human being(反省と償いと、赦し)


社会正義の臨界――光市母子殺害事件高裁判決 - 地を這う難破船


死刑は社会正義ではありえない - モジモジ君のブログ。みたいな。


4月25日付の記事に対して、大変真摯で丁寧な論考としての言及を頂きました。有難うございます。私の見解を、改めて言及に対応して述べたく思います。


死刑を求めなくてよい社会を - キリンが逆立ちしたピアス


2008-05-09

 当該事件の被告人が快楽殺人者であるかどうかも、争いうるだろう。ただし、ここではとりあえず、そうである、としておく。


私の文章は基本的にレトリカルかつ両義的です。そのうえで、ブックマークコメントにおいても誤解されていた方があったようなので、記しますが、私はむろん、当該事件の被告人が快楽殺人者であるとは文章においても断定していませんし、また考えてもいません。


雑駁に約するなら。犯行時童貞であった当該事件の被告人は、少年時、父親の暴力のもとにあってきわめて親密な関係にあった自身の母親の自殺死体を発見した際、母親の股間から滴る糞尿とその臭いに性的な興奮を覚え、犯行の際、被告はそれを性的な興奮の契機として被害者の死姦に及んだ。それが死姦行為についての弁護団の主張です。弁護団の示す通り「母胎回帰願望」は介在したでしょう、しかしそれは犯行における性的なファクターの関与を免除するものではない。


私は、知的かつ経験的に、としか言いようのないことですが、そのことが幾らもありうることと判断します。そして、被告が知識も経験もない幼い人間であるなら、そのような話を創作することが難しいとも(ゆえに「弁護団の創作」という懐疑が示されたのでしょう)。むろん、被告の自意識の肥大は察しうることでもあり、それが被告にとっての主観的な内的真実であるか、誰にも計りかねるところではあります。そして。


被告の、弁護団の、主張する通りであったとき、被告がそのことに対する「反省」を問われて、困惑するだろうことは、私にとっては了解しうることです。ゆえに快楽殺人者の事例を例示しました。被告を野に放ったらいずれ再犯する。私はそのようなことを言っているのではないし、考えているのでもない。個人的な印象としてそれほど悪質なタマとも思わない。ただ、被告が内心において「反省」の何たるかを了解することは甚だ困難だろう、ということです。それは必ずしも被告の非でも責でもない。「償い」という「反省」の具体化を傍から強制されるよりは自身の死を選ぶ者は多い、そういうことです。


私は、被告の動機に関する弁護団の主張を、真偽は措き、少なくとも荒唐無稽とはまったく思いません。むろん、それは具体的な事実関係と証拠に即して検討されるべきであり、広島高裁は弁護側の主張をほぼ全面的に退けました。そして、いずれにせよ行為とその結果は変わりません。犯行に性的なファクターが、換言するなら被告の「劣情」が関与したことも。被告が自身の「劣情」において見ず知らずの他人に悲劇をもたらしたことも。

とするならば。意外に思うかもしれないが、僕はこのsk-44氏の論理に賛成する。賛成した上で、死刑廃止を主張する。


 つまり、こういうことだ。sk-44氏の論理が死刑存置を導くのは、「快楽殺人者は根本的に反省しない」という前提ゆえ、である。これは、加害者の可能性の断念である。そして、この断念は、決して再審されない。そういう類の断念である。


「加害者の可能性の断念」とは、私の論理においては、「加害者の反省の可能性の断念」ということです。べつだん快楽殺人者にかかわらず、加害者の「反省」の可能性について断念しているか、と問うなら、私は断念しています。原理的な認識として。というのは、内心における「反省」の有無を傍から問うことに私は意味を見出せないからです。


少なくとも、極刑としての死刑あるいは終身刑ある限りにおいて、法とは形式の問題です。形式の問題としての犯罪行為の加害当事者に対する処理を、私たちの社会は求めている、ということです。外形的な行為として形式化された反省を「償い」と言います。その外形的な行為としての形式に、現在の日本社会は死刑を含む、ゆえに「死をもって(罪を)償う」という認識が広範に所在する。そういうことです。

sk-44氏の死刑存置論は、私たちがその加害者の可能性を断念することこそが、死刑存置論への同意を支持するという、その論理構造を正しく捉えているという意味で、まったく正しい。僕はそのように考える。そして、僕はこの断念に同意しないがからこそ、死刑存置に賛成することはないのである。


「まったく正しい」かはわかりませんけれども、mojimojiさんの理解は、その通りです。そして、私はその断念ゆえに、死刑存置には賛成しないのです。翻しているのではありません。幾度も折に触れ記してきましたが、改めて、死刑存置に対する私の見解を記します。その前に。

その上で、本村氏の次の発言を、賛意を示しつつ引用している。

 ゆえに。本村洋氏の以下の言葉は必ずしも不適当ではない。「不穏当」ではあるかも知れない。

本村  胸を張って彼には死刑を受け入れてもらいたい。胸を張れるまでには相当苦悩を重ね、自らの死を乗り越えて反省しなければいけないと思う。そうした境地に達して自らの命をもって堂々と罪を償ってほしいと思う。できればそういった姿を私たち社会が知れるような死刑制度であってもらいたいと思います。
<光母子殺害>【本村洋さん会見詳細】<3止>被告の反省文は「生涯開封しない」(毎日新聞) - Yahoo!ニュース*1


 以上の見解に、僕は同意しない。


mojimojiさんは私の当該記事についてよく読んでくださっていると思います。「快楽殺人者の反省不可能性」についてはその通りです。しかし。「慈悲殺としての死刑」については。私は「慈悲殺としての死刑」を説いたことも是としたこともまったくありません。「慈悲殺としての死刑」などという発想は、唾棄すべきと思っています。むろん、mojimojiさんが、それを批判すべき発想としていることはわかります。お断りしますが、死が救いであるなどと私は記したことも考えたこともない。


私は、本村洋氏の当該発言に、まったく同意しません。「賛意を示し」た覚えはまったくありません。幾らか肯定的に記述すると、同意ないし賛意を意味として指し示すのでしょうか。私は一貫して文章におけるレトリックの人なので、そのようには考えません。私の文章は、mojimojiさんのそれとは相違して、自身の是非判断を曖昧にして話を進めることが往々あります。私の認識が両義的であることに加えて、方法論的なことでもあるので、自身の瑕疵とも思いませんし、また他人の誤読とも思いません。


「必ずしも不適当ではない」とは。被害者の被害者性に依存して好き勝手を言っているのではない、本村氏の一連の活動に「賛意を示す」多くの人が違和感を覚えるだろう本村氏の当該発言には、事件以来の9年間を経て形成されただろう本村氏の死生観と人間観が反映されている、それが任意の、日本の刑事司法において決定的たりうる死刑判決に際して公式に言明されている以上、単に眉を顰めて過ごすべきことではない、検討すべき重大な問題事項である、ということです。


窺えた論調における傾向の問題として、ということですが、被告は論外であるし弁護団も駄目だったけれども本村氏の言っていることも時折アレですね、という片付け方を私は好きません。他なる認識と思考についてはまず把握すべく志向して然るものです。それが、あるいは誤解や誤読の部類を結果しても。むろん、私もよく失敗をやります。先日、窘められました。


