その日を過ぎて


酷暑により死んでいる。ただでさえ痩せているのが、いっそうげっそりとやつれた。とりとめなく記す。

1.


私は、個人的な感性として、ということであるけれども、記念日を意識においてなぞることの少ない。自身の誕生日さえろくに気にしない。女のそれも気にしないために、顰蹙されたことがある。個人の私的な記念日と、国家の記念日に優劣はない。そして――後述する。


私は、特定の信仰を持たないけれども、たとえば聖夜に対して水を差すようなことは言わないし思わない。過去と現在の信仰者に対しても、現在の恋人たちに対しても、失礼であるから。


初夏の頃、夕刻であったか、久方振りに立ち寄った。境内は、清浄で静謐で、居住まいを正させる。涼しかった。いい場所だ、と訪ねるたびに思う。以前も記したが、私的な事情により、参拝したことはない。


制服姿の少年少女たちと、話している言葉から判るのだが、韓国の人が、多かった。このような付記に我ながら辟易とするのだが、溌剌と笑い合うフツーの高校生たちと、市井を淡々と暮らしているであろう他国の人たちであった。――観光であろうか。


思えば、私も、唯一の海外旅行として台湾を訪ねたとき、歴史的な場所を見て回りもした。少年の頃、親父と共に。当時は、なにがなにやらわかりはしなかったけれども。観光バスの車中にて、日本語の堪能な老人と親父がなにやら話し込んでいた。なぜ彼の日本語が堪能であったか、詳しく知るのは後のことである。何を話していたのと私は親父に訊き、親父は答えたはずだが、まったく憶えていない。親父も憶えていないだろう。


最近、親父に、そういえば、なぜ台湾だったのか、と訊ねたところ、安かったから、との答え。現在なら、親父は少年の私を韓国へと連れて行ったろう。そんな親父の生涯の記憶の地は、そして約束の地は、インドである。しかし。おそらく、再び訪れることはないまま終わるだろう。母親は、雑談するたびに、1度は海外へ行きたい、そのために金を貯めないと、と口にする。私は、そのような家に育った。孝行息子でなくて申し訳ない。


ガキの時分の印象深い観光のゆえか、私は、台湾に愛着を有するし、そこに暮らす人々に親愛を覚える。日本の重要な隣国と考えている。

2.


私は、原理的には、憲法9条2項は、改正されて然るべきと考える、というより、ほかにない。然るに、いわゆる現実主義の観点から、そういうわけにもいかないことは、言うまでもない。であるから、私は、現行における9条の改憲に、賛成しない。が。


原理と現実の二枚腰を日本国が堅持してきたことは、国際社会とやらには一目瞭然である。国際社会とやらから、二枚腰が信を置き得る態度と見なされるかと問うなら、はじめから国内用の議論でしかないことも、また明瞭。「唯一の被爆国」と他国に対して声高に主張するに至っては、それってナショナリズムでないの、という指摘は、為されて然るべき。国内において指摘の為される限り、この被爆国は、健全な状態にあるだろう。


平和が至高であることはみな知っている。国家の状況が個別であるときに、至高の平和が普遍であると、個別を捨象して言挙げるなら、傲慢と僭越でしかない。イスラエルの状況をもって日本を論じることも、相対化することもできない、が、逆もまた真であろう。


至高の平和は現代においては普遍であるが、日本が国際的にその目付役であると、あるいはそのことに対して特権的な位置に立ち得ると、信じる人間は、日本の外にはいない。傲慢と僭越を国家単位にて敢行しかつ実践しているのは米国のみである。米国にその資格ありやと問うなら、原理的には、ない。が、現実には?


二枚腰が日本とその国民を半世紀に及び守ってきたなら、かつ、今後も守り得るなら、利己的であろうが、貫けばよい。利己的であることは国家においては健康なことであって、然るに健康なことはいやなことである、と故人は言った、逆説として。今後も守り得るか、と問うて、原理と現実の、解釈という名の融通が、負債と化す蓋然の高きを、私は思わざるを得ない。


言うまでもなく。主権在民の国家において、軍事とは国防とは、公的には、拘束としての原理原則の貫徹されるべきであり、リスクを前提してもそうなる。文民統制は貫徹されるべきに決まっている。――で、国民は文民統制についていかなる判断を現実に示してきたのか。


自衛隊をその存在すら遺棄してきたのは、左翼の弊でも戦後民主主義のゆえでもない、国民の多数が、考えることに怠惰であったから。それは、悪いことではない。戦後日本において、価値を規定された、市井の生活者としての国民は、国家単位の有事を前提しない、経験を経て、国家を信じることないから。私の価値判断は、難しい。


文民統制について真面目に考えかつ判断するなら、理路として、解釈改憲とはとんでもない話であり、現行において、戦闘継続状態のイラクへ「自衛隊」を派遣(国際社会とやらにおいては「派兵」)することは、ありえない。で、それが、日本国民が真面目に考えたうえでの判断なのだろう。解釈という融通のままに、戦闘継続状態のイラクへと自衛隊を派遣することが、日本とその国民を今後も守り得る、と。

3.


