自由の享受条件

tikani_nemuru_M 困ったもんだ  "「淘汰されるための枠組」について考えておられる。それが「公共圏」です。" 失笑した。

はてなブックマーク - 性的搾取の後始末 - 地を這う難破船


「失笑」ですか。そんなブコメ番長なレトリックを書き付けている暇があったら、正面切った反論をエントリとして上げてください。sk-44は問題の所在についてコレとコレとコレとコレがわかっていない、ココとココとココとココを踏まえていない、と、そういう話を。存分に反論してほしいので、待っているんですけど。そして待ちくたびれかけています。「自分はそんなことを言っているのではない」という話なら了解です。確かに読み違えていました。申し訳ありません。改めて、tikani_nemuru_Mさんの一連の発言を確認しました。議論の軌道を修正するべきでしょう――むろん私の責任なので、私が。


このところ挑発的なエントリを書きましたが、勇み足が過ぎたようです。これでは対話にならない。自分の問題意識で相手の議論を一方的に誤読し決め付けたうえ断罪してはならない。重ねてお詫びします。「淘汰」の議論は、tikani_nemuru_Mさんの主張に対しては、ナシにします。新しいエントリとそのコメント欄を拝見しました。「誰か説明してください」とのことなので、議論の駒を進めるためにも、説明してみます。


「表現の自由」が必要とし、受容すべきもの - 地下生活者の手遊び

表現の自由が「チラシの裏に何を書いてもよい自由」ではにゃー以上、そこではどうしても「他者」が必要とされているのですにゃ。

つまり

チラシの裏に落書きする自由のことをいってるのでにゃーのなら、「表現の自由にヒモをつけるな」という言明の意味するところが、僕にはマジにわかんにゃーのだ。考えれば考えるほどわっかんにゃーの。

誰か説明してください。


私はヴォルテール主義者なので、自由を守ることは他者の自由を守ることだと思っています。ただし、自由の享受条件として「他者の自由を守れ」という話は誰に対してもしたくない。自由に紐が付かない、とはそういうことです。自由の享受は、個人において条件を伴うものではないと考えるからです。表現の自由の享受についても同様です。たぶん、そのことについて、私とtikani_nemuru_Mさんは同意しうるはずです。

id:letterdust エクセレンツ  バスならバス運営会社に運賃を払う代わりに公平なサービスを受ける権利があるし、払えないならバス会社に特認の証明を貰うけど、自由は対価を誰に払えばいいのだろう。

はてなブックマーク - 「表現の自由」が必要とし、受容すべきもの - 地下生活者の手遊び


「誰に」と言うなら他者の、その自由に、ということでしょう。別の言い方をするなら、自由の価値に、ということです。自由のために自由の価値にコミットせよ、他者の自由にコミットせよ、という議論はリベラリズムにおいて普通にあります。他者の自由にコミットすることが、自由の価値にコミットすることだから。ということで、私はこうして、他者の自由にコミットしています。blogで対話し議論し時に喧嘩し嫌味を飛ばし合うってのはそういうことです。そう、仰るところの「理性の公的使用」です。NaokiTakahashiさんもfurukatsuさんもそれをされている。しかも、私やtikani_nemuru_Mさんと相違して実名で。


しかし私は、個人において他者の自由を自由の対価とする発想には同意できません。貴方の自由のために、他者の自由を守れ、という話は誰に対してもしたくない。なぜなら、自由の享受は、個人において条件を伴うものではないし、また、個人が背負う社会的な属性において、自由の対価が上下して然るべきでもない。少なくとも「表現の自由」においては。


つまり、表現の自由はその対価の支払を個人に対して課すものではない。社会に対して課すものです。個人に対して課すものではないからこそ、「他者の自由」という表現の自由の対価の支払を、私たちは、社会に対して課す。だから、ヘイトスピーチ規制は多く社会的法益に基づく。たぶん――ここまでも、私とtikani_nemuru_Mさんの見解は一致しうるでしょう。しかし。