「私は、自身の死に直面しての「要は、勇気がないんでしょ?」を、是非以前に残酷と、そしてグロテスクと考えるけれども、それは私の見解である。」「人間の尊厳。死を対価として指し示されるそれを、私は、ひどく残酷と思う。」と私は先の記事において記しました。「残酷」「グロテスク」と私は肯定して記しているのではない。


『突撃』において示されたキューブリックの思想たる作家性に私は同意します。「是非以前に」と書きましたが、是非を問うなら、むろん私は非です。キューブリックも、愚かなことと考えていたことでしょう。そもそも、私の一連の議論は本村氏の認識と思考とはまったく接合しないはずです。光市母子殺害事件とその審理について、また死刑問題についても、私は幾度も言及しています。


端的に言うなら。当該発言に示された本村氏の要求を、被告は「死ぬまで」理解も了解もしないでしょう。そしてそれは、倫理的には被告の責ではあるが、しかし被告の非ではない。私は、本村氏の要求は単純に非論理的と思うのみです。殺されるなら反省しても意味がない。むろん殺すのは本村氏でなく国家ですが。


私が理念型として提示した「快楽殺人者の論理」とは、不可能な反省より殺されることを選択する、ということです。「彼ら」(死刑囚全員が、ということではむろんない)が提示するのは反省の不可能性である、ということです。反省の不可能性は当然の認識的前提として在る、ということです。そして。殺すのは国家でなく、また被害者遺族でもなく、任意の社会である。そのことが明確化した決定的な転回点として、光市母子殺害事件の一連の審理とその結果はあった、裁判員制度の実施を控えて、ということです。


http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage286.htm


なお。カービン銃ギャング事件の主犯として、二審の法廷において代理人を立てることなく自らを弁護し、一審死刑判決破棄のうえ無期となった大津健一氏が、仮釈放後に著した書籍において記した通り、被害者遺族に殺されるなら納得もするが、国家に殺されることには納得しない、という論理も所在します。


氏の著作に拠るなら。一審の死刑判決を破棄した高裁の裁判長は、事件の悪質性については被告の弁明を退けて認定したうえ、法廷において自らを自らの弁護人として死刑を回避するべく八面六臂奮迅した被告人が、その意志知力行動力において今後社会に資する存在たりうることを、死刑回避の理由として示したそうです。


大津氏は社会の名において救われ、国家から殺されずに済んだ。高裁の裁判長の判断と言葉に感激した大津氏は、裁判長との約束を守って、仮釈放後の現在企業において活躍している、当の裁判長氏に感謝の言葉を述べるため挨拶にも伺い喜ばれたと、1980年の下記の著作にはあります。大津氏の現在についてはわからないし、詮索するべきことではないでしょう。


さらばわが友―実録・大物死刑囚たち (1980年)

さらばわが友―実録・大物死刑囚たち (1980年)


余談であるけれども、大津氏の事件について検索していたところ、内藤陽介氏のブログ記事がヒットした。以下に示されているくだりについては、まったくその通りと、上記回想録を読んだ「10代の頃」、首が折れるほど頷きました。

 10代の頃、カービン銃ギャング事件の主犯で元死刑囚(2審で無期懲役減刑)の大津健一の回想録を読んだことがありますが、その中で印象に残っているのが「強盗・強姦バカがする」といった発言です。大津によると、強盗なり強姦なりをして逮捕されて刑務所に入ってくる連中の大半は、自分たちの犯した罪に対する刑の重さを知らず、判決を聞いてビックリするのだそうです。そこから、大津は小学校の頃から、殺人を犯せば懲役X年、強盗はX年、放火はX年などと繰り返して教えていれば、自然と抑止効果があがるのではないかと提案しています。

郵便学者・内藤陽介のブログ 2006年09月13日


殺されるなら反省しても意味がない。換言するなら、反省とは殺されないためには示すべき「形式的行為」ではあるが、では内心における反省とは何なのか。わからず困惑する人は幾らもあるということです。私はそんなのは当たり前のことと思っている。だから。「償い」という形式的行為としての死刑を自ら求める者が在る、それは論理的帰結である、しかしながら、「償い」という形式的行為としての死刑を自ら求める者が内心において「反省」しているか、そもそも問うことが無意味である、問うことの無意味もまた論理的帰結である、ということです。


「償い」という形式的行為としての死刑に対して「堂々と」とか注文することは非論理的であるがゆえに無理な注文です。むろん公に注文する自由も、また本村氏にはその「権利」もありますが。非論理的である、とは、いわば刑罰を形式とする死刑制度の存在に対する否定であるということです。本村氏は死刑制度とその機能と価値を自ずから知らず否定している。


font-daさんの記事から。

 私は、どちらかというとmojimojiさんに賛同する。sk-44さんの死に対するロマンチシズムには共感できないところもある。加害者が「死に直面して罪の大きさを知る」というのは、「そうあったらいいなあ」とは思うがあまり期待しない。死の恐怖に取り憑かれ、人を殺してしまった自分の運命を呪い、「こんなはずではなかった」と被害者のことなど一ミリを省みることなく、処刑される加害者もいることだろう。そこに改悛や悟りはない。


私は、死に対するロマンチシズムを記しているのではないし、本村氏も同様です。先の記事において記した「本村氏の死生観」を言い換えるなら、氏は死を前提して考えてはいない、生を前提して考えているからこそ、ああした発言へと結論される。「加害者が「死に直面して罪の大きさを知る」」ことなど私は望んでも記してもいない。


氏がかつての自身の著作において記していることなので、はっきり書きましょう。本村氏は、自身の配偶者が、死と引き換えに被告の意を、すなわち「劣情」を拒否したことを、配偶者の尊厳の証明としている。同じことを、氏は被告に対して求めている。尊厳の証明として。


これは、単なる応報論ではない。mojimojiさんが、あるいはfont-daさんがそうであるとは私は考えないですが、本村氏が単なる応報論者であるとする見解に対して、私は異論なしとしません。「両義的」とは、そのことです。私が、「本村氏の一個の認識と思考」に対して、敬意を措き、どのように考えるか。倫理以前に、論理的に無理筋です。


反省とは生存を前提する概念です。生存の拒否は反省の拒否と同義です。そもそもが、死刑確定から執行まで幾年もかかる現状が前提であるからそのような転倒した発想が生まれるのであって、死刑確定した以上反省する猶予など与えぬよう、中国のように、ほぼ確定即執行することが、論理的には妥当です。――悪質な冗談? この逆説が、日本における死刑制度の現実です。


ことに外部との交信において、確定死刑囚の権利が著しく制限されるのはなぜか。再審請求の余地すらなく死刑確定し執行を待つのみの彼らは、既に法的には死人も同然であるからです。日本国にあっては。――だから。私は、極刑としての死刑存置終身刑設置も、論理的には不当と考えます。ならばなぜ死刑存置論を前提するか。必ずしも論理の問題ではないと考えているからです。ゆえに、先の記事をあのように徹底してレトリカルに記しました。


なお。コストの問題である、ということではありません。


日本における死刑存廃の論点とは必ずしも体制と国家権力の論理の問題ではない。換言するなら、任意の社会における統治と秩序維持とその資源のバランスと、「治世」に牽強付会しての国家権力の専横を論点とするものでは必ずしもない。――光市母子殺害事件の9年間に及ぶ審理とそれに対する反響、最高裁判断に象徴される日本の刑事司法の応答、一連の事態においてあきらかにされたのは、そのことでした。


