自由の核心にあるもの


些か応答が遅れて申し訳ありません。更新の時間が取れませんでした。


ロクでもないけどこれしかない - 地下生活者の手遊び

まず第一に、国がマンガの美術館を作るということは何ら不自然ではない。すでにある国立の美術館に並んでいる芸術作品と同じくらいの気合で、我々はマンガを描いている。国立のマンガ美術館、やれるものならやってください、でも無理でしょう? というのが僕の考えだ。


アート全体にも言えることだが、マンガの中には政府や政治家にとって都合の悪いもの、眉をひそめるようなものがたくさんある。そういうものがほとんどだ、と言ってもいいくらいだ。国や政府が保護したり育成したりバックアップできる代物ではない。


例えば非常にエロチックなもの、あるいはくだらないもの、「くだらない」とくくられるもの、そんなマンガがすべて、国の建設した建物の、劣化を防ぐために空調が完備された部屋の本棚にズラーッと並べられていたら、さぞかし壮観だろう。「ザマーミロ!」と叫びたくなるくらい気持ちいいね。


でもすべてのマンガを保管するのか? できるのか? 現実的に考えて不可能。マンガは国がどうこうできるほどこぢんまりしたものではない。じゃあどこかで線引きするのか?


例えば赤塚不二夫先生のマンガには、担当編集者の靴下がどれほど臭いかをえんえん描いたような、本当にくっだらないのがあってそのくだらなさがいいんだけど、「この作品はチャンとしているから保管しますが、こっちはくだらないから要りません」と選別するのか?


僕はあらゆるマンガを100%同等に扱ってほしい。国のお墨付きのマンガなんて非常に気味の悪い感じがするし、もしも政治家の皆さんにとって都合のいいものばかり集められるとしたら、とても危険なことだ。


マンガは紙と鉛筆と消しゴムとペンさえあれば、お金はかからず、どんな権力とも闘える。その独立性こそ根幹のはずだ。


――これは、6月28日付朝日新聞12面『オピニオン耕論 「アニメの殿堂」考えるべきことは』で、メディア芸術総合センターの計画に対して浦沢直樹が述べた見解の抜粋です。



この本だったと思いますが(シリーズになっている)、読者から寄せられたメールに村上春樹が答える中で、イラン映画は素晴らしいと思います、私はキアロスタミが好きです、村上さんはどう思われますか、という読者の質問に対して、キアロスタミは素晴らしいけれどイランに表現の自由がないことを忘れてはいけない、と作家は述べていました。むろん、村上春樹は宗教の話をしているのではない。体制の話をしている。


表現の自由と表現の貴賎を同時に論じるべきではない。表現の貴賎を論じることも、賎しい表現の存在について指摘することも構いません。当然無問題です。しかしそれは、社会思想としての表現の自由とは別に議論していただきたい。表現の自由は、表現の貴賎とはなんら関係ないからです。


社会思想としての表現の自由とその危機を表現の貴賎を通して論じる、その時点で事実上の規制論です。社会思想としての表現の自由を危機たらしめるほど賎しい表現がある――そのような話を「ある種のポルノ」に仮託して展開しておられることがわかっていますか。そのことが、「ある種のポルノ」の製作者やユーザーを、どれほど馬鹿にした話であるかということも。馬鹿にされて致し方ない賎しい表現である、という主張は、当然、現物の中身を見て為されるものです。


商業的流通が公序良俗において問題である。改良主義的にそう問いを立てるのなら、それは表現の貴賎の問題ではない。賎しむべき表現が公序良俗において商業的流通の際ゾーニングされることも致し方なし、という話は別に構いませんが、現物を確認してさえいない「賎しむべき表現」とやらをずいぶんと馬鹿にした話です。


そして、それは自由とどのような関係が? 私は自由の話をしています。自由とその困難の話を。消去法として選択される「ロクでもにゃーけど代替案がにゃーものであって、ツールとして使い倒すもの」としての自由主義の話をtikani_nemuru_Mさんがしておられることは了解しました。「自由主義の「原理」に熱烈にコミットする気にはなれにゃー」ことについても。


公共圏の構築と「賎しむべき表現」の措定がどのような関係にあるのかわかりかねていました。「賎しむべき表現」という措定を解体するために公共圏は構築されるので、よって「同志スターリン」など論外です。当然「賎しむべき表現」を廃棄するために公共圏は構築されるのではない。そのことはわかっておられますか。「賎しむべき表現」というカテゴリー的な措定を解体するために公共圏は構築される。「賎しむべき表現」を廃棄するために公共圏は構築されるのではない。大事なことなので2回言いました。


