性的搾取の後始末

tikani_nemuru_M  sk-44はわかって書いているはずだけれど、僕はいかなる「性」も否定しない。加害を問題にするだけ。最初からその論点/自律的判断主体であるという「みなし」が人権の根底にあるから「合意」を問題にしているだけ

はてなブックマーク - 寝室の市民権 - 地を這う難破船


ええ、だから、何を「加害」と見なすか、その枠組をめぐって議論を続けてきたのだと思いますが。特定の性行為が「加害」を伴う限りにおいて問題である、と。私が言っているのは、「加害」という概念と寝室の問題であるところの性はそもそも整合しないという話ですが、「だから」児童ポルノの単純所持規制に及んで「搾取」という問題系が提出される。そして、ポルノは性的搾取の証明としてある、というラディカル・フェミニズム以来恒例の話になる。搾取に対して国家は介入すべき、というのはその通りです。時に超国家的に。児童ポルノの問題はそういう状況で、かくして日本は外圧にさらされている。


私の認識では、それが「加害」なら、警察の出番です。そして我が国の警察は、公式見解として、民事不介入です。tikani_nemuru_Mさんは、警察の出る幕に限らない、つまりテクニカルな法の議論に留まることのない「加害」について、『言論・表現への法規制に抗するために』以来、一貫して問題としておられる。警察の出る幕ではない「加害」についてその「加害」を口実に警察が無理筋な出張り方をしていることについても。なればこそ、市民がその「加害」について警察の出張る余地を与えない在り方を、社会として模索しなければならない、と。


対する私の見解は、「加害」の議論を表現に敷衍するなら、それはもはや現行憲法の議論ではなく、別の枠組において為されるものですね、ということです。そのことは、佐藤氏に対しても、再三述べてきました。別の枠組とは何か。性犯罪の暗数と陵辱表現を結びつける枠組です。その枠組がそれ自体で無効とは言いません。私はラディカル・フェミニズムを重要と考えるので。ただし、ラディカル・フェミニズムは「加害」の議論には踏み込みませんでしたが。


警察の出る幕であるところの「加害」は個別具体的なものです。個別具体的に証明されるものではないがゆえに警察の出る幕ではない「加害」が存在する、という議論は構いませんが、それで、加害者は誰ですか。加害者が存在しない加害があり、そして被害と被害者が存在する――ですか。当然、それは法の議論でも、また人権の議論でもありません。人権の議論ではないものに対して「加害」という言葉を使用することが御自身の判断ならそれで構いません。


「加害者が存在しない加害があり、そして被害と被害者が存在する」その枠組が無効とは言いませんが、同意はしません。そして、ラディカル・フェミニズムよりよほど過激なことを言っておられます。個人において「自律的判断主体であること」が陰に陽に抑圧されることが人権侵害なら、tikani_nemuru_Mさんが「ある種のポルノ」の制作者とユーザーに対して言っておられることがまさにそれです。性犯罪の暗数と陵辱表現を結びつける理路において、していることです。意図せずとも。


そして、そのような、陰に陽に示されるtikani_nemuru_Mさんの判断は、tikani_nemuru_Mさんが仰るところの「差別的で幼稚」な表現に携わる者にとっては「対話する必要なし」という感想を持たれて当然のものです。NaokiTakahashiさんはよほど忍耐強いのだと思われますが。


仰るところの「差別的で幼稚」な表現が淘汰されないことが問題である、という話です。そして私は「差別的で幼稚な表現が淘汰されないことが問題である」という発想こそ問題と考えるのです。その発想が官憲のものであれ、ヨーロッパ的な知識人のものであれ(宮崎駿だってそういうことは言います)、リベラルな問題意識を持ち合わせる市民のものであれ。「差別的で幼稚」な表現がまるで淘汰されない――それが、ポルノ天国とも幼稚なオタク文化の咲き誇る国とも言われる日本のこの四半世紀の状況です。そして、そのことを問題と考える者が「淘汰」の枠組を考えよう、とのたまう。それもまた、この20年で繰り返されてきた話です。「淘汰」の枠組を霞ヶ関桜田門と永田町で円卓囲んで設計する状況は、この数年の事態ですが。


「法規制に抗するために」は了解します。しかし、「法規制に抗するために」「差別的で幼稚」な表現が淘汰されるための枠組について考えよう、という提案は、まことに大きなお世話です。「差別的で幼稚」な表現を飯の種にする業界にとっては、大きなお世話どころか「塩撒いとけ」です。「差別的で幼稚」な表現を飯の種にしている業界はポルノに限らないのであるからして、tikani_nemuru_Mさんは、事実上、この国のすべての商業表現に対して喧嘩を売っている。むろん、ソニーは電動コケシを売らないし、小学館氏賀Y太のマンガを売りませんが。「お前の飯の種のことは知ったこっちゃない」とはtikani_nemuru_Mさんは仰らないと思いますが、「差別的で幼稚」な表現の淘汰を望むとはそういうことです。――望んでおられますよね。