裁判員制度実施を控えての本高裁判決が、日本の刑事司法史上の、否、戦後日本社会の、ひとつの決定的な転回点となったこと、それは確かです。私は、こと死刑問題については、「治世」のため「任意の社会の規範に準じる」として終了する議論には与しない。


繰り返しますが、反省とは生存を前提する概念であり、生存の拒否は反省の拒否と同義です。そして、生存の拒否において反省を拒否する「権利」は誰にも所在します、が、それが社会正義として市民社会において編成されることは是か非か。mojimojiさんは。

 まとめる。以上検討したように、死刑存置論を支えるものは、人間性への断念と償いの不可能性からの逃避である。僕は、この二つの前提を支持しないし、この二つの前提の上に「社会正義」を語るなどということも認めない。ゆえに、死刑存置論にも賛成しない。


と記しておられる。font-daさんは。

被害者が、そうやって加害者が苦しんで死ぬことを望むことを、私は否定しない。だが、被害者でない人が望むことは、否定する。「それはあなたの他人を苦しめたいというサディズムにすぎない」くらいは言う。「うらみ」を持つことは、被害者の持つ特権である。


と記しておられる。私は。


近代市民社会における死刑とは、生存の拒否において反省を拒否する「権利」を他者に対して行使することを、論理的に保障する精度であることを意味します。ゆえに、被害者遺族がその「権利」を行使することは、論理的に保障される。前提の話を改めて述べます。


メロウ1993 - 地を這う難破船


上記記事の前半部において記した通り、私は、国家が国民を殺すことを、原理的に肯定しません。選挙権すらない、すなわち市民としての自身の生まれ育った国家に対する関与において限定される未成年者を国家が殺すことは、なおのこと肯定しません(以前も記したことですが、この点において私は瀬尾准教授と意見をほぼ同じくする。更に付け加えるなら、瀬尾氏の「0,5人」発言はこの問題意識のうえに為されたものではあったろう。社会契約において半人前と規定される存在を殺したら社会契約において形成される国家はそれを「1人」とカウントするのか、と。むろん、それは基本的人権に対する了解なきがゆえのことではありますが)。


あまつさえ、そのような国家権力の専横に対して掣肘するどころか応報感情に準拠して市民社会が相乗りすることを、論理的にとんでもないことと思う。そもそも論として、内藤陽介氏が上記記事において記している通り「日本の刑罰は、理論上は、懲罰ではなく犯罪者を教育し更生させるためのもの」。体制は、国民の応報感情に乗じて自身の権力を担保している。そして、民主政国家において国民はその指向に適した体制を持つ。


font-daさんが指摘しておられることですけれども、死刑なきとき私刑の横行が公然と懸念される社会であることは重い。日本はキリスト教国ではない。そう言って終わらせてよいことでもないと私も思います。


日本社会における社会正義は死刑の存置を、すなわち生存の拒否において反省を拒否する「権利」の他者に対する行使の論理的な保障を包含している。それでよいか。先の記事において、私はそのことを指摘したく考えました。そもそも。近代刑法の理念に基づく限りにおいて、死刑の存置は論理的不整合以外の何物でもない。私はそう考えます。

 反省とは何か。「ごめんなさい」と言うことではない。何かをしでかして、「ごめんなさい」と述べて、また同じことをしでかして、再び「ごめんなさい」と述べて、そのような人を「反省している」とは普通は言わない。もちろん、「ごめんなさい」と言うこと、罪を認めることは、反省の不可欠な一部ではありうる。しかし、それだけでは反省たりえない。──何より反省とは、「ごめんなさい」と述べて罪と認めたその行為を、再び繰り返さないことである。ポイントを強調して言うならば、それを再び繰り返さないようにして「生きる」ことである。


 実際、大きなことであれ、小さなことであれ、何かをしでかしたならば、そのこと自体の取り返しはつかない。与えた損害に対して経済的補償をしたりといったように、取り返しがつかないことの代わりの何かをすることはある。しかし、そのように「代わり」が要請されること自体が、取り返しがつかないことを繰り返し証明している。重ねて言うが、そのこと自体の取り返しなど、絶対につかない。──私たちの多くは、少なくとも小さなことでは、何かをしでかしてきたことがあるだろう。そのときに、「ごめんなさい」と謝ったこともあるだろう。しかし、謝ったことでは、そのことは終わっていないのだ。反省とは、終わるものではないのだ。大仰な言い方をすれば、死ぬまで、そのしでかしたことの重みの中で生きること、これこそが反省である。


 だから、先の本村氏の認識に対して。まず、「死ぬ」ことは、いかなる意味においても「償う」ことを意味しない、と指摘するだろう。もともと、償うことなど不可能なのであるから、死のうが生きようが、それは「償う」ことにはならない。なるわけがない。次に、「自身とその存在に苦し」む、その生を生ききれと、僕ならば言うだろう。


「反省」と「償い」の対応について、私の認識を改めて述べます。「そのこと自体の取り返しなど、絶対につかない。」それは当たり前のことです。当該記事に即して述べるなら、「彼ら」は「償う」ために死を選択するのではない。「彼ら」の幾らかは「償う」ための死を拒まないと法廷において述べます。「償う」ためにする死の選択が公式に要請される社会を私はまったく肯定しませんが、それはmojimojiさんも、あるいはfont-daさんも同様でしょう。しかし。


「償う」とは形式としての外形的な行為の問題です。その選択肢に死が含まれるのが日本社会である、ということです。それは死刑制度に限ったことでもないことは言うまでもありません。むろん、ことにそのような社会においては、死はもっとも安易にして安楽にして怠惰な選択肢です。


「彼ら」は、そのような社会に対して、自ら「落としどころ」を模索し提示せんとします。社会の志向する規範と自身が相容れない限りにおいて、「しでかした」以上「手打ち」の儀式は必要です。それが刑の執行であり、時にそれが極刑としての死刑である、ということです。


死刑存置社会とはそのような態度を肯定する社会であるということです。規範意識の相違を前提する「落としどころ」「手打ち」としての外形的な形式としてのみ刑罰を了解する態度を(所謂「臭い飯」「おつとめ」とはそういうことです)。


そういうもの、と言ってしまえば終了します。そして。死刑存置社会が、自身に対する死刑執行を希望して無差別に人を殺す態度を原理的に肯定する社会であることが露見して初めて、人は「そういうなもの」とシニカルな太平楽を述べていられなくなっている。それが現状です。私に言わせれば、宅間守の言行において初めてそのことに気が付くことがおかしい。繰り返しますが、そんなのは当たり前のことです。


http://www.asahi.com/national/update/0510/TKY200805090295.html


心臓を貫かれて

心臓を貫かれて


人殺しであろうがなかろうが、何かをしでかそうがしでかすまいが、生きることそれ自体が罰であり負債であることは当たり前のことです。私の認識においては、と付け加えますが。ゆえにこそ罰は全うすべきであり負債は返済すべく指向して然るものと、私は考えます。


「償う」とは「しでかした」被害当事者に対するものです。社会に対するものではない。市民社会が規定する国家と個人との契約関係として刑罰を了解するなら、「償う」という倫理的な概念と認識自体が存在しなくなります。「償うことなど不可能」以前に、「償う」必要などそもそもありません。誰も外形的な行為において強制しうることではないからです。