ラディカル・フェミニズムはその当事者性において「賎しむべき表現」というカテゴリー的かつ差別的な措定を解体するために活動していたので、そのポルノ批判に「同志スターリン」の出る幕はない。スターリニズムを反転させると自由主義の核心なら、社会思想としての表現の自由をアトム・モデルに照らして了解する理路も致し方なしか、とは思いますが。「同志スターリン」とは、表象文化論ジャーゴンでは「眼差し」の問題です。「眼差し」を理念的な場所に措定することの原理的な問題と現実的な欺瞞については、散々指摘されてきたことです。「眼差し」と当事者性が、切っても切り離せないことについても。

つまり、現状認識における「ある種のポルノ」とは、「ほとんどの性犯罪の被害者と潜在的被害者が嫌悪感をもつ、あるいは脅迫と感じるであろう性暴力の娯楽的消費」、というところでしょうか。なるほど恣意的ですな。


そして


理想的対話状況における「ある種のポルノ」は個別に読み解かれるべきものですから、そもそも定義する必要などない。

ポルノとポルノならざるもの - 地下生活者の手遊び


この「ある種のポルノ」定義なら、石井輝男鈴木則文藤田敏八若松孝二神代辰巳田中登東陽一の『ザ・レイプ』も全滅です。当然、石井隆も、クリント・イーストウッドも、ジャック・ケッチャムも。むろん、彼らの作品は個別に読み解かれたうえで「やはり若松孝二は駄目だろう」とかそういう話にもなっている。若松孝二の政治的立場が反権力/反体制とか関係なく。で、「ほとんどの性犯罪の被害者と潜在的被害者」の嫌悪感に仮託して展開される自由主義批判とは何ですか、ということです。


愚行権と他者危害禁止のセットとして社会思想としての自由主義を定義するなら、表象の商業的流通は他者危害として構成されません。何度でも書きますが、現在、ポルノは公安マターです。だから公共圏の構築という話になる――公安にでしゃばらせないためにも。「蹂躙の自由」は問題です。しかし、表象の商業的流通において「蹂躙の自由」が行使される自由主義は問題である、という議論には乗れません。自由主義批判としてされるそうした議論には乗れません。


なぜなら、私は自由主義の核心を肯定することにおいて「蹂躙の自由」を問題と考えるからです。自由の核心に「蹂躙の自由」があるからです。「蹂躙の自由」において自由主義の「原理」を批判するなら、「同志スターリン」も召喚されるでしょう。表現の自由と「蹂躙の自由」はセットだからです。「蹂躙の自由」を廃棄した表現の自由、などというものは表現の自由ではない。それが自由主義の核心です。


本当にわかっておられないようですが――私たちの生まれ持った身体が、歴史的/社会的に紐付きだからこそ、表現の自由に紐が付いてはならない。自由の問題とはそういうことです。私たちが紐付きの存在であることを理由に表現の自由に付く紐を主張するなら、それは「表現の自由を脅かすもの」以外の何物でもない。


カントは200年前です。フロイトはカントを根本的に否定しましたが、私の理解では、tikani_nemuru_Mさんはフロイトに対して批判的なのでしょう。他者危害の項目に自由意志の剥奪を加えたのはカントの議論の帰結であり、そしてそのことをこそフロイトは否定しました。


『ポルノとポルノならざるもの』を拝見しましたが、性表現の有無は問題ではなく性は万人において多様である、という話は最初に明記してください。差別の議論に照準することは構いませんが、こちらとしては端から筋違いな話と判断するので。「ポルノと差別・暴力を原理的に切り離すことは可能」と私は考えないし、「人間存在にかかわることでポルノになりえないものなどはない」は単にちゃぶ台返しです。御自身で用意したちゃぶ台を御自身でひっくり返している。


この論争が始まる前、5月半ばに書いた通り、ポルノが要らない私は男女を問わずあらゆる身体とその毀損に性を見出すし、金魚鉢に欲情する者だって御真影に欲情する者だっています。わかって書いておられるのでしょうが――そのことと、欲望の喚起に特化した差別的な表象の商業的流通の問題は、全然違います。


