漁船の絵


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はてなブックマーク - 没落エリートの出現―ビジネス社会から疎外される高学歴就職難民たちー - 女。京大生の日記。

404 Blog Not Found:学校ってバカを治療してくれんのか

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はてなブックマーク - 弾氏への応答 - 女。京大生の日記。

はてなブックマーク - 目の前の現実と自分の知識に対して当事者意識持って考えない奴はただの「バカ」 - NC-15

2008年07月31日 b:id:y_arim  insanity, education, society, work  もういい加減にしてくれどいつもこいつも。一般論として語ろうとしている問題に自分語りで返すのはほんっっっと意味ナシ/あと「高学歴エリート」の話だよ。エリートの定義は問うてない。そこ読めてないひと多すぎ。


高卒駄目社会人の私が京大生女子に上から目線で説教かます流れだろうとアップ始めていたら見事に封じ込められてしまったでござるの巻。冗談は措き。この辺りのことについては以前書いた。


大学生のススメ - 地を這う難破船


高学歴就職難民という話題には本当に接点がない。人が新卒で就職したいと思うらしいことはいつものことながらわかる。交際相手は当たり前のこととして大学進学するらしいが要領だけよくガッコの勉強にはさしたる関心もなく志望は旧帝大ということでもない。現在の私が17歳の私に対してそう言うだろうように大学に親が行かせたがるならその程度に娘として頭に値札付されているならそして強くやりたいことも殊更にはないのなら断固行けとは意見訊かれて言う。トシこいてそれなりに社会を見渡すと痛切にわかるものだが、女なんて頭や腕で稼げないなら今なお社会的尊敬どころか尊厳も糞もないのだ、男よりずっと。現状さしたる特筆すべき才も見出せない、見てくれのよい娘の「頭」に態々値札付ける親はそれなりにいい親だ、間違いなく。


むろん17歳の私に言ったところで17歳の私がそれを聞かないどころかそれどころでないことを現在の私は知っている。finalventさんが『時をかける少女』を論じて言うように、まことに現在から振り返るとき過去の自分は未来に満ちている。現在時としてあったときの過去においてその未来はありえず選択肢はおろか可能性にさえ気付くことなかったにもかかわらず。17歳の男というのは死ぬことと殺すことばかり考えているお年頃であることは昔も今も先進国でも第三世界でも変わらない。そのことを了解して17歳の自分に対して言えない代わり17歳の他人にあるいは自分の子に言うのがそれを申し送る順序が人の世の習いではある。まあ代償行為。旧帝大卒の妹は選り好みしまくった挙句結局希望の会社にコネ無しで入社して激務と公私の不透明にひいひい言いつつも元気にやっている。らしい。


で。自分語り抜きで一般論として私見を述べると。ブクマで弾さんに対して学歴コンプレックス云々という指摘が散見されるのだけれども、それはそういうことであるとしても微妙な問題で、少なくとも僻みとかそういう下司の勘繰りな話ではない。いつも思うのだが、弾さん批判は時に藁人形へと流れる。また弾さん自身もマッチョの信条として憎まれ役としての藁人形を買って出る。


弾さんは専門外の分野については不明のきらいもあるといえ学も技能も専門知もまた実績もある人で、ただその学と技能と専門知は弾さんが日本社会において半ば形骸化したフォーディズムゆえに必ずしも正当に評価されなかった、端的に言ってしまえば、日本社会における『学歴』としての印籠たりえなかった、ということがある。だから弾さんは仲間と共に「けものみち」を行った。そして専門社会の尊敬を勝ちえて転換期の日本社会において実績を収め評価も得て、成功した。かくて現在「社会的な地位も名誉も金も手に入れ、悠々自適な生活をしている」。対して。

没落エリートとは高学歴でありながらも、ビジネス社会において疎外される人々を指す言葉である。


というのは、それは歴史的必然ではないでしょうかと言う以外にない。ビジネス社会がすなわち私企業が雇用者が高学歴者あるいは帝大卒業者を条件的に優先して雇用「しなければならない」という法はないし話もない。むろん、それこそ「現実を踏まえない」言ではあるが、「しなければならない」という法も話もないから現在守る物多い金持ちに使われてポストフォーディズム資本主義のどぶさらいをやっている便利な人としての私も会社員だったことはあった。ほぼ中小以下でありブラックばかりだったが。一般論として述べるとしても、ビジネス社会がすなわち私企業が雇用者が高学歴者あるいは帝大卒業者を条件的に優先して雇用する方が雇用者の私企業のひいてはビジネス社会の利益となっていた社会的現実が転換期を迎えることは、歴史的必然にせよ時代の変化として妥当であり、こと私のような社会的履歴と立場の者にとってはビジネスもやりやすいので歓迎。真面目に言って「高学歴」などという漠然としたジャッジは社会にはないしそんな漠然で人が自分の懐と相談して金勘定するはずもない。少なくとも私が経験的に知る社会はそういうことになっている。


フォーディズムと言うが、歴史的に言ってフォーディズムとは国策に規定される、こと日本におかれては。だからかつて帝大はフォーディズムに即して然るべきものとされた、というより国策に規定された帝大とはフォーディズムそのものであった、フォーディズムに即しそれを操縦するのが国策に規定され国策に関与するエリートであると。京大はそうでなかったとも一般にかつ歴史的にも言われているし森毅御大のあらせられるがゆえに私もそう思っていたけれども。むろんそれで構わないと思う。学問とビジネスは別。浅田彰が曰く。

