蹂躙の中の自由


はてなブックマーク - nanae_llのブックマーク / 2009年7月14日

nanae_ll 性  「合意がないからSM」…えーと、世の中には「SはサービスのS、Mは満足のM」という言葉もありまして(何)/まあ軽口はともかく、サディズムを「嗜虐趣味」、マゾヒズムを「被虐趣味」とするならば、(メタブへ続く) 2009/07/14


nanae_ll 性  (続き)両者の合意に基づくSMプレイはありうると思いますし、程度問題ですが一概に否定されるものでもないと思います/というか、DVの類とプレイを区別するために「合意」が必要だと思ってるんですが、私は。 2009/07/14


nanae_ll メタブ  NaokiTakahashi様 すみません、私は生身基準の話しか出来ないので;/ただ、「生身の問題」であれば、合意のないSMって単なる暴力ですよね?/y_arim様 自覚はあるので、表現論自体にはあまり踏み込まないようにしてます 2009/07/14


id:nanae_llさんが『七重のまったり日記』の中の人であることを知りました。この問題でリンクを頂いて以来、拝見しています。で。


人権概念に抵触するからSMです。「人間の尊厳」という観念を否定するものとしてSMはある。嗜好としてのそれは、「人間の尊厳」という観念を剥奪し、剥奪されることによって一時的にせよ解放される心身の問題です。革命以前のフランスにおいて、サドは「人間の尊厳」という観念をおよそ逆説的に追求した人でした。で、バスティーユにぶちこまれた。


時は流れて現在、橋本治が正しく言った通り「サド哲学を現実に実践している奴は気違いである」。「プレイ」とは、近代にあっては端からクレイジーな実践を「人権」「人間の尊厳」という概念と整合させるために調達された方便です。そのとき、「人間の尊厳」が些かも自明ではなかった時代にその観念を逆説的に追求した作家のラディカリズムが受け継がれているか、定かでない。そもそも歴史の必然として、受け継がれるべきものでもなかった。ポストモダンにおいて、それを再生させたのがフーコーです。


「真の非モテ」のような言い方はしたくありませんが、本当のSは、相手を物として扱うし、本当のMは、物として扱われることを望む。尊厳を持ち合わせる一個の人間として扱わない/扱われない、ということ。そしてそれは、苦痛の極限において展開される。尊厳を持ち合わせる一個の人間として扱わない/扱われないことによって、一個の人間として解放される。心身を毀損し毀損される苦痛と蹂躙の極限で、自由を獲得する。尊厳を剥奪し剥奪されることによって、自身の尊厳を回復する。そのようにして希求され、獲得される自由と尊厳がある。


当然、これは非対称です。Mにおいては、自身の自由と尊厳の獲得のために、物として扱われることを欲し、苦痛と蹂躙の極限での尊厳の剥奪を欲するので、死んでしまうことは当然NG。『愛のコリーダ』ではないが「事故」は幾らも起こりうるし、あの映画のふたりは端から惚れた仲だった。だから、了解あるパートナーを望む。自分は殺されたいのではない、と。


しかし、Sにおいては、その限りではない。暴力によって相手の心身を毀損する苦痛と蹂躙の極限で、自身の自由と尊厳を再帰的に獲得する。時に、愛の行為として、相手に自由と尊厳を知らしめるつもりで、それをする。自身の生命に関わるがゆえにパートナーを欲する必然性はなく、了解があればよい、という程度のことでしかありません。ただし、大抵の社会人は逮捕起訴処罰されたくはないので、色々考える。たとえば女性に対して、女王様を求める人と奴隷を求める人は全然違う。取扱注意はどちらか、言うまでもない。


ということで、奴隷を求める人は私的領域で色々考える。マジモン同士の場合、互いの要求が一致すること、ましてそれが長続きすることは少ない。性の不一致と言えばそこまでですが、Sの人は苦痛と蹂躙の極限で殺すことも十分嗜好の範疇で、それはナシよというのが「プレイ」だから。人権が金銭で売買される国で文字通りの性奴隷の需要があることは当然のことと思います。我慢する必要がなければ、人は我慢しない。それは、本人にとって自由と尊厳の問題なのだから。


どこが自由と尊厳の問題なのか、と思われるなら――。そもそもSMという嗜好は人権や「人間の尊厳」という観念と抵触するから存在します。抵触しない、として近代の原理との衝突を避けるべく行為について擬似性の括弧に入れる方便として「プレイ」という概念が用意されました。実情はそれに留まるものでは到底ない。そして、サドの些か空想的で理想主義的な目論見に反して、それが現実の力学の擬制であることは疑いえない。擬制において、その差別性はクリアにリテラルに表象される。それをして、蹂躙の掟と指すのでしょう。