「償う」とは常に自発性に基づく主体的行為であって、私刑とは「償わせる」ことではまったくありません。「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の加害者は、刑期を終えた以上、また補償問題の決着した以上、被害者とその関係者の存在に心煩わせる必要はまったくありません。むろん心煩わせても構いません。それは本人の自由です。当たり前のことですが。


死刑問題はどう突き詰めても人非人な話になります。だから。突き詰めないで「任意の社会の規範に準じる」としていれば最も楽であり、また妥当でもあるのです。任意の社会の規範のその内実を問うことなく「コストの問題」へと一切を還元しまうことが。それが、自身が所属しコミットもする社会の規範であるにもかかわらず。


心にナイフをしのばせて

心にナイフをしのばせて


「償う」という倫理的概念と認識は、他者と自己との関係性を前提として初めて存在します。任意の社会の規範とその内実を誰も問うことなく、市民社会が規定する国家と個人との契約関係と「自らの愛する者たち」の存在と不在に一切が還元されるなら、それは私刑の横行が公然と懸念される社会へと至るに決まっています。露見しない殺人は犯罪ではない。あるいは、市民社会が規定する国家が下す自身に対する刑罰は了解するが、自身の信じるところは変わらない、と。


言うまでもなくそれは正しいことです。国家は個人の内心に対して関与してはならない。任意の個人において裁かれる対象は行為とその結果であるべきです。現在の日本において提起されている修復的司法とは、国家が個々人の当事者問題へと介入して加害当事者に対して被害当事者へと「償わせる」べく有形に関与する発想ではあります。コミュニタリアン宮崎哲弥氏がそれを支持することはわかりますが――。


原理的に切断されている、市民社会が規定する国家と個人との契約関係と、個人間の倫理問題を、架橋するべく市民社会は常に機能している。切断されている、市民社会が規定する国家と個人との契約関係と個人間の倫理問題を架橋するべく市民社会の社会正義が規定されるとき、日本におけるそれは死刑の存置を指向する。それが、私が示した議論のひとつの要点です。


「償い」が廃棄される社会において、国家が「償い」に対して有形に関与するべく、市民社会が現行の刑事司法に対してアクセスしている。斯様な状況と、私は考えます。繰り返します。綾瀬の事件の加害者は刑期を終えた以上被害者とその関係者に心煩わせる必要は一切ありません。本人の自由です。いかなる後ろ指を差される筋合もありません。自由を享受し人生を謳歌する権利が等しく所在する。――ゆえに、論理の問題では必ずしもありません。感情の問題であるか。あるいはそうですが、違うとも言えます。


「刑罰」という市民社会が規定する国家と個人との契約関係よりも、「償い」という個人間の倫理問題をこそ、有形に重視するべく日本の刑事司法はシフトしている。そう指向するのは「償い」という概念が廃棄されつつある現在の日本社会である。ということです。「償い」という概念の廃棄が、市民社会における死刑存置の必然であるにもかかわらず。知ってか知らずか。


むろん、現行の刑事司法においては無理筋としか言いようのない論理である以上、量刑規定とその判断におけるその「重視」は、ひいてはかかる転回は、必ずしも明示的に示されるものではありません。が。本村氏の一連の活動が、それを受けての世論が、最高裁の判断に影響しなかったとは、誰も思わないでしょう。


であるから。被害者救済を求めるならまず国家による経済的支援の整備を指向するべきであって、所謂厳罰化を指向して然るべきではない、という議論は、皮肉でなくまったくその通りではあるけれども、たぶん問題が違う。


市民社会が規定する国家と個人との契約関係と、個人間の倫理問題は、別のレイヤーにあって、刑事事件の被害当事者が後者の処理を前者において求めており、かつ、そのことに同意する市民社会がある。前者をいくら「手厚く」処理したとして、問題として後者の処理にはかかわることない。


すなわち。「償い」の処理を、被害当事者は、ひいては日本の市民社会は、国家とその権力に対して求めている。死刑存置がその証明となってしまっている。そのことを、本村氏はその一連の活動において、あきらかにしてしまった。反省を、「償い」としての死刑において証明するべく求める人が現れ、市民社会の支持を得たことによって。


このとき、市民社会が規定する国家と個人の契約関係と、任意の暴力に即した個人間の倫理問題は、混同されているが、日本の市民社会はそれを公然と架橋してしまいました。倫理問題と内心の忖度に準拠して、死刑が選択された。むろん、先の記事において記した通り、本件は行為事実において極刑相当事例であると私は判断します。その極刑としての死刑、あるいは終身刑の問題である、ということです。


個人間の倫理問題は、当事者としての個人間において処理してください、被告は拘置所に在りますし、被告には貴方のことを省みず貴方のことで心煩わされない自由がありますが。と市民社会は本村氏に対して述べることができなかったということです。妻子を見ず知らずの男に劣情において殺され死姦されあまつさえ無期判決後に加害当事者から自身と妻子を愚弄されていた本村洋という人の苦しみを、看過しえなかったがために。


かつて、宅間守が死刑執行された際、宅間の希望を叶えたに過ぎないではないか、という指摘があったことに対して、唐沢俊一氏が以下のように述べました。大意。原則において法は行為を裁く。内心を裁くものではない。死刑ある限り、死刑の執行とは外形的な形式にして行為としての国家による殺人に過ぎない。宅間守の内心など忖度しないからこそ、私たちは死刑の存置を選択してきたのではなかったか。そしてむろんのこと、私たちは宅間守の内心を忖度する。それはもはや文学の問題として処理しうることではない。――私は、この唐沢氏の見解に同意します。


かつて、文学と政治の関係を、旧約聖書における一匹の羊と九十九匹の羊の問題として論じたのは福田恒存でした。宅間守の内心の忖度が、社会において「一匹」の文学の問題として処理格納しえなくなっていること。にもかかわらず、否、そのゆえにこそ、宅間守は死刑執行されたこと。処理格納しえなくなった問題が、死刑存廃をめぐる政治として「九十九匹」において問われていること。私の了解においては、唐沢氏の指摘における卓見は、その点にあった。むろん、唐沢氏は、結局のところ「そういうもの」とシニカルに言っているのですが。


繰り返しますが、近代市民社会にあっては、被告の内心を関知しない原理において、死刑制度は選択されうるものです。「残酷」や「グロテスク」の介入する余地はあって然るべきではない。その原理に基づいて、体制は死刑制度を設置し、現在、市民社会が死刑制度を存置している。市民社会が死刑の守護者たりえている。


ゆえに、本村氏の当該発言は非論理的です。「言行に反省が見られないから死刑やむなし」とか、私は意味がわからない。論理的転倒以外の何物でもないと思う。量刑判断において被告の反省/無反省を前提する限り、死刑廃止しないことには論理的に整合しない。むろん、現実に量刑判断において前提されている以上、弁護側は情状としての被告の成育等を主張し、光市母子殺害事件差戻審においてはそのこともまた問われました。


そして「反省」とは、私の認識においては、「償い」という外形的な行為において問う以外に、傍から問うこと自体が無意味としか思えないものです。繰り返さなければ反省であるか。現在の私は自身のきわめて私的な欲望において人を殺さない分別を持ち合わせるけれども、それは反省とはまったく関係のないことです。分別の有無は反省の有無とはかかわりありません。むろん、分別とは、最終的には損得とその判断の問題でなく、知的かつ倫理的な問題としてあると、私は考えますが。


