欲望が相違することは私にとって自明だったが、そしてそうした他者の尊重は私にとって自明のことだったが、しかしそれは恋愛の相手の身体に触れないことと同じことではない。サディストである私は、そしてそのことを恋愛の相手に云々する柄でもない私は、そうであるがゆえに、いつも恋愛の相手の身体を避けた。手を繋ぐことさえ嫌った。そのことを相手から責められることで、自分が人でなしであると知った。10代の頃のこと。
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表現規制問題について私が改めて確認したことは、むろんこのことは自己批判を含むが、誰かを黙らせて達成される「表現の自由」など理性による暴力でしかないということ。にもかかわらず「感情的だ」「理性的でない」「冷静さを欠いている」「これだから女は」だのと相も変わらず言っている人はなんなのかと思う。誤解を避けるために明記しておくと、たとえばNaokiTakahashiさんのことではもちろんない。
誰も黙らせてはならない。「表現の自由」の旗幟に立ってきた私は、そして今なおその旗幟に立つ私は、そう考える。「誰も黙らせた覚えはない」とは、ネットのことに限らず、私は自分自身についてはまったく言えない。しかし「世の中に不満があるなら自分を変えろ。 それが嫌なら目と耳を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ」という話にはまるで同意しない。それは、端的に理不尽でしかないし、社会化された悪意を裏書するものでしかない。「表現の自由」とは理不尽の別名ではない。「表現の自由」は社会化された悪意を裏書するために掲げられた理念ではない。
無神論者の私は、時に「人間の条件」について考察したアレントを引きたくなる。人間は言行における理性の有無によって価値を計量される存在ではない。檻に入れられる存在でもない。いかなる行為に及んだ人間であれ、人間は獣ではない。そして人間は自転車でもショーウィンドウの中の商品でもない。基本的人権を持ち合わせ、声を上げる権利があり、そして誰かを黙らせてはならない。
この大前提を覆すものとして、「男性の本性」として「獣」のレトリックを弄する高名な作家が言論において現前させる社会化された悪意がある。あるいは、性的な自己決定の侵害を貞操の問題へと変換する自衛論の構造がある。斯様な社会化された悪意が個人の理性的な暴力を喚起する。そして、その暴力を「男性の本性」へと変換することによって、あるいは性的な自己決定の侵害を自衛論へと変換することによって、社会化された悪意の裏書と更新は繰り返される。社会化された悪意を磐石とする斯様なマッチポンプのために、理性は使役されている。
常識とは、社会化された悪意に対する術ではあるが、公の場で言論をもってして常識を説くならば、社会化された悪意を撃つことが先決だろうと私は思う。それはつまり、社会化された悪意によって尊厳を毀損された、誰かの側にまず立つこと。繰り返すが、曽野綾子の主張がそうであったように、自衛論とは性的な自己決定の侵害を貞操の問題へと変換するものでしかない。
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社会化された悪意とは何か。寝室の外で暴力を享楽する欲望である。苦痛を他者と回し飲みする杯である。そのために使役される理性は、あらゆる方便を手を変え品を変え調達する。そのひとつに「表現の自由」があったことを、自己批判と共に、私は認めざるをえない。むろん、「表現の自由」の旗幟に立つ論者がすべてそうであったということではないし、陵辱表現にのみ矛先が向く話とも私は思わない。
アブグレイブ刑務所での収容者虐待が発覚した際に『他者の苦痛へのまなざし』でスーザン・ソンタグが指摘したように、社会は、暴力を享楽する欲望に満ち溢れている。そのためにあらゆる方便を調達するべく理性は使役されている。その、社会化された悪意のために使役される理性は、個人の欲望を「獣」と措定してその場所にこそ矛先を向ける方便としても機能する。寝室の外で暴力を享楽する欲望のために、寝室が土足で踏みにじられる。他者の存在しない寝室が。だから、「表現の自由」の旗幟に立つ論者が予防拘禁を懸念することは私は了解する。けれども。
私は自身の欲望について「俺の中の獣」「わが目の悪魔」と考えたことはない。なぜなら、たとえばアイヒマンがそうであったように、暴力とはいつだって、社会化された悪意に基づく個人の理性的な行為としてあるから。そして私はそのことをとんでもないことと思っている。サディストが葛藤しないのは、それが社会化された悪意に基づく個人の理性的な行為であるから。私が考えるのは、自己批判と共に言うが、サディストの無葛藤を再生産する社会であってはならない、ということ。性差別とは、社会化された悪意の問題であって、個人の内なる欲望において問われることでは必ずしもないのだから。自身のサディズムを、内なる欲望の問題と考えたことが私はない。社会化された悪意と結託するものとしてあると考えている。そして、「男は獣」と公言する作家の行為は、社会化された悪意の言論における現前であって、性差別でしかない。