ここでは政治的言論活動について書かれているけれど、芸術における表現活動のことが当てはまらにゃーってこともにゃーよな。「潜在的には、自己の考えを表明するものは他者にその妥当性についての承認を求めているはず」ってのはどんな表現においても当てはまることですにゃ。芸術表現の場合は「意見」に限定されにゃーというだけの話ですにゃ。

まあそもそもゲージツやブンガクの政治性というものを考え、さらに表現の自由という言葉の射程を考慮すれば、上記引用が芸術的表現も含んでいるものだとみなして問題はにゃーだろう。


tikani_nemuru_Mさんの芸術論は至極真っ当なものです。「芸術の意義とは、徹底したその無力に由来する自由」仰る通りです。「無力なひとつの個人(あるいは小集団)が「世界の全公衆の前で自らの理性を使用すること」しか芸術家のすることってにゃーよね」そうです。そしてナチスは、その「理性の私的使用」において、理性の欠如と「頽廃芸術」を見なしました。

・芸術とはコミュニケーションであるが、それはいわくいいがたいもの、コミュニケート不可能なものをコミュニケートしようとすることで、そのときに芸術が生まれる。

http://d.hatena.ne.jp/mat2004/20090420#1240203648

アートとは技術のことである。眼には見ることのできない精神を物質化する為の。

私のアートとは私の精神の一部が眼に見えるような形で表象化されたものである。いわば私の意識のサンプルと言っても良い。私はアーティストとして長年この技術を磨くことを心がけてきた。

杉本博司 歴史の歴史


上は(引用先の動画から要約された)浅田彰の、下は杉本博司の言葉です。私も同意するものです。だから、当然、芸術は公共圏のものであり、現代の芸術論とは事実上の公共圏論です。問題は――つまり「差別的で幼稚な」という言葉はその文脈から出てきたのだと察するよりほかないのですが――公共圏に耐えない、つまり芸術でない、現にある差別構造にタダ乗りする類の、いわば「理性の私的使用」に等しい表現を、「他者の自由」という表現の自由の対価の支払を課されたこの社会において、どう取り扱うか、ということです。


結論を先に言うなら、区別せず取り扱う、というのが現在の公共圏論のおそらくはFAです。なので、その理路においてはゾーニングの撤廃が最初の筋です。理想的には、ゾーニングの撤廃はそうした表現に対する百家争鳴を呼び、そのとき否応なく公共圏の構築を人々は目指すだろうから。法規制を目指すかも知れませんが。そして日本に「世間様」ある限りは後者が目指されるのでしょう。


現実問題として、コミュニケート可能なものをコミュニケートしようとする表現が市場に最適化された表現です。つまり俗情との結託ですが、浅田彰の定義においては、芸術とは、単なるコミュニケーションではない。単なるコミュニケーションに、公共圏は必要ないからです。商業ポルノとはそういうことであって、商業には期待しない、と佐藤氏が述べたことも、またNaokiTakahashiさんが公共圏論にそもそも乗れない、と仰っているのも、おそらくはそういうことです。――私の認識では。


先のエントリでの決め付けについてお詫びしたうえで、仕切り直して真面目に言うなら、区別せず取り扱う、という公共圏論をtikani_nemuru_Mさんは主張しておられるのだと思います。それは現在のFAであり、スタンダードです。しかし、コミュニケート可能なものをコミュニケートしようとする表現が市場に最適化された表現であることはポルノに限った話ではまったくない。結果、いわゆる「島宇宙」が形成され、宛先を見込んだ郵便物の内容は「陵辱」「調教」「鬼畜」といった符牒と共に先鋭化し過激化する。


芸術論においては、それはおそらく「差別的で幼稚」です。公共圏には耐えない、現にある差別構造にタダ乗りして恥じない、理性の私的使用の産物でしかない。「無力な公衆の一員として自らの人格においてなされる」表現ではない。そもそも市場において、そのような表現はない。純文学のような、「無力な公衆の一員として自らの人格においてなされる」ことを「売り」にした表現はあっても。


