美人投票の果てに


僕は「あなた」に要求する - 地下生活者の手遊び

これが啓蒙コミックショーだ - 地下生活者の手遊び


了解です。「「表現の自由」と女性たちの「個々の尊厳」の衝突」について、「二人称の要請」を通して調停する、ということですね。公共圏先にありき、ということでもなく、目指すべき公共圏、ということであるならば。

無論、戦えるヒトばかりではにゃー。戦うつもりのにゃーヒトもいるだろ。

今は戦うことのできにゃーヒトも、時間が経てば戦えるようになるかもしれにゃー。誇りをとりもどすために、言葉を発することが必要な場合もある。

その言葉は、「無力な公衆の一員として自らの人格において」紡ぎ出されるものとなるでしょうにゃ。その言葉が紡ぎ出されるためには、しばらくの猶予が、「見たくないものを見ない自由」を担保することが必要になってくる。

戦うことを強制することなど、誰にもできはしにゃー。だから避難場所は必要ですにゃ。公共圏におけるゾーニングの意義とはそのようなものではにゃーだろうか?



今は戦えないヒト、戦うつもりのにゃーヒトだけでなく、こどものことだって考えなければならにゃー。保護すべきものは必ずかかえているのだから、ゾーニングを撤廃するというのは無理とはいえますにゃ。「銃後」なしに戦いなんてできにゃーだろう。

何にしても、被差別者が、被害者が、声をあげることを、「無力な公衆の一員として自らの人格において」言葉が紡がれ発せられることを止めることはできにゃーのだから、そのための場所は確保していかにゃーとね。


わかりました。「見たくないものを見ない自由」の担保は「しばらくの猶予」であり「避難場所」であり「銃後」である、ということですね。原理的には担保されるべきではないが、しかし差別構造が現存する現在における、いわば段階論的な判断として。私は改良主義には基本的に同意するので、その見解は尊重したいと思います。


では。ローチとハーバーマスについて、少し補助線を。

  • ある命題が知識として確立されたと主張できるのは、それが批判の前にさらけだされ、しかもその間違いを暴露しようとする試みに対して耐える限りである(P78)
  • ある命題が知識として確立されたと主張できるのは、それを検証するために用いた方法が、それを行った人が誰それであったとか、その命題の出所がどうであったとかとは一切無関係に、同じ結果を生み出す場合にのみ限られる(P79)

つまり

  • 信仰と言論の自由を絶対に擁護するが、しかしそれは、知識の自由を絶対に否定する
「表現の自由を脅すもの」書評 - 地下生活者の手遊び

そしてまたここで「科学のゲームの参加者としての信用」などという基準がはいってきていますにゃ。論点とか観点とかいったものが、自然科学的にのみ捉えられるものとはとても思えにゃーのだが。



どうも、「意見」とか「価値」、あるいは「立場」が問題となる場面において、「知識」や「事実」を取り扱う理屈があてはめられているように思えますにゃ。普遍性にばかり目が行き、固有性が十分に考慮されていにゃーのでは? 他にも何箇所か、そうしたいささか「自然科学的マッチョ」風の議論が見られますにゃ。

「表現の自由を脅すもの」書評 - 地下生活者の手遊び


「科学は価値判断せず」というはてなブックマークのタグがあります。『表現の自由を脅すもの』において主張されている「知識の自由はない」とは、裏を返せばこのことです。


「すべての女は肉便器である」という命題が「知識として確立されたと主張できるのは、それが批判の前にさらけだされ、しかもその間違いを暴露しようとする試みに対して耐える限りである」――よって、「すべての女は肉便器である」という命題は知識として確立されない。


しかし「すべての女は肉便器である」という命題が特定の「価値」や「立場」において退けられるなら、つまり論外の女性蔑視思想と「批判の前にさらけだされ、しかもその間違いを暴露しようとする試みに対して耐える」以前に棄却されるなら、それは、表現の自由を脅かすことである。