数ヶ月前、朝生に出演していた日本共産党の議員が、田原総一郎に問われて、自衛隊違憲です、然るに、国民が適切に判断するべき、それが党の現在の見解、と言っていた。反射的に、そう、なら改憲しようか、とTVに向かって口に出していたけれども、つまりは、それが、国民の適切な判断なのであろう、改憲しない、ということが。


私が、現行における9条改憲に賛成しないことも、現行の日本国が、軍事と国防において原理原則の貫徹を志向するなら、リスクに耐え得ない、と考えるゆえのことであるのだから。国民は賢明である、ということか。


普遍なき社会において原理が重きはずもなく、手続とは個別であって汎用ではなく、原則論の価値を涵養する土壌はない、そのことを、市井の生活者たる私たちは、よく知っている。いわゆる宮台的に言うなら、それで回りもしたのだけれども。愚直な原理原則論者にして手続論者の現首相は、その政策指針の抽象性に対して有権者から否を示された、狡猾な原理原則論者の前任者のように、具体のような何かを説くことなく、手続を活用することのなかったゆえに。


主権在民の国家における軍事と国防とは、公的には、拘束としての原理原則の貫徹されるべきであり、リスクを前提してもそうなる、が、主権者において原理原則とその拘束性の認識なきなら、原理原則を形式的に貫徹することは、リスクを前提しても難い。――いわゆる現実主義の実態。


文民統制についての、国民の賢明なる現実的な判断が、自衛隊を戦闘継続状態のイラクへと行かしめた。久間氏はその発言の結果辞任した。原則に準拠した議論を示すなら、改憲すべきというのが私の立場であるし、現実に鑑みて二枚腰を続行するが良とするのもやむなし、ただし、国内的にも二枚腰の周知されているにもかかわらず、なお、規範的な議論を、リテラルに示すことは、勘弁してほしい、というのが見解。


「そもそも」。日米同盟にも、台湾問題にも、主権在民の国家における国民と軍の関係にも、関心自体ない、現在の、日本における「国民の多数」は。皮肉でなく言うと、健全なこと。丸川珠代の選挙ポスターではないが、高度経済成長以降の日本に生まれ、その国籍をいわば所与として得たことは、幸運なことであったのだろうし、私はそのことを、誤解されかねない言い方かも知れないが、意識において受け容れ、所与ならざる獲得として、自らの意思において背負うべきなのだろう。歴史存在としての私は、日本国民であることと分かたれるものではない。原理的にも。

4.


映画は観ていない。が。


夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)


『桜の国』において、主人公の現代の女性を通して描かれたもの。言わずもがなを言葉にする禁を犯して、乱暴かつ端的に示すなら、それは、個人の歴史とそれに規定された意識において、負債として負った外的な事実を、自らの主体的な選択の結果として事後的に受け容れかつ獲得するという、認識の転換。


むろん、それは倒錯している。「主観的な」認識における転回「に過ぎない」といえ、外的な事実を事後において主体的に選択し得るはずはなく、獲得するはずはない。が、人間が生きるための認識に、倒錯の介在しないはずがあろうか。紋切型にて示すなら、運命を宿命として得るとは、そういうことである。


そして。個人の歴史とそれに規定された意識は、家族を親をその個人的な歴史を通じて、現在の人のそれを、半世紀の以前へと接続する。半世紀の以前の、国家単位の戦争へと。実存として、存在において、接続する、接続される、ということ。「主観としての」私的な意識においても、そして、外的にも公的にも社会的にも、「世界標準の価値観」においても。ゆえに、人は歴史存在であり、個人は日本という国の民であり得る。更に換言するなら、個人の意識における、スティグマの転倒と変換、その言明、ということ。