御自身の価値判断を世界の選択とやらに転嫁しないでください。当然、前世紀の日本の敗戦を挟む近代史が証明する通り、世界の選択は、「差別的で幼稚」な表現を商業的には淘汰しません。それがけしからんことであり、かつ官憲の不当な介入を招きかねない事態だから「差別的で幼稚」な表現が淘汰されるような枠組について考えよう、という発想をスターリニズムと呼ばずして何と呼べばよいのか私はわかりません。そして、「法規制に抗するために」「差別的で幼稚」な表現が淘汰されるための枠組について考えよう、それが「公共圏」である、という話なら、はっきり申し上げますが、ハーバーマスはそのような話はしておらず、「公共圏」とはそのようなものではない。ハーバーマスの構想を、大きく逸脱しています。無理筋どころか、無茶です。


そして、そのようなtikani_nemuru_Mさんの価値判断が、個別具体的な作品に対する御自身の評価に支えられていないなら、端的に説得力がまるでない。スターリンとしか言いようがありません。結局のところ、tikani_nemuru_Mさんにおいて川端康成は、サドは、『レイプレイ』は、何なのか。「差別的で幼稚」と定義して「その淘汰は世界の選択なので致し方なし」などという社会的ダーウィニズムまがいの話は、個別具体例に及んで展開してください。個別具体例に及べば、駄目な話とすぐにわかりそうなものですが。


つまり、仰るところの「差別的で幼稚」な表現が必ずしも市場において淘汰されるわけではない。ことに、性表現においては。私は延々と、個別具体例に及んで指摘しているはずです。だから、市場に対する国家の介入が論じられる。ゾーニングも、その範疇です。ラディカル・フェミニズムは、ポルノ規制においてそのことをこそ指摘しました。


「差別的で幼稚」な表現が市場にあって淘汰されないことをtikani_nemuru_Mさんは知っているから「淘汰されるための枠組」について考えておられる。それが「公共圏」です。NaokiTakahashiさんとの議論においてぶいぶいさんが言っておられるように、私も、tikani_nemuru_Mさんの「公共圏」論を拝見したく思います。日本がドイツではない以上、「ハーバーマスはそんなこといわない」という指摘に実質的な意味はないのだから。ハーバーマスの構想を性表現に敷衍する理路について、私も関心があります。だから、私もこうして問題の様々な側面について記しています。


そもそも、表現の自由において、悪貨は淘汰されませんが、しかし悪貨は良貨を駆逐しません。それはローチの主張の骨子と私は理解していますが――なにぶん読んだのはだいぶ以前です。そして、スタージョンの法則は、屑は淘汰される、という話では全然ありません。屑は淘汰されるべき、という話でも当然ない。


サド哲学は社会思想に決まっています。サドの作品は文学に収まりましたが、サド哲学そのものは今も生き続けています。tikani_nemuru_Mさんが仰るところの「レイプやペドを正当化する理路」は。それは性の問題であり、欲望の問題です。そして、性犯罪の温床としてある社会思想です。tikani_nemuru_Mさんが「自分の手を汚してでも排除する」と言っておられるのは、社会思想の排除を警察に要請することの問題を承知しているからです。「レイプやペドを正当化する理路」の排除を警察に要請しないなら、自分の手を汚すよりほかない。私の感想は――そこまでして排除を望むのですか、ということです。


私たちが生きる現実社会は、「レイプやペドを正当化する理路」によって支えられている。tikani_nemuru_Mさんが問題としておられるのもそのことと理解しています。しかし私は「レイプやペドを正当化する理路」を理路として排除しようとはまったく思わない。スピーチコードとそれは別の問題です。「レイプやペドを正当化する理路」を排除した社会とは、私たちにとってどのような現実でしょうか。文字通り、オーウェルの描いた世界としか私には思えない。当然、理路は存在します。私たちはその理路を、暗黙に共有している。目配せし合っている。蹂躙の掟を。そのことを加害と法的には見なせないからtikani_nemuru_Mさんにおかれては「自分の手を汚してでも排除する」という話になる。


その決意表明は構いません。ただし「レイプやペドを正当化する理路」の表象が「ある種のポルノ」である、という発想は、退けます。当然、それを「加害」と見なして「自分の手を汚してでも排除する」発想も。端的に申し上げて、Sの人として言わせていただきますが、陵辱エロゲはサド哲学の実践ではありません。優越感ゲームで言っているのではない。「レイプやペドを正当化する理路」の排除を目指して陵辱エロゲを問題視するなら、それは盲鉄砲か、あるいは牛刀割鶏の類としか私には思えません。なぜなら、陵辱エロゲをプレイする寝室に他者はいないのだから。


