周縁文化と世間様


2009.7.6: 日記


佐藤亜紀


また、遅くなってしまいました。申し訳ありません。時間が取れなかったこともあるのですが、書きあぐねていたことも確かです。認識の面では同じくしうる点が多いと考えるにもかかわらず、対立することについて。tikani_nemuru_Mさんとの議論についても併せて考えていました。


そもそも自由主義とは、タダ乗りを認める社会思想です。タダ乗りを認めるところに社会思想としての自由主義の意義がある。だから、タダ乗りについて指摘したところで自由主義の立場においては「それがどうした」になる。以降は個々人のモラルの問題。むろん、タダ乗りが過ぎてシステム自体が瓦解する危険性は常に孕んでいる。しかし、リソースの有限性を問う必要がない表現の問題においては、タダ乗りが過ぎた結果によるシステムの瓦解は新式のスターリンの登場でしかありません。


保守主義的な立場においては、タダ乗りの問題はリソースの有限性の問題ではない。心の問題になる。そもそも、表現の自由という先人が築いてきたリソースこそ有限である、なぜなら人は傷付く心を持っているからだ、という話になる。そして、リソースの有限性は閾値を越えたとき新式のスターリンを召喚する――傷付く心のために。ならば、そんなものはとんでもない、と私ははっきり言います。私は必ずしも自由主義者ではありませんが、そういう立場です。


タダ乗りを問題と見なしたとき、スターリンを退けるなら、ハーバーマスの出番しかない、という話になることは理解するところです。タダ乗りが問題で、スターリンも問題だから、公共圏の構築のほかに活路はない。タダ乗りの問題とその現在における危機的な深刻について了解せよ、と。その理路はわかりますし、同意もします。スターリンを来るべき世界の前提として「どちらを採る?」とウンコカレーのようなアジェンダセッティングをするのでなければ。ウンコカレーなら、自由主義と、そのオルタナティブを採るに決まっている。来るべき世界の前提にスターリンがあるとして、それに同意することとその前提を利用する論者の議論に乗ることは違います。


表現の自由とポルノによる性の解放は結局のところ世間様の秩序を裏書きしている。仰る通りですが「それがどうした」としか言いようがありません。スタージョンの法則表現の自由は別の問題であり、スタージョンの法則と性の解放は別の問題です。そして言うまでもなく、表現の自由は1%のマスターピースのためにあるのではない。だから社会思想の問題であり、個別利害の問題ではない――私にとっては。屑が公共圏から淘汰されることを歴史の必然と見なす発想は端的に勘違いであり、屑が公共圏から淘汰されることは無問題、という判断がそれ自体で表現の危機と私は認識しています。早い話が、私はアジアの島国の戦後史という欺瞞の上に咲き誇った独自の大衆文化を愛するものです。


現実の力学は違う? その通りです。そんなのはわかりきったことです。そして「貴方」は規制に賛成するのですね、という話を私はしているので、現実の力学において規制は必至、という多くの規制反対論者が同意するだろう認識において一致したところで、私は、規制賛成論者の見解を退けることにおいて変わらない。オルタナティブの可能性とは、原理的問題です。現在の商業にオルタナティブの可能性を悲観する――そのありふれた主張をそもそも私は退けるものです。


公共圏は、屑を淘汰するために要請されるのではなく、屑を周縁化するために要請される。しかし、そもそもハーバーマスが想定していたのは、言論の問題でした。商業表現物は、ハーバーマスが構想したような公共圏によっては淘汰どころかなんら周縁化されない。当たり前のことです。そして、これはそもそも周縁文化の問題です。ひいては、戦後日本のサブカルチャーの問題です。「だから」山本夏彦は、言論は売買してはならない、と生涯言い続けました。2chにおいて、あるいは『嫌韓流』において顕著なように、ヘイトスピーチが金を産むなら、言論の自由においてそれは売買される。


言論の自由は、当然、言論の売買の自由ではない。しかし、売買される言論の自由を掣肘する発想には私は乗れません。いずれにせよ、少なくとも日本においては、ハーバーマスが構想したような公共圏によって、売買される言論はおよそ掣肘されないし、それがフィクションなら尚更です。なぜなら、この国は欧州先進国と相違して、戦後、周縁文化を基盤としてきた国だからです。そして当然、表象の問題はそのまま言論の問題ではない。