かかる認識が事後的に見出される限り、意識におけるそれは倒錯している。個人と歴史が自己の存在において接続する、そのような考え方自体が、倒錯ではある。然るに、学問でない歴史が、物語としての国家とその民が、広義の政治が、倒錯でないはずがあろうか。倒錯でないことがあったろうか。そして。学問でない歴史が、物語としての国家が、広義の政治が、個人を生かしもする。死なせもするが。動員の装置とは、なり得る。


要請とその弊害は、精確に見積もられるべきだろう。要請を透徹し、かつ構想した維新政府の大立者たちは、たいした手品師でもあった。知的な議論の理路においては、いまや容易いことがある、然るに、国家はいまなお存在し、固有の歴史に準拠して国民の意識を規定し、拘束してもいる。


『桜の国』の著者の秀逸は、結部に至るまで、徹頭徹尾、国家を問うことなく、個人とその家族に、その私的な歴史に、準拠し照準して語りきったことにある。それこそが、作品の主題であったから。


私的な個人の歴史が、半世紀以前の国家単位の戦争へと、社会的な存在において、内的な実存において、接続することを、半世紀前の悲劇の淵源であった、国家の動員の装置とはしないこと。かくあってはならないこと。それでありながら、なお、人は歴史と、国家とその民とその運命と、それを宿命として自らが主体的に引き受けて生きることと、無縁ではありえないこと。

5.


以前、幾つも歳下の明晰な人が、私に対して直接に言ったことがあった。半世紀以前の過去のことを、まして、現行の政治体制とは異なる日本を、なぜ現在において改めて問うのか、歴史学ならざる、戦略/戦術面におけるテクニカルな議論として、また規範的な議論として、あまつさえ、政治的な議論として――と。私は、真面目に応じず、適当に頷いていたのだろう。


端的に応じるなら、容易い。学問ならざる歴史とは、現在の国家と民族と政治の問題であるから、と。学問の外部において議論するなら、価値選択へと帰結せざるを得ないから、と。


多くの領域において問われた、広義の歴史修正主義が結果的に示し、証しもしたのは、現在と過去との、隔て難い決定的な関係性。そのことが、端的な事実としてある限り、過去が現在において問われることに対して、価値保留は、最終的には、成り立ち難い、少なくとも、問う限りは。換言するなら、政治的な議論として示される以外にはない。過去を問い直す言挙げとは、現在を問うために示される。


過去の「慰安婦問題」を現在において問うことは、かかる過去の所在した、かような過去の問題を孕んだ、国家とその構成員の現在を問うことでもある。そして。帰結する事実がある。SeiSaguruさんの卓見から。


星の旅

 で、今必死になって色んな人が色んな観点から戦争について訴えていて、その1つに、慰安婦の話も入ると思うのですが、やっぱりこの話も、電車の痴漢を訴えるのが当たり前になってる時代で考えるわけにはいかないのです。もちろん、そう考えることはとても客観的な答えになるのだけれど、肝心な問題である、「なんでそんなことをしちゃったのか?」ってところからは遠ざかってしまいます。というか恐らく「なぜ、それをしない選択ができなかったのか?」というところでしょうか?
 今、痴漢が悪いと言ってる人が同じ調子で、こっちは占領した方の人間なんだから当然といわないとは限らないのです。


そういうこと、です。「なんでそんなことをしちゃったのか?」「なぜ、それをしない選択ができなかったのか?」――輻輳する複雑な文脈を措いて、おそろしく乱暴に、かつ端的に示すなら、日本という近代国家は、「女の扱い」についても二枚腰を展開しました、ということ。言い換えるなら二重規範を。戦後の民主主義体制下におかれても。現在も。


米国は、歴史的にも、そうした二枚腰を、少なくとも公的には、認めません。それをして、プロテスタントであるから、と言い換えることも、できないことではありません。是非を問うことが、価値を選択する、ということです。


「電車の痴漢を訴えるのが当たり前になってる時代」を是とする人が、多く、「慰安婦の話」を「訴える」。換言するなら、原理に規定された議論である、ということです。かかる原理に、原理的立場に、私も同意します。さもなければ、「今、痴漢が悪いと言ってる人が同じ調子で、こっちは占領した方の人間なんだから当然といわないとは限らない」ことを、変えることはかなわないから。かかる事態のありえる状況を、変えんとするべきか、という議論は別個に所在します。


加えるなら。近代においては、売買春の存在と個々人の性意識に、蓋然においては関係あることが明らかであり、かつ、戦前戦後を貫き、近代日本の歴史的な連続性において規定され醸成された状況であるから、原理的な議論に準拠して、現在において過去の、近代国家が介在した「女の扱い」を問う必要が所在する。


規範的な議論と原理的な議論とは、一義には分別されるべきであるし、分別のうえなら、原理的な議論は、それに拠る立場は、必要であり肝要です。然るに。かかる原理的な議論が、「国民の多数」に訴求し得るか、私見を述べるなら、難しい。それこそ原理的に。

6.


