調停装置の在処


陵辱表現が問題とならない社会を - 地下生活者の手遊び


なるほど、了解しました。私の誤読についても。失礼致しました。性犯罪の暗数に言及する理路がそのようなものであるならば――


『フロン』を書いていた頃の岡田斗司夫が「オカマエンジン」搭載のススメを男性に説いていました。岡田氏は、当時TV番組で共演していたおすぎにそれを説かれたそうですが。要するに、束の間でも、自分が女性であると思ってみる。すると、深夜のタクシー乗車中に恐怖を感じた、と。これまで深夜タクシーに乗って恐怖を感じたことなど当然、なかったのに。職業差別をしているのではない(余談だが、私の父親はタクシードライバー)。深夜の車内という密室で見知らぬ男と乗り合わせている、しかもハンドルを握っているのは先方である、というシチュエーションに、否応なく恐怖を感じてしまった、と。


自分はこれまで深夜タクシーを利用して恐怖を感じたことなどなかったし、そのような恐怖を感じうることがあるのだということにさえ気が付かなかった、そのような想像力が自分にまったく欠けていたことを知った、たぶんにそれは男性のデフォルトであり、都市生活における男女の認識は、かくも根底的に相違する。そのことに気が付くためのオカマエンジンの搭載である。束の間でも、自分が女性であると思ってみないと、気付くどころか想像もできないことがある。そのような感情が存在することにさえ、デフォルト設定の男性は思い至らない。――そんな話を、10年近く前に岡田氏はしていました。まったく同意です。

例えば、飲み屋で知りあったヒトが面白そうな奴で、そいつの家に飲みに行ったら「ついてきたってことは、そういうつもりだったんだろがー」とか言われながら犯されて、被害者として届け出ると「オマエが誘ったんだろ」などといわれ、裁判でもさらしものになり、周囲からもいろいろな嫌がらせを受けるということが現実の危機としてある世界に住んでいたら、こういう表現には脅威を感じるでしょうにゃ。


つまり、陵辱表現が脅威となるのは、陵辱が満ちあふれている世の中に住んでいるから、ということになりますにゃ。

陵辱表現が問題なのか、性犯罪に満ちあふれた世の中が問題なのか、という問いを立てれば、もちろん性犯罪に満ちあふれた世の中が問題である、と答えますにゃ。

ここが基本。



極端な話、性犯罪が完全にゼロの世の中であれば、陵辱表現(ある種のポルノ)は「完全なるフィクション」「思考実験」となり、誰も具体的な脅威を感じることもなくなり、何の問題もにゃーわけだ。不道徳とかいう批判なんざ知ったこっちゃにゃーしな。


結論から先に申し上げますと、陵辱が満ち溢れている世の中に住んでいるから陵辱表現には需要があるし、性犯罪が完全にゼロの世の中であれば、陵辱表現に需要はありません――少なくとも、現在のような規模の需要は。この場合、陵辱表現とは、エロゲに限定されるものではまったくありません。


問題は、その需要をいかに位置付けるか、であって、性犯罪を完全にゼロにすることではないし、また、直接に性犯罪を減少させることでもありません。誤解を招きかねないので付け加えますが、この議論において、陵辱表現の問題は性犯罪の増減の問題ではない、ということです。


tikani_nemuru_Mさんもまた「その需要をいかに位置付けるか」を問題にしているのであって、そのための公共圏ということでしょう。たぶん、この点で私とtikani_nemuru_Mさんの見解は一致しうるものと思います。


id:font-daさんがブックマークコメントで指摘されているような問題がある。レイプファンタジーを女性が持ち合わせることと、現実のレイプが犯罪であることは別の問題。1年以上前の、児童ポルノをめぐる議論の際に書いたことですが、レイプファンタジーを持ち合わせる女性は必ずしも少なくない。しかし、レイプファンタジーを持ち合わせる女性において、現実のレイプは論外である。当然のことであって、ファンタジーとしてのレイプは自由意志の問題であり、現実のレイプはその侵害の問題だからです。


レイプファンタジーは、男性だけが持ち合わせるものではない、女性も持ち合わせる。ファンタジーとしてのレイプとは、男女の擬制において、暴力的な非対称関係に基づく性行為を措定する欲望のことです。それ自体が歴史的な性差別の産物であることは間違いない。暴力的な非対称関係に基づく性行為を措定する欲望が、男女の擬制の外部で展開されるとき、一部のBL表現が生まれるのでしょう、というのは余談です。


