「上の口」の汚染について


2009.6.30: 日記


佐藤亜紀様。


遅くなりました。申し訳ありません。『生活と意見』での『エロってどんなものかしら』も拝見させていただいたうえで、「誤解」について説明させていただきます。

凌辱表現が退廃的なものだとは、私は欠片ほども考えておりません。むしろ健全そのものであり、この上なく社会的です——某大某サークルの追い出し輪姦の伝統が健全そのものでこの上なく社会的であるように(山あらば登るように酔女あらばこれを犯す、でしたか)。彼らが教員になって学童生徒を指導することほど、この社会において健全で社会的なことはない。ここで論じていたのは、そうした健全さ、社会性の高さ、が犠牲にしているもの、であった筈です。


それほど健全で社会的なら自主規制されることもない。某大の学生のインターネットでの発言が自主規制されることのないように。「世間様」の秩序の表と裏の話は了解しますが、法学的規範の議論を脱臼させるために展開される現実の力学の話には乗れません。押入れの夢に対する自覚と責任と倫理観の欠如を指摘し人権問題における「加害」の認識を促すことと、官憲の弾圧を自明のものとして主張することはコインの表裏ですか。


「空気を読んで自重」することが健全な社会的行動なら、体育会の学生同様にポルノ業界も健全で社会的でしょう。「健康な人間は本を読まない、健康とは嫌なものである」と山本夏彦が言った意味での健康さが陵辱表現に備わっているのなら、大学生のレイプにただ乗りする陵辱エロゲ、という話にもなるのかも知れません、が。「sk-44氏の論の出発点も、凌辱表現がよって立つそうした健全さ、社会性の高さの差別性であった」仰る通りです。そして、私はずっと、レイプとレイプゲームの間に横たわる懸隔について指摘し続けている。人権の議論においても、表現の議論においても。政治的な議論としても。


規制賛成層や消極賛成層において、その懸隔の存在を疑わせているのは、規制反対論者のセカンドレイプを含む健全で社会的な言行である。――その指摘については了解しています。その点について、現在の規制反対論者に責任があることも。つまり――木で鼻を括ったような「二次元無罪」「表現の自由」で、レイプとレイプゲームの懸隔について証明しうると考えることがそもそも間違っている。その懸隔は、近代の達成としての諸価値であるところの現在の法学的規範を構成する自由観に基づき定義された概念のゲームであって、そのルールが包摂しない重大な問題を現在において却下するための金科玉条ではない、と。


懸隔の存在については、現在の規制反対論者の公的な言行によって証明されるよりほかない。そう思うので、私はエントリを書いています。「無知のヴェール」を被って議論されるべきことではない――当然です。しかし個別利害にのみ依拠するなら、私自身はそもそも地上のポルノがすべて消滅しても「何も困らない」ので、陵辱表現を擁護する筋合も失せる。


大麻は知りませんが、人権問題なら管理売春非合法の方がよほど問題、文字通り人権がない外国人が日本国内で性労働に従事していることが問題、それを放置して陵辱エロゲ規制とか健全な日本の世間様は冗談も大概にしろ、というのが私の議論の出発点です。人間は性的存在なので、何にだって性を見出します。それを他人様に誂えてもらう必要がわからない、というのはあまりに私個人の事情ですが。


当然、何にだって性を見出すのは「上の口」の問題です。「上の口」と健全で社会的なるポルノを一直線に結ぶことには賛成しかねます。人間は社会的動物なので、地上のポルノがすべて消滅したところで「上の口」の問題は存続し、そしていっそう糞な支配と抑圧と差別構造を形成するでしょう。それに対する掣肘と解体の行為として、俗へと返される性はあり、その政治があり、俗へと返されることによって花開く性の多様がある。


これは原理的問題なので、質の差異によっても、また審美的見地においても、付け加えるなら実態の議論としても、区別することはできません。社会思想は、このとき召還される。確かに、谷崎潤一郎は素晴らしい。彼は、時局にあって発表を事実上禁じられたひとりです。そして、現在の谷崎と『レイプレイ』を同時に守る防波堤として原理的な議論はある。そんなのにはお付き合いできない、ということなら構いません。私は私の議論を進めます。


「表象は読み解かれなければならない」それは、誰も表象を読み解かないからです。戦前、『青塚氏の話』を書いていた頃の谷崎は「タニジュン」と呼ばれて青少年読者においては異端のエロ作家扱いだったそうです。ブランドとしての谷崎を立派な作家と思っている人の多くは『青塚氏の話』を知らない。時局において軍人はその名前も知らないか、せいぜい「タニジュン」の評判しか知らない。現在の谷崎は、どこにあるか、ということです。現在の谷崎とは、青少年に親しまれる異端のエロ作家のことです。