周縁文化を基盤とする美しい国において世間様の秩序が裏書きされている、という見解には一定同意します。世間様の秩序から垂直する――たとえば谷崎のような――表現を「芸術」として再帰的に規定することにも同意します。しかし、世間様の秩序から垂直する表現が、周縁文化から数多生まれてきたのがこの日本です。大正デモクラシーと戦前昭和のエログロと新青年文化と戦後の全集文化に代表される大衆社会における文芸受容に支えられた谷崎もまた例外ではない。


ことに戦後において、周縁文化は世間様の秩序から垂直する表現のマトリックスとしてあった。そして、その大半は、現在のグローバルなPCの基準には耐えません。「性表現が何かを解放するという幻想に冷や水をぶっかけておこうと考えた」――だから、若松孝二が駄目である、という類の話は了解するものですが、周縁文化のアナーキズムを評価するか否かは、芸術観の問題であり、そしてそれは規制論とはまったく関係がない。


周縁文化はアナーキーだから規制可、というのは官憲の発想ですが、世間様の秩序の裏書きでしかない周縁文化、という議論に対しては、スタージョンの法則のことは存じ上げています、と答えるよりほかありません。オルタナティブの可能性は原理的問題です、とも。そして、規制論は人権問題ですね、と話を差し戻します。スタージョンの法則を承知で、しかし世間様の秩序から垂直する表現のマトリックスとしてあるこの国の周縁文化を私は「擁護」する。オルタナティブの可能性の原理的問題からも、少なくとも規制は論外、と。


平岡正明の訃報に接しました。彼をアナーキスト気取りの男根主義者、と断じることができないのが私の立場です。彼は、この国の周縁文化をその周縁性において無条件に擁護した人でした。かつて呉智英が指摘したように、その、「周縁性」とやらの無条件の顕揚が歴史的限界そのものでありそもそも知識人の勘違いであり端的に駄目である、とも言えます。しかし彼が目指した、周縁性という観念の徹底的拡張という政治的営為において、この国の中心を構成する差別構造の糞は筆一本で暴かれた。周縁文化が中心に居座って差別構造の糞に無自覚に加担している現代日本、という指摘はありふれており、しかし一定妥当とも思います。平岡正明も、今となっては晩年に、それを言いました。


「だから」周縁文化はかつての周縁性を取り戻せ、地下に潜れ、という指摘もありふれていると私は思います。一定妥当とも思いますが。かつて、貸本マンガとタイのマンガに言及して唐沢俊一はそのことを言いました。反論したのは夏目房之介です。周縁文化がその質と量の発展において歴史的にも中心を担うとき、社会的責任が発生することから、私たちは逃れることができない、と。私の認識では――「だから」夏目氏はポルノをめぐる表現規制の議論に触れない。改めて申し上げますが、「地下に潜れ」をゾーニングの問題としてのみ私は了解します。


tikani_nemuru_Mさんの議論を拝読して思ったことは、その伝では手塚治虫終了のお知らせになるのだけど、わかって言っておられるのか、ということでした。つまり、手塚治虫全集の刊行が問題である、という話になる。もちろん、「タバコの裏書程度のこと」は出版社もやっており、そしてそもそも20年前のマンガをめぐる一連の議論を存じ上げておられるのか、と。小池一夫について、武論尊について、池上遼一について、どう考えておられるのか、と。差別的な性表現について指摘することと、陵辱表現を性犯罪の暗数と結びつけて論じることは全然違います。


私は池上遼一は素晴らしいと思いますが、そのレイプ描写がPC的に妥当か、そもそも彼の彼であることを証明するあまりに鮮明な作家性がPC的に妥当か、と問われたらYESとは言えない。ところで池上作品は世界的に受容され、世界的な評価を得ており、コンテンツ産業の輸出に介入するお国がそれを放置するかは定かでない。――現実の力学は致し方ないとして「貴方」は規制に賛成するのですね、というのが私の議論の本筋です。スターリンが嫌いなので。


当然、表象は読み解かれなければならない。『レイプレイ』も池上遼一も。池上遼一の読者であるところの私は彼に対してその世界的な受容を理由に「地下に潜れ」とは絶対に言えないので、『レイプレイ』に対してなら言ってよいと考える発想のことは了解しかねます。つまり、問題がグローバリゼーションに基づくお国と官憲による現実の力学なら、『レイプレイ』と池上遼一は地続きの問題に決まっているので。