上記引用部においてmojimojiさんが問うておられるのは倫理問題であって、それはそもそも私が倫理問題として問うたがゆえのことではあるので、私も改めてそのように応えます。


私の認識においては、反省とは個人の内心の問題です。「しでかした」当事者に対して「償う」ことにおいて反省が外形的な行為として「証明」されます。むろん「償うことなど不可能」です。その必要もありません。では「何かをしでかした」者が、その「しでかした」被害当事者に対して、倫理意識において、自身の行為の「責任を負う」とは、どのようなことでしょうか。


ケースバイケースにして千差万別であることは言うまでもありません。しかしながら。少なくとも「しでかした」被害当事者に対するとき、外形的行為の問題とする以外にないことと私は考えます。倫理意識に基づく外形的行為とは「今は反省している」と言明することであるはずがありません。


そしてこのとき、倫理意識なく、「責任」と名指される概念に対する了解なき人間にあっては、そのような問題はそもそも発生しません。当該事件の被告人がそうであるとはむろん断言しえませんが、本村氏がそう判断して妥当なこととは思います。にもかかわらず本村氏はなお被告に対して尊厳の証明を求める。被告に対して、倫理意識と責任意識の提示を求める。本村氏の考える尊厳なく、倫理と責任を問題ともしない人間が幾らもあるにもかかわらず。まったく皮肉でなく、立派な人と思います。しかしながら。


「悲しい」などという感傷的な修辞を排するなら、本村氏と被告の行き違いは必然であって、ゆえに個人間の倫理問題が永久に処理されないだろうこともまた必然に過ぎない。当事者間の論理が相違する限りにおいて。そしてこのような必然を、市民社会はそもそも胚胎し、ゆえに幾らも行き当たりうる。いずれにせよ、処理とは解決ではない。


「「死ぬ」ことは、いかなる意味においても「償う」ことを意味しない」――だいぶ以前に自己記事において記しました。それもまた当たり前のことです。「論理的に」と付け加えるまでもなく。「償い」とは自発的にして主体的な行為であって、他から求めうるものではない。たとえ被害当事者であろうとも。被害当事者が加害当事者に対して「償うべく」求めること自体が論理的な錯誤であって、ましてそれを死において求めるなら錯誤も甚だしい。


ドラマ『白夜行』において、武田鉄矢演じる刑事は柏原崇の、彼のかつての恋人をレイプした犯人に対する復讐の念を知り、誰のためか、と問う。彼は答える。俺のためですよ。――そういう話。倫理的行為は強制しえないからこそ倫理的行為であって、私刑は「償わせる」ことではまったくありません。「俺の気が済まない」という話です。それで構わないと私は思いますが。私が賛成しようがしまいが私刑は御自由、市民社会が規定する国家を持ち出そうとしなければ。


私が、過去にひどいことをした相手に対して、「償うことなど不可能」であることを知っている以上、そして反省の何たるかを了解しないまま、しかし分別において人を殺す甲斐性も元気もないとき。それは外形的にはそれだけの話です。私は謝罪を反省と考えたことがない。頭はいくら下げても減らないからです。「償い」とは、「減る」ことの問題です。確かに私は色々と減りました、あるいはそれは最初から。それが私の「償い」であるか。んなわきゃない。


記した通り、「償い」とは、他者としての相手あっての問題であり、自分自身が「しでかした」当事者に対する問題です。ゆえに、自らが勝手に死ぬことが「償い」であるはずがなく、市民社会に対してパフォーマンスすることが「償い」であるわけでもない(その点において、弁護団に対する本村氏の批判的指摘と懐疑は正しい。氏は、被告に対して、俺と向き合え、と要求している。たぶん本村氏は、被告が本当に氏と向き合ったとき、その論理を了解しないだろうけれども)。


誰かに刺されることが「償い」たりうるわけでもない。それは単なる個人的な自己満足としての因果了解の問題。論理的帰結として、そうなる。宅間守は「償った」はずがなく、彼は「償う」ために死を望んだわけでもなんでもない。「死をもって償う」とは錯誤も甚だしい。そして、その錯誤に「彼ら」は多く気が付いてはいることでしょう。外形的にそのように言明するしか余地がない、そう考えてしまう「彼ら」の事情については勝手に了解します。


「死をもって償う」が論理的錯誤であり倫理的欺瞞であること。「死をもって償う」べく加害当事者に対して望んだ人が、9年を経てそれ以上を、否、「死をもって償う」とレイヤーの相違することを加害当事者に対してその死と同時に求めることにおいて、かかる錯誤と欺瞞は証明されもします。私は、本村氏は論理的かつ倫理的に真摯であるがゆえに、いまなお混乱の最中にあり悩んでいる、と考えます。「死をもって償う」という概念の論理的/倫理的不整合に気が付いているだろうことによって。「死をもって償う」という概念を信じきることができない。


そして。

 「自身とその存在に苦し」む、それはなぜか。


 自身の欲望について、少なくともそれを実行に移すことについて、それは罪でしかありえないということを認識しながら、そのような欲望を消すことができない、そのような欲望とともにあることしかできない、そのような自分の存在に苦しむ、そういうことである。──もっと具体的に言おう。彼が主観的には反省し、罪を認めて、もうこんな自分を変えようと考えたとしても、それでも自分の中から湧き起こってくる欲望を、どうすることもできないだろう。それでも、それを見つめながら、どうすることもできない欲望の中にありながら、自らの反省を維持すること、そのように生きること、反省するとは、そのようなことなのである。だから、苦しい。


 もうひとつある。反省するとは、しでかしたことの取り返しのつかなさを知ることである。償っても償っても終わりがない、償いきることができないことを知ることである。──彼が、心の中で、自分のしでかしたことの重大さを理解し、それをどれほど後悔したとしても、死んだ人は戻ってこない。取り返しはつかない。そのことに打ちのめされる。打ちのめされ続ける。反省するとは、反省することの無意味さを知ることでもある。


 ゆえに、死刑にしないことは、死刑よりも過酷な刑でありうる。「死刑より過酷な刑」について、「その納得できる具体例は聞いたことがない」という人もあったけれど、よくよく考えてもらいたい。先に述べたように、反省するとは、反省を生きることである。その一瞬一瞬は、反省を覆そうとする己の生のありように抗う生であり、そのように抗って維持される反省が無意味であることを思い知る生である。


 このような状況にあって、死ぬことが償うことであるとささやかれれば、それを信じたくもなるだろう。しかし、これは嘘である。既に述べたように、死をもって償うことなどできない。そもそも、償うこと自体が不可能なのである。ゆえに、死をもって償うなどと言うことは欺瞞であり、いうなれば反省からの逃避でさえある。


mojimojiさんが示しておられる議論は、私が示した前提に準拠してのものであるがゆえに限定的であることはわかっています。反省しない殺人者は幾らもいます。mojimojiさんが記しておられるような意味で「反省」する殺人者の方が少ない。反省を強制することは誰にもできません。そして。少なかろうと「反省」する殺人者がある以上、死刑の存置や終身刑の設置は論理的に違えている。私はそう考えます。再度引用します。

