寝室の市民権


http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090718/p1


「本当の」云々、と大いに誤解を招く書き方をしたことは事実です。またNaokiTakahashiさんが反論として書いておられるわけではないことも重々承知していますが、弁明させていただきますと、私は真贋の話をしているのではありません。「いやそんなサディズムは偽物だ」「サドの文学作品を読んでみろ」ということを言っているのでは私はまったくない。そのような優越感ゲームで済む話ならどれほどよいか。


tikani_nemuru_MさんもApemanさんも、当然佐藤氏も、その問題意識ゆえに、かなり根源的なラインまで突っ込んできており、反論も厄介です。


tikani_nemuru_MさんとNaokiTakahashiさんの議論の中でSMという問題が示され、それに対してtikani_nemuru_Mさんは、相互了解の有無、をもって線引きされた。相互了解がないからSMです、というのが私の感想なので「相互了解がないSMは許されない」という話は普通に性の否定だな、と思いました。


また、こちらはApemanさんの議論ですが、「人間の尊厳」という問題系が提出されており、疑う余地なくそれを損なう表現は人権概念としての「表現の自由」と整合するか、という話の中でSMが問われている、と私は判断しました。なら、「人間の尊厳」を故意に毀損するのがSMであり、しかしそれを通じて「人間の尊厳」を追求するのがSMです、という話をするよりほかありません。


「そもそも論」の以前に、近代的個人であればこそその「人間」としての徴を奪い去ることによって逆説的に「人間の尊厳」を追求する表現と実践的営為にこの社会は満ちている、ということです。かつてそれを大規模に実践したのがナチスドイツであり、その陰画の存在の結果「人間の尊厳」の追求は20世紀後半において飛躍的に精度を高めました。これも、悲劇的な歴史の逆説です。むろん、ヨーロッパ人の発想ですが。その延長に現在のパレスチナ問題があり、村上春樹の「壁と卵」のスピーチがある。


サドは、その表現において、「人間の尊厳」が些かも自明でなかった時代において、「人間」としての徴を奪い去ることによって描き出される陰画の集積として「人間の尊厳」をこそ追求しました。「人間」の解体が自由への道であったということです。革命以前に、彼は性においてそれを追求した。しかし、その解体はサドにおいては「人間の尊厳」を追求する手段だったので、当然、円環は閉じられるに決まっており、その自由は贋金でしかなかった。それが、68年を経た歴史的結論です。そして、サルトルが回帰する。人間は自由である、それが人間の尊厳である、そのことは自明である、と。


現在、アレントからアガンベンへと至る、ホロコーストを経たヨーロッパ人の果敢な思想的営為の結果、当為の問題として「人間の尊厳」は自明なので、サド哲学の実践は気違い沙汰です。なんというのか、わかりやすく言って、『殺し屋イチ』の垣原のようなトゥーマッチにしかならない。自明、と皮肉で言っているのではもちろんない。「人間の尊厳」を目的にしたときサド哲学の実践もホロコーストも引き起こされる、ということです。現在の風刺画問題も。自明だから、サド哲学の実践もホロコーストも許されない。


よって「相互に了解しているSMは暴力でもなんでもない」という話になる。当然、それは密室の問題です。tikani_nemuru_Mさんの言葉ですが、その言葉が孕む問題に気が付かないで言っておられるのなら、私はこのような感想を持ちます。サド哲学の実践は相互了解のアリバイを作れば宜しい、とSの人は考えるでしょうね、と。相互了解のアリバイをアウトソーシングする産業は概ね小規模ながら繁盛しています。よきパートナーにめぐりあえないS/Mは往々にしてエスカレートするので、そのためにもプロの女王様がいる。Sは難しいです。


「人間」としての徴を奪い去って、肉体的にも「人間」としての徴を奪い去って、人によっては「女性」としての徴さえ肉体的に奪い去って、完全に人間でなくなったとき――つまり死によって――人間が人間であることとその尊厳を確認する。「人間」としての徴を一切奪い去られる過程としての死のプロセスによって「人間の尊厳」を認識する。そして自他の「人間の尊厳」を認識するために、tikani_nemuru_Mさんが言われるところの加害行為に及ぶ人は枚挙に暇がない。そのうちのどれほどが検挙されているか――殺すところまでエスカレートする人は少ないにせよ。当然、対象のことを個体認識することはない。個体認識されないから奴隷なので。これ以上ない泥人形の理屈ですが、しかし現在進行形の現実の人間の問題です。当然、被害発生の問題でもありますが。