そして、暴力的な非対象関係に基づく性行為を措定する欲望は、措定に留まることなく、他者の身体を伴うとき「加害」「被害」でしかない。当然です。しかし、人は脳内の問題を現実の「加害」「被害」に敷衍して他者の自由意志を添削する。時に法廷で。インターネットで。その二次被害・三次被害によって、性犯罪被害者が泣き寝入りする構図が生まれる。それはまさにセカンドレイプで、この国の法廷は、概ね性暴力の「加害」「被害」に対して減点主義です。低く見積もろうとするという話。脳内の問題を敷衍して他者の自由意志を添削するからです。そのとき、自由意志は尊重されることがなく、同時に、尊重されない以上、自由意志の侵害は減免される。


私が、tikani_nemuru_Mさんに対して、NOとしていたのは、脳内の問題を現実の「加害」「被害」に敷衍して他者の自由意志を添削することでした。その発想は、陵辱表現愛好者に対しても、性犯罪被害者に対しても、等しく牙を剥く。性犯罪の二次被害・三次被害の温床としてある。それが「世間様」ということであり、他者の脳内の統制を指向するお国と官憲のスターリニズム、ということです。


tikani_nemuru_Mさんが、そのことに対して批判的である、ということについて――それは再三言っておられたことですが――ようやく得心がいきました。私が誤解していたことは間違いない。申し訳ありません。脳内の問題を現実の「加害」「被害」に敷衍して他者の自由意志を添削することに対して、tikani_nemuru_MさんもNOなら、この点でも見解は一致します。


男性も女性も、誰しもが、レイプファンタジーの表明によって現実の性犯罪被害に際して不利益を被ることのない社会。それは、リベラリズムにおいてはひとつの目指すべき社会でしょう。そのためには、陵辱表現に対する大規模な需要の社会的な位置付けがされなければならない。


現実の性犯罪に際して陵辱表現愛好者や性犯罪被害者の自由意志が「世間様」から添削される以上、陵辱表現に対する需要を現行の社会意識に位置付けるのでなく、個人の脳内に位置付ける――レイプファンタジーに対する需要と位置付ける――ことが望ましい。陵辱表現は、レイプファンタジーの表象であって、社会意識の表象ではない。陵辱表現に対する需要を現行の社会でどう位置付けるか。その手続きとしてある公共圏――そのような話なら、同意します。結論ありきの話であることを除けば。


それは、陵辱表現が万人にとって個人の脳内の問題でしかない、という前提において成立する話です。つまり無理です。

犯罪の被害者において、とくに恒常的な被害を受けている性犯罪の被害者において、感情の救済を他者に求めるのは当然のことですにゃ。陵辱表現というのは、単なる不快感にとどまるようなものではにゃーだろう。

被害者の感情が無視されるようであれば、被害者は自衛に走るしかにゃー。表現の自由よりも自衛を選ぶヒトがでてくるのは避けられにゃーし、責められにゃー。



性犯罪被害者が陵辱表現に対して感じることは、「それは私にとってはフィクションではない。それは私が現にされたことだ」になると考えられますにゃ。陵辱というのは極めて類型的な行為にゃんからな。

「自分が現にされたこと」が商品として流通し娯楽的に消費されている事態を考えてみれば、それが耐えがたいことであるのは容易に想像できるはずですにゃ。

陵辱表現を問題視する被害者、あるいはそうした被害者に同調する人たちがでてくるのは当然のことですよにゃ。


同意します。というか、tikani_nemuru_Mさんが書いておられることは私が書いてきたことです。「陵辱表現が問題とならない社会を」も。陵辱表現は性犯罪被害者にとっては時に蹂躙とその肯定以外の何物でもない、というのは当然のことです。だから人は「見たくないものを見ない自由」を持ち合わせている。それを猥褻として規定することにも法規制にも私は反対ですが。しかし、公共圏というのはそういう話ではない。

  • 性犯罪が蔓延する社会において、純然たるフィクションとしての陵辱表現はありえない

という主張になるわけですにゃ。性犯罪が蔓延する社会では、陵辱表現の存在が問題ということになってしまう。なぜならそれは「現に私がされたこと」だから。

そして、被害者が陵辱表現に対して抗議をするエントリを書くと、コメ欄での応答において「二次被害」が繰り返されるといううんざりした話までついてくるのだにゃ。ますますフィクションどころの話ではにゃー。

