自由と寛容を自称する社会


2009.6.5: 日記


佐藤亜紀


ファトワと自力救済はそれは違います。これは、日本の法の問題です。問題は、ある書物を翻訳した日本の翻訳家がおそらくはそのことを理由として日本国内で殺害され、そしてそれは事件解決へと至らなかったことです。つまり、「ムスリム対ヨーロッパ」の文脈を私は問題にしているのではない。『悪魔の詩』を引き合いに出しておいてそれはないだろう、という指摘は受けます。しかしそもそも強姦ゲームの問題は「排他的な信仰に基礎を置く二つの文化が、相互の不信感と敵意は消え去ることがないとしても、当座は潰し合いに至ることなく休戦状態を保つこと」の問題ではないと私は考えるので、その点について、『悪魔の詩』を引き合いに出したことに対する誤解については、正させてください。


言明する必要があると思うので言明しますが、この問題の筋論については、私は所謂「西」の世界――つまり「自由で寛容な社会」を自称する社会――の住人として発言しています。しかしそれは日本です。日本国と自称「自由で寛容な社会」との差異について織り込んだ議論をしなければならない。それは、欧州などよりはるかにムスリムが不可視な、ユダヤ人迫害と無縁の顔をしている国家の話です。


五十嵐氏の事件が時効になった。それは「権利侵害」に対する法の外の行為を日本国は掣肘できなかったということです。法とは日本国の法です。「国辱」という言葉はこういうときに使います。日本国における具体事例としての五十嵐氏の事件とその顛末を知っていながら、一般論を称して、雉も鳴かずば撃たれまい、に類する話をしておられるのは何なのか、ということです。五十嵐氏の事件についてそう仰っている、ということではない。そもそも、雉も鳴かずば撃たれまい、に類する話をしておられない、とのことですが、地下に潜ることと雉が鳴くことが別の問題なら「しておられない」という話になると思います。法規制は商業表現物にとって死を意味します。死を望んでおられるのだと思いますが、射手の存在を示唆して主張することには私は賛成しません。つまり、現実の暴力を示唆して表現物に対して法規制を主張する、それは同意できません。


「裏の窪地で射殺」はリテラシーの問題です。当初の発言に文脈を補足しなければヘイトスピーチにしか見えないということです。立派な家父長が一家の恥を裏の窪地で射殺する話が「ゴキブリを殺せ」とどう違いますか。もちろん、違います。ツチ/フツという帝国主義者が線引きした存在と自ら選んだ人倫に悖る行為は違う。しかしながら、男らしい男と男らしくない男も、帝国主義者の線引きです。悪徳が内心の自由であることが、帝国主義者の線引きに抵抗して主張されることなら、そもそも強姦ゲームの悪徳は内心の自由ではない。


立派な家父長が一家の恥を裏の窪地で射殺する話を持ち出して「お前らは地下に潜るべきなんだよ」というのは「反社会的行為の覚悟を説いている」としか読めません。それは勝手ですと書きました。「発破をかけている」は「佐藤亜紀」が「オレの中の煮えたぎる地獄をどうすればいいんだよ、と仰る方」に「多少の制約にはめげず精進に励まれたい。」と仰っていることを指して言いました。「自由で寛容な社会」と人倫は一致しません。一致点を模索しない限りは自称で終わることになると思います。

私は五十嵐氏の訳の意義について触れていますし、「雉も鳴かずば撃たれまい」に類することは一言も書いていない訳ですから。当然

「表現が必然的に誰かの逆鱗に触れうることに対して生き死にの話を持ち出して『雉も鳴かずば撃たれまい』的な話をしている」

のは私ではありません。

まさか佐藤亜紀表現者でありながら表現の自由の敵だぞ、五十嵐一のことを「雉も鳴かずば撃たれまい」と言う奴だぞ、その種の自力救済を準備しているぞ、という印象操作を行おうという訳でもありますまい。


「裏の窪地で射殺」がレトリックなら、修辞は読み解かれなければならない。撃たれても致し方ない雉と撃たれるべきでなかった雉がいる、と読みました。そのことには同意するので、強姦ゲームとラシュディを一緒くたにしうるものでない、と書きました。しかし、五十嵐氏の事件とその顛末を知っていながら、民主主義国家の自由な表現に対して生命に及ぶ暴力の蓋然を示唆することには、まったく賛成しません。「自力救済」を私は認めますが、民主主義国家の自由な表現に対して生命に及ぶ暴力の蓋然を示唆する発言は、支持しません。立派な家父長は実在すると書きました。生命に及ぶ暴力へと至る蓋然は存在するということです。自由で寛容な社会「とやら」の自由で寛容な表現がムハンマド風刺画のごとき欺瞞の極みである、そして民主主義国家はその欺瞞を数の論理で守護しているにすぎない――それはそうです。