リベラリズムは、リベラルに合意された奴隷の存在を認めるか。この問いは度々提出されてきました。認めない、というのが近代主義の立場であって、tikani_nemuru_Mさんも同様でしょう。「相互に了解しているSMは暴力でもなんでもない」という話と「リベラルに合意された奴隷」はまったく違います。奴隷は、リベラルに合意することができないから奴隷です。アレントに始まりアガンベンへと至る西欧知識人が指摘した通り、そのことは、文明人の近代的論理では包括することができない。だからサドが度々召喚され、サルトルはジュネを論じました。自由と尊厳を、「労働すれば自由になれる」と門に掲げたアウシュヴィッツの後で肯定するために。


プレイに関心を持てない私自身の話を述べるなら、相手がもっとも望まないことをするのが嗜好としてのS、というか私の考え方なので、パートナーとしてのMを求める人のことは実のところ私は未だによくわからない。つまり、私のようなSにとっては、Mの人がMであるがゆえに望むことをすることは萎えるので。好き好んでする奴隷は奴隷ではないし、陵辱エロゲで抜く人は「攻略対象」が陵辱を望んでいたら萎える、と私は認識しているのですが。「下の口は正直だな」の類はともかく。だから、「二次元である」ことが決定的な意味を持つ。


私が言っているのは。「いやそんなサディズムは偽物だ」でも「サドの文学作品を読んでみろ」でもなく(というか、この文脈で「本物」「偽物」とか優越感ゲームですか、という感想です。NaokiTakahashiさんに対して、ということではなく。「本当のサディズム」とそうではないものを弁別し切断するのはこの文脈だからです。NaokiTakahashiさんが懸念されることについて、私も懸念するものです)、サド哲学を実践している気違いがありふれているのが今の世の中である、ということです。おそらくは自覚さえなく、サドの文学になど目もくれず、善良な市民の顔をして。ということで、もはやサドは文学にしかならない。澁澤龍彦はおそらくは68年を境にそのことに気が付いた。


そのような、サド哲学を実践している気違いがありふれている世の中を認めるか認めないか。認めない、というのがtikani_nemuru_Mさんをはじめとする多くの、規制反対論者の主張に違和感を隠さない人たちの共通した見解だった、と私は認識しています。そこに思想の別はない、リベラリズムからも保守主義からも提出される見解です。


私はと言えば、サド哲学を実践している気違いがありふれている世の中を認める、と現状追認ではなく、社会思想の観点から主張するものです。端的に、私たちは悪への免疫を身に付けたほうがよい、という自由主義のひとつの典型論でもありますが、差別問題である以上、それに限った話でもない。


――で、それと問題はまったく別として、嗜好としてのSMが市民権を得ることに私は当然賛成だし、そのことに尽力してきた先人にはなんら含むところはないし、カジュアル化することにも大賛成であって、よきパートナーを得た人を祝福したこともあるので、NaokiTakahashiさんの見解になんら異論ありません。そもそも、近代的な人権概念と整合する性に私が半畳入れる理由も筋合もありません。近代的な人権概念と整合するSMはSMの僭称であるとかまったく思わない。


私が言いたいのは、むしろこういうことです。「近代的な人権概念と整合する限りにおいて」「性の多様性」はあってよい、とする発想に対して、どう考えるか。「近代的な人権概念と整合しない」性の存在について私が指摘したのはそのためです。そして、tikani_nemuru_Mさんはそれをはっきりと否定された。「自分の手を汚してでも排除する」と。論点が鮮明になったと思います。なお、他人のことはともかく、私自身については、物心付いて以来、こういう自分と付き合って四半世紀なので、性的な局面でその性を行使したことは当然ない、ということは明記しておきます。


エントリを待つべきなのでしょうが――

id:tikani_nemuru_M 性  加害による自由と尊厳とか加害者の切実さというものは、ブンガクとしてやるならいくらでもやってほしい。現実社会におけるそれは断固拒絶する。レイプやペドを正当化する理路だ。自分の手を汚してでも排除する。 2009/07/17

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私はブンガクの話をしているのではなく、現実社会の話をしています。現実社会の加害は、加害当事者にとって切実な自由と尊厳の問題である、という話をしています。そのような現実社会を、私たちは生きているという話をしています。もちろん「レイプやペドを正当化する理路」です。