 まとめる。以上検討したように、死刑存置論を支えるものは、人間性への断念と償いの不可能性からの逃避である。僕は、この二つの前提を支持しないし、この二つの前提の上に「社会正義」を語るなどということも認めない。ゆえに、死刑存置論にも賛成しない。


私もまとめます。死刑存置論が「人間性への断念と償いの不可能性からの逃避」に支えられていること、同意します。私は、償いの不可能性を自明の前提とするうえ、人間性への断念を示したことはない。なので、私が記すところの「社会正義」とは、mojimojiさんがまとめておられるようなことではない。「ポジショントーク」と受け取られたくもなかったので、曖昧にしましたが、はっきり書きましょうか。


私は、根本的に反省しない快楽殺人者が、人間性を持ち合わせないとは、つゆ考えたことがない。おそらくはmojimojiさんと私の間において、「人間性」の定義が相違するのでしょう。なぜか。私自身の人間性を、私は否定したくはないからです。


人間性への断念と仰りますが、むろん私はヒトラーにもヒムラーにもハイドリヒにもアイヒマンにも、人間性が所在したと考えます。行為とその結果において、個人は自身の主体的な行動を傍から問われる。行為とその結果において、ひいては思想において、彼らにとっては殺戮が自明のことであり、また敗北した自身の死も自明のことであったというだけのことです。それが人間性でないはずがない。


人間性」と言うなら。ユルスナールが描いたハドリアヌス帝の時代に殺し合いがなかったはずも、また行為とその結果における殺人それ自体を反省する皇帝があったわけでもない。むろんユルスナールの経歴は周知の事項です。善悪を問うなら、悪もまた人間性です。繰り返しますが、分別とは人間性の問題ではありません。反省が人間性の問題であるとも私は考えません。私は故意に話を明後日の方向へと運んでいるのではない。mojimojiさんが記しておられる「人間性」が近代のそれであることは了解しています。近代的な人間性概念は、論じる限り常に当為命題として仮構されるべき概念です。「断念」すべきでないこともまたそのゆえです。


19歳 一家四人惨殺犯の告白 (角川文庫)

19歳 一家四人惨殺犯の告白 (角川文庫)


市川一家4人殺人事件 - Wikipedia

http://mizushima-s.pos.to/lecture/2002/020529/020529_04.html


いずれ書評を書こうと思っていました。私は死刑確定以前に刊行された単行本で読み、文庫版の加筆を読みきれていないのでペンディングとしていました。『心臓を貫かれて』『さらばわが友』の書評と共に、いつか書きます。今は要点だけ。


筆者の永瀬氏は、死刑確定以前の被告と手紙のやりとりと面会を重ねる中で、被告が「モンスター」でも「鬼畜」でもない一介の青年であることを了解してなお、ついに被告から事件について「反省」する言葉と主体的な「償い」の意思が窺えなかったことにおいて、mojimojiさんの言葉を借りるなら、被告の人間性についての「断念」を、無念と共に示しています。私は、永瀬氏の仕事に感謝しつつも、氏の人間観がわからなかった。


私にとっては、書籍中に記された被告の言葉は、被告の人間性をよく示している。被告は率直であるし、音楽好きで、青年らしい屈折と屈託を抱えてもいて、暴力の行使が当時の自身を解放する手段であって、決して「モンスター」ではない。犯行の内容にもかかわらず。「人間性」とは、そういうことです。


font-daさんの言葉から。

 また、裏返せは「うらみ」を持たないことも、被害者の持つ特権である。sk-44さんは、繰り返し、「愛するものを奪われること」について述べている。「愛するものの欠如」こそが被害の過酷さであり、「愛の紐帯」を守るために、加害者を処刑するという。しかし、被害者は加害者を愛することができる。聖書に「汝の隣人を愛せ」という一節がある。被害者の隣人とは、まさしく被害のそのときに隣にいた人、加害者である。この社会の全ての人が被害時の加害者を愛せなくても、被害者だけは被害時の加害者を愛せる。その瞬間に居合わせたものの特権である。


 それは、被害者が加害者を愛せ、という厳命ではない。「愛の可能性」がある、ということを言っている。mojimojiさんは「改悛の不可能性」を語っているが、それに付随して、私は「愛の可能性」を語る。最終的な一点において、私たちは加害者が悔いているかどうか確認できない。しかし、反転して、私たちは被害者が愛しているかどうかを、たった一点だけで確認できる。それは「加害者を殺さない」という一点である。改悛不可能な加害者の生存を受け入れること、それが被害者が加害者を愛し、赦すことである。


 被害者は、どのくらい加害者を痛めつければ、そうやって加害者が生き延びていることを、赦せるのかを考えることができる。私は、「赦し」という言葉を、「無罪放免」という意味では使っていない。加害者は罰され、苦しめられなくてはならない。問題は、これまでの刑罰が、被害者の満足いく量や質ではなかったことである。また、被害者が、加害者を赦す気になれないは、被害者の置かれる社会的状況が大きく関与していることが多い。


 社会は、被害者に「赦せ」とはいえない。けれど、被害者が加害者の生存に耐えることのできるような、豊かな被害者支援を用意することができる。そうすれば「赦し」の可能性は、より開かれることだろう。被害者が、加害者をうらまずに生きていける社会を目指す。そのような被害が起きた社会を作った、犯罪被害の第三者の一人として、私は思う。


私が「繰り返し、「愛する者を奪われること」について述べている。」理由を述べます。以前、「私は、性暴力の被害者に自身が刺されても仕方がないなと思う。自身の存在それ自体が、あるいは自身の言行が、構造的に誰かの真正の敵意を掻き立てることは、当然ではないか。」と記したところ、ブックマークコメントにおいて以下のようなレスを頂きました。

2007年11月20日   REV   自分の近親者が刺されても仕方が無いと思えるのなら

はてなブックマーク - 「人並みの幸福」 - 地を這う難破船


エントリを立てて長々とお答えしましたが、当時、自身にとっての個人的なFAを記すことは些か自重しました。記せば話が終わるし、ソーシャルな議論にまったくならないし、加えて人は引くらしいので。私は当該の指摘に対して、この世には斯様な切り返しのクリシェがやはりあるか、死刑廃止論者に対して、貴方の近親者や恋人が残酷に殺されてもそれを言えるのか、と問うことはやはり有効ではあるのだな、と思った次第です。


仕方が無いと思えますよ、私はそう即答できます。30年の経験と感慨を賭けて即答します。私にとってそれがネイチャーであることを、私は知っているからです。人は遅かれ早かれ死にます。心臓発作なら仕方が無いと思えて、強姦殺人なら仕方が無いと思わない理由は、私個人にはない。――私には女きょうだいがありますが。


むろん、私は近親者に愛されてはいるがゆえに、私もまた近親者を愛してはいます。そのことと別に、その人が見ず知らずの誰かに殺されて仕方が無いと思えない理由について、私は思い当たらない。むろん、心配しない、ということではありません。人は誰しも誰かの激越な怨嗟と敵意を買って生きている。むろん愛し愛された近親者間におかれても。それは当たり前のことでしょう。少なくとも私にとっては。ゲイリー・ギルモア・ケースは、そこらじゅうに転がっています。


先の記事において記した通り、私には私を好いてくれた人が、枯れた今となっては不思議なくらい幾人もあったし、そのうちの幾人かを私もまたそれなりに真面目に好いた。言葉に換えるなら「恋愛関係」ではあったでしょう。その人たちの素行について私は「心配」はしましたが、その人たちの身に何が起ころうと私は仕方が無いとしか思えなかった。自らが真面目に好いた人たちに対してすら、です。そうでないなら言うまでもない。