ローチの主張とは、こういうものです。そしてもうひとつ、サブコンテクストとして補助線を引くなら、私が『表現の自由を脅すもの』を知ったのは、それはだいぶ以前のことになりますが、呉智英の紹介です。


ローチの議論は差別的な言説に対してきわめてラディカルな「観点」「立場」に立っている。いかなる命題も特定の「価値」「立場」において退けられてはならない、「すべての女は肉便器である」という命題に対してさえも、「批判の前にさらけだされ、しかもその間違いを暴露しようとする試み」なしに退けられてはならない――ということです。つまり、知識の自由をのみ否定する彼の議論は、「価値」「立場」に対する相対主義的な観点に支えられている。いや、相対主義という言葉は正しくない。ローチは「相対」するもの、「相対」させるもの、として「価値」「立場」を扱っていない。


彼は「知識」の自由を否定することにおいて、現代における「価値」「立場」の徹底した多様をこそ肯定しようとしている。そして、その徹底した多様が「チラシの裏」「差別意識は顔に出すな」ではなく、文字通りの「表現の自由」において肯定されるべきと主張しています。つまり、「チラシの裏」ではないpublishにおいて。「顔に出す」ことによって。publishにおいて徹底した多様が肯定されるべき、と。どのような差別主義的な「価値観」「立場」であろうとも、そのpublishは徹底されるべきであり、その徹底はそれ自体で肯定されるべき、と。


表現の自由を脅すもの』を一読したとき、私は「と学会」のことを、山本弘のことを連想しました。しかし現在、「と学会」も、また歴史問題に対する山本氏のスタンスも、時にWebで批判されていることを、私たちは知っています。


「知識」の自由をのみ否定する、「価値」「立場」に対する相対主義的な「観点」「立場」が、現在の差別を存続させている、そして、現在形の被抑圧者があり、泣き寝入りする者がある。その問いを、この問題に対してtikani_nemuru_Mさんは投げかけ続けておられるし、それは、おそらくはその偽科学批判にも貫かれているtikani_nemuru_Mさんの問題意識でもあるでしょう。だから、ローチの主張に全面的に同意するはずもないと思ったので、ハーバーマスとローチを両端とするならあきらかにローチ寄りの私は議論したいと思ったのです。

ここでは一人称の要請があり、それゆえに三人称の要請を避けると語られていますにゃ。それはわかる。だが大きな欠落がここにはにゃーかな?

「自由を守ることは他者の自由を守ることだ」と思うのであれば、目の前の具体的な他者に対して、その妥当性を要求しなければならにゃーだろう。そうでにゃーのなら、いったい何のために公開の場所で手間と時間つっこんで口角泡を飛ばしてんのよ? 

sk-44の自由観を「他人」に要求しろといっているんじゃにゃーんだぜ。目の前で話をしている相手である僕を信頼して僕に要求しろということであり、議論を見ている人たちを信頼して要求しろということだにゃ。

読者に対して語りかけているんだろ? だったら読者に自らの信じるところの妥当性を要求しにゃーことこそ不誠実なんでにゃーのか? そのための討議であり公共圏だろ?


「いったい何のために」tikani_nemuru_Mさんに応えたいからですよ。いや、韜晦ではなく。そして、tikani_nemuru_Mさんの問題意識は私の問題意識でもあるから。私たちは、同じことを別の「観点」「立場」から見ているのでしょう。私自身は、それが論戦でなければ、「価値」「立場」を措いて「知識」について検討したい人です。そうでなければこの件で他者危害と直結するサディズムの話などしない。「フィクションをエクスキューズに陵辱を楽しみたい人々」の話などしない。それが私にとっての誠実です。


tikani_nemuru_Mさんは「価値」について検討せよと私を含めた「あなた」に要求している。mojimojiさんのときもそうでしたが、応えたいと思うので応えます。「読者に自らの信じるところの妥当性を要求」することを私は考えないし、私にとっての誠実とはそういうことではありません。繰り返しますが、韜晦で言っているのではありません。


