万人のノイジーのために


革命的非モテ同盟跡地

確かにモアスピーチを増やすべきだとか、差別的な意見を批判していくべきだというようなことは有意義であると思います。私個人の意見としては、それに賛成したいし万人がノイジーであるということ - 地を這う難破船で指摘されているように、社会的公正を実現していかなければならないというのも賛同するところです。


しかしながら、それが「法規制されたくなければ社会的公正の実現のために努力しなければならない」という議論になれば、それは実質的に法規制という強制力をもって社会的公正の実現という政治的な意見に賛同させることと変わらないでしょう。何が社会的公正なのか、誰がマイノリティなのか、誰がサイレントなのか… そういう人が実際に存在し、例えば性犯罪の被害者がそのような地位に追い込まれがちな傾向があることを私は認めますが、しかしながら厳密に誰が、ないし誰によって構成される社会集団がそうなのかを厳密に規定することはできません。


ですから、社会的公正の実現というのは、表現の自由に紐をつける形での議論ではなく、あくまで別の議論としてなされなければならないと考えます。万人がノイジーでなければ表現の自由は公正な形で実質的に担保できないかもしれませんが、しかし万人がノイジーになるために表現の自由を制限したりある主張を強要したりすることは本末転倒です。


であるからこそ、表現の自由という議論の範囲内において、社会的公正の問題を「知るかボケ」と言ったり「はいはい言論弾圧乙」と言わざるをえません。たとえ、自分が社会的公正の実現を必要だと考えていたとしても、表現の自由の議論であるかぎり、それは知らないと言わざるを得ません。


それは、何度も言う通り、社会的公正の実現のための主張をすることを強制することになるからです。


……いや、私が言ったのはそういうことでは全然なくて。また、誤解されることを書いてしまったようです。ジョナサン・ローチが言ったのは、言論における社会的公正はアファーマティブ・アクションの類によって実現されるものではない、ということです。当然、それはアファーマティブ・アクションに対する否定を意味しないし、言論における社会的公正の実現の否定を意味しない。


「しかし万人がノイジーになるために表現の自由を制限したりある主張を強要したりすることは本末転倒です」逆です。真逆。「万人がノイジーになるために表現の自由を制限したりある主張を強要したりするべきではない」とローチは言っています。というか、takanorikidoさんではないけど、furukatsuさんも読まれていないなら『表現の自由を脅すもの』一読されたらよいと思います。同意されるところ多いと思います。


マジョリティとマイノリティの存在を前提に、しかし言論においては、そのことに対する相互的な配慮なく万人が存分にノイジーであることが社会的公正の実現の条件である、とローチは主張しています。性差別は当然、存在します。社会的公正は実現されなければならない。しかし社会的公正は、言論においては、女子差別撤廃条約リテラルな適用によって実現されるものではない。それが、ローチの主張の趣旨です。


ハーバーマスは、その公共圏を、声なきマイノリティの存在を織り込む場所として措定しました。それは、声なきマイノリティに配慮して討議せよ、ということではない――私のハーバーマス理解では。そして、ローチは、声なきマイノリティに配慮して討議することはなんら社会的公正を言論において実現しない、と主張しました。マイノリティは声を上げるべきであり、その声に私たちは配慮するべきではなく存分に同意と批判によって応えるべきである、と。そのようなローチの主張においては、たとえば、性犯罪被害者の意見表明が存分に批判されることはなんら問題ない。つまり――私たちは見たくないものを見ない自由を持ち合わせるが、言論においては、言われたくないことを言われない自由を持ち合わせてはいない。猥褻な言論などない。


言論の自由は、「蹂躙からの自由」を包括するがゆえに、言われたくないことを言われない自由を包括しない。言論の自由は、言論の自由を目的としてある。そう言い切るのがローチです。だからこそ、ヘイトスピーチは憎悪の扇動であって言論ではない。憎悪の扇動を認めないことと、言論において「言われたくないことを言われない自由」を認めることは、違います。そして、言論の自由に社会的公正を優先させる発想が、たとえば声なきマイノリティとしての「在日」や性犯罪被害者において存在するのは、私たちの社会において自由な言論が言論の自由を目的としなかった結果、社会的公正を実現していない、という認識が彼らや彼女たちにおいてあるからです。それは当然のことと私は思います。