「アート市場」にもそうした「無力な公衆の一員として自らの人格においてなされる」ことを「売り」にした表現は転がっています。しかしそれは芸術とは関係がない、その通りです。確かに、サドは、「売る」ために書いていたのではない。しかし、世界の選択においては、そちらが世界の選択です。市場ある限り、つまり商業において「コミュニケート可能なものをコミュニケートしようとする表現」が要請される限り、表現は「ナマクラに」なり、「差別的で幼稚」であることを免れない。これは、芸術論の筋論としてまったくその通りです。そして「無力な公衆の一員として自らの人格においてなされる」こともまた、「自分探しが止まらない」この時代にあっては「コミュニケート可能なもの」でしかないから、容易く市場に織り込まれる。


『そこで公共圏の出番ですよ』――ええ、まったくその通りです。「いわくいいがたいもの、コミュニケート不可能なものをコミュニケートしようとする」ために、公共圏が要請される。そのとき芸術は、市場原理に規定されたこの世界にあって、公共圏を出現させるものとしてある。コミュニケート不可能なものをコミュニケートしようとする営為としてある芸術は、そのとき端的な他者性において、公共圏を呼び込む。――これもまた、『VOL』的な、現在の芸術論のスタンダードです。オルタナティブの可能性ということですが。私も同意です。しかし。

差別的、とされるものであっても、理性が公的に使用されているものも私的に使用されているものもあるのでしょうにゃ。そして、公的使用と私的使用はひとつの作品の中に混在しているでしょうにゃー。にゃるほど、「表象は読み解かれなければならない」。

ただし

差別とは必ず理性の私的使用となるので、表現の自由にとっては敵でしょうにゃ。

表現の自由を大事にするのであれば、差別という表現の自由の敵との戦いへのコミットは当然のことだと思うんだけどにゃ。理性の私的使用にかまけていたら、表現の自由が脅かされ、表現そのものもナマクラになるとしか思えにゃーのだが。


「表象は読み解かれなければならない」というのは、理性の公的な使用と私的な使用を分別することではありません。それに限らない、と言えばよいか。「理性の私的使用」が形成する「公」について私たちは反省的に自覚し、かつ批判的であらねばならない、ということです。にもかかわらず、その「公」は「世間様」の別名であるからして「理性の公的使用」が形成する「公」のために公共圏を、という考え方について私が疑問なしとしないのは、述べてきたように、「理性の公的使用」としての表現のために公共圏があるのではなく、「理性の公的使用」としての表現の結果公共圏が出現する、と考えるからです。


『VOL』的な芸術論においては、公共の美術館は単に権威を纏った箱です。「理性の公的使用」としての表現の場のための公共圏を誰かが前もってお膳立てするなら、お膳立てされる公共圏など公共圏ではない。正しく左翼の発想です。私もこのインターネットを左翼的な場所として評価(と言うとおこがましいですが)するしコミットもしているので、公共圏の形成について同様に考えています。そして、オルタナティブの可能性を目指すことと、公共圏の構築を目指すことは、違います。NaokiTakahashiさんは、オルタナティブの可能性を目指しているのだと思いますが。


「理性の私的使用」としての表現の結果は公共圏を出現させないし、呼び込まないでしょう。「それがどうした」。「理性の公的使用」としての表現はその結果公共圏を出現させ呼び込むのだから。誰もお膳立てすることのない公共圏を。ハーバーマスは、「理性の公的使用」としての表現のために公共圏のお膳立てを主張したのではない。「理性の公的使用」としての表現の結果公共圏を出現させることに、賭けた。言わずと知れた、伝説的な論争家としてのその実践によって。ここまでの点についても、たぶん、私とtikani_nemuru_Mさんは同意しうると考えています。さて。

内心の自由の行使に表現の自由がどれほど不可欠であるにしても、道は二つに一つ、ことばのうえだけの根拠のない自由の確認か、あるいは、社会が提供し得る表現のあり方を受け入れる義務を暗黙の交換条件とする自由である。」