mojimojiさんのときもそうでしたが、私にとっての誠実はtikani_nemuru_Mさんにとっての誠実と相違するようです。そしてそれが、ハーバーマスとローチの主張の相違でもある。「価値」について検討する、「そのための討議であり公共圏」というのがハーバーマスの主張です。つまり、私たちは「観点」「立場」「個別利害」を異にするからこそ、「価値」について検討する甲斐がある、と。「観点」「立場」「個別利害」を異にする私たちが「知識」について徹底的に検討し、「知識」の自由を否定するとき、「価値」について検討する甲斐はあるか、というのがローチの主張です。何度でも書きますが、きわめてラディカルな主張です。


私は、ローチのようには言い切れない。私たちは「観点」「立場」「個別利害」を異にするからこそ、「価値」について検討する甲斐がある、と私は考えるので。だから、これまでも様々な「観点」「立場」「個別利害」を異にする人と、Webで意見を交わしてきたつもりです。往々にして、平和的に決裂するわけですが。

表現の自由の核心に「蹂躙の自由」があると主張していたのはsk-44だにゃ。十字架を踏みにじることこそ蹂躙なのではないのかにゃ?


ええ、だから千日手です。自由意志とはカント的な「見なし」の問題です。措定の問題です。十字架とは、蹂躙の中の自由意志の在り様が私たちひとりひとりにおいて異なるとき、カント的な措定に基づく問題の普遍化は可能か、ということです。「だから」現在のリベラルな社会は他者危害をのみ否としてあらゆる自由意志の在り様を肯として成立している。陵辱表現も、その愛好も。


――mojimojiさんは「それは本当に自由意志なのか」と問いかけておられた。そう問いかけることはわかります。mojimojiさんはそう問いかけるに決まっているし、それがmojimojiさんの一貫した問題意識であり、見識です。なぜmojimojiさんの話をしているかというと、この件で「意見は異なるが言っていることはわかる」とtikani_nemuru_Mさんがmojimojiさんについて言っておられたからです。


そして、私はそのmojimojiさんの問いかけを退けました。それが、現在に至る、私の見解です。「それは本当に自由意志なのか」という問いかけこそ、十字架を踏みにじっている。いや、別に踏みにじっても構いませんが、しかしそれは私たちひとりひとりにおいて在り様の異なる自由意志を事実上踏みにじっていることと同じことです。


この世界に蹂躙の様相が存在する限り、自由意志の在り様は私たちひとりひとりにおいて異なる。私たちひとりひとりにおいて異なる自由意志の在り様は、等しく尊重されるべき、というのが現在のリベラルな社会のルールです。しかし、そのリベラルな社会には、蹂躙の様相が存在する。そのとき、「それは本当に自由意志なのか」と「あなた」に対して問いかけることは、必要です――蹂躙の様相を問題とする限り。


なぜなら、蹂躙の様相の存在を前提に、私たちひとりひとりにおいて異なる自由意志の在り様が等しく尊重されるとき、私たちひとりひとりが蹂躙の様相の加担者であることを免れないから。「それは本当に自由意志なのか」という自分自身に対する問いかけなくして、蹂躙の様相が根本的に批判されることはないでしょう。ただし、それは他人が問いかけるべきことではない。それが私の「観点」であり「立場」です。


蹂躙の様相について「あなた」に問い「自らの信じるところの妥当性を要求」するその問いかけは、他者の自由意志の個別的な在り様、カント的な措定に照らしたとき「歪んだ」その在り様を踏みにじる行為でしかなく、十字架を踏みにじる「蹂躙」でしかない。――私は、mojimojiさんに対して、そのように主張しました。


千日手とは、「表現の自由」と「蹂躙からの自由」の理論的循環に尽きるものではない。蹂躙の様相が存在する世界において他者危害の外側で自由意志を「あなた」に対して問うことそれ自体が、千日手であり、理論的循環である、ということです。むろん、そのとき「価値」についての検討は脱臼します。