読み解かれない表象を裁断することには賛成しません。読み解け、と言っているのではない、お国による裁断に同意する理由が「蹂躙からの自由」なら、審美的見地を検討する必要はないということです。審美的見地から擁護し難い表現なので「蹂躙からの自由」においてお国による裁断やむなし、という話には同意できません。


「蹂躙からの自由」において裁断やむなしとする主張は了解しますが、審美的見地を付け加えて規制賛成を主張するなら同意しかねる議論です。お国の官憲が糞であることについて私は再三指摘しましたが、お国の官憲や「世間様」に弾圧の主体をアウトソーシングする発想には同意できません。当然、お国の官憲や「世間様」は弾圧の理由を性犯罪被害者にアウトソーシングするからです。だから、規制論に同意しつつ議論することがそもそも「世間様」の秩序の掌です。


日本の近代文学史において、その大衆的な受容は、大衆社会の成立に伴うものとして考察に値するものであり、山本夏彦がそうしたように「健康な人間が読む本」の存在において問題を指摘することは可能ですが、また「世間様」の秩序の構成物として、「お国」の下部構造として、一刀両断することもできますが、しかし、両断する矛先が押入れの夢の無自覚と無責任と倫理観欠如に向かうことの理路がわかりかねています。表現論ではなく、人権問題なら。


先進諸国と比して人身売買を比較的放置している国が推し進める表現規制に賛成せざるをえないほど規制反対論者の健全で社会的な振舞いが目に余る、それは押入れの夢に対して無自覚で無責任で倫理観皆無だからだ、という話なら、娼婦買いに無自覚な日本の男性の存在の方がよほど人権問題だろう、というのが率直な感想です。陵辱エロゲの商業的流通と同様、売買春それ自体が人権問題、という話ではありません。やはり私たちは「無知のヴェール」を被ることはできない。


どう見ても言い逃れのきかない差別的な憎悪(=hate-ism)を表象する表現物が商業的に流通していることに対して、人権の問題として規制を主張された、というのが私の認識です。古典的な自由主義の原理にあっては、人権の問題でなければ公権力の介入は望ましくない。当然、現実の力学は違います。糞なお国も官憲も、「上の口」の問題としての男女間の相互理解の困難も。差別構造へのただ乗りを「相互理解の困難」に帰するセカンドレイプ言説も。それこそ理念型ですが、対等なら相互理解も可能です。押さえつけて黙らせておいて相互理解も糞もない。押さえつけて黙らせている「上の口」がセカンドレイプの温床としてあることも承知です。


ところで「上の口」を、自由意志の問題と私は述べたはずですが、その「自由意志の問題」が、健全で社会的なヘイティズムに汚染されている、という話なら、当然のことです。わかりきったことでしかない自由意志の虚構を主張するなら、現実の力学に対する言及とは別の文脈でなさっていただきたい、というのが私の見解です。


これは政治の問題であるからして、虚構において構築される近代の達成である諸価値のもとで綱を引き合うしかないことです。なぜなら、自由意志が虚構であり、人が己の個別利害にのみ依拠して主張するなら、セカンドレイプを抑止することは絶対にできない。言うまでもなく、現実の力学で泣きを見るのはマイノリティです。それは、今、ここでの問題としての、現実の問題です。


「抽象的ないかなる特性も持たない「人間」」に拠って立たないなら、セカンドレイプなどこの健全な社会にあってはそもそも「問題」でさえない。当然、強姦は罪ではない。「世間様」は外交問題としても表で罪と言いますが。蹂躙の問題は、抽象的な自由意志の抽象的な剥奪の問題であり、「抽象的ないかなる特性も持たない「人間」」の問題――と私は理解しています。それは、蹂躙を知らない、蹂躙を蹂躙と認識しない、ということではまったくない。


「貴方の苦痛を私は我が事として了解しうる」とは私は絶対に言えないし、そもそも思いません。ただ、抽象化された苦痛という観念の共有において、そもそも相互理解が不可能な私たちは、自己への配慮と等しい他者への配慮を学習するのでしょう。傲慢極まる言い種であることは承知です。しかし、蹂躙からの自由を求める認識は、当然、蹂躙される側のものです。糞な官憲やお国や世界システムを言挙げて「私たちは誰しも蹂躙されている」はなるほど「無知のヴェール」でしかない。というか、カマトトか責任不在の論理にして非倫理でしかない。