いつだって、他者との性愛に際して私が葛藤してきたのは、「俺の中の獣」でも「わが目の悪魔」でもない。社会化された悪意に基づく個人の理性的な行為とその無葛藤だった。私は私自身について、自分自身の存在や言行が誰かにとって許し難いことなど当然のことと思っている。だからこそ、私個人の生き方とその始末とは別に、そのような存在が再生産されないことを、社会の問題として考える。予防拘禁を説いているのではもちろんない。サディストの無葛藤を是とするために使役される理性が調達するあらゆる方便が、個人の理性的な行為を支えており、その結託のもとにこの社会はある。すなわち、社会化された悪意はそのようにしてある。
「サディストの無葛藤を是とするために使役される理性が調達するあらゆる方便」のひとつに「表現の自由」があったことを、自己批判を込めて、つまり私自身の言行の問題として、私は認めざるをえない。社会は、一方的な殺戮を避けるために、誰かの存在や言行が誰かにとって許し難いことを「包摂」の名においてコーティングする理念的な――あるいは歴史的な――欺瞞としてある。その欺瞞と偽善について「根源的な場所」から数十年に亘り指摘してきたのが曽野綾子だった。しかし、私はそのような社会をやはり是とするだろう。「サディストの無葛藤を是とするために使役される理性が調達するあらゆる方便」を指して「永遠の嘘」と呼ぶにせよ。「表現の自由」は「永遠の嘘」としてあったろうか。――あった。
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社会は、むろん「獣」も「檻」も比喩だが、獣を檻に入れておく理念的な構成物として合意されている。真に理性的な社会においては「獣を檻に入れておく」理念的な構成物としての合意のもと、サディストの無葛藤が、社会化された悪意と結託して、あるいは社会化された悪意の現前として、有形無形のアブグレイブ刑務所を随所に生み出すだろう。ありがちな、しかし絵空事でもないディストピア。予防拘禁論は、その場所に現れる。
ツケを回されるのは、むろん、理性に欠ける二級市民。私が言語同断と思うのは、性犯罪被害者が、性犯罪被害者であるがゆえに、理性的に振舞わざるをえず、いっそう理性的であることが要請される、社会とその根底的な悪意のこと。誰かを打ち据え、痛めつけ、脅し怯えさせ、貶め、尊厳を毀損する、そのために理性が使役される、自由と寛容を自称する社会の悪意のこと。
そして、陵辱表現愛好者もまた、陵辱表現愛好者であるがゆえに、いっそう理性的に振舞うことが要請される。いっそう理性的に振舞った結果が現在の事態としてあるなら、私は、私を含めた、理性的で差別的なるマジョリティによるツケ回しをこそ憎む。
性暴力は、社会化された悪意に基づく個人の理性的な行為の最たるものとしてある。性犯罪者は決して獣ではない。社会化された悪意に基づく人間のあまりに人間的な行為に及んだ、理性的な個人だ。だから裁かれる。あるいは「理性的な個人」でないなら、そのように「処置」されている。それも、あるいは差別的なことであることは言うまでもない。
問われるべきは、自身の欲望に対する自覚と罪悪感の有無ではない、懺悔の問題でもない、社会化された悪意に対する認識と、個人の理性的な行為に対する善悪のレベルでの検討だ。その理性的な行為は、あるいは理性の有無において他者を断じる行為は、時に、サディスティックな暴力ではないか、と。理性はサディスティックな暴力に対する無葛藤を贖うために使役されているのではないか、と。暴力とは、現在においてそのことではないか、と。アイヒマンは自身の行為を理性的と信じていたし、そしてそれは間違ってもいなかった。
理性の贖いは、暴力の背景において培われる。しかし現在、理性は、暴力に対する無葛藤のために使役されているのではないか。そのようなbot的な理性が、このリベラルな社会の基盤として時にあるのではないか。そうであるならそれは、マッチポンプでしかない。暴力のために使役されるbotとしての理性でしかない。性犯罪者が持ち合わせる理性と同様の。レクター博士のように、あるいはランダ大佐のように、誰かを打ち据え、痛めつけ、脅し怯えさせ、貶め、尊厳を毀損し、自身の欲望を満たすために使役される理性。自身の享楽のために使役される理性。
hokusyuさんが言われる「たましい」とは、そのことを指している。たとえそれがどれほど「高度に発達」していようと――botとしての理性の外側にあるものを。すなわち他者の問題を。マイノリティの問題を。そして善悪の問題を。私としても、耳が痛い。