そして、そのように問いかけを退けるsk-44は、蹂躙の様相について問題の所在を「知識」についての検討として指摘するだけで、現存する蹂躙を変える気がない。――そう端から見られて当然と思います(tikani_nemuru_Mさんがそのように見ている、ということではありません)。しかし、現代の自由な社会にあって「観点」「立場」「個別利害」を異にする私たちが「価値」について検討する甲斐はあるか、少なくともそれは万人に対して要請されるものか、というのが、ローチの主張です。早い話が、ローチは「二人称の要請」を大きなお世話として退けている。私はローチのように鮮やかには言い切れないから、こうしてうだうだこねくりまわしています。


なぜなら――蹂躙の様相を問題とするための自由意志の検討は必要、と私は考えるから。それが、「あなた」の背負う十字架、つまり「あなた」のカント的な措定に照らして「歪んだ」自由意志のその在り様を踏みにじる類の要求でないなら。


「自由を守ることは自分の自由を守ること」でまったく構わないと私は思います。それが、蹂躙の様相と共に人間が「自由」に生きることです。当然、その括弧付の「自由」は蹂躙の様相を再生産します。そのことで泣く弱者が、マイノリティがいる。「自由を守ることは他者の自由を守ること」それを「あなた」に要求するのが正しく左翼です。ハーバーマスがそうであったように。


私は、人は自由に勝手に生きて構わないと思います。そこに他者危害が介在しない限り「自由に勝手に生きて何が悪い」と言ってまったく構わないと思います。それが、リベラルな社会の価値です。「価値」についての私の「意見」「観点」「立場」はそういうものです。しかし、人が自由に勝手に生きることが現存する歴史的差別構造と直交するとき、ケインズ美人投票に似た事態が発生する。それが再帰性の問題であり、現代における差別の問題です。


そのとき、他者危害の不在に基づく「自由に勝手に生きて何が悪い」は、フリーライダーの居直り宣言にしか見えないことがある。対するに「フリーライダーの居直り宣言」とはまったく見ない、というのが私の「意見」「観点」「立場」です。だから、これがtikani_nemuru_Mさんと私の、あるいはハーバーマス代理人とローチの代理人の、主要な論点でしょう。


部落差別に基づく結婚差別の話がはてブで話題になっていました。人は、差別はけしからんがこの社会には差別が現存する、と言う。親心を理解せよ、と。レイプはけしからんが狼男はいる、と言う。自衛が大事、と。「差別がけしからんこと、レイプがけしからんことはこの社会において自明である」。「価値」についての検討が自明性に対するエクスキューズとしてしか伴わない人間の自由と勝手の結果は、時に美人投票と見分けがつかない。そして差別構造は再生産される。それが「世間様」ということです。


「世間の常識」とは、美人投票が出す結論です。だから、差別構造の掣肘を意図する限り、「価値」についての検討は避けて通れない。――それは当然の結論です。たとえそれが表現の自由の核心にあろうとも、「蹂躙の自由」は認め難い、フリーライドは認め難い、と「あなた」に対して「価値」についての検討を「二人称の要請」として要求することも。


なぜなら、お題目として言祝がれるところの「価値の多様」は、美人投票の結果、抑圧構造の再生産へと収斂されているのが、この20年ばかりの日本における事態だからです。そのことを知ってなお、単に価値の多様を言祝ぐことが、「棒読み」以外の何であるか。むろん、ローチの議論は、そのような「棒読み」をこそ退けるために展開されている。


そして、問題は更に入り組んでいる。

あくまで【被害者にとって】「それはフィクションではない」と限定させていただきますにゃ。


――で、「それはフィクションではない」と主張する性犯罪被害者に対して「貴方の認識はおかしい」「この文章をプリントアウトして病院へ(ry」と言ってよいわけですか。言うべきでない――「配慮」とはそういうことです。性犯罪被害者の認識を云々するのがこの社会の性差別性そのものであっても。