その自明性ゆえに「人間の尊厳」という概念が張子の虎でしかない現実社会において、私たちはいかに人権問題を問うか、という話を私はしている。「自分の手を汚してでも排除する」とはっきり言ってくださってよかった。論点が鮮明になったと思います。私の記憶では、コソヴォでの「民族浄化」に対してハーバーマスNATO軍による空爆を支持しました。その変奏ですよね。


そこにレイプやペドのような他者危害と人権侵害があるなら、私的領域であるところの他人の寝室のドアを蹴破る、という話でしょうか。それは、警察の仕事です。ところで警察は、民事不介入です。そして、これは声を大にして言いたいことですが、他者の存在しない他人の寝室のドアを蹴破ることは控えましょう。そして警察は、ロンダリングされたレイプやペドに対して不介入をのたまいながら、他者の存在しない他人の寝室のドアを蹴破ろうとしている。現行法で対応しきれないから、と寝言をぬかして。他者の存在しない寝室はない、などというミシェル・ゴンドリーの映画のような話はそれこそブンガクでやってください。


というか、ブンガクでなく現実社会においては、他者が存在しなくなることが私的領域であるところの寝室の自由と尊厳で、それはレイプやペドととても親和的です。性の対象と考えた瞬間に目の前の人間の固有性が消失する、他者は性的な身体になる、時に寝室であろうがなかろうが、居酒屋だろうが満員電車の車内だろうが。痴漢は、加害当事者にとって束の間の自由と尊厳の獲得の問題です。他者を性的な身体としてのみ収奪することに、彼は日々の自由と尊厳を発見している。その発見は、善良な市民と性犯罪者の二足の草鞋を可能にする。


そこに性的な身体が存在しようがしまいが、寝室に他者は存在しません。その寝室のドアを蹴破る、という話をしておられるのですよね。ところで、「そこに性的な身体が存在しようが/しまいが」は絶対に区別されるべき問題です。ディスプレイの中の性的な身体、という話とも。描かれた性的な身体は、他者の存在しない寝室に最適化されている。その自由と尊厳に。


だから、私に言わせれば、陵辱表現愛好は倫理的態度です。私的領域であるところの寝室の自由と尊厳は、他者を性的な身体へと還元することによって贖われます。その贖いに、他者を巻き込まないなら、寝室に他者を招かないなら、一体何が問題なのか。何度でも書きますが、サディスティックな性行為のために後で追い込みのかからない素人を買っている男の方がよほど問題と私は思いますが。


他者の存在しない他人の寝室のドアを警察に蹴破らせようとする『1984』的な国家主義者の判断があるとき、tikani_nemuru_Mさんのスタンスをスタンスとして私は支持します。コソヴォ空爆に対するハーバーマスの判断と照らし合わせて言うなら、軍を出すことは自分の手を汚すことです。そして、「近代的な人権概念と整合する限りにおいて」「性の多様性」はあってよい、という判断なら、当然、「二次元」であるところの陵辱表現は十二分に「性の多様性」の範疇です。


カジュアル化がけしからん、という話にさえならないし、「性の多様性」の範疇において、そして「性の多様性」は肯定さるべきことであるがゆえに「二次元」であるところの陵辱表現は当然、相互の信頼に基づくSMプレイ同様に市民権を確立して然るべき嗜好です。――NaokiTakahashiさんがSMに言及したうえで言わんとされていることも、そういうことだと理解しています。『SMスナイパー』がゾーニングされているように、ゾーニングは致し方のないことです。というか、普通にマスターベーションの問題ですね、という。近代的な人権概念は当然、マスターベーションを許容します。


「近代的な人権概念と整合しない」性が否定されることと、そのとき「二次元」であるところの陵辱表現が肯定されることは、別の問題です。「そもそも論」として、私は前者に対して批判的ですが、しかし前者において後者が導き出されるなら、そのことは第一義的に肯定します。「近代的な人権概念との整合」が問題なら、少なくともtikani_nemuru_Mさんがそのように問題を立てておられるなら、「二次元」であるところの陵辱表現は当然「性の多様性」の範疇です。無問題です。


SMという嗜好がそのように市民権を確立したように、近代的な人権概念とそれとの衝突が問題であるならば、そしてそのことにtikani_nemuru_Mさんが同意されるのなら、「二次元」であるところの陵辱表現は、なんら問題ではない。暴力でも加害でもない「プレイ」としてのSMがそうであるように、市民権を確立して然るべき嗜好です。他者の存在しない寝室に、そして性的な身体の存在しない寝室に、いかなる加害も被害も存在しません。かくして、ぐるっと一周して最も古典的な議論に戻ってきたのでした。――振り出しに。