多くの男らしい男たちがそうであるように、蹂躙し、蹂躙されることが生きることである、という認識ならセカンドレイプなど問題にすらならない。家父長制的な「俺の/我々の女」の問題なら存在します。しかし、蹂躙し、蹂躙されることが生きることであっても、蹂躙し、蹂躙されることの抽象的な苦痛に私たちは各々の個人的な背景からコミットしうるから、自由意志の虚構は抽象的に維持され、よって強姦は罪と認識され、セカンドレイプは「問題」として存在し、多様な人々が、必ずしも個別利害にのみ依拠することなく、すなわち正義の問題として、蹂躙の問題にコミットするのだと思います。それは、「自由な社会」の達成です。――毎度恒例の能天気な左翼の与太と思われるかも知れませんが。


しかしコンサバの私がそれを言うのは――ちゃぶ台を返すなら剥き出しの現実の力学以外に何が存在するのか。仮にも現実の人間が、そこでアイロニーに陥って『BLACK LAGOON』の登場人物のようなこれ見よがしの自嘲を、あるいは草薙少佐のようなこれ見よがしの決断主義を口にすることは、それこそ、ポルノのごとき俗情と結託したサプリメントでしかない。あまりにも記号的行動です。


ちゃぶ台を返してしまえば話は早い。そもそも健全な社会にあってはセカンドレイプなど問題ではない。蹂躙し、蹂躙されることが生きることである以上傷付く心などシステムエラーでしかないのだから、心の問題は存在しない。権力的な世界の現実の力学を各々生き延びれば宜しい。しかし、そうではない。不景気な世界で泥人形が心を自覚するから、私たちは心の問題を現実の力学に織り込む。それをして「心理学化する社会」とも言いますが。


御都合主義的に申し上げるなら、このとき、政治の問題とは、健全な社会を生きる私たちが、心を自覚することの問題です。心が自覚されないなら、現実の力学しか存在しない。その心に対する無自覚を、押入れの夢として指摘しておられた、と私は認識しています。だから、心を自覚させるべきです、が、私の認識では、レイプゲームの製作者やユーザーの誰が心を自覚していなかったか。


性犯罪被害者に対するあからさまなセカンドレイプを放置すべきでなかった――その通りです。心を自覚することが、他人の傷付く心を抽象的に理解することに繋がらないなら、それは現実の力学に対するいかなる抵抗軸ともなりえない。「だから」「二次元無罪」と「表現の自由」が連呼される、という指摘については、私は同意せざるをえません。


仰る通り、表現とその自由は現実の力学の問題です。表現規制と欲望の規制の不一致を根拠に、また商業に対する批判的認識を前提に非合法化を主張しておられる、と私は認識していますが、しかしそれは当方の見解とは相違します。表現規制と欲望の規制の一致が、商業の弾圧として様々な形で顕れている。


それもまた「横たわる懸隔」の問題であるかも知れず、しかし愛好者の危惧に対して木で鼻を括ったような欲望規制不可能の原理的議論を説く気に私がなれないのは、べつだん糞なお国や官憲のせいばかりでもない。現在の政治的な議論の帰結としてもそうなるだろうと考えています。規制には同意しませんが、流通の制限には同意します。それと同時に俗情との結託を指摘することには同意しません。俗情との結託それ自体については、5月半ばに既に指摘しています。


「上の口」と「下の口」は違いますが、「上の口」と「下の口」は当然不可分です。健全な社会のヘイティズムに汚染されている「上の口」は、しかし「下の口」の問題である以上当事者にとって存在の問題です。私は、実存主義にはどうしても同意できないものです。「表現の自由」と「蹂躙からの自由」は千日手です。千日手について考察する際に自由意志の虚構を主張するなら、そもそもまるで違う話になります。抽象的な人権の問題について対話を重ねていると私は認識していました。私は人権問題にも表現論にもコミットしますが、人権問題を表現論で突破しようとする議論には、乗れません。


国会で篠山紀信の作品が云々されたそうですが、糞なお国の腰が引けているのは、ブランドとしての彼が日本を代表する写真家だからです。私は篠山紀信を素晴らしい写真家と思いますが、「世間様」の秩序の御都合主義に与することには同意しません。昔、デビューしたばかりの篠山の写真を三島由紀夫が読み解いたように、表象は読み解かれなければならない。たとえそれがどのような読み解きであっても。