「フィクション」か否かは性犯罪被害者が決めることではない。「フィクション」とは、ローチの用語を借りるなら「これは知識でも事実でもない」ということです。だから、「知識」「事実」の当否に対して異議申立することはできますが、そしてローチ的には「批判の前にさらけだされ、しかもその間違いを暴露しようとする試みに対して耐える」ことが要求されますが、「これは知識でも事実でもない」とタバコの裏書同様に明記されているものに対して「知識」「事実」の当否を問うことはできない。手元のセブンスターの表書/裏書から引用しますが「喫煙は、貴方にとって肺がんの原因の一つとなります。」「妊娠中の喫煙は、胎児の発育障害や早産の原因の一つとなります」は「知識」「事実」の提示です。


ややこしいですが、「知識」「事実」の提示として、あらかじめ「これは知識でも事実でもない」と銘打たれているから「フィクション」です。そして、それこそが典型的にエクスキューズである、ということです。だから、この問題についてtikani_nemuru_Mさんが「価値」についての検討を「あなた」に求めることは当然と思います。いま思えば、mojimojiさんもそのように考えたのだろうし、それもまた当然と私は思います。


「世間の常識」が存在するとき、人は自身の望むと望まざるとに関わらず、「差別的であることが自明」な「知識」「事実」を――つまり「部落出身者は今なお差別される」「狼男はざらにいる」を――自明性に対するエクスキューズと共に美人投票の結論として指し示す。結婚差別の当事者に対して、性犯罪の被害者に対して。そのとき、「価値」についての検討は、自明性に対するエクスキューズとして伴うのみです。


「世間の常識」ある限り、人間の自由と勝手は、歴史的差別構造の再生産にしか結び付かない。だから、「価値」についての検討は必要、ということになる。私は、ハーバーマスの議論をいかにもヨーロッパ人の議論と思うし、ローチの議論をいかにもアメリカ人の議論と思います。そして、美人投票が出す結論としての「世間の常識」はいかにも現代日本の事情ではあるのでしょう。


「価値」についての検討を、自明性に対するエクスキューズにしてしまうべきではない――その問題意識は、ハーバーマスもローチも同じくしている。おそらくはtikani_nemuru_Mさんと私も。ただ、問題に対する解法が異なる。どう異なるか、がこの先の議論において検討されるでしょう。


ハーバーマスとローチの議論に、現代日本の事情という変数はこのようにも入力される。端的に、言論と表現は違う、性差別的な言説と性表現は違う、と。陵辱表現はフィクションなので「すべての女は肉便器である」という「知識」の当否を主張しているのでさえない。いかなる女性も肉便器ではないし、そうあってはならないことくらい、制作者は知っている。だから、ローチ的な「知識の自由はない」にさえ、それは抵触しない。そしてローチは、「価値」についての検討を――たとえそれが「二人称の要請」としてであれ――万人に対して要請することを、退けます。


「差別的」とされる主張に対してその「知識」の当否をのみ問うべき、とするのがローチの「意見」「観点」「立場」ですが、しかしフィクションであるところの陵辱表現に対しては「知識」の当否さえ問われはしない。当然ですが。


【被害者にとって】「それはフィクションではない」という命題は、「ある命題が知識として確立されたと主張できるのは、それを検証するために用いた方法が、それを行った人が誰それであったとか、その命題の出所がどうであったとかとは一切無関係に、同じ結果を生み出す場合にのみ限られる」がゆえに「批判の前にさらけだされ、しかもその間違いを暴露しようとする試みに対して耐える限り」において「知識」として確立されたと主張できる。そして断言しますが、「知識」として確立されることはないでしょう。


ローチにおいては「それはフィクションではない」という命題が一切です。【被害者にとって】は「それを行った人が誰それであったとか、その命題の出所がどうであったとかとは一切無関係」であるがゆえに、棄却されて然るべき前提です。


だから――ラディカルな、あるいは過激な思想です。「知識」の確立に際して「価値」についての検討は必要ない、と言っているのだから。ローチは「知識」と「価値」を厳格に峻別したうえで、「知識」の確立の徹底において「価値」についての検討を退けている。なぜか。「価値」についての検討が「知識」の確立の徹底を妨げている、と考えているからでは必ずしもない。