「それはフィクションではない」はいいがかりでもなんでもにゃーな。



陵辱表現がフィクションでなくなってしまうから、陵辱表現が問題となるわけだにゃ。つまり、純然たるフィクションとして陵辱表現を楽しみたいのなら、陵辱表現が純然たるフィクションになる社会になればいい。


「純然たるフィクションとして陵辱表現を楽しみたい」のではなく「フィクションをエクスキューズに陵辱を楽しみたい」から需要があるんです。少なくとも、この国における需給の規模に照らす限り。これはまったくエロゲに限った話ではない。なので、私がよく知るSMや明白な性的搾取の話をしました。だからそれが問題である――ええ。しかし、罪の自覚はエロの燃料でしかない。そして現代にあって、エクスキューズの質を、人は法的にしか問いません。


しかし、SMや明白な性的搾取と異なる、他者の身体を伴わない脳内で完結する陵辱は「それはフィクション」です。「それはフィクションではない」はいいがかりです。私はそのことを指摘するためにSMと売買春に再三言及しています。

なぜ差別がいけにゃーのか?

いろいろと理由はあるだろうけれど、表現の自由との絡みで言えば

  • 差別があると好きなことが言えない

からだにゃ。「表現の自由を脅すもの」の主張を全面的に認めたとして、それでも日本の健常者ヘテロ♂にたまたま生まれた者として、被差別マイノリティへの配慮をやめることはできにゃー。科学的事実についての話題であれば、配慮も何もにゃーだろうけれど、社会的価値が議題となったとき、被差別マイノリティへ配慮しにゃーことは僕にとって苦痛だ。

しかし

ぶっちゃけていえば、いちいち配慮するなんてメンドクセエってのも事実。言いたいことは好きなように言いたいし、思いついたネタは何でも口にしたいにゃ。表現者ならなおさらだろ。

差別がなくなれば、その関連ではなんでも好きなことがいえるのではにゃーのか?



繰り返すけど、差別の根絶はまあ無理だろ。歴史的経緯もなかったことにはできにゃーしね。しかしやわらげることはできますにゃ。

そして、

差別が弱められるほど、表現の自由は原則的に*1増大していくのではにゃーのか? こういうものは、オール・オア・ナッシングではにゃーのさ。


「私は君の意見には反対だ。しかし、君がそれを言う自由を命を賭けて守る」と言ったのはヴォルテールですが、このとき、「君がそれを言う自由を命を賭けて守る」相手は公権力に限らない――昔も今も。差別は「君がそれを言う自由」を事実上奪います。性差別は性犯罪被害者において「君がそれを言う自由」を事実上奪っている。これも、再三書いてきたことです。だから、ことに性犯罪をめぐる性差別的な言説は批判されなければならない。


言説の権力を指摘したのはフーコーでした。カントをそれに対する抵抗軸として読み換えるなら、個人が「無力な公衆の一員として自らの人格において」発言することによって、世界における政治的権力の作動を掣肘する。そのための場所として、公共圏はある。掛け値なくそれは素晴らしいと思います。同意もします。しかし、問題は、ゾーニングと公共圏論との不整合に戻ります。人は見たくないものを見ない自由を持ち合わせている。なぜか。「陵辱表現が問題とならない社会」は来ないからです。


なぜなら、人は「純然たるフィクションとして陵辱表現を楽しみたい」のではなく「フィクションをエクスキューズに陵辱を楽しみたい」からです。「陵辱表現が純然たるフィクションになる社会」を、人は望まないからです。「戦争と平和をエクスキューズに殺戮を楽しみたい」映画ファンが『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』で随喜の涙にむせんだことはよく知られています。そしてスピルバーグは「純然たるフィクション」というエクスキューズにおいて『宇宙戦争』を撮りました。最大規模の、リアルさに満ちた、殺戮を。


つまり、そこで何が重要か。「リアリティ」「リアルさ」です。リアルな殺戮を、リアルな陵辱を、フィクションをエクスキューズに人は楽しみたいのです。ツインタワー崩壊の映像を、世界中の人々は消費しまくって「リアルな殺戮」を存分に楽しんだ。あれも、戦争と平和がエクスキューズでしたか。