「欲望の喚起に特化した差別的な表象の商業的流通を私は最初から問題にしていない」という話なら「よかった、「ある種のポルノ」は存在しなかったんだ」です。最初から、カテゴリーの問題でしかないのだから。カテゴリーの問題でしかない「ある種のポルノ」の定義を突き崩せば済むことです。議論としては。tikani_nemuru_Mさんが「ポルノ」の定義をあっさりと突き崩したように。


ポルノとポルノならざるものの線引きは原理的には不可能、その通りです。差別性の線引きは? ――たぶん、その話になるのでしょう。お付き合いします、が。


当然、差別性の質は問われるべきです。差別性の質を、tikani_nemuru_Mさんが「ほとんどの性犯罪の被害者と潜在的被害者」の嫌悪感に仮託して判断することが問題と私は言っています。私の理解では、ラディカル・フェミニズムは当事者性に基づく運動であり言説でした。そして、ポルノ規制という政治において、当事者性の限界が顕にもなった。しかし当事者性の問題を退けるなら「同志スターリン」の眼差しが召喚されるよりほかない。この当事者性とは、男性にとって愛する妻や恋人や娘がいる、というような話では当然ない。それは共同体の、あるいは家父長制の問題です。


商業的に流通する表象に対してその差別性の質を問うことと、性の問題であることを理由に「蹂躙の自由」を他者危害として構成しない自由主義の「原理」を批判することは、違います。そして当然のことながら、自由主義の「原理」が「蹂躙の自由」を他者危害として構成しないのはそれが性の問題だからではない。


私たちは、生まれ持った身体において歴史的/社会的に紐付きの存在だからこそ、性的な表現において紐が付いてはならない。それが、フロイトが指摘した困難を承知してなお、私たちにとっての自由意志の問題だからです。私たちが、生まれ持った身体において歴史的/社会的に紐が付いているとき、私たちは自らの身体を自らの自由意志の管理下に置こうとする。その帰結として、愚行権も、また他者危害の禁止も、自由主義において構成されました。


私が自由主義を支持するのは「ロクでもにゃーけど代替案がにゃー」からではない、そのような消極的理由ではない、まして「熱烈にコミット」と冷やかされる類のものでもない。私たちが、自らの身体を自らの自由意志の管理下に置こうとすることを、支持するからです。その自由意志の不可能をフロイトは100年前に喝破しましたが、そして私はフロイディアンですが、知ったことではない。


私たちが、自らの身体を自らの自由意志の管理下に置こうとすることは、価値あることです。再三書いている通り私はガチのサディストなので、現実の他者に対して、その剥奪をこそ欲望します。しかし、私がそれをしないのは、単に処罰されるからではない、立件されない落としどころは幾らもあるし、性犯罪者にとってこの日本の「世間様」はヘヴンです。私は、私たちが、自らの身体を自らの自由意志の管理下に置こうとすることを価値あることと思うし、人類の歴史的な達成と思うので、自らの欲望に従って他者を傷つけようとはしない。なぜなら、私にとって他者は他者だったからです。


そして、私たちが自らの身体を自らの自由意志ではない誰かの管理下に預けようとする発想を却下する私にとって、そもそも陵辱エロゲ規制論は論外です。率直に言って、自らの身体を自らの自由意志ではない誰かの管理下に預けるための口実にこれほど事欠かないのが規制論者の大半か、というのが今なお私の認識です。既成事実をもってして、自らの身体を自らの自由意志ではない誰かの管理下に預けようとする発想を支持する議論に対しては、何回でも反論します。これは、価値判断の問題です。


私たちが自らの身体を誰かの管理下に預けてしまっている既成事実において、エロゲには、自由意志の可能性がある。私はそう判断します。それさえ剥奪しようとするスターリニストには何度でも反論します。踏み込んで言うなら、エロゲは、私たちが自らの身体を誰かの管理下に預けてしまっている既成事実における、困難な自由意志の問題としてある。


その商業的流通が誰かの自由意志を踏みにじっている。その議論は可能です。しかし、エロゲを自由意志の問題と認識しない誰かが「世間様」の俗情を主張するなら、それはブラインドな議論であると私は幾度でも指摘します。その自由意志とは陵辱表現で抜くことか、と多様性に欠ける性の不自由を指摘することは容易い。だから、フロイトであり、ひいては家父長制の問題。