佐藤亜紀ルワンダ虐殺を煽ったラジオのDJ並みだぞ、という印象を与えようとしている訳ではないとすれば、この部分についても、納得の行く説明をいただきたいものです。


「対話相手の方」が「煽る」ことについて無問題であるかのように言っておられたので、問題大有りだ、と書いたのが当方の真意です。日本での報道は「幸いにして」ありませんでしたが、当該のエントリを一読して裏の窪地で息子を射殺した日本語を解する立派な家父長が世界のどこかにいたかも知れない。人権団体が声明を出した発端は英amazonでの当該ゲームの販売でした。当然、そうしたことがありうることを考慮して当該のエントリを掲示したと考えます。


繰り返しになりますが、撃たれても致し方ない雉と撃たれるべきでなかった雉がいる、と言っておられるようにしか私には読めません。そして、雉を区別する考え方には同意します。射殺の話を持ち出すことに対しては、リテラシーの問題としか言えない。「ルワンダ虐殺を煽ったラジオのDJ並み」とはまったく思いません。ただ、一家の恥を射殺する話を持ち出すというのはそういうことです。立派な家父長と名誉殺人の間にさほどの懸隔はありません。そう思っていない「西」の世界の男らしい男もいるようですが。もちろん、強姦ゲームを売りさばくことも「ルワンダ虐殺の際のラジオDJと何が違うのかさっぱりわかりません」。


私が言っているのは、ルワンダ虐殺の際のラジオDJと何が違うのかさっぱりわからない強姦ゲームを掣肘するなら、名誉殺人を認めない、自由で寛容な社会「とやら」に準拠するしかない、ということです。生命に及ぶ暴力の蓋然を示唆して地下に潜ることを勧めることではない、ということです。市場が糞であるとして、しかしこれは市場の問題です。自由で寛容な社会とは、市場が最優先される糞な社会のことでもあります。生命に及ぶ暴力の蓋然を示唆して市場を掣肘する、そうした発言は支持できません。なぜなら表現の問題は、つまり雉の問題は、究極的に法の問題だからです。民主主義国家であるところの日本の法の。


悪魔の詩』はムスリムに対する「権利侵害」ではなかったしプロパガンダでもなかった。五十嵐氏もそのことを強調していた。しかし強姦ゲームは女性に対してそうではない。私が法規制に対する反対を再三言明するのは、法が「排他的な信仰に基礎を置く二つの文化が、相互の不信感と敵意は消え去ることがないとしても、当座は潰し合いに至ることなく休戦状態を保つこと」のために介入することをこの国においてそもそも是としないし、差別構造の問題と文化摩擦の問題を区別して考えるからです。というより、差別構造はまさにその文化摩擦を口実にして自由と寛容の名において作動する。少なくともこの日本におかれては、文化摩擦は多く差別構造の擬似問題です。


男が「殴る」などと文字列で書くことは――まして「市民として殴る」などと書くことは――マッチョイズムの発露に決まっているわけですが、しかし「これだから野蛮なムスリムは」「これだから女の感情論は」のように擬似問題としての文化問題が差別の口実として利用されるとき――つまり差別構造が問題を擬似問題化した挙句「自由で寛容な社会」における差別を推進するのですが――その種の発言に対して法が介入することと自警団が介入することでは後者が次善であり(最善はないので)、そもそも自警団活動の余地さえないのが日本社会、というのが私の見解です。記憶を失う以前の中平卓馬氏が、つまり70年代のことですが、公共ってのは自警団の発想じゃないか、上から来る公共と下から来る公共があって、自警団ってのは下から来る公共だ、と言っていました。


公共の福祉という概念について、上から来る公共を採る。その筋道はあると思います。上から来る公共と下から来る公共なら、私は下から来る公共を採ります。日本においてトップダウンの公共が公共として信じられたことなどないからです。憲法に明記してある表現の自由すら、日本国では守られたことがない。そしてそれは、必ずしも市場を守るということではない。日本国の法は五十嵐氏の行為を守ることができませんでした。それは、民主主義国家の法が表現の自由を守らなかったということです。『悪魔の詩』が日本で発禁になったわけではありません。商業的判断において、当時少しばかり入手困難になっただけのことです。