だから――実在の人物を扱うものでない「二次元」の陵辱表現は人権侵害でも他者危害でもない。それはフィクションです。そして、フィクションをエクスキューズに陵辱を楽しみたい人が、他者の身体を伴うことなく脳内でそれをするなら、性の問題でもある以上、他者に対して私はそのことを云々することはできません。だから――人は見たくないものを見ない自由を持ち合わせているのです。


公共圏とは、陵辱表現愛好者と性犯罪被害者をコミュニケーションにおいて結びつける場所のことです。この点について、単純に伺いたいし、お答えしていただきたいことなのですが、そのような場所を、本当にtikani_nemuru_Mさんは望んでおられますか。公共圏であるその場所において、「黙れ」に等しい差別的な発言を、私たちが随時掣肘することができたとしても。


「フィクションをエクスキューズに陵辱を楽しみたい」人々と、性犯罪被害者は、コミュニケートできますか。すべきと思いますか。できるしすべき、とお答えされるのであれば、議論は前に進みます。「フィクションをエクスキューズに陵辱を楽しみたい」人々にとって、現実の性犯罪被害者もまたエサたりうる。時に、性的な意味でも。口に出すのがDQNです。「これは討議である」をエクスキューズに。実例を、「性犯罪被害を受けたことのある方」のblogで、私たちは確認したばかりです。


現代の芸術は、カント的な公衆のためにありますが、陵辱表現は、カント的な公衆のためにあるものではない。公衆のためにあるものではない表現の自由を認めるから、表現の自由です。「紐が付かない」とはそういうことです。だから、フィクションであることが、脳内で完結する絵空事であることが、「見たくないものを見ない自由」を担保することが、必要なのです。


陵辱表現がカント的な公衆のためにある社会。それを、陵辱表現に対してではなく、社会に対して要求することは可能です。しかし、それはエロではないし、カント的な公衆のためにあるものなら陵辱表現にこのような規模の需要はない。つまり、陵辱表現は、カント的な公衆のためにあるのではなく「世間様」のためにある。その通りです。私は陵辱表現の問題はエロゲに限った話ではまったくないと思っているので。しかし――

ヘイトスピーカー表現の自由にただ乗りして差別的言辞を垂れ流し、表現の自由を脅かす。彼らの目的は差別することにあるからだにゃ。

しかし

例えば純然たるフィクションとして陵辱表現を楽しみたいヒトにとって、現実に性犯罪をおこすことも♀を脅すことも問題外と思っているヒトにとって、こうした悪質な表現の自由へのただ乗りは迷惑千万億兆京垓になるのが道理ですにゃ。



さらにいえば

表現を大切にし、表現の自由を大切にすると公言するのであれば、表現の自由を増大していくという責任があるんでにゃーの?

だったら差別の解消こそが、表現の自由を守り、増大するための最適解にならにゃーのか?



僕が差別問題へのコミットを求めるのは、それが表現の自由にとって「も」大きな利があるからだにゃ。エロゲ作者やファンにとっても、性犯罪被害者・潜在的被害者にとっても互恵的な戦略を提示しているのだにゃ。

この考え方で不利益を被るのは差別主義者だけ。

性差別が弱まり、性犯罪被害が抑えられ、二次被害・三次被害がほとんどない社会においては、陵辱ゲーはまっとうなフィクションとなり、表現するほうもやりたい放題やっていただいて構わにゃーと僕は考える。この問題をおっかけてきた女性陣がどう思うかはよくわかんにゃーので感想を聞きたいところだけど。


要するに、ですね。「純然たるフィクションとして陵辱表現を楽しみたい」のではなく「フィクションをエクスキューズに陵辱を楽しみたい」人は、差別主義者か。それが差別主義者なら、事はエロゲの問題に留まらないのであるからして、日本人男性の過半は差別主義者です。だいたいあってる気もしますが。


このように考えたとき、この問題について在特会を直截に引き合いに出しうるかと問うなら、微妙です。彼らはエクスキューズしないし、(性的な意味で)楽しむために主張してはおらず、あれは間違いなく「スピーチ」なので。「政治におけるネタとベタ」話は措きます。