表現の自由にヒモをつけるな、という言説は「ことばのうえだけの根拠のない自由の確認」だとしか僕には思えにゃー。前から何度か言っているけれど、自由主義社会において、公権力に対して「表現の自由にヒモをつけるな」と要求するのはよーくわかりますにゃ。しかし、他者、社会を相手にして「表現の自由にヒモをつけるな」ってのは、まさに「ことばのうえだけの根拠のない自由の確認」、つまりタワゴトなんでにゃーのか?

これでは、現実に表現の自由を守ることの役にはまるでたたにゃーだろうに。


述べた通り、個人に対して支払を課すものではないからこそ、「他者の自由」という表現の自由の対価の支払は、社会に対して課される。私たちが、社会に対して課す、ということです。よって、表現の自由の対価の支払は、差別的な表現の制限をもってするものではない。差別的な表現の制限をもってせよ、とtikani_nemuru_M さんが考えておられないことは承知です。


繰り返しますが、「他者の自由」は表現の自由の対価です。その支払は、社会が個人に対して課すものではない。個人が社会に対して課すものであって、そのとき、他者の自由を守ること、自由の価値にコミットすることは果たされる。よって、個人が社会に対して「他者の自由」の大前提としてある表現の自由を主張することは、「ことばのうえだけの根拠のない自由の確認」でもタワゴトでもなんでもなく、正しい。他者に、差別主義者も性犯罪被害者も、区別ないのです。


「社会が提供し得る表現のあり方を受け入れる義務を暗黙の交換条件とする自由である。」それは表現の自由ではありません。なぜなら、表現の自由は社会より大きく、他者より大きく、当然「世間様」より大きいからです。むろん、表現の自由は公共圏より大きい。


だからハーバーマスは公共圏を構想しました。表現の自由が社会よりも他者よりも大きいからこそ、「理性の私的使用」が形成する「公」が表現を通じてまかりとおる、と。「公」が「世間様」の別名であることはとんでもない、だから「理性の公的使用」において「公」を形成しなければならない。ハーバーマスはそのように考えました。そして、それは現在の日本の状況でもある。在特会を生み出した、日本のサブカルチャーとインターネットの状況の。


私は、自由を守ることは他者の自由を守ることだと思っています。ただし、自由の享受条件として「他者の自由を守れ」という話は誰に対してもしたくない。自由に紐が付かない、とはそういうことです。他者によって構成されている社会はmoralでなくethicsをこそ必要とします。表現は本質的にimmoralです。そのimmoralが、現にある差別構造にタダ乗りした「理性の私的使用」であることに対する懸念は、されてされすぎることはない。しかし、それがethicsの問題であるなら、当然、ゾーニングの撤廃が先決です。


そして再三述べているように、それがethicsの問題であるなら、陵辱エロゲの何が問題か私はさっぱりわからない。性と欲望における自由の困難という隘路に対して、私たちが提出した「他者の自由を守る」冴えたやりかたです。他者とは、陵辱エロゲのユーザーのことであり、同時に、性暴力にさらされる女性のことです。そこに「性暴力にさらされる女性」という他者とのコミュニケートの不在を指摘するヨーロッパ人の御都合主義は知ったことではない。


しかし――tikani_nemuru_Mさんは、そのことをこそ問題と考えておられるはずです。「性暴力にさらされる女性」という他者とのコミュニケーションの欠如を。そのことに居直る姿勢を。その一方で「紐が付かない」表現の自由を主張することを。この点について、対立的な意見交換が展開されるなら私としては望むところです。


東南アジアの女性を買っている自由主義者はこの国において数知れませんが、それは自律的判断主体であるという「みなし」に基づくグローバル資本主義下の経済活動でもありますが、なぜ陵辱エロゲの制作者とユーザーが狙い撃ちされているのかさっぱりわかりません。グローバル資本主義下の経済活動として、ゾーニングに基づく陵辱エロゲの売買は倫理的と思います。いかなる「性」も否定されないのですよね。ひいては「欲望」も。他者危害が伴わない限り。


