力学と理念


2009.6.23: 日記


佐藤亜紀様。


整理された点については異論ありません。法規制が、されてしまうだろうことについても。私も、見通しの良い話をさせて頂きます。


いわゆる匿名者による、現実の力学を前提した、規制反対論に対する戦術指南めいた指摘に対して、当初、不可解に思っていたことがありました。ヤクザに借りを作ればいいのに、となぜ誰も言わないのか、と。当然、第一に、インターネットでそのようなサジェスチョンを行うのは単なる馬鹿であり(「で、お前はどこの誰でどの方面と話が付けられるのか」という返答が1秒で返ってくるでしょう。トークポジションが問われて当然)、第二に、それは戦術指南の体裁を纏った、「表現の自由」一本槍の規制反対論に対する、批判だからです。


現実の力学を主張するなら、誰もその外側には出られません。にもかかわらず批判は、力学からの距離を、自分自身を棚に上げることを、要請します。そうでなければポジショントークでしかない。つまり、現実の力学の主張は、同時に現実の力学に対する批判でなければならない。「戦術指南」の大半が、同時に現実の力学に対する批判であったことは確かです。


憲法に明記された「表現の自由」は、同時に「蹂躙の自由」であることがあきらかなとき、現実の力学を構成する部品であることを免れない。であるならば、現実の力学次第で「表現の自由」は時に掣肘される。「表現の自由」は、現実の力学に先立つ概念では必ずしもない。蹂躙が、現実の力学以外の何物でもなく、人権が、現実の力学に容易く左右される限りは。そして、現実の力学は、統治権力に対する命令であるところの憲法には書き込まれていない。書き込まれていないことをもって、人権が現実の力学と無縁と考えることはカマトトである――と。


ところで私は、人権概念は現実の力学に対する防波堤としてあると考えます。


現実の力学に対する批判的な認識に基づいてあえて現実の力学に投企することをシニシズムと言います。そして、誰も現実の力学に投企しないままではいられない。だから、仮にも近代が獲得してきた諸価値を前提して発言する際、その要点は、現実の力学に対する批判的な認識という当然の前提に基づいて、現実の力学に対してどのような距離を取り、暫定解にせよ、どのような解を提出するか、です。「ヤクザに借りを作ればいいのに」は、この点でも、最悪の回答です。そもそも現実の力学に対する批判的な認識がないのだと判断しますが、流石にそう「戦術指南」した人は私の観測範囲ではいなかった。


そもそも、隣の芝生に倣ってヤクザに借りを作ったところで、こと陵辱ゲームについては、法規制は押し留めることができない。それは、たぶんそうでしょう。大店の商売人にはグローバリゼーションに即した都合がある。電動コケシを製造販売していませんよ、という顔をする都合が。「徒花」であるところの業界の多くはグローバリゼーションに即する都合を持ちませんが、そして、それを「ヘヴン」と言ってしまうことには同意しませんが、しかしだからこそ国内問題という前提があった。当然、官製のヤクザは政策として大店の商売を優先します。そこには利権がある。


それが現実の力学であるなら、そしてシニシズムを退けるなら、このことに対して提出される歴史的な最適解は何か。――現実の力学と拮抗しうる表現を現実の力学に対して提出すること。そう、そちらの趣旨を受け取りました。その指摘のために、つまり金科玉条としての「表現の自由」を退けるべく、現実の力学について再三指摘しておられたことは了解しました。


現実の力学と拮抗しない表現は「表現の自由」というお題目においてしか現実の力学から守られる術はなく、そして「蹂躙の自由」であることがあきらかなとき「表現の自由」は現実の力学を構成する部品であることを免れない。当然、表現物もまた現実の力学を構成する部品である以上、他の力学と拮抗する力を計られ、要請される。


そのような、現実の力学に対する批判的な認識に同意したうえで、私自身は、そちらの見解と相違して、批判の軸をこのように置きます。――「表現の自由」をお題目たらしめてはならない。だから「蹂躙の自由」については吟味検討されなければならないが、俗情と結託したサプリメント的な記号であるところのエロがその頽廃性を理由に法規制されるような話は到底認め難い。商業が現実の力学の最たるものでしかないなら「表現の自由」はその防波堤であるべきでしょう。グローバル資本主義が現実の力学の最たるものでしかないなら、人権概念がその防波堤としてあるように。


近代の達成した諸価値を前提し社会的な合意形成を理念型にせよ目指して条件闘争しないなら、先進国を名乗る国でさえ現実の力学は容易く個人の尊厳を剥奪します。剥奪されているから、「ヘヴン」が存在する。――そうではない。少なくとも、剥奪されていることと「ヘヴン」の存在は直接に連関されません。この国が先進国を名乗る限り、「ヘヴン」を一掃すれば、個人の尊厳が剥奪されなくなるわけではないように。むろん、条件闘争は妥当です。