これはローチの見解というよりはローチの議論を敷衍した私の見解ですが。「価値」についての検討が「知識」の確立と直交していることが表現の自由を――たとえば「フィクション」という――自明性に対するエクスキューズの有無へと縮減させ縮小させているからです。ローチは、その縮減と縮小について、言論の問題として『表現の自由を脅すもの』を著した。表現の自由は、自明性に対するエクスキューズの有無へと縮減され縮小されるべきものではない、と。自明性に挑戦するのが、表現の自由です。いかなる女性も肉便器ではないし、そうあってはならない、というような自明性に対して挑戦するのが。


いや、「世間様」の差別構造こそ自明であり「すべての女は肉便器である」こそ自明性だろ、それに挑戦するのが表現の自由だろ、という指摘は当然あるでしょう。そうです。だから私は美人投票の結論を「世間の常識」と表現する「現代日本の事情」という変数において、ローチの主張に全面的には頷けない。美人投票の結論が、再帰的な差別構造の再生産に与するとき、価値の多様とその徹底を言祝ぐ「立場」においても、「価値」についての検討は、必ずしも退けられるものではない。「あなた」にそれを要求することが大きなお世話であっても。


ハーバーマスもまた、言論をこそ問題としました。そのとき彼の中に「フィクション論」なるものは存在しなかったのだと私は思います。フィクションは本質的に無責任である――そのような考え方を彼はしないのでしょう。「ただ、ハーバーマスによれば美的・芸術的なものの妥当性は「誠実さ」なんだよね、といっておきたくはありますにゃ。」――「美的・芸術的なものの妥当性は「誠実さ」」というふうに私は考えません。


「美的・芸術的なものの妥当性」を要求することそれ自体がまことに真善美のヨーロッパ人だと思います。――つまり、先に述べた通り、誠実もまた人それぞれなのです。「誠実もまた人それぞれ」と考えないのが、ハーバーマスとその公共圏論です。それはそれでひとつの「観点」であり「立場」ですが。しかし「誠実もまた人それぞれ」と考えないことは、私に言わせれば、十字架を踏みにじる行為なのです。「蹂躙」です。

最後に

表現の自由へのただのりの主張は豚の鳴き声だ」なんだけれど、これは基本的に二人称の要請とご理解いただければ、と。

フリーライドは別に自由主義に限ったことではにゃーよね。身分制社会においてノーブレス・オブリージュにただ乗りしたカス貴族なんざいくらでもいたわけで。

強制されているか否かにしか興味のにゃー自律とは無縁な自称自由主義者が、ただのりを自由主義における容認事項のごとく口にするのには怖気がしますにゃ。にゃるほど地下に潜れともいいたくなる気持ちは分かる。


これもまた、tikani_nemuru_Mさんと私の「意見」「観点」「立場」における根本的な相違点なのだと思いますが。それが「表現の自由へのただのりの主張」であろうが「すべての女は肉便器である」という主張であろうが「ユダヤ人は人類社会の害虫である」という主張であろうが、「豚の鳴き声」などない、というのがローチの「意見」「観点」「立場」です。そしてそのことにこそ、ローチは「価値」を見出している。自由な社会であることの価値を。


「僕」がある「意見」「観点」「立場」を「豚の鳴き声」と形容することは当然自由です。そして、「表現の自由へのただのりの主張は豚の鳴き声だ」が「二人称の要請」であることについて退けるのがローチです。つまり、それは「価値」についての検討の「あなた」という万人に対する要請であると。「価値」についての検討は相互的に為されるものです。「知識」についての検討が相互的に為されるものであるように。


どれだけ多くのフリーライダーを抱え込めるか、どれだけ多くのフリーライダーを抱えてなお持ちこたえられるか、それが「自由な社会」の内実を証明する指標です。持ちこたえられなくなってナチス政権なら、あるいはスターリニズムなら、それは「自由な社会」に内実が伴っていなかったということです。この日本の「自由な社会」に内実は伴っていない――ええそうです。おそらくは、1920年代のドイツよりはるかに。