表現は本質的にimmoralだからこそ、理性の公的使用がethicsにおいて要求される。しかしそれは、あくまで倫理的要求に留まるものです。その限界を、私たちはよく承知しなければならない。理性の私的使用と公的使用の分別の不可能は、ドストエフスキーの文学が主題とし続けたことでした。「表象は読み解かれなければならない」とは、だからこそ、「理性の私的使用」が「公」を形成することに対する自覚と反省と批判の問題です。


「貴方は自由を享受する、ただし……」という話を私は他人に対して述べる気にはならない。その政治的悲劇が、20世紀で幾度繰り返されたか私たちは知っています。要するに、道は二つに一つではない。「貴方は表現の自由を存分に享受する」――表現の自由について、個人に対して述べることが、他に何かあるでしょうか。「理性の私的使用」を私は批判します。無力な公衆の一員として自らの人格において。『レイプレイ』というゲーム名を、私はこの問題が起こるまで知りませんでした。再三指摘されている通り、これは、ゾーニングの成果です。


差別的な言説と他者危害は違います。一番最初に書いた通り、差別的であることは即人権侵害ではありません。表現の自由を守ることが他者の自由を守ることなら、線引きなどされるべきではない。線引きは、他者による百家争鳴の結果をもってすることであり、百家争鳴の結果は「線引きなどされるべきではない」と結論するでしょう。原理的には。誰しもが、ヴォルテールのように、他者の自由を守るために表現の自由を守ろうとするなら、線引きなどされるはずがない。しかし現実には、恣意を免れることのできない線引きはされてしまうでしょう。誰も「無知のヴェール」を被ることはできないし、事が政治問題である以上は。


誰しもが「自由を守ることは他者の自由を守ること」と思っているなら、線引きなどされるはずがない。線引きされるのは、タダ乗りする者がいるから――その通りです。で、タダ乗りする者がいることと、誰かが「他者の自由を守るために」と称して線引きの必要性を主張しタダ乗りを措定することの問題と、いかなる関係があるのか。タダ乗りは自由主義の原理的帰結です。タダ乗りの措定のための線引きは、要りません。


タダ乗りを措定するための公共圏――それは構いません。tikani_nemuru_Mさんの仰る線引きが、タダ乗りを措定することであることも、またタダ乗りを排除するためのものではないことも、承知です。しかし、自由の享受条件として「他者の自由を守れ」という話を私が誰に対してもしたくないのは、往々にして「他者の自由を守るために」と称する者が線引きのためにフリーライダー槍玉に挙げるからです。「フリーライダーが目に余るから他者の自由を守るために線引きしなければならない」と。


槍玉に挙げてくださることは結構ですが、少なくとも性差別については私には言う「資格」があると思うので言いますが、それは、まことに大きなお世話です。フリーライダーが目に余るならその都度批判すればよい。無力な公衆の一員として自らの人格において。タダ乗りの措定のため線引きする必要がどこにあるのか。自由に紐が付かない、とはそういうことです。私はその考え方を、支持します。


結局のところ、「ある種のポルノ」に、あるいはそのユーザーに、もしくは規制反対論者に、どうなってほしいのかさっぱりわかりません。そもそも周縁文化ですが、この消費社会において性表現は周縁的ではありえない、という話でさえないようですが。「ある種のポルノにどうなってほしい」という話ではないことは知っています。自由論と差別批判在特会批判がなさりたいのなら、この文脈で「ある種のポルノ」に触れる必要はもはやないと私は思います。私も、tikani_nemuru_Mさんの「表現論抜きの差別論」にお付き合いするよりは、「反日上等」絡みで外国人問題についてもっときちんとエントリ書くべきだったのでしょう。これでまともな応答が返ってこないなら、私もひとまず切り上げます。