「特定ポルノ」という発想


表象は読み解かれなければならない - 地を這う難破船


スターリンと左翼と何か関係がありますか。今は21世紀ですが。佐藤亜紀が言う通り、スターリンにウヨもサヨも関係がない。左翼批判の含意はありませんよ。文脈もない。私が問題にしているのは、社会綱領の主張と社会意識の反映としての表象に対する綱領の主張を一緒くたにする考え方で、私は前者には同意しますが後者には同意しません。スターリンと指しているのは「一緒くたにする考え方」のことで、それは右翼も左翼も関係がない。


NaokiTakahashiさんが「道徳の問題」と言っているのは「一緒くたにするな」ということだと私は理解しています。「構造的差別の撤廃」という社会綱領の主張に対して、私もNaokiTakahashiさんもtikani_nemuru_Mさんも同意するもの、と私は考えています。自由な社会において綱領と法が不即不離ではないということについても。


そもそもがtikani_nemuru_Mさんの反論に対する再反論なので「私の問題関心の層にフォーカスされていない」と仰るなら、それは御自身のブログでエントリ立ててやってくださいと言うしかありませんし、事実、NakanishiBさんはそうされてきたと思いますが。『リダクテッド』にも御自身のブログで言及しておられましたよね。この問題は、真面目に書いたら誰がやっても余裕で新書一冊です。問題の多層性について、エントリ単位でフォーカスを変えて論じているつもりではいます。tikani_nemuru_Mさんの反論に対する再反論においてフォーカスした層と別の層を差し込むことを、先の私のエントリに対してNakanishiBさんは必要と考えたということでしょう。それは、わかりますが。

ただ、暴力表現でも、例えば有色人種がハントされるゲームなんかがあったら、それが現実の犯罪に影響を与えるか否かに関係なく問題視されるのも当然だとは思うがどうか?

「構造的差別を前提にした人権侵害の娯楽的消費」を僕は問題にしている。


でしょう、それに対してNaokiTakahashiさんは

フィクション上のレイシズムを法規制するのにも俺は反対です。一方で、そういうものを民間で批判するのはもちろん有りだし、業界側もその辺は考えて、広く売る商品では一定の自主規制(ゾーニングやレーティング等)で対応すべきだとは思います。

アメリカでは普通に人狩りゲームを売ってますよ。GTAとか。それでみんなが怖くなって町を歩けなくなるなんてことはないようですが。

人狩りのほうが問題に決まってるでしょw何言ってんの。というか、女だけ殺し続けるとか、黒人だけ殺し続けるとか、普通に出来るゲームなんだけども。(←GTAはそういう遊び方もできるという意味か?私には「地下」以外でそういうふうに対象を黒人やユダヤ人などに特化したゲームが流通できるとは思えない、sk-44さんが書かれたように!)


このやり取りやその後の発言を見てもNaokiTakahashiさんは「黒人狩り」に特化したゲームのほうが、「人狩り」よりまずいという差別を考える上で肝心のことが理解できていない(しようとしない)のは確かでしょう。


最初に。NaokiTakahashiさんの「不見識」について名前を挙げて批判するなら御自身でエントリを立てるなり当該のNaokiTakahashiさんのブログのコメント欄に書き込むなりなさってください。白燐弾をめぐるwiselerさんとの議論の際もNakanishiBさんに対して言ったことですが、それをしないのは「そういう論者」だからですか。


GTAはそういう遊び方もできるという意味か?私には「地下」以外でそういうふうに対象を黒人やユダヤ人などに特化したゲームが流通できるとは思えない」ゲームのコンセプトと個々のユーザーの楽しみ方を区別するという発想がないのですか。人狩りゲームを黒人狩りに特化して個々のプレイヤーが楽しむことと、黒人狩りに特化したゲームは違う。そして後者は現行の社会綱領において許されない。前者は許されうるか。密室でプレイするぶんには許される。そういうことです。「差別意識は顔に出すな」佐藤亜紀が言っているのも煎じ詰めればそういうことですね。社会綱領を、彼女はプロトコルと呼んでいる。立法の議論に敷衍するなら、社会的法益ということです。