この程度にはねじくれている話ですが、表現の差別性に照準するべく万人における性の多様性を主張して「ポルノ」の線引きの不可能を説くtikani_nemuru_Mさんにこうした前提はありますか。表現論を退けて自由主義を批判するなら、筋悪以前に間違っていると私は言います。社会思想としての自由主義は、内心の自由という前提ある限り、表現論を退けて展開されるものではないからです。


この問題における「蹂躙の自由」とは、性的な表現において、その商業的流通において、私たちが生まれ持った身体において歴史的/社会的に紐の付いた存在であることを裏書してしまうことの自由です。しかしその自由なくして表現の自由はない。「蹂躙の自由」は問題です。しかしそれは、表現の自由を肯定するために「蹂躙の自由」について問題とされなければならない、ということであり、「蹂躙の自由」とセットとしてある表現の自由を批判することではない。そして――その裏書は本当に裏書か。繰り返しますが「表象は読み解かれなければならない」とはそのことです。


「表象は読み解かれなければならない」とは、そもそも「読み解かずに云々するべきではない」ということです。俎上に載せない限り、包丁をふるって捌くこともできない。そもそも、私たちが事物を論じ、事象について議論するのは、それが公共圏の構築に繋がるからでしょう。さもなくば、公私の弁別と愚行権と心の問題において、相互不干渉を前提する形式的な共生が結論されるし、既にされている。つまり、島宇宙化ですが、その政治的な帰結が件の葉梨議員大活躍の国会審議としてあるわけなので、やはり、議論はされなければならないし、公共圏は構築されなければならない。


カテゴリーとしての「ある種のポルノ」の存在に自由主義の陥穽を見ることは構いませんが、結局のところ表象を読み解く気はあるのですか。『ニュー・シネマ・パラダイス』に言及しておられたので伺いますが、キスシーンをポルノと判断することに対する否と、陵辱表現を「ある種のポルノ」と判断することの是はどこで折り合うのですか。「性表現の有無は問題ではない」ならそもそもポルノの問題でさえない。単に差別構造の話がしたいのなら『サザエさん』で構わないし、公序良俗はポルノの問題です。映画において、キスシーンを公序良俗に反すると当時の政府は線引きした。


政治的には「同志スターリン」の措定は、正統性として調達される権力です。「ほとんどの性犯罪の被害者と潜在的被害者」は、正統性として調達される権力ではない。だから、ラディカル・フェミニズムがそうであったように、当事者性の問題です。理念的には、公共圏は、正統性として調達される権力を解体するために構築されるものはずです。


当然、ゾーニングは、公共圏を構築しない。読み解かれる場所に引っ張り出さないままカテゴリーにおいて表象を裁断するなら、それこそ「同志スターリン」の為せる業でしょう。なお、日本におかれては「世間様」として「同志スターリン」は存続しているので、そして正統性として調達されるその権力において官憲は公序良俗の名のもとにポルノ弾圧を続けているので、強者の論理であるところの自由主義は世間様の道徳という「同志スターリン」と不利な戦いを繰り広げている――というのが私の認識です。


公権力の介入をあくまで退けるtikani_nemuru_Mさんにおいて、しかし「読み解かれる場所に引っ張り出さないままカテゴリーにおいて表象を裁断」することは変わらない。「ほとんどの性犯罪の被害者と潜在的被害者」を正統性として調達して。それは、当然政治的な権力の発動であって、だから、スターリニストを自称されているのですよね。それは、表現者の敵であり、良く言って社会学的傲慢の部類です。――この辺りの問題についてどこまでわかって言っておられるのか計りかねています。

いやいや、僕が連関させているのではにゃーのだよ。


性犯罪の暗数というのは、「性差別の深刻と「ある種のポルノの表現に内在する性差別性」がヒモで結ばれたものとしてそこにある」ことの証拠ですにゃ。


Gazing at the Celestial Blue なら、その言葉を使わずに試してみよう にあるように、性犯罪の被害者に責任をおしつける豚理屈は横行していますよにゃ。それこそ「因果や相関やエビデンス以前に、そのように連関させる議論」がいくらでもありますにゃ。


性犯罪の被害に遭うのは♀が悪いから、と「世間様」が考えているから、性犯罪の二次被害・三次被害がおこるわけですにゃ。逆にいえば、性犯罪と二次被害・三次被害の被害者は、「世間様」がそう考えているのを骨身に染みて知っている。この社会では、「性犯罪の被害に遭う♀が悪い」というのが現実のルールであることを、被害者と潜在的被害者は知っている。僕もこの社会の現実のルールを知っている。



性犯罪の被害に遭う♀が悪い、が現実のルールとして、つまり広義の権力として通用するこの社会で「ある種のポルノ」は被害者と潜在的被害者にとっていったいどのような表象たりえるか? ということなのだにゃ。


「ある種のポルノ」はヘイトスピーチを表象してしまうんでにゃーの?


