「自分の胸にしまっておけ」ということ


「どうしてレイプする権利はないのでしょうか」と聞かれました。 - 土曜の夜、牛と吼える。青瓢箪。

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レイプ禁止に納得いかない人をどう説得すればいいのやら - スベスベ日記

どうしてレイプを嫌がる権利はあって、レイプする権利はないのでしょうか。


日本国憲法は公共の福祉について明記しており、それにおいて制限される行為を処罰の対象と法は措定しています。私のアナクロ憲法理解においては、権利は国家との関係から問われるもので、だから盗みも強姦も人殺しも個人の幸福追求のため御勝手ですが、国家は公共の福祉という観念においてそれを処罰しなければならない。ので権利の観念において「なぜころ」を問うなら、盗みや強姦や人殺しの御勝手が公共の福祉と衝突しない、という論証が必要。管見では、衝突するのではないでしょうか。


そして、私の言葉で言うなら、公共の福祉という観念の実現のために国家は法を体現し暴力装置の強制力を有している。この議論は「社会には公共の福祉という概念があり」と変奏することもできる、が、それだと憂さんは納得しないでしょう。それをこそ欺瞞と指摘しておられる、と私は発言の趣旨を了解したので。


なお、一言だけ書いておくと、社会に存在する公共の福祉という概念を国家の法は体現する、という観念において、特定の規範を公共の福祉において主張し立法を求める近代以降の現象としての原理主義――というかバックラッシュ――とイスラーム法を一緒くたにするなら、それは間違っています。


権利はともかく、私も聞かれたことがある。抽象的に翻訳するなら――SEXにおいて当事者合意が問われるのはなぜか、と。当事者合意がSEXに際して法的に問われることの理由がわからない、と。私が述べたのは、大意、法が決めていることについて貴方に関係があるのは縄が掛かるときだけ、もちろん日本では、そして世界的にも、SEXの当事者合意については縄が掛からないことの方が多い。なぜなら基本的に私的領域の問題だから。


だから縄を掛けた相手に対しては最近我が国も厳しく臨んでいる、「引き合わない」ことを全国のDQNに広報するために。そして痴漢冤罪も発生した。なので、縄の理由を考えることは縄抜けの方便を考えることでもあり、結論を先に言うと、公的領域に持ち出させないこと。害意の有無はどうでも宜しい。私は何でも言うので、相手の聞きたいだろう話をしたが、話しながら、痴漢が減らないわけだ、と自分で思った。


「権利」とはたとえば「容疑者の権利」「被告人の権利」の話なので、他者に対する欲望の一方的な実現を権利と詐称しなければそれでいい。権利とは公共の福祉において他者に対する欲望の一方的な実現を制限するところに成立するものなので、たとえば正義感に燃える警官が自身の欲望から留置場で貴方を殴り殺さないよう「容疑者の権利」が定められている。社会正義とは個人に帰属するものではないし、もちろん「民主主義では多数派が正義」ではない。


当事者合意を顧慮しないことは御勝手としか言いようがない。私の関知しない話について、他人の性観念とそれに基づく行動にまで口を出す趣味はない。エリスの『アメリカン・サイコ』ではあるまいし、私的な欲望と公的な他者の観念は社会の条件と思うが、頭が悪いことは本人の責かわかりかねるので本人がその主観において「引き合わない」目に遭うことも含めて致し方ない。


ただ、公共の福祉において他者に対する欲望の一方的な実現を制限するところに権利は成立するので、貴方が「容疑者の権利」「被告人の権利」に同意するなら、公共の福祉において他者に対する欲望の一方的な実現を制限することにも同意したらよいのではと思う。個人の自由意志の侵害とその非対称性とか面倒くさいことは言わないので。


経験則では、個人の自由意志という観念を了解しない人が、当事者合意を顧慮しない人には、多い。だから、たとえば痴漢に主観的な害意が希薄、という話はわかる。「個人の自由意志の侵害」が、そもそも何の話かわかっていなかったりする。憂さんもそうかな、とはなんとなく勝手に思った。性を、奪い奪われるものとして捉える人はとても多い。そのとき、奪うことも奪われることもその人にとっては「普通のこと」なので、何が問題かわからない。もちろん法なんてのはたんなる人が決めた約束事であり吉本隆明的に言うなら「意識されたカマトト」なので、その人にとっては世界の天秤は端的に暴力的なものとしてあるし、そのように顕れている。


