万人がノイジーであるということ


「表現の自由を脅すもの」書評 - 地下生活者の手遊び

Non-Fiction(Remix Version) | ヘイトスピーチと言論の自由


tikani_nemuru_Mさんやうちゃさんに対する反論ということではなく、私なりの補足的な見解として。


ハーバーマスの公共圏論に対するテンプレートな批判として、言論強者の論理、というものがありました。ハーバーマスにおいて言論とは公共圏の問題だったから。言論が公共圏の問題なら、配慮とは、公共圏の言論に耐えない他者を想定することです。ジョナサン・ローチが批判したのは、そのことでした。今回問題視されたことに限らず、性犯罪被害者、被差別者の言動が「公共圏の言論に耐えない」として却下される光景を私は幾度も見てきました。


ヘイトスピーチにも言論の自由はあるか、という問いは微妙にトラップで、つまり欧米においてヘイトスピーチと定義されるそれは言論ではないので。憎悪を扇動する自由はある、とあちらの社会は言えない。そこには歴史の悲劇がある。女性に対する憎悪を扇動する自由はあるか、と日本で問うとき、陵辱エロゲは憎悪の扇動ではない、とお断りして申し上げるなら、その自由には対抗言論の存在が前提です。たとえばfurukatsuさんに対して、貴方が対抗言論を組織せよ、ということでは私はない。しかし、対抗言論が存在するという認識がないとき、女性に対する憎悪を扇動する自由はある、と言明することは私には難しい。


なぜなら、差別とはそれを向けられた個人においては「お前の人間の尊厳を認めない」ということであり、そのことが暗黙にせよ肯定されるとき差別された人は沈黙するからです。「沈黙を強いられる」と判断する人は当然ある。この人には何を言っても聞いてもらえない、と判断した相手に対して人は沈黙する。そして、この社会に対して何を言っても聞いてもらえない、と女性の大半であるところの性犯罪被害者が判断している。これは、大問題であり、ヘイトスピーチの問題が公共圏論として問われるのはそのためです。tikani_nemuru_Mさんも言っておられたことですが、決して沈黙しないfurukatsuさんのことが私も好きです。しかし――。


欧米におけるヘイトスピーチ規制の社会的法益とは早い話が歴史的背景に基づく憎悪の扇動の問題です。ローチは憎悪の扇動と「他者を傷つけること」を区別しています。その社会的法益を近代日本の歴史的背景から男女問題へと敷衍することはやはり困難な議論と私は考えます、が。


Webにおける性差別的言説に対して、対抗言論が存在するか、と問うなら、私の認識は、心許ない、と言うよりほかない。だから私もエントリを書いている。家父長制の崩壊は日本語圏のWebにおいてセカンドレイプに顕著な性差別的言説をいっそう激化させています。そのとき「他者の蹂躙と尊厳の剥奪において自身の自由と尊厳を再帰的に獲得する」ことが表象ではなく言論の問題として全面化する。それを「憎悪の扇動」と指すことは私にはできませんが――


「女叩き」の問題はそこにある。差別的言説はその属性を背負う個人に対して「黙れ」という暗黙のメッセージを発しています。公共圏が誰かを貝にする場所であってはならないから、その場所でヘイトスピーチが問われる。しかし、言論の自由を原理的問題と考える限り、公共圏論とは整合しません。が。それこそヴォルテールが言った通り、自由とは他者の自由にコミットすることなので、私も言論の自由は原理的問題と考えますが、しかし私たちが他者の自由にコミットしない限り、マイノリティの沈黙に代表される原理と現実の齟齬を原則論で糊塗することにしかなりません。それは、ロジックの辻褄合わせでしかない。


ただし。他者の自由にコミットすることとは、他者に配慮することではない。ローチが言っているのはそういうことです。私はと言えば、配慮もしているつもりですが、他人に対してそれをしろとは言えない。なぜならそれは、他者の自由をスポイルすることだからです。コンサバと言っておきながら、これでは自由主義の極みですが。


私はfurukatsuさんをノイジーなマイノリティと思います。それは素晴らしいことです。ただ、表現の自由を構成する原理が万人に対してノイジーであることを要求することと、人権の問題意識は、時に整合しません。なぜなら、現実において、多くのマイノリティはサイレントだからです。そして、そのサイレントを、自己責任とは絶対に言えないからです。人権の問題意識は、万人に対してノイジーであることを要求する表現の自由を構成する原理に対して、多くのマイノリティがサイレントであることをこそ順序の問題として優先します。これはアポリアです。


そして――現実の力学において百家争鳴が実現されないまま百家争鳴の原理を言祝ぐなら、差別され沈黙する人たちは、原理より、現実の現在の力学から自らを守る防波堤を――それが官憲の手になるものであれ――優先するでしょう。「にもかかわらず」百家争鳴の原理を説きノイジーであり続けるfurukatsuさんのことを私は素晴らしいと思うし、だから、批判したいのではない。ただ、原理と現実の齟齬を原則論で突破することの困難については、私の認識はそういうものとしてある、ということです。マスケット銃も、原則論です。


万人に対してノイジーであることを要求する、表現の自由を構成する原理によって、多くのマイノリティがサイレントであることの問題が解決されるためには、万人がノイジーであることの結果をシミュレートするよりほかなく、シミュレートの結果が悲観的であるならば、社会的公正において国家の介入のもと万人のノイジーの結果を――あたかもケインズ主義のごとく――最大多数の最大幸福のためにコントロールするよりほかない。当然、これはスターリンです。言論に対する政治的介入とはつまりこういうことなのですが。ローチは、社会的公正と配慮の問題を区別しています。


ハーバーマスは、万人のノイジーの結果において社会的公正を担保するべく、公共圏の言論に耐えない他者をその構想に織り込みました。それを、配慮の問題と翻訳することは私はできません。ローチは、万人のノイジーの結果において社会的公正を担保するために、万人に対してノイジーであることを「道徳的義務」として要求する、表現の自由を構成する原理の社会における徹底を主張しました。公共圏の言論に耐えない他者の言葉に耳傾ける限り、それは存分に批判されるべきである、と。なぜなら、万人に対してノイジーであることを「道徳的義務」として要求しない限り、言論の局面で社会的公正は実現されない、とローチは考えたからです。むろん、いずれにおいても、担保される社会的公正は、理論の範疇です。彼ら自身の言行一致が理論を裏付けるわけでは当然ない。