寝室でひとりで性的に楽しむことと集会・結社の自由の行使は違います。前者は紛れもなく自由意志の問題です。誰もそれを侵害することはできない。誰の自由意志も侵害されてはならない。言うまでもなく、後者に公安の掣肘は付き物ですが、そして案の定在特会はノーマークらしいですが、前者が公安マターであることが何を意味するか。私の考えでは、公安御用達の「良識」「公序良俗」に基づく商業の措置としての流通の制限と公共圏論は相容れません。当然、法規制とも相容れません。


「エロゲ作者やファン」は「フィクションをエクスキューズに陵辱を楽しみたい」人を切断できません。切断することがどれだけ不誠実な棒読みの対応か知っているからです。tikani_nemuru_Mさんは、切断を示唆しておられる。たぶん、このあたりに食い違いの根底があるのだとは思いますが。「差別主義者」がヘイトスピーカーのことを指すのなら「エロゲ作者やファン」はそうではない。そして、DQNというのは往々にしてヘイトスピーカーです。


「性差別が弱まり、性犯罪被害が抑えられ、二次被害・三次被害がほとんどない社会においては、陵辱ゲーはまっとうなフィクションとなり、表現するほうもやりたい放題やっていただいて構わにゃーと僕は考える。」――陵辱ゲームが仰るような意味で「まっとうなフィクション」ではないことと、「表現するほう」が「やりたい放題」やることは、別の問題です。「表現の自由に紐が付かない」とはそういうことです。同意不同意は別として。


「表現するほう」が「やりたい放題」やった結果には責任が伴う、ということならその通りです。しかし、『風流夢譚』が『政治少年死す』が「作家の意向」からいまなお封印されていることを知っている私は、「やりたい放題やった結果には責任が伴う」という言辞の暴力性を知るので、他者に対してそれを言うことには反対です。やりたい放題やった結果に責任は伴いますが、表現の自由は大前提です。責任は、「表現するほう」の不自由によって贖われるべきものではない。


「「表現の自由を脅すもの」の主張を全面的に認めたとして、それでも日本の健常者ヘテロ♂にたまたま生まれた者として、被差別マイノリティへの配慮をやめることはできにゃー。」――「配慮やめろ」とかローチは言っていません。「配慮を他者に要請することをやめろ」と言っています。「他者への配慮を他者に要請することはやめてください」というのが私の言いたいことです。


他者への配慮は倫理的要求に留まるものです。社会をダシにしうるものではない。社会をダシにするなら、「自由な社会」の本義をめぐってハーバーマスとローチを両端とする議論が交わされるでしょう。私の理解では、ローチは、ハーバーマス的な「コミュニケーション」「合意形成」をこそ退けている。自由を守ることは他者の自由を守ることだと私は思います。その私の自由観はあくまで私自身に対する倫理的要求として発するものです。他人にそれを要求するなら、私の自由観とは反する。清く正しく美しくということではない、自分自身に対する倫理的要求は時に十字架と見分けがつかない。


そして、他人の背負う十字架に対して、なんびとたりとも干渉してはならない。それが、ethicsという言葉の、意味です。そして性と欲望と暴力に規定された現代の人間にとって自由とは、ethicsの問題としてしかありえません。「純然たるフィクションとして陵辱表現を楽しみたい」のではなく「フィクションをエクスキューズに陵辱を楽しみたい」人においては。それを在特会的な差別主義者と判断するのがtikani_nemuru_Mさんの理路なら、やはり私は、乗れません。


性は最大の権力機構です。その権力を脱構築するために「無力な公衆の一員として自らの人格において」発言する。そのための場所としてある公共圏。それは、目指すべきものだと思います。しかし、権力機構に対する自覚と反省と批判は、なんら表現の自由を掣肘しません。「紐が付かない」とは、そういうことです。「なんら表現の自由を掣肘しない」がテクニカルな法の議論に限定されるから、被抑圧者に対して沈黙を要請する現実の力学として作動している権力機構に対する自覚と反省と批判を、他者の自由であり人間の自由であり表現の自由である「自由」において、指摘する。そうした議論であると理解しています。


ならば――それが自由の問題であるならば――私のアンサーはこうです。表現において、自覚と反省と批判が、必ずしも他者を、ひいては人間を、自由にするものではない。それが、スターリニズムを経た20世紀の課題としてあったのではないか。今もなお。表現者は(というのは「表現者」という特権的な存在がいるということではなく、表現せざるをえない者はなべて、ということです)、無自覚無反省無批判で構いません。そのとき、逆鱗を含めた反応があり、その反応をもって自覚と反省と批判を他者から要求されることは致し方ない。それをソフトスターリニズムと言った人もいましたが。