義の感覚は存在したので、仔細は省きますが行動したこともありましたし、かかる内心を当人に言うこともありませんでしたが、むろんそんなこと先方は察するに決まっているのです。私にとって一切は分別の問題でした。そして分別の構成にはそれなりに四苦八苦しました。他人が私と相違して無分別であったところで、ゆえに被害者が発生したところで、それはそういうものであって仕方が無い、私は他に感想を持たないのです。


「仕方が無いと思えます」と私は即答できますが、私の近親者は即答しないでしょう。そのことについての感慨はあります。私を好いてくれた人たちは――即答したかも知れない、というより、即答しうる人を私は望みました。他人の運命は他人の運命である。そのことにいかなる感想を持ち合わせようとも。それがいまもってなお私の認識です。私個人としては他に考えようがないのです。そして暫く振りに私には恋愛の相手らしきものがありはしますが、相も変わらず自身の性分に頭を痛めているところです。


ただし。私には私なりに許し難いことがあり、正しいと思えないことがありました。他人が理不尽に苦しむこと、他人を理不尽に苦しめることです。ゆえに私は私を許しようがないし、他人を理不尽に苦しめて諒とする人間を、唾棄してきました。時にそのことで腹を立てることがあることも事実です。


「なぜ人を殺してはいけないか問題」、最も妥当な解は以下です。「任意の社会の規範に準じる」。アイヒマンが反省しなかったのは、自身が生きた社会の規範に準じていたためです。「任意の社会の規範に準じる」とする限り、倫理問題は捨象されます。


光市母子殺害事件。例の手紙の影響もありましたが、最高裁の差戻判断へと至るまで、本村氏の願いが聞き届けられるべく心から念じていた人が、本当に多く在ったことを、私は知っています。このことは明記しておきますが、「世論」は被告の死を望んでいたのではない、本村氏の願いが聞き届けられるべく強く望んでいた。繰り返しますが。無反省のうえ被害者とその遺族を愚弄する被告の死ではない、犯罪被害者遺族としての、本村洋氏の願いを最高裁は聞き届けるよう強く望んでいました。


ところでその本村氏の願いとは、極刑の適用の結果としての被告の死でした。極刑としての死刑なければ、これほど自身葛藤することもなかったろう、と、本村氏が述べていることは真実でしょう。「世論」は被告の死を望んでいたのではない、最高刑の適用を望む本村氏の願いを最高裁が聞き届けるべく望んでいました。そして、最高刑の適用とは、死刑を意味していました。


あまりにも多くの問題が、ここに輻輳している。言いうることは、人は自らにおいてこの事件をその審理を問いました。愛する者ある、近親者ある者として。私も問いました。他人の前提する感覚が素でわからないことは、いつものことでしたが、愛する者であればあるほど、その人が残酷に殺されて、ああそうかとしか、私は思わない。私がそれを望むからでしょう。


自身の近親者や恋人が残酷に殺されたなら。そのことを、死刑存置論者も、死刑廃止論者も、改めて前提し公式に議論の俎上に乗せるべきと私は思います。むろん議論は為されています。個人の水準に準拠して、すなわち倫理的に、社会正義をめぐる議論を組み立てるべきと、こと死刑問題については、私は考えるから。『責任と癒し』を、あいにく私は未読ですが、記事に記されたfont-daさんの問題意識に、また以下の言葉に、同意します。

 正義とは何か。それは、私たちの脳内や国家権力ではなく、被害者と加害者の間にある。正義を知りたければ、彼らと関わっていけばよいのだ。被害者―加害者関係に焦点をあてるという、Restorative Justiceは、「知」のありかを照らすこころみとなっていくだろう。


多くの死刑廃止論者が、「自身の近親者や恋人が残酷に殺されたとき、自身の愛する者の生が見ず知らずの人間のきわめて私的な欲望において奪われたとき」加害当事者に対して私的な怒りを覚えるだろうし、その死を望まないとは必ずしも言えない、と記しています。むろん、それは人非人と思われないためのエクスキューズではなく、本気でそう思っているのでしょう。「エクスキューズではなく、本気でそう思っているのでしょう」と考えてしまうことが、私の一切ではあります。私は個人的にはまったくわからない。「仕方が無いと思えない」ことは前提なのでしょう。


自らが、あるいは自らと異なる者が他人から毀損される。それを自明の前提と私は思っていました。多く人間の感情が、それを自明の前提としないことを、先の記事に記した理由と事情において、私は了解してはいました。自明の前提を是とすべきという話ではない。私の議論はそのことに尽きる。自明の前提を是とすべきではないと。


しかし、自明の前提をあくまで自身のこととして示した途端に話は躓く。「自分の近親者が刺されても仕方が無いと思えるのなら」と。「仕方が無いと思えない」ことが世界を規定する前提です。むろん私はそのことを知的に了解してはいる。愛の紐帯なき社会は糞であるが、愛の紐帯はそれに与しない者を排除しうる。それもまた、私にとっては自明の前提でした。是としうる自明の前提とは考える。


「仕方が無いと思えない」――それはなぜか。本気で訊いているのではありません。私の個人的な情操の問題であることは言うまでもない。ロマンチシズムどころか、人の死は人の死としか、私は思えない。あるいは本村氏と正反対に、死は前提であって、前提に過ぎない。ゆえにこそ、生は尊い。いかなる生も尊い。それもまた、私にとっては当たり前のことです。


前提である限り死は仕方が無い。自身の死も、自身の愛する者の死も。だからこそ、黒澤明の言葉ではないけれども、生きている者のために私たちは働くし、働こうとするのでしょう。死んだ者は死んだ者でしかない。むろん、人は死者を記憶し追憶し追悼する。それが人間の繰り返される営為であり、ゆえにこそ、生は尊い。いかなる生も尊い。私は他に思うことがない。


私は自身の死を仕方が無いことと思うが、自殺を意識することは現在ない。死ぬまで生きることが人間にとっての前提的な倫理だろう。繰り返すけれども、「死に対するロマンチシズム」を、私自身は抱いたことがない。そもそも一切を分別の問題として諒とする私は自身の存在を罪深いとも悪とも考えたことがない。私は、現世の現実の話しか、基本的にはしない。矢鱈とレトリカルであろうとも。


「なぜ人を殺してはいけないか」――かつて西部邁氏はこう答えました。大意。人間は言語に規定される存在であるがゆえに意思疎通のための他者の存在を前提する。ゆえに、人間であるかぎりにおいて他者の存在は自身を規定する原理的な単位であるがゆえに、それを消去することは人間存在の本義に反する。私が最も同意した、かつ私が目にした中で最も論理的な「なぜ人を殺してはいけないか」の回答でした。


西部氏は、倫理問題を説いている。人間存在は本義において倫理的たるべく規定されている、と。他者の生を消去してはならない。まして自身のきわめて私的な欲望においては。欲望においてこそ、人間存在は倫理が問われ、その倫理の別名を分別と、私は呼んでいます。これは、反省の問題ではまったくない。


