逆鱗と道徳


2009.6.3: 日記


悪魔の詩』がそのような小説であることは承知です。当然読んでいるので、ダシにしているのではない。ムスリム表現の自由を圧殺する、ということではない。そういうのは単に「ゴキブリどもを殺せ」というプロパガンダであり、よく言って偏見の羅列です。問題は、ある表現が誰かの逆鱗に触れたとき、強制力の行使としての「自力救済」を私たちは認めるか、ということです。認める、というのが私の立場ですが、自力救済の範疇に人殺しが含まれうるか。むろん含まれますが、自力救済の範疇に人殺しが含まれることは認めない、というのが私の立場です。五十嵐一氏の事件は時効を迎えました。犯人が出国中は時効停止しますが。


尊敬すべきイスラム研究者であった氏に対して「五十嵐氏はあの本を翻訳しなければよかったのに」と、後から言えるか。当然、読者が言えるはずもない。にもかかわらず、表現が必然的に誰かの逆鱗に触れうることに対して生き死にの話を持ち出して「雉も鳴かずば撃たれまい」的な話をしているのは何なのか。「発破をかけている」のは勝手です。人殺しまでは至らないだけで、あるいは露見しないだけで、現代日本におかれても立派な家父長はなんら空想上の存在ではない。頼もしいことです。この「逆鱗」は権力を含意しません。


「しかしそれは強姦ゲームの話だろ?」「表現が必然的に誰かの逆鱗に触れうるとかそういうレベルの話ではないだろ?」そうです。よって、結局は表現内在的な論拠の話になる。強姦ゲームが売れるから強姦ゲームを売るために売る商売の話になる。強姦ゲームをおおっぴらに売る世界の話になる。「休戦」のための法規制の話になる。歴史的な差別構造が表現に内在する、だからこそ「売れる」表現の話になる。歴史的な差別構造が表現に内在することも、そのことで表現が売れる男らしい男と男らしい男に憧れる男たちの消費社会が存在することも致し方ないが、そしてそれこそが歴史的な差別構造の資本主義的反復そのものだが、しかしおおっぴらには売るな、と。そんなもんのどこが自由か、と。


自由で寛容な社会だからこそ「逆鱗」を私たちは肯定しなければならない。肯定するためには逆鱗を可視化しなければならない。そしてそのことが、差別構造を撃つことでもある。撃つためには、的を定めなければならない。他者の逆鱗を「まぁまぁ」となだめすかしたり無視したり、まして嗤ったりすることが寛容ではない。そして差別構造は、他者の逆鱗をインビジブルとするために機能する。逆鱗の存在を不可視として扱うことが「他者」を「他者」と見なしていないということであり、すなわち差別です。メイドに自分のお下がりの服はくれてやるが、当人のことを知ろうとはしない親切なブルジョワの御婦人のように。


男は、女に自分のお下がりの服をくれてやって、それで男女平等と称している。なので、立派な家父長の話を持ち出しておまえらは男らしい男たちの社会の爪弾きだと言ってみせたところで、男らしい男たちの社会からお下がりの服を恵んでもらっている♂の逆鱗に必ずしも触れるわけではない。なぜ触れないか。それが差別構造で、自分たちのお下がりの服を♀に恵んでいるからです。それを、憎悪の発露とは考えないから差別構造の不可視化の機能があって、差別のインビジブルがある。この構造がすべて糞、そういうことではありますが。


インビジブルだから、他者の逆鱗が見えない。他者の逆鱗に対して、いや、逆鱗を持ち合わせる者としての「他者」の存在について、盲目にしてしまうことが、この社会を司る差別構造の機能です。そして、逆鱗を持ち合わせる者としての「他者」の存在と、逆鱗の存在について示唆したところ、見事なサンプリング調査になった、男たちの逆鱗に触れた――それはそうです。男たちの逆鱗に触れることを怖れて、殊に男らしい男たちの社会から爪弾きにされた男たちの憎悪のターゲットにされることを怖れて、女性は自身の逆鱗について沈黙する。かくて一切の逆鱗を不可視にする自由で寛容な文明社会の差別構造は温存され資本主義とメディアによって上書きされる。ポルノはその釉薬としてある。


そのような差別構造の不可視を指摘するべく、可視化された差別構造として表象を批判する。ラディカル・フェミニズムがやってきたのはそういうことです。差別構造は市民社会の道徳という盲目へと私たちを導き差別を不可視とするために作動している。それで盲人は川に落ちるかというと、落ちないから始末に悪く、時に天下は太平。差別構造の不可視を指摘するために、差別構造の再現前として表象を批判する。それは妥当です。人は、あるいは男は、逆鱗の話には鈍感です。殊に他人の、「他者」としての逆鱗の話には。そして「他者」の逆鱗の話に敏感な男は、強姦ゲームの強姦される女性のことを思って抜いている。犠牲者としての「他者」に萌えている。