仰る通り、非合法化により「ヘヴン」を一掃したところで表現は死にません。しかし、現実の力学と拮抗しうる表現を要請して、つまり俗情と結託したサプリメント的なものでしかない表現を再生させるために、「ヘヴン」の一掃を主張することは、あまりにもスパルタであり、シバキ上げであり、表現第一に過ぎる発想です。そして、もちろん比喩ですが、愛のないスパルタやシバキ上げは暴力でしかない。


現実の力学に対する批判的な認識と、およそ理念型としての表現に対する要請が、同一に論じられている。むろん、その同一は、商業という最大最強の現実の力学が理念型としての表現に対する表現者の要請を抑圧してきた、その事実によって裏打ちされます。商業という最大最強の現実の力学に「表現の自由」という釉薬をふりかけて、「蹂躙の自由」を存分に行使する表現が存在する事実も。そして、現実の力学かいつだってマイノリティに対しては端的に暴力として作動してきたことも。現実の力学に対して批判的に認識するとき「ネットで嫌悪を示している女性」は敵にはなりえない。シニシズムですらない規制反対論者があることには確かに閉口します。


が、しかし。


現実の力学に対して批判的に認識すればこそ、私は、表現に対して現実の力学と拮抗しうる力を計ることをしません。要請もしません。現実の力学の最たるものが商業なら、私の理路においては、それと拮抗しうるのは表現ではなく、表現の自由です。現実の力学と拮抗して初めてお題目でなくなる、当然金科玉条ではない、人権概念としてのそれです。表現に対して、現実の力学との拮抗を求めはしません。むろん、これはあるいは表現とその可能性をナメた考え方です。


蹂躙の自由を無反省に行使する類の表現は、現実の力学次第で掣肘されて致し方なし――それは、現実の力学に対する批判的認識ですか、それとも、理念型としての表現に対する要請ですか。あるいは、人類の歴史を彩る現実の力学と拮抗しえた表現の数々を根拠とするものでしょうか。理念型は実現されないから理念型です。確かに、現実の力学と拮抗しうる表現は歴史上実現され続けてきました。それは現在、人類の財産として私たちの手元に残されている。――しかし。


「蹂躙の自由を無反省に行使する類の表現は、現実の力学次第で掣肘されて致し方なし」私は、現実の力学に対する批判的認識としてそのように考えますが、「だからこそ」現実の力学次第で表現の自由が掣肘されてはならない、と考えます。表現の自由を、現実の力学に先立てる人権概念として考える――これは正真正銘の理念型です。


エロは俗情のものであり記号です。サプリメントです。その頽廃を頽廃として存在させる社会が自由な社会であり、その頽廃が表現の母胎としてあったればこそ、自由な社会には多様な表現が咲き誇り、そして陵辱表現が咲き誇った。そう認識しています。表現が現実の力学を構成する部品なら、自由な社会に咲き誇る陵辱表現も、その自主規制とゾーニングも、現実の力学です。そのことに対する批判的な認識から、私は、頽廃を頽廃として指摘し俗情と結託したサプリメントの記号性を批判することと、国策に基づく頽廃の非合法化を支持することは、違うことと考えます。


表現の可能性に期待して非合法化による商業の排除を意図することには、同意できません。現実の力学に対する批判的な認識は、私においてはそう結論します。表現の可能性に期待することと、非合法化による商業の排除を意図することは、別のことだからです。たとえ、表現の可能性を最大最強の現実の力学としての商業が潰しているとしても。「蹂躙の自由」を存分に行使する表現が商業において表現としての可能性を失い、そして現実の力学においてはマイノリティに対する端的な暴力として作動しているとしても。


古典的であろうがなかろうが、頽廃を理由に頽廃を非合法化する自由主義は存在しません。エロが俗情との結託であると指摘すること。俗情と結託しない表現を商業の力学の外で擁護し、期待すること。法規制の必然を現実の力学に即して批判的に認識すること。それは当然妥当です。しかしそれらは、社会思想として主張されることではない。私は、現実の力学に対する批判的な認識に基づいて、社会思想から主張します。さもなくば、現実の力学への投企において、シニシズムの陥穽に落ちることは容易い。論としての規制論は、社会思想として主張されることです。


ここが「自由な社会」であり「先進国」であること。「完璧な計算で造られた楽園」であるとしても、その場所で条件闘争しないなら、現実の力学と拮抗しうる表現を現実の力学に対して提出すること以外に突破口はないでしょう――シニシズムに陥らない突破口は。歴史的にも。繰り返しますが、「ヘヴン」を一掃すれば、個人の尊厳が剥奪されなくなるわけではない。現実の力学に対して批判的に認識するなら、そうなります。当然、御承知のことと思いますが。