そもそも、「ある種のポルノ」もまたサド同様にブンガクです。「ブンガクとしてやるならいくらでもやってほしい」。「ある種のポルノ」がブンガクでないなら、つまり俗情との結託でしかないなら、それは、俗情を支える社会の問題です。サドの生きた世界から遠く離れて「レイプやペドを正当化する理路」に支えられたこの社会の。


だからこそ、討議的空間における言論を通して「レイプやペドを正当化する理路」を(排除することはできなくとも)周縁化するために、ハーバーマスは公共圏を主張しました。そのことには同意します。だから――そもそも「自分の手を汚してでも排除する」というような話ではないと私は認識しています。そして、ハーバーマスの構想した公共圏には、性表現の問題は包括されていませんでした。繰り返しますが、ぶいぶいさんと同じく「その先」の議論を私も見たいと思っています。


アグネス・チャンの主張においては、児童の性的搾取は悪です。そして彼女は、被害児童の救済を主張している。その主張から、彼女が国会に招致されることは当然のことであり、だからこそ、彼女に対する、必ずしも故なきこととも言えないネガティブ・キャンペーンが展開される。なぜなら、単純所持規制を支持する立場において、児童の性的搾取の悪と被害児童の救済は、自明の理だからです。つまり、単純所持においては行為の加害性が立証されないから「悪」と「救済」が主張されるのですが。


自律的判断主体であるという「みなし」の困難において「児童」が定義される以上、理路の上から搾取は自明です。で、映像/画像の流通が搾取の一環としてある以上、単純所持の規制も致し方なし、という話になる。私に言わせれば、これは無理筋な議論です。なぜなら、たぶんにこれは宗教ひいては文化の相違ということになるのでしょうが、ポルノ天国にして援助交際天国であるところの日本において児童の性的搾取が悪という合意はないし、その合意形成は困難だからです。


「悪」から誰かを「救済」するためにこの国の法はあるのではない。それが人権の問題であるならば、被害救済は、「加害者」でさえない誰かを処罰することによって為されるものではないし、そうあるべきでもない。搾取を悪と見なしてそれを掣肘するために法が動員されるなら、時にそれは自由主義に棹差す発想としか言えないことがある。自由主義の既得権を散々享受したヨーロッパ人ならそういうことも言えるわけですが、インドや中国や東南アジアの状況を鑑みる限り。私がアグネス・チャンに対してあまり批判的になれないのは、そういうこともあるのです。


ということで――しかしこの国はG8にも加盟している先進民主主義国であるし、御都合主義的な文化相対主義も大概にして「合意形成のために」単純所持規制を、という踏み絵の話になる。あるいはshow the flagの話に。そして私に言わせれば、tikani_nemuru_Mさんはshow the flagの議論を展開しているようにしか見えない部分がある。私は表現に対するトップダウンの規制論など論外と思うので、規制に際して「ここに被害者がいる」という議論には乗れません。私にとってはまったく個別利益の問題ではないので。この国がポルノ天国で援助交際天国であることは未来永劫変わらないでしょう。


天国が封鎖されたところで、つまりポルノの掣肘は、このアジアの経済大国においてなんら人身売買の掣肘には繋がらないので、tikani_nemuru_Mさんに対して、ということでは当然ありませんが、人権問題としてポルノ掣肘を論じる公安の幇間はなんとかならんのかというのが率直な感想です。表通りから搾取の証明であるところの「不健全な」性が一掃されれば、裏通りでの搾取と正真正銘の人権侵害が減少すると考える発想はなんとかならんのか、と。「二次元」に対する表現規制の主張など「人権侵害は自分の目の届かない場所でやれ」という話でしかありません。アグネス・チャンの問題意識とその切実さは私はわかるつもりです。しかしこの国がポルノ天国で援助交際天国であることの功罪両面をそれなりに知るアジアのニッチなビジネスマンとしては、英国御用達のshow the flagの議論には乗れません。


加害が問題ならその証明は必要です。当然、性とその搾取において証明は困難です。「レイプやペドを正当化する理路」にこの国は支えられています。この国の警察は人権という概念に滅法疎く、一方規制には精通しているのでいずれ新法が通る。人権侵害はなんら救済されません。だから「自分の手を汚してでも排除する」ことは構いません。それは、「不健全な」性を定義することと端からは見分けが付きませんが。加害の定義の困難な性において御自身の判断で「加害」を認定するとは、そういうことです。「加害」は、貴方が決めることではない。「被害者」が決めることでさえない。法の問題とは、そういうことです。当然、それはセカンドレイプの温床ではありますが。――だから、セカンドレイプ言説は批判するしかないのです。対抗言論によって。