箸と躾


左利きとその矯正をめぐる話題に目を通していて、思い出した。


東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~



毎度のごとく本が室内に遭難しているゆえ記憶で記す。同書中に、リリー・フランキーの箸の持ち方が不格好でおかしい、という話があった。幼き日に、リリー氏の母上(作中の「オカン」)は、リリー少年の箸の持ち方を厳しく躾けることはなかった。それには理由があったはずなのだが、思い出せない、御容赦。


長じて、現在もなお、リリー氏は箸の持ち方はおろか、筆記用具の持ち方も不格好でおかしいままである。一見して幼児の持ち方そのままであるそうな。そして。大勢とゴハンを食べることを愛するリリー氏に、食事中に面と向かって、その箸の持ち方はみっともないよ、と指摘した人は多かった。


ところで。リリー氏は現在もなお原稿用紙に万年筆の手書きで入稿するのだが、その達筆は有名である。リリー氏は記す、ボクの箸の持ち方をあげつらった人のうち、ボクより綺麗に字を書く人はひとりもいなかった、と。


一義には、形式的な躾の有無を、他意と自覚はなくとも本人ならず親の姿勢に至るまであげつらう他人に対する、うんこの投げ付けであって、形式的な躾に拘泥することなかった母上に対する誇りの念の明示でもある。そして。文化とは教養とは、あるいは躾とは、多く形骸化した形式ではなく、今現在における実質的な中身として、在り、歳月を越えて生き続けるものである、と暗に示してもいる。


リリー氏の母上は幼き日のリリー氏に習字を習わせていたわけではむろんない。そのような家庭ではまったくなかった。ただ。長じたリリー氏は、箸や筆記用具の持ち方において、他からどう見られようと構うことなくとも、字の綺麗さに対しては、テキストエディタの時世においても、こだわりたく考え、実践する。


――食卓において箸の持ち方が他からみっともなく見られようとも構わない、形式的な作法に過ぎない、ただ、たとえ編集者ひとりであれ、人に読んでもらう以上、字は綺麗に書きたい。


かような感性が、親の躾の結果として育まれる、とするなら聞こえはよい、ただ、記すに難いことだが、自らの「育ち」の欠落を社会的に告知されたリリー氏が、自らのやり方によってそれと対峙し克服せんとする過程がそこには在る。同書が圧倒的な売上を誇った背景には、そうした通奏低音の存在がある。出と育ちと帰る家と、長じて社会的に告知される親の躾の有無。私たちは、今なおその残酷を身をもって知る。


自らを「正しく」躾けなかった親は駄目な親であるか。断じて、そうであるはずがない。リリー氏は、端正にして静かな筆致ながら、当該のくだりにおいて、そう大声で怒鳴っているのだ。「野良犬」にも誇りはある。


文化とは教養とは、感性において人を喜ばせるために工夫することであり、食卓の作法なる形式に、右に倣えで準じ、あまつさえ基準に達しない他人を面と向かって嘲ることではない。箸が正しく持てない人を嗤うことも、ひとりの人を喜ばせるために字の流麗を工夫することも、親の躾の結果としてある個人の文化と教養であり、その差である。――正論である。かも知れない。


ただ。かかるスタンスへと至る個人の背景に在る翳と屈託を、私は知る。長じて箸の持ち方を他人から正されることは、きついし、重い。「野良犬」は、野良であることを誰よりも負債として捉えてしまうし、なお受け止めてもいる。


成功を収めてなお不良中年たるリリー氏の真骨頂でもある。作法形式規則をポリシーに拠って却下しようと、自らのこだわりの追求と、人柄含めたその結果において、帳尻合えば涼、と。ただ。結果において帳尻合わせて涼とする、才と度胸と感性こそが、文化と教養そのものであって、それを育むのも、親の躾であるかも知れない。


個人における文化的なリソースの多寡とは、その人の生きる姿勢や日頃の言動、立居振舞いに現れる。それを示すに文化や教養や作法や親の躾を言挙げる時点で、それこそお里が知れるというところがある。結果において帳尻合わせて涼とする才と度胸と感性は、文化や教養や躾がそうであるように、一朝一夕に育まれるものではない、箸の持ち方にのみそれを見出すなら、日暮れて道は遠いだろう、西欧の貴族でも、金利と箔で暮らす旧華族でもない限りは。


箸の持ち方よりも大事なこと、守るべき品と信と礼節の在ることを知ることが、文化であり教養であり躾の結果であるよ、という話。ちなみに私は右利きで箸は普通に持てるが字はヘタヘタである。貧乏な野良の倅であるが、親の躾は普通に厳しかった。感謝している。