そもそも暴力的なものとしてあった世界の天秤を止揚すると嘯いて馴致してしまうのがヘーゲル的な国家でそのことの暴力性をこそ吉本隆明やあるいは近年の佐藤優は考察してきた――フーコー等は措いても。そして、暴力的なものとしてある世界の天秤を止揚すると嘯いて国家がそれを「意識されたカマトト」において馴致したところで、その暴力を世界の天秤として認識する個人は永遠に後を絶たない。


だから、DVや家庭内虐待は後を絶たず、私的な領域における性的な暴力は「縄抜けの方便」において正当化される。公私の弁別は権利観念の始原としてある。かくて法と私的領域における私人の暴力のいたちごっこは繰り返される。それが、国家の限界としてもあったし、だからフーコーは、そのような国家の限界に対して、世界の天秤としての暴力を「公人」でも「私人」でもない「個人」において陶冶し調停する「その先」の世界を構想して、半ばで死んだ。


フーコーの構想は、殊に日本では無理と私は思うが、いかに国家が法に基づく世界の天秤の止揚を嘯き馴致を実現したところで、世界の天秤としてある――そのように個人において顕れる――暴力は私的な領域において帳尻を求める。負債意識に基づく、私的な天秤の釣り合いを。だから日本は死刑存置国で、『ミスティック・リバー』よろしく法の関知しないところで世界の天秤の帳尻は私的に合わされる。もちろんそのことには、現実の暴力と死が伴う。なべて世はこともなし。


そのような世界の天秤に基づいて公的に発言すると、人が奪い合う存在であることを是認する無法ということにしかならない。私が言えることは、DQNでない人は社会というものを形成しているので、世界の天秤は自分の胸にしまっとけ、公的に開陳するなら順序がある、たとえばイーストウッドの映画のように、と。


自分の胸にしまっておくことを、理不尽と考えて、そのことを社会の綺麗事に、あるいは「意識されたカマトト」にぶつける人もあるのだろう。言葉としてであれ、ぶつけられた方はいい迷惑だけど。行為込みでぶつける人もいて、たとえば名前を宅間守という。そして、若い女性は社会の綺麗事の世界でカマトトを当然という顔をして生きている、と思っている人も、存外に多くいるらしい。かくて、釣り合いを求める負債意識において、世界の天秤の帳尻合わせは私的に行われる。それは時に、公的には犯罪と指される。「公的には」。要するに、話は逆で、話の逆を知らずに世界の天秤の話を始める男性は多い。そのマッチポンプを、マチズモと言う。『ミスティック・リバー』のショーン・ペンのような。


そしてもちろん問題は「自分の胸にしまっておくこと」を最初に要求されるのが多く私的領域における性的な暴力の被害者であるということ。『ミスティック・リバー』のティム・ロビンスのような。「自分の胸にしまっておけ」の声は、まことに大きいものであるな、と私は今回の痴漢をめぐる議論を拝見して思った。そのような「成熟」を装った悪しきマチズモを、憂さんの発言もまた体現していることが、もし書いておられることが事実なら、残念に思う。


「私も自分の胸にしまってきたのだから貴方も自分の胸にしまっておけ」とは、このような問題については、言ってはならないのです。なぜなら、記してきたような構造的問題だからで、社会的には私は改良主義なので、世界の天秤という原理に基づいて、私的領域での暴力と個人の自律をバーターにしてはいけないと思っている。そのような天秤は、存在しないとは私は言えないが、やはり間違っているのだから。公的領域に持ち出すことは正しい、と言わなければならない。『ミスティック・リバー』でケヴィン・ベーコンは刑事として敗北する、が、彼は私的にはひとまず勝利しただろう。


そして、世界の天秤を自分の胸にしまっておけないパラノイアックな男たちの縄に掛かって公に暴かれた行為で今日もはてブの「性犯罪」タグは充実しているので、また当事者合意を問わないSEXがこの世の私的領域にはありふれているので、かつそれは「公的にのみ」あってはならないこととされるので、どうしたものか、とは思う。人権を交通法規のようなものと故意に喩えたのは呉智英だったが、もちろん交通法規は必要とも呉先生は言った。さもなくば事故が多発して死人が続出する。ゴダールの『ウィークエンド』のようなことになる。


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