カス貴族のおかげで身分制社会は崩壊しました。カス貴族があろうがなかろうが歴史の必然において身分制社会は崩壊したでしょう。カス労働者のおかげで社会主義国は崩壊しました。カス労働者があろうがなかろうが歴史の必然において社会主義国は崩壊したでしょう。しかし、社会主義国を崩壊させたカス労働者の教訓は、人間はフリーライドするものである、ということです。だからエリート教育が要請される。それを、個人の自律を涵養しない政体の問題と見なすことは可能ですが、しかし、私たちは古代アテネのポリスの市民ではない。古代アテネのポリスに、表現の自由はなかった。


表現の自由」の意味とは、タダ乗りをタダ乗りと措定しないことです。「紐が付かない」含めて、それが大前提である、という話なのですが。ローチは単なる価値相対主義者か。もちろん、そうではない。表現の自由こそ「自由な社会」の内実を証明する至上の価値である、というのがローチの「意見」「観点」「立場」です。だから、「自由な社会」の名において表現の自由を脅す「意見」「観点」「立場」を彼は退ける。


タダ乗りをタダ乗りと措定するなら、「表現の自由」に意味はない。「カス国民」という概念のグロテスクさを私たちは知っているはずです。「リソースの有限性」に国家の財政は規定されます。にもかかわらず「タダ乗り」する「カス国民」を私たちは措定しません。措定してはならない、と考えているはずです。それが「自由な社会」であることの「価値」だからです。ローチも同意見なのだと思います。


「リソースの有限性」に規定されることのない「表現の自由」においてタダ乗りを措定するのは、反差別という近代の普遍的な原理において、でしょう。それが、近代的な「価値」についての検討の在り方である、しかし、ポスト近代にあって「知識」の確立において「価値」についての検討は不要、というのがローチの主張です。タダ乗りの措定は価値の毀損の措定として為されるものです。しかし、「表現の自由」の価値は、タダ乗りによって毀損されるものではない。なぜなら「タダ乗り」とそうでないものを区別しないことが、表現の自由の意味であり、価値だからです。「自由な社会」の内実を証明する至上の価値だからです。それが――ローチの主張です。


記した通り、私自身は、そのように言い切ることには些か微妙です。つまり、この国は世間の常識が、個人の自由を大義名分にした美人投票の結論が、幅を利かせすぎている。他者危害をのみ禁止する、価値の多様とその徹底を言祝ぐための表現の自由が、歴史的な差別構造の再生産へと収斂されてしまい、結果、価値の多様は心許ない。それは、ローチの望むところではありません。内実伴わない「自由な社会」とは、そのことです。だからと言って国家が介入すればよいとは全然思わないので、公共圏論には可能性があるとは思います。


ハーバーマス的なコミュニケーションとは、言うなれば、「価値」についての相互的な検討の謂です。しかしその結果は、価値の多様を縮減するものでしかない、というのが私の見解です。そして価値の多様が縮減された結果、問題は――たとえば「フィクション」という――自明性に対するエクスキューズの有無へと収斂される。それが問題、と私は考えます。tikani_nemuru_Mさんも問題と考えておられるのではないですか。私が、価値の多様を置き去りにした、美人投票に基づく、再帰的な差別構造の再生産を、問題と考えるように。


ということで、私もとりあえずはボールを投げ返しておきます。「二人称の要請」は行為遂行の問題と私は思います。「僕は「あなた」に要求する」などと言明せずとも、人は言論において要求しています――それが「二人称の要請」なら。publishはそれ自体が「僕は「あなた」に要求する」行為です。なればこそ、「僕は「あなた」に要求する」行為は、複数化したほうがよい。「価値」についての検討は、複数化を退けるものです。それをこそ、ローチは批判しました。この点、私もローチに同意です。