『レイプレイ』を読み解くことは私はできませんが、池上遼一を読み解くことはできるし、規制ハハハご冗談を、と徹底擁護することはできます。もちろん、池上遼一作品はMoMAレベルだ、とは言えません。MoMAが糞とはむろん言いませんが、周縁文化とMoMAが相容れないことは知っています。私が言っているのは、これはそれこそ『アニメの殿堂』とやらに対する批判のテンプレートですが、芸術たりうる表現を選抜して擁護することが周縁文化を擁護することではない、ということです。なお、カルスタという名の植民地主義的搾取の話は措きます。


佐藤氏の議論を拝読して思うのは、たとえば貸本マンガ文化についてどう考えておられるのかわからない、ということです。マンガという周縁文化の周縁性を象徴するあの界隈に、水木しげる平田弘史つげ義春もいた。総じて、60年代から70年代にかけての戦後マンガが内容的にも百花繚乱百鬼夜行の様相を呈していたことはよく知られることです。手塚治虫も『MW』を描き『ばるぼら』を描き『きりひと賛歌』を描いた。差別的表現どころの話ではない。なお、イリュージョンは小学館ではありません。


現実の力学を参照したうえで、そういう時代はとうに終わった、という話なら、その見解については了解しました、私と同じくしない見解です、そして規制賛成なのですね、という話でこちらも応じます。そういう保守反動には私は乗れません。時代が終わっていようがいまいが表現者は勝手に描きます。ジョージ秋山は時代の申し子だったのではない。勝手に描く表現者でした。


反差別は近代の原理です。そのことに、表現も右へ倣え、という発想には乗れません。私は、戦後マンガに花開いた、現実の力学に基づく周縁性ゆえの周縁文化を愛するので。手塚治虫が、白土三平が、さいとうたかをが、オルタナティブ以外の何であったか。手塚治虫は生命の不定形に社会と倫理を逸脱した官能を描き、白土三平は男たちに惨殺される女に社会と倫理を逸脱した官能を描きました。それは、当然、差別という社会的概念においては、差別的です。白土三平は反差別の作家ということになっていますが、そしてそれは間違っていないと思いますが。


そもそも世間様の秩序に規定される日本の社会が差別的であり日本にあっては社会性が差別性を包含している――その通りです。だから、認識は同じくしうると考えます。しかし、規制論が呼び出されることには同意しかねます。


佐藤氏は一貫して「擁護派」という表現を使用しておられるのですが、自身を含めて私は、規制反対論者と記しています。第一に、陵辱エロゲを擁護することの問題ではなく、官憲による規制に反対することの問題だからです。それは、根本的な対立点ではあるのでしょう。児童ポルノの単純所持規制など烏滸の沙汰と私は思います。この国が、サルコジ以前のフランスのような国情なら、単純所持規制も無問題。――そうした見解には同意しないことを明記しておきます。そもそもそれは、ありえない話と私は理解するので。


表現の自由と性の解放によって人間の権力性が克服されるわけではない。しかし、人間の権力性に対して非人間的な――あるいはあまりに人間的な――権力がオーバーロードのごとく「幼年期の終り」を告げる発想を、普通はスターリニズムと言います。本朝の内務/司法官僚にはおなじみの発想ですが。別の言い方をするなら――人間の権力性を克服するために表現の自由と性の解放があるのではない。人間の権力性を克服するためにそれらがあると考える発想に対して、当然、自由主義はその社会思想を否定します。


表現の自由と性の解放が人間の権力性を裏書きしているとして「それがどうした」。当然、表現の自由と性の解放が剥奪された世界において人間の権力性が目減りするわけではない。かつてそうであったように、いっそう昂進するでしょう。人間の権力性を掣肘するために表現の自由と性の解放を剥奪しようとする発想は、単なる勘違いとしか私には思えない。佐藤氏がそうでないことは承知ですが、「蹂躙からの自由」を実現するために、清廉な権力を立てるという発想には乗れません。といって、清廉でないことは承知、なら、ここはアジアです、ということの先の話はない。法治国家の実現は百年の孤独の先にあるでしょう。


清廉でない権力が実現する自由は唯一田沼の自由であって、それは人間の権力性の増幅装置です。しかし、その掣肘を清廉でない権力が実現するなら、その掣肘が実現する自由などどこにもない。人間の権力性の顕現が「世間様」で、その秩序に田沼の自由が加担している。そのとき、あらゆる表現者は田沼の自由に便乗しているに過ぎない。便乗の自覚がないから、表現の如何が問われない。田沼の自由に便乗することが表現ではない。だから、表現は、その如何によってしか問われない。――「どのように表現するか」によってしか。


