NakanishiBさんへのレス


「特定ポルノ」という発想 - 地を這う難破船


NakanishiBさんが言いたかったことは伝わっていますよ。だからエントリで長く引用しました。他人の「不見識」を示して、貴方はそれをスルーするのか、という問いの立て方が私は好きではない。

私が指摘したかったのはtikani_nemuru_Mさんが今回の議論をはじめたきっかけはまさにこの「不見識」からでしょう。それはtikani_nemuru_Mさんが議論を進めるべきことではあります。しかし、この論点が明らかにされないままではまずい、これのについて知っているはずのs-k44さんはこの問題について態度を明らかにした上でtikani_nemuru_Mさんを批判すべきだと思ったのです。


「sk-44さんはこの問題について態度を明らかにしたうえでtikani_nemuru_Mさんを批判すべき」他人の議論の添削は結構ですが、私の態度は明らかにしました。「「コンセプトにおいて劣情の喚起に特化」することと「コンセプトにおいて黒人狩りに特化」することは違う、決定的に違う、というのが私の考えです。」そうではない、とNakanishiBさんはお考えですか。


NaokiTakahashiさんが御自身のブログエントリでNakanishiBさんに対してレスをされています。御自身の見解を述べています。それについても「不見識」とNakanishiBさんが考えるなら、そのように批判をなされば宜しい。他人の議論の添削などするのでなく。よく言われるように、またそれはとてもマッチョな強者の論理でもありますが、自由には責任が伴います。山本弘が宇野正美のユダヤ陰謀論に対してさえも言論の自由を主張するのは、彼がそれを批判しそれがトンデモでありヘイトスピーチであることを周知させてきたからです。

このコメントから「コンセプト」と「個々のプレイヤーが楽しむ」ことを区別できていないと推察し、「黒人狩りに特化したゲーム」が存在しえて、それは「人狩り」のゲームと違って差別的だという差別問題の基本を理解していないと判断してこのような現実があると提示したのです。


「区別できていない」の主語はNaokiTakahashiさんですか。その点についても御自身のエントリで述べておられますよ。「黒人狩りに特化したゲーム」は流通しえません。存在とその流通は違います。「黒人狩りに特化したゲーム」は流通しえないので、ゲームコンセプトに「個々のプレイヤーが楽しむこと」は包含されていて、それは商道徳の範疇です。問題はこれです。で、それをguiltyと指すとき、何がguiltyか。「何が」について「構造的差別が」と主張することはその通りですが、構造的差別のguileyと商道徳の範疇にあるゲームのコンセプトを直接に紐付けすることには、私は賛成できない。


なお、「わかりにくい」のではなくてNakanishiBさんの場合はいつも端的に言葉足らずです。「長々と」とご自分では仰っていますが。

「tikani_nemuru_Mさんのことではない」規制擁護的意見をしっかりした関連もなく例に出すほどまで、「特定ポルノ」に対する不当な偏見がsk-44さんにとって切迫した問題意識につながっているだということはわかります。ですが、上述した論点は私には決定的に重要です。さらに「「私にとってはこの「了解」がsk-44さんやtikani_nemuru_Mさんや佐藤亜紀さんなど以外では実は多くは存在しない」ことが看過される事も決定的に重要なのです。そしてこの論点とその理解されなさに気づきながら沈黙する論者に怒ったのです。


「しっかりした関連もなく」ね。添削ですか。駄目な規制擁護的意見が多すぎる、という話ですが。「tikani_nemuru_Mさんのことではない」ってのはそういうことです。「切迫した問題意識」云々と、印象操作的な言辞は結構ですが、御自身のブログでなさってください。「この論点とその理解されなさに気づきながら沈黙する論者に怒った」以上はNakanishiBさんは今後沈黙されないことと思います。振り上げた拳を下ろすような真似はされないことと思います。


で、NakanishiBさんにとって決定的に重要な「上述した論点」については既にエントリで「態度を明らかに」していると思いますが、何をもって「sk-44さんがまったく見当違いをしておられると判断した」のかわかりかねます。「後段の問いに対する応答にもある程度なっているはずです」とのことですが、どう「なっている」のか、とりあえずエントリ待ちです。繰り返しますが、NakanishiBさんはいつも言葉足らずです。殊に、他人のブログに異論をコメントする際のNakanishiBさんは。

さらに疑問ですがs-k44さんの言う「特定ポルノ」や「ある種のポルノ」はいわゆる2次元の対象を扱うものをさすのですか?。それとも、それにプラスして「♂♀間性暴力をコンセプトとして描いた」ものどちらをさすのでしょうか?。tikani_nemuru_Mさんは(そして私も)当然後者を問題にしているのです。上述した引用を読んでも明らかでしょう。


当然、後者を問題にしていますが、後者における2次元と3次元の相違についても問題としています。オタクメディアとそのユーザーに対する偏見も問題にしています。総じて、tikani_nemuru_Mさんが新しいエントリで示しておられるところの「正当かつ合理的な差別」を問題にしている。「(tikani_nemuru_Mさんがそのような言い換えをしているとおっしゃるのか?)」仰ってませんが。他人のブログのコメント欄で拳を振り上げることも結構ですが、「怒って」振り上げた以上は「沈黙」されることはないのですよね。

そしてそれが不当だということは上述したGTAと「黒人狩りゲーム」の違いが差別を問題にするときのポイントであるのです。ゆえにこの「特定ポルノ」や「ある種のポルノ」の指すもののあいまいさに私は重大な問題を見出すのです。これらの用語は批判するならなおさら厳密に使用されるべきです。