本質的に自由な表現とその帰結に対する調停装置として法はあり、そして、調停者として振る舞える人は誰もいない。「同志スターリン」以外には。ハーバーマスの公共圏論とは、「同志スターリン」のいない世界における、調停装置の形成とその正当性の担保、ということでした。そして私の理解では――摩擦を含む絶えざる苛烈なコミュニケーションによってしか調停装置の正当性は担保されず、そもそも調停装置が形成されない、そう考えたハーバーマスの伝説的な実践によって彼の理論は支えられている。


これも私の理解ですが、ローチの主張は、煎じ詰めれば、調停装置の形成を価値的に行うべきではない、ということに尽きます。調停装置の正当性を価値的に担保することはとんでもない、と。だから、科学の議論が敷衍される。それは、きわめてラディカルな主張です。これは、陵辱表現に限ることなく、差別をめぐる現在の日本の状況について、論じるに値する問題設定でしょう。だから、その方向で詰めることが可能なら、少なくとも私との議論は続ける甲斐があると思います。


tikani_nemuru_Mさんがハーバーマス的な「妥当性」について検討しておられるのは、やはり、調停装置の形成を価値的に行うべきであり、調停装置の正当性は価値的に担保されるべき、と考えておられるからだと私は思っています。ローチは、調停装置の形成に際して、価値の議論をこそ退けている。ハーバーマス的な「合意形成」を退けています。これは、ガチで論じると大変面白いとは思います。現在、調停装置としてあるのは法と「常識的に考えて」と人倫です。「常識的に考えて」と人倫は既に空手形です。空手形であることを皆知っていてなおゲームする、というのはありますが。つまり再帰性です。


調停装置として法しかない事態を、望ましいと考えるか。望ましいと考えるなら、規制論を退けることはできません。表現の自由とは、法を含めた、いかなる調停装置より大きいからこそ、それに意味がある。「紐が付かない」とはそういうことです。だから、表現の自由に紐が付かないことと問題は別として、調停装置として法しかない現在の事態を問うことはありえます。本質的に自由な表現とその帰結を指し示して為される「調停のための法的規制」という主張に、表現の自由になんら関心ない者は頷くだろうから。


だからこそ、tikani_nemuru_Mさんは法以外の調停装置とその正当性の担保について――Apemanさんの表現を借りるなら――「脂汗流しながら」模索しておられる。それが私の理解です。お付き合いする甲斐のある議論と思います。というか、私も色々と誤読と誤解の屋上屋を重ねていたようで、それは私の見解と主張ではありますが、しかし誤読と誤解のうえで批判してきた点については改めてお詫びします。


表現の自由は、どのような調停よりも大きい。しかし、法以外の調停装置とその正当性の担保なくして規制論には抗えない、という現実問題はあるかも知れない。そしてそれは、価値的なものです。それをこそ退けたのが、ローチです。話は色々とややこしい。

差別は人間の自由を否定する。

そして、表現の自由とは人間の自由のことなんだにゃ。

表現の自由と人間の自由は、最終的には矛盾するわけがにゃー。

表現の自由と人間の自由が矛盾するというのは、差別主義者のゲロ臭いウソだ。

表現の自由へのただのりの主張は豚の鳴き声だ。

表現の自由のためにこそ、差別問題へのコミットが有効なのだにゃ。


表現の自由へのただのりの主張は豚の鳴き声だ」を除けば、仰る通りだと思います。私も、表現の自由と人間の自由は矛盾しないと考えます。とはいえ、その内容においては見解相違するのでしょう。議論すべき点と思います。

いいえ。

僕が問題としているのは

「ある種のポルノ」の存在そのものが問題となってしまう社会
のほうですにゃ。陵辱表現がヘイトスピーチとして機能してしまう社会を問題視しているのだにゃ。だから、性犯罪の暗数を持ち出している。


了解しました。「性犯罪の暗数を持ち出して」「陵辱表現がヘイトスピーチとして機能してしまう社会を問題視」することと、表現の自由に紐が付かないことは、両立すると私は思います。私が言っているのは、表現者も性犯罪被害者も、誰の自由意志も侵害されてはならないし、侵害すべきでない、ということです。自由意志の定かでないがゆえにその侵害もカジュアルなこの社会においてこそ。