SMという観念は、その存在に根本的な欺瞞を孕んでいる。たとえば、監禁王子の名で呼ばれた被告はそのことに気が付いていなかったでしょうが。フーコーは、あまりに美しくその欺瞞を倫理的な価値へと変換しました。欲望は、往々にして、現実の力学の擬制でしかない。自他に対してそれを抑制する意思に、人間の自由の可能性を見たのが晩年の彼でした。


性の問題に限ったことでなく、自由と尊厳の問題がややこしいのは、蹂躙と尊厳の剥奪において人は自由と尊厳を再帰的に獲得する、という些か暗澹とする事態があまりにもこの世の中にありふれているからです。私的には言うまでもなく、公的にも。蹂躙の掟は、反復され再演される。私的な場所で公的な場所で、夜の寝室で昼間の社内で。この世の中の、あらゆるマクロとミクロにおいて。しかし、蹂躙と尊厳の剥奪において人が再帰的にせよ獲得する自由と尊厳は、少なくとも当人にとって、決して贋金ではない、真正のものです。――だからこそ根が深い。


SMについて言えば、これがMなら「自身の蹂躙と尊厳の剥奪において自由と尊厳を再帰的に獲得する」ということになる、ので少なくとも他者危害の問題とは抵触しない。言うなれば愚行権の範疇。しかしSにおいては。現実の力学の擬制において、その差別性がクリアにリテラルに表象されるとき、当事者合意の有無を前提に「プレイ」なら無問題と見なす発想は、私に言わせれば、密室での性行為を等しく無問題と見なす発想です。当然、それはたとえばデートレイプの温床としてある考え方ですが。


「他者の蹂躙と尊厳の剥奪において自身の自由と尊厳を再帰的に獲得する」性があることを、社会は許容すべきでない、と貴方は考えますか、ということです。近代社会は、公私の線引きにおいて公的には「許容すべきでない」と裁定してきました。暴力と仰いますが、愛と暴力は時に見分けがつかない、私はそう考えます。それをとんでもないと思われるなら、性愛を私的領域へと格納してしまうべきではない。人権問題とはそういうことです。


記した通り、私の見解は、「他者の蹂躙と尊厳の剥奪において自身の自由と尊厳を再帰的に獲得する」性があることを、社会は許容すべき――です。そのことと、人権問題を区別して考えるべきということです。これも繰り返しますが、個別利害の問題ではない。私的領域へと格納された性が密室での人権問題を引き起こすこととどちらがマシか、ということです。「そういうことは私たちの目に見えないところで隠れてやれ」なら「つまり人権問題ではないということですね」と私は翻訳します。私的領域へと格納された密室での性愛において、暴力と愛の区別はない。


問題は、私が諸般の事情からよく知るSの話ではない。「他者の蹂躙と尊厳の剥奪において自身の自由と尊厳を再帰的に獲得する」性が、私たちのものとしてあることを、私たちはどう考えるか。「私たち」とは陵辱エロゲユーザーに限った話ではありません。暴行AVも、陵辱エロゲも、付け加えるなら谷崎も、そしてジョックスの輪姦も――擬制リテラルに表象する蹂躙の掟は、そのことを指している。


「懸隔」の話はどこへ行った、と指摘されるかも知れません。翻すようですが、私は規制論に対しては人権問題の原則論を貫徹しますが、しかしことここに至って――tikani_nemuru_MさんやApemanさんの新しい議論を拝見して、ということです――私たちが再帰的に選択する自由と尊厳が歴史的な差別構造としてある蹂躙を陰に陽にマクロにミクロに半永久的に再生産し続けることについて、シラを切ってもいられない、とは改めて思いました。はてなハイクでのusauraraさんとitumadetabeteruさんのやりとりを拝見したところ、sk-44は承知で強弁しているのだからそれには訳があるのだろう、という話になっていたので。


問われる問いは、こうです。他者の蹂躙と尊厳の剥奪において自身の自由と尊厳を再帰的に獲得することを「人間の尊厳」は「自由」は、その範疇として包括するか。包括しない、とnanae_llさんなら即答でしょう。しかし、その「他者の蹂躙と尊厳の剥奪」が擬似的なものであるならば? 


「プレイ」としてのSMを認める立場においては、そもそも、河野多恵子の『みいら採り猟奇譚』ではないですが、「愛し合っている好き者同士のふたりの間ならどんな変態行為も無問題、干渉するは大きなお世話」と考える限り、少なくとも陵辱エロゲはゾーニングの問題で終了です。


「他者の蹂躙と尊厳の剥奪において自身の自由と尊厳を再帰的に獲得する」性について、そういうのは同好の氏同士で私たちの目に見えないところでやってくれ、というのは当然の要請でもあるので、その要請に規制論や差別的な言辞が付随しないならゾーニングで終了です。そして当然、それは人権問題ではない。早い話が、氏賀Y太自重しろ、とは私は言いたくないし、読まない人に言わせたくもない。このところ自重しているようですが、それは致し方のないことですが、自重しろという公的見解は退けます。結果、ゾーニングは致し方のないことです。