で、それは「法規制されたくなければ社会的公正の実現のために努力しなければならない」という話ではまったくない。ローチが言ったのは、言論の自由の意義について周知されていないからこそ言論において社会的公正が実現されていない、ということでした。だから、社会的公正の実現のために言論に国家が介入するような事態が平気で起こる。


私がfurukatsuさんに対して私自身の信条としても申し上げたいのは、「法規制されたくなければ社会的公正の実現のために努力しなければならない」ということではない。万人をノイジーたらしめるために、言論の自由の(価値ではなく)意義について知らしめるべく「モアスピーチを増や」し「差別的な意見を批判していくべき」ということです。言論の自由の意義が周知されれば、つまり言論の自由が社会的公正を実現する可能性に声なきマイノリティが賭けることができるようになれば、ローチの理論上は、万人がノイジーになることを阻むものはない。


「陵辱表現の意義」について知らしめる必要は、当然ありません。しかし、「言論の自由の意義」について知らしめることは必要です。そして、ノイジー・マイノリティとしてのfurukatsuさんは十二分にそれを果たしておられるし、モアスピーチも差別的な意見に対する批判も展開しておられる、と私は思います。たとえば、furukatsuさんがミソジナスとは私はまったく思ったことがないのですが。


万人がノイジーになることを阻むものがこの社会にはある。それは、たとえば差別です。その掣肘に、言論の自由の徹底が有効であることを声なきマイノリティが信じるためには、言論の自由の徹底の結果としてモアスピーチと差別的な意見の批判がマジョリティもマイノリティもなく存分に交わされなければならない。ところで日本のネットはごらんの有様だったりします。言論の自由の徹底の結果がそれだから、社会的公正を言論の制限に求める反動が登場する。ええ、この国におかれては反動と私は思います。しかし。この期に及んで、言論の自由の徹底の結果に責任は取れない、という議論は微妙です。


ローチは、言論の自由の徹底を主張するなら、その結果に私たちは責任を負う、と述べました。社会的公正の実現を目的としない、自由な言論は、しかし言論の自由のために展開されなければならない。それは、社会的公正をその結果に負う、ということです。差別構造を背景とする「黙れ」は言論ではありません。ローチは自由な言論をこそ肯定したので、言論の自由において社会的公正が実現されると信じないなら、その徹底を主張しないでしょう。ローチのように言い切れるか、私自身の見解は微妙です。アクティヴィストではない私の認識では、連帯とは、まず信じることです。言論の自由は、「在日」や性犯罪被害者ら声なきマイノリティから、信じられていない。Webの幾つもの声から、私は改めてそのことを確認しました。


社会的公正を求める人が言論の自由を信じないなら、社会的公正は言論以外の場所で実現されるでしょう。陵辱表現がゾーニングされているように。しかし言論は言論です。私たちは見たくないものを見ない自由を持ち合わせるが、言論においては、言われたくないことを言われない自由を持ち合わせてはいない。猥褻な言論などない。ゆえにこそ、社会的公正は言論において、言論以外の場所でなく、言論の場所で実現されるべきである。そうローチは言いました。そのために、言論の自由の徹底が、万人がノイジーであることが、必要条件である、と。


言論の場所での社会的公正の実現を、たぶん、そもそもfurukatsuさんは信じておられない。それは構いませんが、信じないなら、連帯は困難です。言論のゾーニングは、インターネットでは無理です。平時において、連帯を求めないからマスケット銃なら、それはカール・シュミットの再演以外の何でしょうか。陵辱表現の愛好者と性犯罪被害者は、どうあっても共存困難であり、リベラルな社会はその自由ゆえに共存を実現しないのかも知れません。しかしそのときマスケット銃が持ち出されるなら、グロテスクな光景というよりほかありません。というか、SFですか。