ある人の死をめぐって


死者に敬意を払えない酷使様 - 解決不能

なんだかやたらとid:inumash氏が突っかかるので - 解決不能

正直、disりたいだけの人は相手にしたくない - 解決不能

inumashさんをぐじぐじ非難する・その3 - 徒労の雑記


忌野清志郎は私は微妙だった。男のくせに化粧してるカマ野郎は苦手で。ジュリーやショーケンのような美丈夫ならともかく、ちんちくりんの猿のような顔にチーク引かれても。


つまり、それが忌野清志郎という人だった。私のような者に真っ先に不快感を与えるべく、彼は――四半世紀前のことだが――『い・け・な・いルージュマジック』をTVで歌い狂った。そして、彼は同時にその不快感を「愛し合ってるかい」において包摂しようとした人だった。


私の好きな――ということは代表作ばかりだが――彼の歌はいつも、オレとオマエがただ愛し合うことの困難について、コミュニケーションの問題として、歌われていた。そして、オレとオマエがただ愛し合うことをコミュニケーションにおいて妨げるのは、いつだって人類社会の歴史というコードだった。


80年代のスターだった彼は、日本語のロックをゴールデン街の情念から解き放ったひとりだった。ゴールデン街の情念とは、男らしい男と女らしい女の浪花節のこと。彼の死について一文を記した渋谷陽一もまた、日本の音楽にまつわるゴールデン街の情念を嫌ったひとりだった。概念としてのロックは、人類社会の歴史に対する現在形の観念の顕揚としてある。音楽にまつわる歴史の観念を現在形のPAを通した音において否定したのがロックだった。もちろん、人類が人類である限り、否応なく「ロックの歴史」は成立する。


人類社会の歴史というコードに対してその反転を身をもって突きつける人は多い。広義の現代アートはそういうもので、だから歴史という社会的なコードに規定された主体に不快感を与えようとアーティストは試行錯誤する。


しかし、人類社会の歴史というコードに対してその反転を身をもって突きつけたうえで、現在形の愛において一切を包摂しようとする人は、まことに少ない。「愛し合ってるかい」と。だから、彼は現代アーティストでなく、ロッカーだった。現代と現在は違う。彼は「現代」を称揚したことはなかったが、ただ現在の愛と、その現在における困難を歌った。コミュニケーションの問題として。


その現在における困難を、社会的なコードに規定された主体におけるコミュニケーションの必然として、歌い、問題意識として突きつけた。猿のような顔をした男の化粧に不快を覚える私に内在する、その社会的なコードに。――私はここで赤塚不二夫のことを思い出すが、そのことは措く。


要するに、自分の頭で考えろと彼は言った――オレとオマエがただ愛し合うために。いまこの瞬間、ただ愛し合うためには、そのことを妨げる歴史という社会的なコードを退けなければならず、だから現在形の愛のために、自分の頭で考えろと彼は言った。それが、人間だと。


こうした発想を、ロッカーのそれと呼ばずして何と呼ぶか私は知らない。そしてこのような、いまこの瞬間ただ愛し合うために歴史という社会的なコードを現在形の音とパフォーマンスにおいて退ける発想をこそ、フラワームーブメントを知らない日本の私たちはLOVE & PEACEと呼んできた。


そのとき、現在形の愛は、その困難としてある歴史という社会的なコードの一切を退け、同時に、愛し合うことにおいて一切の人間を人間として包摂する。それもまた観念だが、そのような観念を「愛し合ってるかい」の一語に、忌野清志郎は、そのロックとして、込めた。それは、素晴らしいと思う。


そんな忌野清志郎のことを私が苦手だったのは、私の前提において愛し合うことが属性問題で、その属性問題は人類社会の歴史というコードに由来するから。つまり私は現在形の愛という観念を信じないし、よってLOVE & PEACEを信じないし、そして属性問題としての愛は忌野清志郎においては愛し合うことではないので、貴方の意見は素晴らしいと思うが意見は合わない、ということになる。


他人の子よりは自分の子の方が、愛するに易しい。あるいは、『グラン・トリノ』ではないが、自分の子よりは他人の子の方が、魂を受け渡すに易しい。つまり、血統や家督を否定したところで、「自分の子」「他人の子」は、決して取るに足らない条件ではない。なので、現在形の愛とその困難をコミュニケーションの必然として歌い続けてきた彼が『パパの歌』を発表したときは認知的不協和だった。化粧して歌い狂う彼を初めて見たときと同様に。作詞は糸井重里。むろん「転向」ということではなかったろうし、彼はいつだって私にとっては認知的不協和としてあった。癌を公表したときも。良い曲であることには異存ない。


つまるところ、私にとって日本語のロックとは、矢沢永吉であり、浜田省吾だった。彼らは「愛し合ってるかい」などとは決して言わなかった。愛し合うことが歌の世界の出来事であることを、一幕のショーであることを、彼らは知っており、そのことに対する問題意識と共に、公言してもいた。ストーンズが好きだった私は、欺瞞を欺瞞としてそのことに対する問題意識と共に身をもって大観衆の前で謳い上げる人が好きだった。


忌野清志郎にとって、愛し合うことは、そうではなかった。歌うことも、音楽も、そうではなかった。こういう言い方もどうかと思うが――彼は欺瞞を歌うことがなかったし、口にすることもなかった。一切は、現在形の愛とその困難において、この地上に生きとし生けるすべての存在を包摂する観念としてあった。それを観念と言ってしまう私は、彼のことが苦手だった。それが、忌野清志郎という人であり、ロッカーだった。


