原則と感情


――NHK特報首都圏」は見ておりませんが。

1.


近代社会において、社会的な公正を実現するための原則が存在する。たとえば法治主義。原則を維持するべくコミットメントの責を負うのは、当該社会の構成員個々人。然るに、構成員個々人におけるコミットメントの意思と動機を担保するものは何か。戦後60年の平和ボケの帰結か、私たちの一定数にとって、裁判制度とは所与であり、原則とは相続された債権でしかない。債権の不良を感ずる者も説く者も在る。かかる事態について、初等教育における適正な公民教育の不在の弊にして、その帰結、とする人があることは了解する。


私も小学校において適正な公民教育を受けた憶えはない。社会科の学習について印象深く在る(というか、記憶に残っている)のは、集積場と処理場と夢の島を担任の引率のもと見学して教わった、都のゴミ収集処理のシステム。ガキの時分は、電力や交通や通信や下水等、都市のインフラシステムに興味津々で、色々な施設や博物館を見て回った。


現在も。私は、政治とは、ゴミの回収/処理や、電力や交通や通信や下水と、それを要請する、多様な多数の共棲のための、利害含めたインフラの調整のことと思っている。比喩的にも、そのように考えている。つまりは利害を価値と置き換えたとしても。


任意の社会において、多様な多数の共棲のために、社会のインフラを、価値的なるものも含めて、いかに調整し工夫していくか、という問題設定と目標設定に、社会の構成員が合意せんと志向していくこと。

2.


任意の社会において前提的に設定される問題と目標に、社会の構成員を合意させんと、コミットメントさせんとする基盤的な価値とは、何か。相続された債権としての、所与の制度としての裁判制度と法治主義という原則が、基盤となり得ないことは、悲しいかな、明確化した。法治主義の原則を、弁護士の職責とその価値を無前提に掲げたとて、公的な正義の前にそれが無力であったとき、横紙を破らんと考える人は在る。


横紙を破る行為自体が公的な正義を形成しない、その通り。然るに、横紙を破らんとする因において公的な正義の存在すると考える人が多く在ったとき、公的な正義の在処を吟味せずして却下することは、あえて言うなら、ディーセントな対応とは言い難いと、私は思う。


明示/例示する。私刑も懲戒請求も、動機以前に行為の水準において正義ではない、少なくとも横紙破りではある、が、行為の背景にある因を正義とみなす人は、それは私のことでもあるが、いかに対するべきであろうか。


法治主義の原則を越える公的正義は存在すると私は考える。ただし。矛盾するようだけれども、かかる公的正義は個人の倫理において在る。個人の倫理において在る公的正義を声高に言挙げることは私は趣味としない。


私刑とは、事後においてその正当を主張するものではない。サイレントなマジョリティが暗黙に、その因を了解し、かく示す限り、公的な正義であることに虚偽はない。二・二六の真崎甚三郎メソッド。「とうとうやったか、お前たちの心はヨォッわかっとる。ヨォッわかっとる。」

3.


私は、正負双方向に及ぶ、感情に基づく連帯を、在って然るべきと考える。感情の連帯によって形成される、正義の正負についても。むろん、構築主義を持ち出さずとも、感情とは多く任意の社会集団において人為的に涵養されたものであり、煽ることの容易いものであり、ゆえに自己の感情に対するメタシステムのセットアップは肝要であり、それは現行の社会における課題であるかも知れない。


感情に基づく正負双方向の連帯とは動員の装置に過ぎず、あまつさえ、感情の連帯によって正負に及び形成される正義とその個々人における共有と、規範化の帰納的な帰結が「公」というのは、武論尊にも程があるかも知れない。真面目に記すと、それは無法な世界において確立される「公」であって、むろん武論尊(=史村翔)先生は承知のうえで数多の傑作と名台詞を著してきた。


相対的にも法の適正に機能する社会において、正義とは公正とは感情の連帯によって形成されるものでも担保されるものでもなく、在る限り事態の帰結の社会的な正当の証明される印籠ではない。感情の連帯から(直接でなく)間接した場所に、相対的にも汎用的なる法システムをインフラとして敷設しその適正な運用を支えることが、多様な多数の共棲する社会において合意されているはずの、価値的な正義であり、公正の担保である。その通り。


――私は、その幾許かの無法性ゆえに、現行のインターネッツを愛するものではある、けれども。

4.


