同心円の只中で


http://d.hatena.ne.jp/K416/20090627/1246070435


2009-06-27


反日を在日日本人が叫ぶのと、在外日本人が叫ぶのと、在日外国人が叫ぶのは、違います。全然違う。日の丸ウンコが許されるのは在日日本人だけ。日の丸が血に塗れていようがいまいが関係ない。日の丸が血に塗れていることを告発する筋合を持ち合わせる在日外国人が存在することも、関係ない。彼らが今なお日の丸に象徴されるものに抑圧されていることも関係ない。


――だから、その発想がそもそも糞である。それはわかります。その糞が、日の丸をウンコにすることによって表現されることも。しかし、その表現が許されるのは在日日本人だけ――というところで話はループする。出口なし。国家――革命の論理における人々を疎外する国家ではない、共同幻想の延長にある国家は健在であり続ける。


mojimojiさんとは幾度か意見を交わした。往々にして平和的に決裂したが。個人の自由を疎外する抑圧構造の存在する世界で、私や貴方の限定的な幸福が、構造的にせよ誰かを不幸にしているなら、そのとき、私の幸福とその限定性を主張することは、誰かの不幸を贖うことのない欺瞞でしかない。個人の自由を一切に先立てるmojimojiさんの倫理的な問いは、そのことを私に対しても、また誰に対しても、投げ掛け続けていた。


concentricな日本社会は外国人を居候と思っている。歴史的責務を負う人々に対しても。外国人を居候と主張しているのが在特会だが、concentricな日本社会がそれに呼応するかと言えば、在特会のような手合いはむしろ日本社会のeccentricとして弾き出される。concentricな日本社会は、eccentricを弾き出す。日本における外国人問題は、まさにここにある。その問題の中心には――この点について異論が幾らもあることは百も承知だが――日の丸がある。


ゆえに、日の丸をウンコにして自身のeccentricを主張することは、concentricな日本社会に対する根本的批判たりうるが、しかしそれは、concentricな日本社会において、自身の望むと望まざるとに関わらずeccentricとして弾き出される人々を、どのように限定的にせよ幸福にするか、という問題を解決することはない。


concentricな日本社会に対する根本的批判として、自ら望んで日本社会のeccentricとして弾き出されることを選択する人は構わない。しかしそれは在日日本人だからできることで、在日外国人がそれをするなら、彼らを居候としか思わないconcentricな日本社会においては「弾き出される」は物理的な意味を取るだろう。


だから、それが糞である。


concentric/eccentricという発想を日本社会において反転させること。「反日上等」の意味は、そこにあるだろう。そのことが「自ら望んで日本社会のeccentricとして弾き出されることを選択する」を意味してしまうこと、そしてその意味が、日本社会のconcentricにおいて在日外国人に対して無条件適用されること。


そのことをこそ糞と指して「反日上等」と主張する在日日本人があることは当然と私は思うが、対する「在日外国人のことを考えろ」が根本的批判たりえてしまうことを微妙にも思うのは、たぶん私の関わる商売が外国人問題と直交しており、しかも私は搾取側である、という事情によるものだろう。「立場を離れて」云々しない限り、その他者支援に私はコミットできない。もちろん、立場を離れて云々することはできない。


「自ら望んで日本社会のeccentricとして弾き出されることを選択する人」と「自身の望むと望まざるとに関わらずeccentricとして弾き出される人」は違う。全然違う。それが全然違うことをこそ糞と思って、両者が同じ地平に立つことを目指して、両者を全然違うものとして区別するconcentric/eccentricという発想を日本社会において反転させるべく「反日上等」を口にすることは、正しくかつ根本的な批判と、コンサバな搾取者の私は思う。


私は、concentric/eccentricという発想を日本社会において反転させることは必要と思うし、そう目指すべきと思う。その足掛かりを為しうるのが理論家やアクティヴィストであることは違いない。戦場が違う、という話と私は理解している。私の戦場は、グローバル資本主義とその末端にしかないし、行きがかりにせよ人には与えられた役割がある。近いうちに降りる予定だが。


タダ飯食らいの居候どころか、労働力として使い捨てているだけだろうと思うし、その放置が日本の婦女子の純潔を守るためならRAAの時代と変わらんな、とも私は日本社会のconcentricにライドしている現政府に対して思うが、とはいえ在日日本人であるところの私も、彼女たちの権利の代替を物心として渡しているに過ぎない。当然、それ自体が人権侵害なのだが、在特会に言わせれば、外国人に人権はないそうなので無問題。違うだろ。


この国では、外国人に差し出される席はない。そして多くの、望むと望まざるとに関わらずこの国に来た外国人は、席を期待することさえしない。彼ら/彼女らの諦念にただ乗りして、彼ら/彼女らを人間以下の労働力として使い回しているのは、そしていつでもeccentricとして弾き出し、不法入国者として法的に弾き出すのは、この国の制度と社会だ。それは先進諸国の習いではあるが、しかし人権概念がグローバルでなければならないことの理由は、こういうところにある。


「外国人に人権はない」という主張に対して私が思ったことは、人権がない外国人なんて日本には腐るほどいるので、声張り上げて主張する必要ないですよ、ということだった。正業に従事し地域社会に溶け込むことが「特権」の対象にならないなら、それは誰の得にもならない。当然、在日日本人の得にも。


資本主義なので、グローバルに肉体が売買されることは致し方ない。日本において正業でない仕事に従事する外国人に人権はない。人権の概念さえ知らない彼らや彼女たちに、その権利の代替を物心として渡すことが、結局は、彼らや彼女たちの一番の励みであったりする。見知らぬ国でそのように生きることが、人権侵害でなくて何であるか私はわからないが、少なくとも剥奪された権利の代替は物心以外のいかなるものでも贖えない。


人権とは、剥奪されるものであって、日の丸が付与してやるものではない。しかし、在日外国人の剥奪された人権の贖いを、私は法に訴えたことも日本社会に訴えたこともないしそのつもりもない。人生賭ける気がないからだ、と言われればそこまでで、降りる予定も立てている。話が逸れた。このことについては、シニシズムと言われれば弁明はしない。