で、特定ポルノはそのコンセプトにおいて社会綱領に抵触する、というのがtikani_nemuru_Mさんの主張です。人種差別をコンセプトにしたゲーム同様に。そして「特定ポルノはそのコンセプトにおいて社会綱領に抵触する」を「差別」と言い換えることを私や、あるいはNaokiTakahashiさんは問題にしている。なぜか。特定ポルノの問題ではなくポルノという社会的なカテゴリーの問題だからです。「特定アジア」という差別用語がありますが、私に言わせれば、二次元に対して指し示される「特定ポルノ」も差別用語です。


♂♀間性暴力とその現在形の隠蔽が構造的差別の反映であることはその通りです。では、♂♀間性暴力をコンセプトとして描いたポルノは構造的差別の反映か。私の主張は、そのことを表現内在的に問うべきではない、ということです。以下のようなことは言えます。「材木が売れるから地震がありがたい、という材木屋の考えと同じ」という皮肉のレトリックがありますが、エロゲが売れるから構造的差別がありがたい、と考えている「エロゲ屋」はいない。材木屋のレトリックにせよ、真顔で公言するならとんでもないことです。「差別意識は顔に出すな」。

多様であることが良いことといえるような時点にわれわれはいるのでしょうか?。


いる、と考えます。

そのような読解の多様性が全面的に拡がったあとにわれわれはいるのではないでしょうか?。


いない、と考えます。未だこの世界は表象読解において普通に「文盲」です。私の認識では。蓮實重彦のように映画を観る人がどのくらいいますか。四方田犬彦のように観たっていい。四方田的な社会反映論と蓮實的な反「社会反映論」は対として両方存在すべきですが、その水準の議論が広く可能かと問うなら、未だ知的な議論であることは違いありません。表象の価値は読解に付随します。読解されない、あるいはブラインドな読解しかされない不幸な表象でこの消費社会は満ちています。つまり、リテラシーの問題です。

我々は「源氏物語」とイーストウッドとケッチャムと「レイプレイ」を同列に見ることができるようになった、読解の多様性の全面化とはそういう事態です。それは例えば現実の人間のセクシュアリティの対象という面で解釈することによってです。


というよりも、現実の人間とそのセクシュアリティと表象は切っても切り離せない、ということと思います。そもそも現実の人間のセクシュアリティが構造的差別の反映ですが、そのことに対して綱領を主張することはできない。では、現実の人間のセクシュアリティが構造的差別の反映であることは致し方なく内心は自由として、その構造的差別に規定された内心の自由な反映であるところの表象に対して社会綱領を主張すべきか。当然、主張されるべきですが、「切っても切り離せない」以上、他者のセクシュアリティに対する配慮はされてされすぎることはない。

しかし、そのことによって「言論や表現とその流通のありかた」(そしてその効果)が現実として消えたわけではない。さらに解釈の行われる場やそのやり方やそこのエージェントの意識や社会的構成もまた解釈されうるし現に盛んに議論される、今回の騒動はそういう面も含んでいます。で、それについて私は語っているわけですがそれもまた解釈の対象である。問題はこのような状況でも、「言論や表現とその流通のありかた」は現実に存在するし(ここでは深く突っ込む余裕はないが)現実の被害と加害は存在するわけです。


現実の被害と加害について、エントリで「深く突っ込」んでください。拝見したく思います。どのようなレベルの話をしておられるか測りかねています。

ケッチャムがポルノとして読みうることは、「源氏物語」や村上春樹を性的に読んだり、これらを読むことで傷つけられる人がいることと同じでしょう。しかし、社会はこれらをゾーニングせず、「レイプレイ」はゾーニングされていることになっている。そして騒動の発端は海外での批判を受けて、このようなゲームに対する批判ときにはゾーニング以上の規制を口にする人が現れたからだった。s-k44さんに聞きたいのですが、s-k44さんの議論からはゾーニングも行ってはならないという結論が出るのではないですか?(ゾーニングは言論による批判などではないし、当然読解の文脈を限定する)。