他者の生を消去してはならない。それがいかなる他者の生であろうとも。ヒトラーヒムラーのハイドリヒのアイヒマンの生であろうとも。他者の生の消去は、人間存在の本義に反するがゆえに。彼らが説き信じた「人間存在の本義」は、言うまでもなく大間違いでした。この点については、やはり私はハイデガーには全面的には同意しかねる。


人間存在の本義とは、他者の生を消去しないこと。本間丈太郎ではないが、他者の生死を徒に分別することは、人間の上位概念、すなわち神の業ではある。むろん必ずしも「おこがましいこと」ではない。


知的な了解に加えて、私の感覚と合致したのは。これも先の記事において記した通り、私は死を前提とするが、ゆえにこそと言うべきか、自他を問わず人生を愛するがゆえにいかなる人生も肯定すべきという認識が存した。殺人者の、あるいは快楽殺人者の、虐殺者の、人生もまた。


自虐の詩』ではないけれども、人生に貴賎はない。当人の主観は措き、客観的な貴賎は存しない。存して然るべきではない。人生には幸も不幸もなくどちらにも等しく価値があり明らかに意味がある。いかなる人生も肯定さるべきであるがゆえに、いかなる人生もまた強制終了させるべきではないし、いかなる人生に対しても理不尽な苦痛を負わせるべきではない。それが、私の信じる正義ではある。個々人の「私の信じる正義」において、社会正義が問われるべきと、私は考えます。「任意の社会の規範に準じる」とは、妥当な最適解ではあるけれども、それこそ欺瞞であり逃避です。


「なぜ人を殺してはいけないか」処罰されて臭い飯を食うから、では、答えになっていないし、少なくとも議論にはならない。問われているのは「いけないか否か」です。「いけない」と考えないなら話は違います。個人は措き、市民社会が規定する国家が人を殺すことについては原理的に肯定しえない、私ははっきりとそう考えます。「なぜ人を殺してはいけないか」任意の社会の規範に準じる、ではなく、個人として考えて頂きたく願うところです、今回の件に即して死刑制度を考えた、すべての人に対して。


「自身の近親者や恋人が残酷に殺されたなら」それを基点として。私自身はその基点の妥当性を、まったく計りかねるけれども。私は、そのようなことがなぜ問題になるかわからない。死が平等であるように、生もまた平等である。いかなる死も平等であるからこそ、いかなる生も平等である。その基点こそ妥当と、私は考えます。が。『MONSTER』のヨハン・リーベルトが、そのようなことを言っていたような気もする。「人間性」とは、一般には、こういうことではないのでしょう。私のように考える人間が珍しいわけではない、私はそう思っているけれども。

 まとめる。以上検討したように、死刑存置論を支えるものは、人間性への断念と償いの不可能性からの逃避である。僕は、この二つの前提を支持しないし、この二つの前提の上に「社会正義」を語るなどということも認めない。ゆえに、死刑存置論にも賛成しない。

 正義とは何か。それは、私たちの脳内や国家権力ではなく、被害者と加害者の間にある。正義を知りたければ、彼らと関わっていけばよいのだ。被害者―加害者関係に焦点をあてるという、Restorative Justiceは、「知」のありかを照らすこころみとなっていくだろう。


正義とは何か。死が平等であるように、生もまた平等である。いかなる死も平等であるからこそ、いかなる生も平等である。私はその前提に立つ。なお、その前提においてナチスの思想を私は支持しない。連中は、死が平等であるからこそ生に値札を付して回り、自他の生に値打をつけた。生が平等であるように、死は平等である。いかなる生も平等であり、いかなる死も平等である。


しかしながら。その前提を基点としないのが、愛の紐帯に規定された市民社会の正義です。愛の紐帯に規定された市民社会において、それは当然のことと私は思う。私はそれを偏向とも思いますが。市民主義者の私は、しかし愛の紐帯に規定された市民社会とその正義に疎外されてもいます。しかしながら。私は自身の正義を、愛の紐帯を必要としない市民社会とその正義を、私ならざる他に敷衍することに躊躇せざるをえない。


「自身の近親者や恋人が残酷に殺されたなら」を基点としないなら「赦し」が問われることもない。真面目に言うなら、私個人は「赦し」のその意味もわからないし、意義があるとも考え難い。「赦す」も何も、「赦さない」理由と必要がわからない。博愛主義者であるわけではまったくないことは言うまでもない。


事故に遭うことを前提して私たちは生きている。事故が犯罪であるなら私たちを規定する倫理意識に即した処理を指向しなければならない。「生きている者のために」。処理の一環として「償い」という外形的な行為と形式が調達されることは了解しうる。反省と赦しを人が必要とすることの理由が私はわかりません。が。


赦す赦さない以前に、死が平等であるがゆえに生は平等です。構造的にも、死の平等に規定されるがゆえに、生の平等を仮構された前提として任意の誰かをその誤差において見出すことが、愛するということです。性的な愛において、端的に愛することは難しい。人は死を前提せずつね意識せずに誰かを愛するか。近親者の死と病と老いを恋人の残酷な死を前提しないことは、私はなかったけれども。


たぶん、このような私の個人的実感は、傍から了解し難いものと思います。誰しも個人的実感とはそういうものでもあるでしょう。だから。個々人において、いかなる生も平等であるわけではなく、いかなる死も平等であるわけでもない。その分け隔てこそが愛の前提であり、かかる愛の紐帯において規定されている市民社会の社会正義が、分け隔てられた愛の紐帯の、その紐帯性の外延を描くとき、それを「認めない」とは私はしません。


反省も赦しも、論理的な議論の範疇ではない。倫理的な議論に拠る限り、その倫理は論理的に規定さるべきと私は考えます、が、現行の市民社会を規定する愛の紐帯は分け隔てにおいて論理を超える。分け隔てるべきでも、論理を超えるべきでもないと私は考えるし、個人的な実感としても思うけれども、然るに、かかる倫理的な非論理を用意する愛の紐帯を否定しうるものとも思わない。少なくとも、私のような人間しかいない世界に、私は住みたいとはあまり思いません。


愛の紐帯のその紐帯性において実存の規定される人間は、存外多いようです。愛の紐帯の、その紐帯性こそが、死刑存置論を支えているにもかかわらず。愛する者が殺されて悲しみこそすれなぜ怒りを覚えるか自身のこととして私はわからない。自身の持ち物が壊されたら人は腹を立てるけれども、そういう話ではない。他人の死は自身の持ち物を壊されることではない。他人の死は他人の死です。他人の持ち物を壊して立腹させた相手に舌を出すために他人を殺す幼稚な人間は在って、宅間守のようなそういう人間に、また身代金目的誘拐が恃むその論理に、私は同意する理由がありません。私にあっては、ということ。


残酷に殺されるそのときを前提して逆算的に人は人を愛するのではないか。それは珍しくもないこと。だから、私は愛の紐帯の紐帯性がわからないけれども、わかる人があることも了解します。その臨界において、愛の紐帯が人を殺すことも。死刑に限ったことではない。それが愛の紐帯の本義であって、ゆえに人間存在の本義と反すると私は考えるけれども。私は、その愛の紐帯の本義には同意します。それが、私の再三言明してきた譲歩線ではあるから。


mojimojiさんの議論とは、ずれてしまっているだろうけれども。列外者の目には、愛の紐帯のその骨格が、スケルトンのように、明瞭に透けて見える。ただそれが必ずしも欺瞞とも、私は思わないだけです。宅間守のようには。