再帰的選択の問題とは、私たちが自身の自由と尊厳のために再帰的に蹂躙を選択することの問題です。それが他者に及ぶならそれは少なくともリベラリズムの問題ではない。再帰的に選択された家父長制がこの美しい国の21世紀には溢れている。それは、慶賀すべきこととは御世辞にも言えません。「本人たちがOKならそれでいいじゃない」と言い切れないから、難しいのです。


私事ですが、十数年ぶりに喫煙の習慣が復活しました。で、私の未だオサラバできていない仕事場はスモーカーが珍しくなく、分煙という概念に緩く、私も構わず一服する。そのとき、吸わない女性を見かけて私は退散するか火を消す。要するに、吸っていいかと尋ねて相手がNOと言えるはずもなし。友人ならともかく、先方某方面に借金ある身で、唯物論的な力関係がある。私が勝手に気を使うよりほかない。そして、私は以前から他人の紫煙が気にならない質なので、そうした問題について些か鈍感であったことを、自分が喫煙者になって気が付いた。いちおう責任ある立場なので思案中。


結局、どいつもこいつも吸っていいかと尋ねて相手がNOと言えるはずもなしを承知でプカプカやっている。目の前にいる人間をいないものとして扱っている。私は思う、目の前にいる人間をいないものとして扱うことが、彼らにとっての自由と尊厳ではないか、と。私がそういう発想の人間だからだが。当然、この延長には、世間一般の会社で定義されるところのハラスメントがある。多く性的な。そして無自覚な。


端折るけど。人は、どうやら、自分が自由にできる自分以外の身体が欲しいらしい。時間単位にせよ、それを金で買うことで、自身の自由と尊厳を再帰的に選択する。つまり、他者の自由と尊厳を金で買うことによって。それは誤った認識である、と言い切れないから難しい。目の前にいる人間をいないものとして扱うことが、自身の自由と尊厳の問題であるなら、私はそれを否定することができない。


差別か、と問うなら差別です。しかし差別において贖われる自由と尊厳は、「プレイ」という名の契約において合意が代替される限り、また当事者の人身に危害が及ばない限り、つまり人権問題をクリアしうるなら、GOサインを出すよりほかない。出しているのは私だったりする。広義の水商売とは総じてそういうものではあるが、そのとき、私たちは自身の自由と尊厳の再帰的選択のため、差別構造を金に換えている。これは言論の問題ではなく経済活動の範疇ですが、経済活動の外部でそういうことが繰り広げられるならとんでもないこととは思う。つまり、それがセクシャル・ハラスメントのことなので。


差別する自由はない。私はヴォルテール主義者なのでそう思います。しかし、差別によって贖われる人間の自由と尊厳はある。再帰的選択とはそういうことで、だから後期近代における再帰的選択は時にろくでもない。そして、性とは、人間の本質でも自然でもなく、再帰的選択の最たるものです。私たちは、自身の自由と尊厳のために、経済活動において、あるいは表現行為において、差別を再帰的に選択しています。「プレイ」という方便において。しかしその方便において、事態はいっそうリテラルに可視化される。現実の力学の擬制として表象される、その蹂躙の掟は。


これは公共圏とは関係のない話です。ただ、他者の「人間の尊厳」や「自由」を剥奪することで、贖われる誰かの尊厳や自由もある。私たちはそのような生を、近代の斜陽において再帰的に選択しました。蹂躙の掟は更新される。そして蹂躙の掟は、リテラルに表象された現実の力学の擬制でしかありません。人間は救われない――そういう話ですが、それと問題は別として、それが普遍概念としての自由と尊厳の問題なら、否応なくそれと連関する言論の問題なら、つまり公共圏論なら、当然、目の前にいる人間をいないものとして扱うべきではない。それは、単なる倫理的命題ではない。


私は、性的存在としての私たちは、普遍概念としての自由と尊厳を背負いえないと考えます。私たちは、他者の「人間の尊厳」や「自由」を剥奪することで、尊厳や自由を贖う性を生きている。私たちはそのような生を、再帰的に選択しました。円環は出口なく閉じられる。しかしそれは、まごうかたなく尊厳と自由の問題です。


人間の尊厳は、自由は、そのようなパラドックスをおそらくは必然として孕む。円環を否応なく構成する。パラドックスを自覚しないまま無自覚な、あるいは自覚的な再帰的選択に居直る者は多い。しかしはてな村で私が目にした陵辱エロゲのユーザーにそのような人はいなかった、と断言できます。願わくは、他者のそれを剥奪して贖われる尊厳と自由が、現実の他者を包括しないことを。そのような再帰性を、公私の線引きさえ心許ない社会的存在としての私たちの生が選択しないことを。


改めて思う。やはりカフカは偉かった。むろん、あの20世紀初頭の東欧のユダヤ人は、ブルーノ・シュルツがそうであったように、蹂躙の中の自由などないことを、書き続けた人でしたが。