「暫定解」と書いた通り、ゾーニングは究極的に表現の自由を守らない、ということです。「言論による批判」と読解の多様性への回路を担保しないからです。「棲み分け」の大義名分において特定表象はゲットーへと送られ囲いの中で窮屈に暮らし蔑視と虐待にさらされやがて貨車に押し込められて強制収容所へと送られる。そう、まるで『戦場のピアニスト』のように。ゾーニングは問題の根本的解決ではない。根本的解決の道筋が見えないからゾーニングという暫定解を採っている。そのことと、表象の読解は多様であるべき、という主張は整合すると考えますが。そもそも私は刑法の猥褻概念にも反対ですが、NakanishiBさんはどう考えておられますか。ゾーニングについても、どのように考えておられるのか。他人の議論のメタ添削よりも、御自身の意見を聞かせてください。

さらに「読解の文脈を限定するがゆえに駆逐さるべきポルノ」など存在するのか?。私にはケッチャムがゾーニングされるべきでなく、「レイプレイ」はゾーニングを積極的には否定できないと考える根拠がこのエントリーからはまるでわかりません。あるのはただこれは「ポルノ」ではないという認定だけです。であればs-k44さんは「ポルノ」の表現内在的定義を説得力を持ってするべきでしょう、しかし解釈の文脈が全面的に多様でありうる表現内在的な定義など存在するはずがないのではないですか?。さらにその認定は誰が行うのか、その誰かはいかなり根拠で強制力を持つのかわかりません。だからこそ「ヘイトスピーチ」の規制(あるいはゾーニング)も認めていないのではないですか?。だとすればいかなる表現(少なくとも「レイプレイ」)へのゾーニングも認めない、とはっきりと主張すべきでしょう。


「存在するのか?」問いが間違っています。構造的差別の反映として表現内在的に「特定ポルノ」を指し示す発想がそもそもおかしいと言っている。「ポルノ」という社会的なカテゴリーを表現内在的に構造的差別の反映と指す発想が誤っていると言っている。しかし「ポルノ」という社会的なカテゴリーは必要、ということです。商業的にも。そして、社会的要請としてあるカテゴリーを構造的差別の対象にするべきでない。広義の性産業従事者に対する差別は御存知ですよね。にもかかわらず、表現内在的に「ポルノ」を定義しようとして、あまつさえ構造的差別の存在を表現内在的に論じようとして、表現論を持ってくるから話が精神論になる。


コンセプトにおいて劣情の喚起に特化した表象、社会的な要請の結果としてそうカテゴライズされたジャンルとして「ポルノ」はあるから、その流通にゾーニングが付随する。ゾーニングもまた社会的な要請です。そして、「コンセプトにおいて劣情の喚起に特化」することと「コンセプトにおいて黒人狩りに特化」することは違う、決定的に違う、というのが私の考えです。なぜなら、現実の人間のセクシュアリティに基づく「劣情の喚起」が――♂♀を問わず――そもそも性差別的だからです。そして、SEXでなく、マスターベーションの問題です。マスターベーションとSEXの区別が付かない馬鹿がいることは教育の問題です。社会的なカテゴリーの問題を表現内在的にカテゴライズして挙句の果てに二次元に対して「特定ポルノ」を指すという発想が滑稽だと言っています。

そもそもエントリーでしきりに「表」という言葉を使っていますが、そもそも「表」と「裏」の区別(あるいはゾーニング)は強制力を一定ともなう社会的行為でしょう。これを前提にするのはおかしいでしょう、tikani_nemuru_Mさんはその強制力の行使の基準について議論しているのですからわけがわかりません。