風刺画問題についてはこう考えます。誰かが自力救済に迫られる局面を自由で寛容な社会を名乗る限りは作り出すべきでない。私たちは、他者の逆鱗を尊重しなければならない。道徳の問題ではなく、社会綱領の問題です。「にもかかわらず」表現してしまうラシュディのような人がいる。自由で寛容な社会における表現とは「にもかかわらず」の臨界においてその真価を問われる。「にもかかわらず」の臨界を商業と需給の釣り合いに代弁させる、あるいはそもそも売り渡してしまう、挙句「表現の自由」に代弁させる、そして「にもかかわらず」の臨界値を「表現の自由」に委ねて原理的には無制限とのたまう自称表現者は軽蔑に値する。それはそうです。


他者の逆鱗を市場の存在において却下し、あるいは「表現の自由」で踏み倒して、あまつさえ自由で寛容な社会を自画自賛する言説/表現について、身内でシメておこうとしないから他者が自力救済に迫られる。自分の娘が傷物にされたとき立派な家父長は自力救済ウェルカムですが、それのどこが自由で寛容な社会であるか、と。


ルワンダ虐殺のDJ呼ばわり」について。第一に、このような文脈を誰が読みましたか。これもまた、リテラシーの問題ではありますが。『陽気な黙示録』も『でも私は幽霊が怖い』もそこに書いてあるラシュディやストーカー問題についての見解も私は大昔に読んでいますが、読んでいなければ立派な家父長云々を単なる反動の言い種としか読まない。煽ってどうするのか。ガソリンが満ちている空間に火種投げ込んでよく燃えたってのは単なるガス抜きにしかならない。それは他人の逆鱗を衝くことではない。人は「考えることをやめる」か「溜飲を下げる」だけです。それでマイノリティが自力救済に迫られる局面が減らせるなら構いませんが――男がマイノリティとは私も言わないので。人は自身の逆鱗を衝かれて差別構造の不可視性について思い至りましたか。そのような「建設的な」反応がどれくらいあったか。建設的な話は、たぶん建設的にしかできない。もちろんこれは、マジョリティであるところの男の傲慢ですが。


自由で寛容な社会は、他者の逆鱗を認め、逆鱗を持ち合わせる存在としての「他者」を認める社会です。そのことを不可視化するのが差別構造であり、斯様な不可視の差別構造の再現前として表象はある。殊に「ある種のポルノ」のような表象は。強姦ゲームは。「自力救済」を私は認めます。しかし、誰かが自力救済に迫られる前に――そして多く自力救済は結局のところ当人さえも救済しないのだから――自由で寛容な社会はその証文としてシメておくべき言動はシメておくべきでしょう。ヘイトスピーカーを「在日」の青年が殴る前に自由で寛容な社会が黙らせておく必要があるように。


ただ、そのとき「法」を採用することは、こと日本におかれては端的に逆効果である、というのが私の見解です。民族問題のトラウマを持たず、オブセッションも持たないことは、能天気の証明であると同時に、差別構造そのものですが。では、どうするか。比喩であれ文字通りの意味であれ、市民が市民として殴っておくしかないでしょう。市民とは決して暴力に反対する存在のことではないので。「休戦」の証としての法規制という発想には、乗れません。マジョリティの傲慢であるとしても。もちろんこれは美辞麗句による綺麗事です。しかし文学ではない文章が、建設的な綺麗事を綴らないなら、ヘイトスピーチだってそれは言論になります。


差別的な憎悪を垂れ流すことも、表現の自由は保障している。その通りです。だから、表現の自由においては、腰のガンベルトにかけて、あるいは二本差にかけて、私たちは物を言わなければならない。三島由紀夫のように剣道に精を出すのも、野坂昭如のようにキックボクシングに精を出すのも、あるいは徒党を組んでラッパ鳴らしてデモ行進するのもいいでしょう。しかし日本国は銃刀法を定めており、衆寡は敵しないのが政治的現実なので、作家の物騒な物言いはパフォーマンスとしてしか受け取られない。付け加えますが、その状況自体が糞です。パンとサーカスそのものです。


そして、差別構造に基づく暴力は不可視のまま省みられることさえない。差別的な憎悪を垂れ流し合う世界でも私は構わない。ただ、差別的な憎悪を垂れ流すことで人は死にます。だから、差別的な憎悪を垂れ流し合う世界を避けるために、自力救済に迫られる「他者」を生み出さない社会が綱領として要請される。そして法規制は認めない。建設的な綺麗事として、しかし自由と表現と人権の問題として、私はそう考えます。