「ある種のポルノ」という言葉を使用したのはtikani_nemuru_Mさんで、私はそれを借りています。批判的な含意を込めて「特定ポルノ」と言い換えました。「「ある種のポルノ」の指すもののあいまいさに私は重大な問題を見出すのです。これらの用語は批判するならなおさら厳密に使用されるべきです。」と仰るならtikani_nemuru_Mさんに聞きに行くのが筋ですね。何を指して言っているのか、と。私は「ある種のポルノ」を「いわゆる2次元の対象を扱う」ものを指したものでなく「♂♀間性暴力をコンセプトとして描いた」ものと受け取って論じていますが、それはtikani_nemuru_Mさんの言葉であり、提出した問題設定です。――「重大な問題を見出す」のも結構ですが、宛先違いです。

前回のエントリーは私には「コンセプトにおいて差別的である作品」をその差別性ゆえに問題にすること自体を否定したものとしか読めませんでした。ただそう受け取るのは正当かという問題の前提として以上を指摘しておきます。


そう受け取るのは不適当です。「コンセプトにおいて差別的である作品」をその差別性ゆえに問題にすることは当然、肯定されるべきですが、しかし他者のセクシュアリティに対して私たちは最大限の配慮を払うべきです。偏見の羅列に与することは私はできない。結局のところ、他者のセクシュアリティに対する無配慮と規制論との親和性を、私は確認したのです。そういうのは「看過できない」。

とりあえず、立場の表明をしておきます。私は「特定ゲーム」がどちらの意味を指すのであれそれを法的に規制するのは反対です。「ヘイトスピーチ」についても現在の日本でそれを規制するの不可能であるし、なされればおそらく重大な問題を引き起こすので反対です。特殊な事情がある国以外では一般的に規制されるべきではないと思います。


その立場には同意です。

tikani_nemuru_Mさんも私も問題にしているのはここではポルノでなく「(構造的)差別」です。ですから究極的に表現内在的な論拠「も」もたざるを得ない。文脈が多様でも表現の内容は解釈するときに常に必要になるのは当然でしょう。
さらにやはりケッチャムが「ポルノ」としてゾーニングされてはならないかわからない。ケッチャムはポルノにゾーニングされなかったゆえにポルノにゾーニングされてはならないとしか理解できません。表現内在的な議論を排すればそうなってしまうのではないでしょうか。


表現内在的な論拠を持つことは結構なのですが、ところでNakanishiBさんは『レイプレイ』をプレイされましたか。私はしていません。tikani_nemuru_Mさんもプレイしていないと思います。プレイせずに表現内在的な論拠を持つことが可能なのですか。私はそもそもエロゲやらないので、表現内在的な論拠を持つことができず、よって「ポルノ」という社会的なカテゴリーとその不完全性についての議論しかできない。「女を痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせるゲーム」というのは社会的なカテゴリーの話をしていると私は理解していましたが。そのようなカテゴリーが「社会的に」存在してよいか、ということを含めて。


ラディカル・フェミニズムがそうしてきたように、社会的なカテゴリーの議論としての「構造的差別」に基づく「ポルノ」批判は可能です。そのことを「ある種のポルノ」に限定して論じているのがtikani_nemuru_Mさんです。その議論は間違っていません。ハーレクイン・ロマンスというレーベルの存在を構造的差別の反映として論じることは可能だからです。かつて西尾維新は「ライトノベル」とは何かと問われて、レーベルの問題であり、ひいては書店の棚の問題である、と答えました。社会的にも、また商業的にも、需給の最適化のためにも、レーベルは必要です。レーベルの存在をもって表現内在的な議論が可能かと問うなら、私は不可能と答えます。


「さらにやはりケッチャムが「ポルノ」としてゾーニングされてはならないかわからない。」ゾーニングされるべきとNakanishiBさんは言っているのですよね――議論の添削をしているのでないなら。以前も他の人に対して述べましたが、直接的な意見交換におけるメタ話は不快であると言っておきます。お答えしますが、私がケッチャムの読者だからですよ。読解の多様性について太鼓判を押せるからです。表現内在的な議論が可能だからです。


御存知でしょうが『トーク・トゥ・ハー』という映画があります。自分が担当する植物状態の女性を強姦して妊娠させる看護師の話です。しかも、彼の「献身」の結果、女性は植物状態から奇跡的に回復する。「それなんてエロゲ?」というレベルの話ではないですね。あまつさえ、看護師は投獄されるものの、映画は決して彼を殊更に否定的には描かない。アカデミー脚本賞です。ところで私はアカデミー賞など関係なく公開当時映画を観て、結果、DVD販売に際するゾーニングの必要を問われたら断じてNOと言います。それは「表現内在的な論拠」です。言うまでもなく、監督のセクシュアリティの問題ではない。


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良し悪しを論じるなら表現内在的な論拠を持たざるをえない。そして私は『レイプレイ』をプレイしていない。ところで、ゾーニングの根拠を問うためには表現の良し悪しを論じなければならないのですか。表現の良し悪しを問うこととゾーニングの根拠を問うことは関係がないし、もちろん規制論とも関係がない。


「「ソフトスターリニズム」という言葉はご存知でしょう。」御存知ですが、NakanishiBさんの指摘は「スターリンは左翼の問題ではない」ですよね。「スターリンは左翼の問題ではない」と答えましたが。ところで右翼左翼に関係なくスターリンは存在するし、それは問題と私は考えますが。ちなみに、大麻の問題だって「決定的に」やばいですよ――ここ最近の状況は。ただ、自由と性と暴力の問題は「私がいつも考えている主題」なのです。付け加えると、大麻吸引を「愚行権」と解釈する自由観それ自体が問題ではあるわけですが。