さらに佐藤亜紀さんのエントリーを「煽り」(釣りではない)割りひいて読めば(これらのエントリーそのものがひどく狭い文脈で読まれている)、

商業と表現の二元論は、本気で言っておられるのなら杜撰な議論です。


を洗練された非二元論に組み替える役立つのではないでしょうか(ゾーニングにぜんぜんなってないという意見とも読めるし)。また佐藤さんの「言い方」はちょっと賛成できませんがが、自由の侵害であるならマリファナの禁止とその行政の恣意的な適用は露骨な人権侵害でしょう。これが続くのは仕方がなくてエロゲーの規制が「決定的な」人権の危機を招くかのように反応するのおかしいのではないか。


このようなきわめてセンシティブな問題についてインターネットで「煽る」ことがルワンダ虐殺の際のラジオDJと何が違うのかさっぱりわかりません。差別は文脈の問題で、発言者の意図の問題ではありません。立派な家父長は息子が「オカマ」でも撃ち殺すだろうな、と思って、それを言わなかったのは私が彼女の著作をすべて読んでいたからにすぎない。「言い方」の問題では全然ない。確認しますがNakanishiBさんは規制論についてどう考えておられますか。ヘイトスピーチ規制論についても。


大麻吸引が愚行権として、表現の自由愚行権の問題では全然ない。だからこうして議論になっている。社会的な要請としてカテゴライズされた「ポルノ」と表現の自由が無関係、とは私はまったく思いません。「決定的な」人権の危機と思います。「地下に潜るべき」というのは「裏流通のススメ」と私は理解しましたが、広範な消費を前提する商品の裏流通は端的に困難です。そしてそれは「表現物」です。表現物の流通について困難を勧めることには相応の理由が付されるべきですが、「相応の理由」が付されていたためしなどなく、大概は偏見の羅列でした。


そもそも「特定ポルノ」が「広範な消費を前提する商品」という前提がおかしい、流通の困難な表現物であるべき、と佐藤氏は言っていたわけですが、私としてはそういうのは却下せざるをえません。反道徳を流通の困難によって指し示す――『薔薇の名前』ではないんだから。中世ですか。私は保守主義的な傾向を持ち合わせるので人倫の議論に耳傾けるのです。『悪魔の詩』以来の文脈を知っているがゆえに、私は佐藤氏の今回の議論をまったく支持しません。氏の言葉を借りて言うなら、規制派は、たとえば私のような、味方になるかも知れない人にまで愛想を尽かさせている。

そして、ここでより重大だと言うためには非二元論的であれ、表現とそれ以外(商品)の区別の導入が必要ではないでしょうか、それをしないときにははっきりしたダブルスタンダードではないでしょうか?。sk-44さんの議論はそうなってしまっていると思います。だからこそ「商品」と区別して「表現」を守るべきとものして前提にしたうえで「表現」をいかに行うべきか佐藤亜紀さんの一連のエントリーは書かれているわけです。


私なりの「非二元論」を私は持ち合わせていますが、tikani_nemuru_Mさんの応答を拝見してからにします。ちなみに、東浩紀伊藤剛本田透が論じた「萌え」や「キャラ」はまさにその「非二元論」として提出されたものです。こちらの議論については私は東氏のそれをモチーフともども支持するものです。「幽霊」の議論を70年前の史実に敷衍するのは勘弁してくれと思いますが。賢明というか狡猾なもので、ホロコーストについてそういう議論はしないのに南京事件についてはする、という。


その「萌え」や「キャラ」は商業の原理に骨の髄まで利用されているではないか――私としてはそう言い切れません。また、その点についての批評家の分別と倫理を東氏は再三主張しており、私はそれは言行一致と考えます。「だからこそ「商品」と区別して「表現」を守るべきものとして前提にしたうえで「表現」をいかに行うべきか」という話なら、文学フリマコミケもございます。「非二元論」とは商品に対して商道徳以上のものを要求する論理のことで、佐藤氏がしているのはその議論です。