死刑の存置をめぐる議論において、「愛する人が残酷に殺されたら」という立場と「そのことと問題は別として」という立場は、両立し得るし、正当性は両方に所在する。あえてどちらの立場に立って言論を張るか、ということ。自己の言論的な立場を相対化したうえにて再帰的に選択することは、みなやっていることだろう。


人間が度し難いとき、その克服を志向して言論を張るか、それを首肯(あるいは「容認」)したうえにてなお随時対処するべく言辞を示すか。私は後者であるが、前者の立場と言論と、その正しきを了解している。


私は「感情の連帯」を信じる。「信じる」という言を、私は、再帰的にして意思的な選択たるコミットメントの意として用いている。法治主義の原則を強調する人は(私も強調したけれども)、「そうなっているから」「そう決まっているから」強調しているわけではない。かくあるべきと、信じているはずだ。「感情の連帯」と同様に、法治にも限定と恣意あれども。


私が「感情の連帯」を信じるとするのも「そういうものだから」「人間はそのようになっているから」かく明示するのではない。「保守」が言挙げをしないというのは、そういうことで、言挙げたところで何かを言っているわけではなく、言挙げなきところに問題は所在しないのだから。言挙げしないに限る。

5.


任意の社会において、構成員の感情が連帯し得るからこそ、法治主義は限界あれども機能し稼動している。「感情の連帯」なきとき、個々人の感情の個人単位の暴走と横紙破りを制する術は、ない。感情の連帯を認めず問題ともしない、しかしむろん感情を有する個人が、法治主義なる空文的な概念を尊重しその維持に貢献せんとするか。堀江貴文氏は顕著な例を示した。結果的には、法治主義の維持に貢献したわけであるが。


意識において法治主義を空文的な概念とする人は多い、私を含めて。そして「感情の連帯」への信あるからこそ、少なくとも私は、法治主義を尊重しその維持に貢献したく思う。意識において「感情の連帯」を空文的な概念と私がしないのは、「感情の連帯」こそが一義に、他なる人間が存在することを、他なる人間の存在を尊重することを、私たちの社会において基盤として支えていると考えるため。想像力の条件として在るということ。


他人の妻子が殺され死姦され、弁護人が公判において「儀式」を主張し被告が「ドラえもん」を持ち出そうと、当事者たる他人の感情と自らは関わりない。60年前の民間人の虐殺にまつわる感情と、被害者と国籍を同じくするに過ぎない自らは関わりない。どこかの密室で幼児が親に殺されようと、どこかの教室で「いじめ」の果てに中学生が首を吊ろうと、当事者の感情に、自らは関わりない。とし得るなら。――し得るはずがない。


どこかの幼児虐待に、どこかの「いじめ」自殺に、どこかの母子殺害に、過去の戦争犯罪に、私たちは関わりなしとは感情においてし得ない、痛みをどこかで覚える。痛みの去来を担保するのは、個人の胸に在る痛みの記憶である。――村上春樹的だが。


あえて言ってしまえば、感情とは「そういうもの」であり、感情の連帯とは「そのようになってしまう」ものである。「感情の連帯」は自動的に生成し得る。ゆえにそれは危険であり、外的な操作と煽動と動員を可能とする。しかし。直接には「関わりなき」内戦の類であろうと、私たちがあらゆる戦争に対して少なからず嫌悪を覚えることも、また、戦後日本の平和主義も、そうした個々人の記憶に在る「痛み」に基づく「感情の連帯」を基盤として成立していたはずだ。核のことも。