「どっからどう見ても反社会的エロ妄想を商品化したり消費したりしている癖にお国に守って貰いたがってる連中って一体何なんだ?」「市場と法律に守られないとエロひとつできんのか。」と仰っています。五十嵐氏の事件の教訓は、市場はともかく、お国の法律に守られないと翻訳出版さえできない、ということです。そして表現の自由憲法に明記するお国の法律は、五十嵐氏の翻訳出版行為を守らなかったし、守れなかった。犯人を検挙して処罰しないことには、「守った」ことにはなりません。法治国家であるのだから。


「自力救済」を認める、と私は書きました。法治の原則は、それを認めません。人が死のうが死ぬまいが、表現行為に対して暴力が行使されることを認めません。ヘイトスピーカーに殴りかかった「在日」の青年が警察官に連行されたように。民主主義的な法治国家とは、表現行為を「自力救済」から守る国家です。「だから」法治の原則において表現行為を制限する。それはありうる選択肢と思います。


五十嵐氏の翻訳出版行為と、強姦ゲームの流通消費が決定的に違うことをわかっていながら、前者を表現の自由において守り後者を制限しうる方策に対して、なぜそれを退けるのか、表現の自由は絶対だからか、後者が他者の人権を踏みにじっていることをわかっていながらなぜか、と問われたとき、私は、強姦ゲームの流通消費の法的制限が踏みにじる人権もある、と答えざるをえません。ただしその人権は、必ずしも表現の自由ではない。


私のことではない、と断りますが、少なくとも日本では「知的で誠実な性暴力嗜好者」はありえるしいます。一般論としてありえるし、そして数はとても多い。そのような人々がフィジカルな性暴力でなく強姦ゲームを求めることも。そのような人々に対して、地下に潜れと容易く言うことは私はできない。地下に潜るということは、法の庇護を受けない、有体に言えば、堅気であることをやめる、ということです。堅気の顔をしていられることが差別構造そのものであり、そのもっとも強力でしかし不可視な作用である。その通りです。


知的で誠実なナチは、現代の先進国社会ではありえません。「だから」知的で誠実な性暴力嗜好者がありえない社会を目指すことには、私は同意できません。堅気でいさせること、法を守る善良な市民であり続けさせることは、「知的で誠実な性暴力嗜好者」の存在の前提条件です。それが、まさにナチ政権下のドイツのような、最悪の差別構造そのものであることは事実です。しかし保守主義的に言わせていただくなら、このことには、善悪両方の側面がある。


差別構造にライドする者の強弁であることは、認めます。自由で寛容な社会が、誰かの恐怖と憎悪を圧殺した社会であってはならない。私はそう言っています。「誰か」に「知的で誠実な性暴力嗜好者」が包含されるのが、私の認識です。彼らは、非知的だったり不誠実だったりする性暴力嗜好者より、はるかに数は少ない。それをマイノリティと呼ぶことがそもそも異常な話であることは確かです。そして往々にして、非知的だったり不誠実だったりする性暴力嗜好者のことを、男らしい男と言います。


男は男であることにおいて性暴力嗜好的である、それはまさに差別構造の反映ですが、にもかかわらず知的で誠実な男というものが存在しうることは、そしてそれは法の庇護が前提条件であることは、私の法規制反対論の源として、ここに明記します。私は現状ほぼ堅気ではないので、またポルノユーザーでもないので、私を庇護せよということではありません。最後に笑うのは、男らしい男であるところの、非知的だったり不誠実だったりする性暴力嗜好者です。


女性が、性暴力嗜好の男に対する差別的な憎悪を垂れ流したところで、たとえば私自身は、なんら脅威と感じません。そのことに暴力を連想しないからです。しかし、女性にとって、男が垂れ流す差別的な憎悪はそうではない。これが、端的に差別構造とそれに基づく非対称性です。私はその問題と考えます。自由で寛容な社会の市民道徳では解けません。しかし、現実の暴力を示唆して法の介入を望むことも私は支持しません。現代においては、足許は、どうあっても不安定です。一身独立して一国独立す、はとっくのとうに困難です。しかしそれなくして法秩序に政治的な対応を委ねるなら、それこそ不安定ではないか。不安定を採らざるをえない限りは、自身の判断に負う不安定を採りたいと私は思います。