 以上は「構造的人権侵害」の問いを退けるためにすべてを等価に解釈可能な表象としてむ前提においたことからの帰結だと思います。そもそも90年代の「言葉狩り論争」をsk-44さんはご存知でしょう。あのころの「差別語狩り」批判の問題点とそれらの言説の後継が現在の社会でどういう位置を占めているかを知らないはずがないと思うのですが。


退けていませんよ。杜撰な問いを退けるだけで。「すべてを等価に解釈可能な表象として無前提においた」のではなくて「表象の読解は多様であるべき」と社会綱領として主張したのですが。事実ではなく当為の議論をしている。「ミスリーディング」も結構ですが、御自身の議論は御自身で主張してください。


「差別語狩り」批判に問題点しかなかったとは私は全然思っていなくて、その収穫のひとつに、反差別団体と合意した「差別とは表現の問題ではなく表現が置かれた文脈の問題である」という社会綱領があった。「表現が置かれた文脈」の吟味なしに表現の差別認定はできない。この辺りについても、tikani_nemuru_Mさんの応答を拝見してから書くつもりでいます。付け加えると、御存知と思いますが、「言葉狩り」「差別語狩り」の問題は大手メディアの自主規制の問題です。商道徳に基づいて自主規制を行っていた大手メディアの。

ではどうすればいいのかは本当にわからないのですが。抽象的には

barcarola =isikeriasobi / NaokiTakahashi そうです。法律上は特定個人にむけられていない私人の行為について、それが世間的な差別感情「に基づく」/「を助長する面がある」としても「差別そのもの」として考える枠組みは未整備です。

このための枠組みを整備すること、そして表現が社会の関係をそれぞれのレベルで考えることですね。そのためには(私も)勉強せねばならんでしょう。ほとんど何も言っていないけどそれすらあまりなかったのではないですか、「構造的人権侵害」(この名前の付け方は問題ではないかも含めて)についての議論もその役に立つでしょう。しかし、このように片付けてはいけないと思うわけです。


それは同意です。というか、私はtikani_nemuru_Mさんの再反論を前提して先のエントリを書いたので、まだ議論は続くし、片付けてなどまったくいないし、「こけおどし」が効く相手とも思っていませんが。

で、ここからが本題ですがw。フィクションにおける創作と享受の効果の責任についてです。これまでの批判は半分はこの問題意識が混在されてしまったためで悪意ではなかったかとも思います。


その本題は御自身のエントリで存分に展開なさってください。まだ議論は続くし、片付いてなど全然いないので。「これまでの批判は半分はこの問題意識が混在されてしまったためで悪意ではなかったかとも思います。」のくだりについて主語と述語を確定させてください。誰の何に対する話をしているのかまるでわからない。

とりあえず、わたしも見てもいない「グラン・トリノ」や「サヨンの鐘」を禁止せよなんていいません。こういうレベルの議論をうかつに割り込ませるのはいけないでしょう。とまれ、このあたりは私が関心のあることです。では、長々失礼しました。


「こういうレベル」がどういうレベルの議論か測りかねますが「関心のあること」なら、存分に議論に参加なさってください。NaokiTakahashiさんの不見識について批判しておられるし。他人の不見識の批判は結構ですが、私のブログのコメント欄でそれをされても困ります。エントリ上げて正面から批判してください。私がNakanishiBさんに対して反論したように、またtikani_nemuru_Mさんが私に対して反論したように、NaokiTakahashiさんも反論するでしょう。


議論は多角的であるべきであり、視点は多様であるべきであり、議論のレイヤーは多層的であるべきです。NakanishiBさんのエントリを、楽しみにしています。通りすがりの名無しに対してこういうことは言いません。「長々失礼しました」ではなく、「そういう論者」でないことを証明してください。ちなみに、示していただくまでもなく、私は鷲谷花氏のブログの読者です。四方田犬彦と開催した『女侠繚乱 日本映画のなかの女性アクション』というシンポジウムを昨年見に行きました。