世間様の掌から出ようとすることは、田沼の自由に便乗して単に表現することでも、ましてそれを売りさばくことでもない、どのように表現するか、という表現の如何の問題である。――そうした話には同意します。さもなくば、田沼でない権力が本朝にありえないことを承知で清川の権力を正義を実現する権力として措定し、そのうえで正義の実現を支持しながら権力それ自体を批判する、というアクロバティックを繰り広げるよりほかない。とはいえ。


tikani_nemuru_Mさんが、当事者間の合意の有無を前提に、許されるSMと許されないSM、という話をしていました。当然、そういう話ではない。合意がないからSMなので、合意がないSMは許されないと言われても困るし、それは性の否定でしかない。社会的な立場ある者にとって、問題は裁判沙汰であって、当事者合意ではない。性が私的領域の問題である、とはそういうことです。だから繁盛する商売もある(私は関係していない)。


裁判沙汰と当事者合意を区別するのが性が私的領域であることの意味です。だから「プレイ」という行為の擬似性を強調する概念が「社会的には」持ち込まれる。欲望の問題、マスターベーションの問題が一切なら、性の私的領域を主張すればそれで問題はない。当然、私たちは、欲望の問題に、マスターベーションの問題に、他人を巻き込む。なぜなら、他人の存在が私たちにおいて権力の産物である欲望を起動させるから。そのとき、性の私的領域が問われる。――それでよいのか、と。


合意がないからSMなので、合意がないSMは許されないという主張は性の否定でしかない、という見解に対して、そのような性は否定されるよりほかない、社会的に考えて――と言いうるか否か。それは、この問題の分岐点です。私は、そのようには言えない。別に自分の個別利害の問題ではない。社会的に考えてそのような性は否定されるよりほかない、と言われた嗜好者は、公的領域に広げた言論のカードを手仕舞いして、かつてそうしてきたように、私的領域へと一切を差し戻すでしょう。その差別を、暴力を、権力の再演を。社会的動物の性行為を。


公私の弁別を主張するなら、私的領域における暴力は事実上掣肘できない。人権問題なら、そもそも、その問題です。社会的に否定された性は、リベラルに合意された奴隷を求めるだけのことです。リベラルに合意された奴隷、とは語義矛盾ではない。そして、「プレイ」とは行為の擬似性を強調する対外的な概念でしかない。だから、私は、性を社会的に否定することに、同意しない。ポルノによる性の解放が世間様の秩序を裏書きしている――「それがどうした」。解放されない性は私的領域で好き放題やらかすだけです。私たちは、隣家の娘が親兄弟やその友人に強姦されていないか知ることはできない。


政治的に為される規制を、家庭の平和の問題と主張した規制賛成論者がいました。男性であるところの論者が述べるところでは、女性たちと暫定的にも融和するために法の政治的介入が必要、と。これは、不見識な人では決してないその人を批判するものではまったくないとお断りしますが――太宰治ではありませんが、家庭の平和は諸悪の根源、というのが私の感想です。私の中の家父長は、甲斐性無しの問題を法に持ち込むな、と言いましたが。自分が私的に親密な女を丸めることもできないのか、と。むろん、丸めるべきではないからこそ、その人はそもそも家父長制に対して批判的です。


私的領域も公的領域も糞もない。それは構いません。表現行為は、暫定的な男女の融和において掣肘されるものではない。法が動員されるなど、とんでもない。これが、私の立場です。そこに、私的領域と公的領域の別はない。法は、暫定的な男女の融和のために動員されるものではない。理念型としての法治国家が、家庭の平和のために法が動員される国家のことなら、そもそも私とは国家観が相違します。


政治の問題が家庭の平和の問題であること、暫定的な男女の融和の問題であること、そのことは了解します。私はその現代的な共同体主義に対して、しかし共同幻想論のラディカリズムを改めて思います。当然のことながら、家庭の平和を、暫定的な男女の融和を、諸悪の根源と見なすその原理的な意義において、表現の意義がある。


フーコーがその早すぎた晩年に構想したのは、私的領域における配慮の問題を公的領域へと拡大することでした。私的領域における配慮の問題を、彼は権力の産物としての社会的動物の性行為の臨界において見定めた。見定めることができる、とするあまりにフランス人の発想を、しかし土人の国の住人であるところの私もまた支持するものです。田沼の自由に首まで浸かったアジア唯一の「先進民主主義国」で、しかし性が解放されない限り、配慮の問題を見定めることさえ私たちには難しい。――性的表象の臨界において。それが、私の立場です。