むろん、当事者の感情に、自らは関わりない、痛みを覚えない、とはし得るし、公的に言明する権利は誰にも絶対に保証されるべきである。自由とはそのこと。そして。原理原則の強調者とて、そのことは承知のはずである、痛みも「感情の連帯」も覚える。ただ。そのうえでなお、自らがいかなる言論を張るかという、選択の問題である。その選択と選択の意思と実践をもってこそ、コミットメントと信は示されるのであるから。


結論は。原理原則の強調を論として示す人に対して「愛する人が残酷に殺されたら」の類の「感情の連帯」の強要、というか突き付けを行うことは、やめれ、と。「愛する人が残酷に殺されたら」許し難いに決まっている。かかる自明の地平は承知のうえで「そのことと問題は別として――」という議論を、意思的に選択して提示している。そして。その選択も、また議論も、正しい。彼らが「愛する人が残酷に殺されたら」を棄却して論を張っているわけではない。安田好弘氏ら弁護団におかれても。

6.


弁護団のうちのひとりが、「自分が本村さんの立場だったら、被告を殺しに行く」とTBSの報道番組において発言したことも、また、その意味で矛盾してはいないし、言行不一致でもない。


「自分が本村さんの立場だったら、被告を殺しに行く」かも知れない。しかし、「自分」は弁護士であり、「立場」において被告の弁護人である。「弁護人」の立場を利用して、被告に制裁を加えんと意図するなら、『ケープ・フィアー』のニック・ノルティと同じである。デ・ニーロ(マックス・ケイディ)の少女強姦を許し難く思ったがゆえに「全力を尽くして弁護する」ことのなかった弁護士ニック・ノルティは、出所したデ・ニーロの個人的な正義としての、神の裁きの名のもとに、家族もろとも超法規的に裁かれかける。



「自分」の「立場」は「本村さんの立場」と同じくするものではない、「自分」の立場は「被告の弁護人」であり代理人である。「自分」が感情において不快を覚え、許し難いとする被告を弁護することを法曹の倫理において不当とするなら、残酷な殺人犯を弁護する「資格」有る者は、ひょっとしたらいなくなるかも知れないし、公的に不当と示すなら、現実に、残酷な殺人犯を弁護する法曹はいなくなるであろう。


弁護士の職責とは、そのことを指す。それをしてポジショントークとするなら、首肯のうえ、問題とは私は判断しない。弁護士とは職責においてあくまで被告の利益の代弁者であって、他なる弁護士の任意の弁護行為について、戦術的/技術的な観点からの論評は可能であるが、かかる原則を逸脱することはない。


そのことは、「本村さんの立場」を、その感情を、共有される「感情の連帯」を、棄却することとは一致しない。外形的に、あるいは事実上、そうであったとして、それは、弁護士の職責においてその正当を保証された、意思的な選択である。任意の「感情の連帯」を言挙げる行為が、意思的な選択であるがゆえに、外形的に、あるいは事実上、任意の感情を棄却していることと同様に。


外形的な言行がそのように映ったときに、かく踏み込んで、読み取り汲み取ることが、度し難い私たちの大半が必然として抱く感情と、感情が形成する連帯の、ポジティブな機能ではないかな、と思う。


私は、人間を、合理的な判断に限界を有する、どうしようもなく感情に支配される動物、と捉える者であるけれども、その相対化とメタ作業は個々人において必須とも考えるけれども、然るに感情とは、決して浅墓で単純なものではない、個々の痛みをコアとする、複雑で多面的で多様な、価値あるリソースとも、私は考えるし、感情の連帯という機制には、莫大な正のリソースが所在し、生成され続けているとも、信じる。ゆえに、社会の基盤として機能するに足る、また現に機能している、莫大な正のリソースの所在に対して、多くの、時に歴史的な、負の事例を承知してなお、信頼してもいるのだ。