「性犯罪の被害者に責任をおしつける豚理屈」を私は再三批判してきましたが何か。にもかかわらずこのことについて「ある種のポルノ」というカテゴリーの議論を退けてきたのはなぜだと思いますか。


「ある種のポルノ」を「世間様」の下部構造、あるいは上部構造とでも思っているのですか。そのような認識で表現を論じるなら退けるよりほかありません。「世間様」が「因果や相関やエビデンス以前に、そのように連関させる議論」を繰り広げていることと、たとえば『レイプレイ』という個別の表現と、どのような関係が? 「表象は読み解かれなければならない」とは「どのような関係」について考察しなければ議論は盛大に無茶な飛躍をする、ということです。そしてその飛躍の無茶を、tikani_nemuru_Mさんは「性犯罪の被害者と潜在的被害者」を持ち出すことによって、知ってか知らずか、ごまかしている。


碧猫さんは「ある種のポルノ」の製作者やユーザーに対して性犯罪の暗数の話を持ち出してはいない、と私は認識しています。そして、私は碧猫さんの関連エントリを当然拝見しており、ほぼ異論ないのですが、しかしtikani_nemuru_Mさんの主張には異論がある。一線を越えているからです。


セカンドレイプと性差別の連関という話ならその通りです。ヘイトスピーチの表象を問うために「ある種のポルノ」をカテゴリーとして措定することが問題です。つまり、それが現実の陵辱ゲームやその個別タイトルとは関係がない話であることはわかりきっている。繰り返しますが、ヘイトスピーチは公共圏の問題です。不可解なのは、公共圏の構築が問題であり、「ある種のポルノ」がヘイトスピーチを表象するなら、そして現実の陵辱ゲームやその個別タイトルに対してその問題を指摘する限り、ゾーニングと自主規制について同時に批判されて然るべきです。しかしtikani_nemuru_Mさんはゾーニングも自主規制も肯定している。


ゾーニングも自主規制も肯定して、そのうえで「「ある種のポルノ」はヘイトスピーチを表象してしまうんでにゃーの?」ですか。「ある種のポルノ」の存在そのものが問題である、と考えておられることはわかります。現実の陵辱ゲームやその個別タイトルがヘイトスピーチを表象しているのなら、公的な場所で百家争鳴があって然るべきです。ゾーニングも自主規制もとんでもない話です。そのうえで、業界がゾーニングと自主規制を選択していることの理由と、多くのユーザーがそのことに同意していることの理由がわかっておられますか。tikani_nemuru_Mさんの議論は、いわゆるダブル・バインドです。


「「ある種のポルノ」はヘイトスピーチを表象してしまうんでにゃーの?」とは、「ある種のポルノ」の製作者がヘイトスピーカーであるということですか。そうではない、という話ならそのように仰るべきだし、「無自覚なヘイトスピーカーである」と考えておられるならそう仰るべきです。構造的抑圧の問題が「同志スターリン」を措定することによってしか告発されない、と考えておられるなら、同意しかねます。


「性犯罪の暗数というのは、「性差別の深刻と「ある種のポルノの表現に内在する性差別性」がヒモで結ばれたものとしてそこにある」ことの証拠ですにゃ。」性犯罪者が司直の追及を逃れるゲームが商業的に流通しそれが娯楽的に消費されることと性犯罪の暗数を直接に連関させているのはtikani_nemuru_Mさんただひとりです。それが無茶な議論であるという話を私は5月半ばのエントリからずっと言っているのですが。


表現論に関心がなく、性表現の有無さえ問題ではないと仰るtikani_nemuru_Mさんの議論では『レイプレイ』より『羊たちの沈黙』の方がよほど全世界的に問題なのですが、誰が性犯罪の暗数とトマス・ハリスを、あるいはジョナサン・デミを、アンソニー・ホプキンスを連関させますか。あのように格好良く描かれる性犯罪者は90年代のシリアルキラーブームを先駆した表象としてあった――当時既に散々言われたことです。ブームに乗じて実在の性犯罪者の本を被害者の氏名顔写真込みで売りまくった連中を批判した者はいても、ハリスをデミをホプキンスを批判した馬鹿はいなかっただけのことで。これは最初の反論でも書いたことですが、『羊たちの沈黙』はフィクションです。