かつて、筒井康隆断筆問題の際に、浅田彰が言った。大意。マジョリティにおかれては、マイノリティに対する度量を求めたい。マイノリティが、マイノリティであるがゆえに、ときに声高に、あるいは攻撃的になることは、構造的にもやむを得ない。然るに、マジョリティの側が、マイノリティのそうした言動に対してヒステリックな対応を示す、「これは許されないことです」。


その通り、と私も思う。ただ、私が思うことは。マジョリティに対して、度量と寛容以上を求めることも、また、許されないし、難しい。問題意識を共有せよと糾すことは。他人の問題意識の共有を、原理に準拠して否定する限り、自身のそれについてもまた同様、ということは明瞭。而して、かかる前提は、社会に準拠した、公的な議論と問題設定の、限界と不可能を招来する。少し前の流行に拠るなら、マルクス主義が、大きな物語が、失効した、ということ、であるらしき。


「自由な社会」において、個々人における、利害と問題意識と優先順位の個別性が前提として周知されたとき、原理に準拠した規範的な議論が、再帰的に召喚される。理路としては然るべきことである、が、現実の財政に関わる議論において介される理路とは、別なるものでもある。主権者間における社会的な合意の形成が、民主主義の要諦である限り、ファクターは捨象されない。


過ちは、繰り返されるべきではない。人道以前にテクニカルにも。軍国日本が過たなかったはずもない。先の戦争を論じるとき、国家の虚構を自明とする現在の私たちは、依然、国家を民族を介して、論ずる。妥当にして正当なこと。


現在の私の生は、戦争当事国となったかつての日本と、公的かつ社会的にも、「世界標準の価値観」においても、また端的な事実においても、繋がる。然るに、そのことを内なる実存において認識として意識し続けることは、典型的に、社会的な錯誤を生きるということなのだろう。動員へと至る、社会的な錯誤の権力的な構造を暴き、意識においてメタを連ねることと、かかる社会的な錯誤の一切を明示的に棄却することとは、異なる。


実存において社会的な錯誤を生きる人に対して、それは社会的な錯誤であり、功利的にも現行においては既得権か知れないが、考えを改めない限り、権力に容易く動員されます、と指摘する正しきに、私は野蛮を思わないでもない。


人間は人間であるがゆえに過不足としての錯誤を生きざるを得ない動物であるけれども、能う限り「よき錯誤」「よりよき錯誤」を、個々人の選択を経て、生きるが良であり、幸であろう。かく考え、かく志向するのが、私の見解であり、立場。

7.


軍国日本の野蛮を、倦厭し忌避した文人があり、共産中国の野蛮に、文革時、声を上げた日本の知識人があり、国家と民族に準拠した政治の本質的な野蛮を、いまなお倦厭し忌避する人があることを、私は大切に思う。近代の成熟とは、肯定的には、そうしたことであろう。戦後半世紀を経た日本における近代の成熟が、国家の虚構を自明とする意識の周知を経て、国家を民族を再帰的に論じる回路を可能とした。


原理に準拠した規範を明示することには、リテラルには私は賛成する、であるからこそ、それが政治的なフレームへと収斂することを、残念にも思う。収斂させているのが、いわゆる左派とは、私は思わない。「喧嘩をやめて」と言挙げる人間が、喧嘩を喧嘩としてフレーミングする、ということは、ある。


原理に準拠した規範を明示することは、現在においては、再帰性を介する。「べき論」は、「「べき」と示す個人(の欺瞞)」という文脈を措いては、すなわちメタでなくベタには、示されたとして耐えない。「べき論」をメタにしか示し得ない現在のゆえに、ベタな平和運動の難しき、ということは、あるだろう。欺瞞の所在を前提して示される「べき論」。


原理と規範と現実の、必然としての齟齬を、欺瞞としか見なさない人がある以上、「べき論」とはメタにしか示し得ず、至高の平和を示す価値的な言論はメタにしか、すなわち「欺瞞」の所在を前提してしか、示されない。価値的な言論と規範的な議論は、既に、リテラルには、もたない――。