玄倉川の中の人は言行不一致なのではなくて


http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20090505/p1


「私」が「私」であることにおいて論を主張せよ、と言っています――私の認識では。別の言い方をするなら、共同幻想を恃んだ自己都合の言動を一貫して戒めている。私が知る限り、3年は前からずっと。玄倉川さんにとって共同幻想は「私」が「私」であることを抑圧する現実の力学としてある。「私」が「私」であることを抑圧する共同幻想のグロテスクについて指摘し続けているのが、玄倉川の中の人です。


その根底には、「私」が「私」であることをこそ人は人として相互に尊重すべき、という信念があり、玄倉川さんの言う「人間」は、ひいては「良心」「理性」は、そのこととしてある。共同幻想を恃むことなく「私」が「私」であることにおいて人が人として相互に尊重し合うこととして。


「私」が「私」であることから逸脱して共同幻想を恃んで「私」の都合を主張することを、玄倉川さんは嫌う。「共同幻想」とは私の認識と語彙で言っているので、つまり玄倉川さんは吉本隆明とか論外と思う。


玄倉川さんにおいては、共同幻想を恃んだ自己都合の行動として、たとえば代理出産はある。ゆえに、そのことを批判するとき、「共同幻想を恃んだ自己都合の行動」であることを指摘するために「寄生出産」としてその「自己都合」性を強調して、共同幻想のオブラートを剥ぎ取る。


共同幻想のグロテスクについて指摘する玄倉川さんは、個人に対して共同幻想を恃んだ自己都合の言動を批判する。私がそれに同意するかといえば、私は玄倉川さんとは立場が違う。私は当該の「寄生出産」エントリをリアルタイムで拝見しているが、同意不同意は別にして、玄倉川さんの問題意識はわかったし、その軸はぶれていないと思ってる。

はしごたんのその後の顛末を考えると味わい深い文章だよねw で、idiotape氏を切断しているわけではないとおっしゃるわけですね。

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20090505/p1


「その後の顛末」は存じ上げていますが――私も当時「擁護」に類するエントリを書きましたが、また同様の事態が起こったらまったく同じことを書くでしょう。そして、玄倉川さんは当該のエントリで共同幻想を恃んだ自己都合の言動を批判しており、「私」が「私」であることにおいて妊娠出産にまつわる共同幻想を批判したhashigotanの側に立った。当時も今も、私と玄倉川さんの立場は違いますが、そしてその件についても同じくするものではありませんが、私は玄倉川さんらしいと思ったし、今でも思っています。


「idiotape氏を切断しているわけではない」と思います。buyobuyoさんが引用している箇所においても明白なように、玄倉川さんは共同幻想を恃んだ自己都合の言動を批判しているので「idiotape氏」の「私」を切断しているのではない。「私」を共同幻想を恃んで主張する「idiotape氏」の態度を批判している。むろん、私の考えは違ったので、当時も「idiotape氏」を批判した記憶はない。


玄倉川さんが特定の左翼的な言説に対して批判的なのは、いうなれば、正義が共同幻想の問題として玄倉川さんにおいてはあるからです。共同幻想の問題としてある正義と「私」が「私」であることの普遍性との弁別が玄倉川さんの一貫した言論的態度です。共同幻想の問題としてある正義において自己都合の言動が省みられなくなることを、「私」が「私」であることの普遍性において、都度批判している。自身に対しても。


その意味では――かく言ってよいなら、私は玄倉川さんは「中立」と思う。つまり、私が知る限り3年前からずっと、玄倉川さんは共同幻想が「私」が「私」であることを抑圧することに対して批判的なので、そのような問題意識においては左派も右派も関係ないだろう。共同幻想を恃んで自己都合の言動が省みられなくなることを戒めるその態度には、ぶれもなく、過度に倫理的な人、としか指し示しえないと私は思う。むろん「過度」とは私の基準でしかない。


別に、そのようなスタンスに同意せよという話ではない。私も立場が違う。ただ、私が知る限りにおいて、玄倉川さんは言行不一致でも御都合主義でもない、という話です。思うのですが、私も投げるし、うんこ投げ合うことは御自由なのですが、文脈くらいは読みませんか。うんこ投げ合う当人はよいのです。ただブコメを拝見すると、私は余計なことを書きたくなる。任意の論者、殊に私が長く観測している論者について誤解が生じることは避けたいと私は思うので。是々非々、というのはその先の話です――私にとっては。


ところで、私は玄倉川さんからやれ悪文だの文章が長すぎる3行にまとめろだのと事実無根の誹謗中傷をブコメで再三被ってきたのですが、他人に言うだけのことはやっているわけですかと拝見するたびいつも端正な達意の文章で、ぐうの音も出ないのでした。