何が言いたいかというと、死者への敬意という観念を忌野清志郎は信じなかったろうな、ということ。たぶん、それを「観念」と言ってしまうことにhagakurekakugoさんは抵抗あるだろうと思う。私はhagakurekakugoさんのことを保守の人と思っているので、それは当然と思う。保守とは、人類社会の歴史的なコードをコードとして尊重する立場のことなので。そのコードを、それをコードとして尊重することを、80年代に、現在形の愛において退けたのが、ロッカー忌野清志郎だった。私の立場は、ロッカーのそれを観念と言ってしまうところにある。


泉谷しげるがそのように言ったように、彼という個人の生死は第一義的な問題ではない――彼が言行一致させた観念、つまりLOVE & PEACEにおいては。然るに、その可能性と不可能性について、稀有なロッカーという個人の存在は不可欠な条件だった。LOVE & PEACEを伝統芸能として披露している人は、ゴールデン街でなく下北沢には、多い。彼という個人の死をもって、LOVE & PEACEという現在形の愛に基づく包摂の観念は、死ぬのかも知れない。


なぜなら、「現代」において現在形の愛は死者への敬意と同程度には、社会のコードと化しているから。そのコードに対して内実を込めようとするとき、人は立場を選択し、慣用句を逸脱する。hagakurekakugoさんが「同じ日本人ってーか、同じ人類だとは思いたくないです。」と書くように、忌野清志郎が、FM東京を華麗にDisったように。


なので、これはinumashさんとbuyobuyoさんの一件と関係するけれど、私は、人が社会のコードと化している任意の観念に対して内実を込めようとするとき、立場を選択し、慣用句を逸脱することに、大筋で賛成です。慣用句の逸脱を徒に咎め立てするべきではないと思っている。――たとえば観念としての「礼儀」において。


三島由紀夫が礼儀にうるさかったのは、彼がコードを信じられない人だったから。「現代」において礼儀という概念は、コードの不在を前提とする。つまりその「現代」とは、ポストモダンのこと。「礼儀というコード」の存在を前提に、観念としてのそれを主張する人は、多い。hagakurekakugoさんがそうではない、ということを私は書いている。


以前、finalventさんが、宗教を異にする他者の死に対する慣用句の濫用について指摘していた。私が思うに、慣用句とは社会のコードで、コードで用が済むこともあれば、そうでないこともある。コードで用が済まなかったのは、hagakurekakugoさんもinumashさんも同じだったと思う。inumashさんにおいて、忌野清志郎の死はコードで用が済むことではなかったし、hagakurekakugoさんにとって、死者への敬意はコードで用が済むことではなかった。こうやってなぁなぁな話にしてしまうことが私の悪癖なのは知ってる。


id:inumashさんに対して、あるいはid:kurokuragawaさんに対して申し上げておきたいのは、hagakurekakugoさんは「死者への敬意」と社会のコードとして言っているのでなく、ゆえに慣用句を逸脱した表現になった。歴史を止揚し時を止める、オレとオマエの現在形の愛が社会のコードと化してコミュニケーションをゼロに差し戻すとき(要するに「寝てしまえばあらゆる齟齬はウヤムヤ」)、社会のコードに内実を込めようとして人が立場を選択し、慣用句を逸脱することについて、忌野清志郎なら、何と言っただろう。やはり唾を吐いただろうか。時を止めたくとも止まりはしないこと、歴史を止揚したくとも決して止揚しえないこと、オレとオマエの現在形の愛におけるその困難を、コミュニケーションの問題として、彼は歌った。


愛し合うことにおいて為される包摂とは、コードに基づく社会の共同幻想としてのなぁなぁではない。抱いて抱かれて齟齬をウヤムヤにすることを、コードに基づく社会の共同幻想としてのなぁなぁと言い、よって性の不一致で別れた杉本彩は正しい。人間の必然としてのコミュニケーションの問題に対して鈍感になることを、忌野清志郎は退けた。


思えば、今回の訃報に対して「冥福を祈る」とコメントした人は、少なかった。そして、コードに基づく社会の共同幻想としてのなぁなぁは、必然的に排除とディスコミュニケーションを起動させる。その顕著な様相として「非モテ」の問題はあった。そのことに対してこそ、ロッカーはNOを言い続けてきた。


「死者への敬意」が社会のコードでしかないなら、彼はそのことにもNOと言っただろう。ところで私の考えでは、そしておそらくhagakurekakugoさんも同様と思うけど、「死者への敬意」が社会のコードであってはならない。「死者への敬意」が自明でないからこそ、それはコードであってはならない。「だから」泉谷しげるはその死を認めないと言った。


「死者への敬意」を強く言わないと、私たちはそのことさえ忘れてしまう。LOVE & PEACEと同程度には。私の観念においては、現在形の愛は、死者への敬意において起動する。むろん、それが社会のコードであってはならない。コードと化してそれが歴史を詐称しているポストモダン社会において、排除とディスコミュニケーションが、たとえば「反日」の観念において起動していることには、そしてそのことに忌野清志郎が唾を吐いただろうことには、異存ない。書いていて、ゴダールのことを思い出した。


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