そのように連関させる議論が可能なら、そして官憲の糞を理由に規制反対を主張しさえすれば済むのなら、私は最初からこのような複雑な話はしていない。連関させることが困難な事象を平気で連関させることはやめてください。まして、その飛躍において「ほとんどの性犯罪の被害者と潜在的被害者」を持ち出すことは。規制反対論者は、連関させることの困難をテクニカルにのみ主張しているのではない。


強姦と、強姦を絵に描くこと、それを売ること、その絵で抜くことは違います。違わない、というのが「ほとんどの性犯罪の被害者と潜在的被害者」の感情としてあることは承知です。確かに、碧猫さんはじめ各方面から散々指摘されている通り、その感情を知らない、無視する、感情論として片付ける、そのような規制反対論者の態度がありました。そのことについてどう思うかと問われたなら、知らない、無視する、感情論として片付けるでは到底済まされないし、そうすべきでは断じてない、と答えます。これは、私の自由観に基づくこの問題に対するコミットに由来することです。「知らない、無視する、感情論として片付ける」の三点セットに対してtikani_nemuru_Mさんや「性犯罪の被害者と潜在的被害者」が異論を述べることは当然と思います。


しかし、強姦と、強姦を絵に描くこと、それを売ること、その絵で抜くことを「同じこと」としてしまうなら、社会思想としての自由主義は強姦以外を他者危害として構成しないし、欲望を裁きはしない、また裁くべきでもない、と答えるよりほかありません。それは「差別もある明るい社会」ではないか――その通りです。だから、強姦被害者が、強姦を絵に描くこと、それを売ること、その絵で抜くことを不用意に目にしてしまう社会であってはならない。結果、ゾーニングです。


しかし、強姦を絵に描くこと、その絵で抜くことは、誰にも止めることができない。おおっぴらに売るな、とは言えます。強姦だって、誰にも止めることはできない。しかし自由主義は他者危害を処罰の対象と規定するので、強姦は処罰されます。当然、立件されない暴力は犯罪ではない。そのとき、性犯罪の暗数と、絵に描いた強姦を売ることは「立件されない暴力」であることにおいて同じことである、という無茶な立論を自由主義は退けます。蹂躙が蹂躙であることについて指摘するよりほかない――それが私の見解です。私の立場においては、これは難しい部分で、tikani_nemuru_Mさんとその点について詰めることはできるでしょう。


浦沢直樹村上春樹も、文化の殿堂の雛壇の最上段に鎮座する作家でしょう。日本の国策は、彼らの表現を無条件で擁護することでしょう。しかし彼らは、地上の体制に対して、表現の自由をこそ主張する。そもそも表現に公権力が関与する状況をこそ憂慮する。なぜなら、表現に公権力の紐が付くことのない商業主義において、その制約と共に、彼らの表現は出発したからです。商業主義の制約なくして『MONSTER』も『20世紀少年』もなかったと浦沢直樹は再三述べています。文壇と相容れなかった村上春樹を支持したのは読者と商業主義でした。


商業が世間様であるなら、村上春樹は俗情と結託した自称文学でしかない。仮に蓮實重彦の言う通り、ノーベル賞委員会がブラインドの巣窟であるとして、私は村上春樹が自称文学とはまったく思わない。是非は措き、正真正銘の21世紀の文学です。表現に及んで自由主義を批判するとき、商業と表現の関係についてtikani_nemuru_Mさんが言及しないことの理由がわかりません。はっきり申し上げますが、愚行権も他者危害禁止も、この問題とは関係がない。自由主義をその観点からしか解かないなら、そして批判するなら、それは表現論になりえないし、表現の自由をめぐる議論にさえならない。


表現に紐は付きません。権力とは、公権力に限らない。世間様の紐も表現には付きません。俗情との結託が世間様の紐を意味するなら、紐が付かないことの価値を主張するのが、社会思想としての表現の自由です。それが二枚舌であるのなら、浦沢直樹村上春樹も二枚舌でしょう。余談ですが、作家を作家として評価するなら作品を読むべきであり(「読んでいないが作家として認める」とかありえない)、セレブリティとして論じるなら、先ず先進国国民としての自らを省みるべきではあるでしょう。