 「京大はかつて、一発ホームラン主義で人材を生むところがあった。だが、その雰囲気は薄れ、1・5流の学生が増えた」。新天地を選んだ理由を語る。京大准教授から大学院長に迎えられ、「中途半端な秀才より、物を造る学生の方が哲学的なことは胸に響く」と期待する。

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080430bk07.htm


「高学歴でありながらも、ビジネス社会において疎外される」というのは、かつてフォーディズムにおいては高学歴が専門知と技能と総合的な教養と人格的修練を社会的に証明しそれがビジネス社会の需要に対して供給される、という話で、しかしながら日本の人文学が帝大であれそのように機能していたのはまったくその全体ではないし、だから昔は東大の文1と文3に行く奴は志向するところからして違った。それは現在でもそうだろう。そしてそのような文3文化から面白いキチガイが時に著述家としてあるいはそのへんで腐っている知的なオサーンとしてあるいはネットワーカーとして出た。京大文化におかれてはその辺りの明確な分別はない。必ずしも専門分化とその弊害にさらされることなくのんびりとして宜しい、という憧憬も生んだのだろう、偏見かも知れないが。しかしながら京大は今でもそう売りたいらしい、爆笑問題の番組をたまたま見ると。東大文1と文3に行く奴が志向するところからして違うという専門分化の弊害に対して総合的教養の涵養と人格的な修練の場としての大学の機能を復するべきと総長就任当時蓮實重彦は説いていたと記憶する。結局どうなったのかは知らない。

弾が嫌う学校教育の話をしよう。
学校教育は、私が社会に出ていくための規範を身につめるための近代における権力装置だった。
権力装置なんて言葉は大袈裟かもしれない、社会でなんとか生きていくための術を学ぶためのフォーディズム資本主義時代の寺子屋だったのだ。
しかし、弾もいうように、この寺子屋は時代遅れなのだ。この寺子屋で教えてられていたことといったら、もっぱら官僚主義、会社主義的な人材を育てるに適合的なものだった。
しかし、見落としてはならないのは、日本における近代黎明期この制度はしごく全うに機能したし、そのために今の日本がある。しかし、制度は時代遅れになるのだ。
ポストフォーディズム資本主義の時代、雇用は流動化し、組織に依存しないけものみちを生きる人生が選択肢の一つとして十分に有効性を持ち、むしろかっこいいという生き方になった時代には、今の学校制度はダメなのだ。

社会を大局的に捉え、弾もいうバカに優しい社会をマジで創るには、弾の処方箋は単なるなぐさめごと、気晴らしごとにしかならない。


「弾もいうバカ」とは、iammgさんの伝で言うなら、終わりゆくフォーディズム社会と心中する人のことなのだが、そしてiammgさんがそのような人でないことは改めて言わずとも了解していることだけれども、京都大学さえも終わりゆくフォーディズム資本主義に供給されるべき人材を育成していたかという偏見交じりの感想は措くとして、20歳そこそこの人間が本当に終わりゆくフォーディズム社会と心中する、そうするよりほかないバカであるのか、それこそ人をバカにした話ではないのか、そもそもバカとする弾さんの評価を認めるのか、そうしたことは思う。


つまり「弾もいうバカ」は、たとえばiammgさんの周りに、本当にいるのですか、と。私が知る帝大卒業者は、少なくとも優秀な人たちであったことは違いなく、「弾もいうバカ」とは思わないし、それがビジネス社会で使えるか云々というのは社会的問題としてもまったく別の問題。私とてフツーのビジネス社会では使えない人間であるからして成り行きで性分に即したことをやっている。誰もが何かしら世の中の役に立っているかは知らないが少なくともこの流動著しい世の中には隙間があり空席がある。居場所すなわち承認の問題でなく経済の問題だけれど。しかしそれはポストフォーディズム資本主義のもたらした隙間であり空席であって、だから弾さんは「社会的な地位も名誉も金も手に入れ、悠々自適な生活をしている」。率直に申し上げて、書いておられることをもし本気で思っているなら笑えない。念の為に書いておくと、マッチョというのは第一に、自分の末路を幕引を往生際を死を見定め受け入れる人のことです、良くも悪しくも。丸山眞男が説いた第三帝国指導者のように。


弾さんがバカと言っているのは、国策に規定されたフォーディズム社会がひいては帝大が自分に押した判子に私企業が値札を付すことを是とするのはよいとしてそれにとどまらず是とする「べき」だ値札を付す「べき」だと考える発想のことであって、そんな「べき」の根拠は私企業におかれましてはどこにもございません、あると考えるのは権力志向の事大主義にも程がある、ということ。旧陸軍の天保銭ではないのだから。「バカであることに褒美を出す社会はダメ」というのは、弱肉強食を説いているのではむろんなくそもそもが無理を通して道理を引っ込める類の話ということ。そしてそのことに気が付いていないまま公然と要求するなら確かにバカであり反知性主義であるかも知れないがそういうことではない、と。公務員と民間の意識が相違することは拠って立つところと志向するところが違うのであるから当然であって、だから公務員はその意識の来たる場所に拠って仕事をきちんとやればノープロブレムであるのだが、その意識の来たる場所が脱線しているなら話は別ということになる。身内意識や私利私欲であるなら。そして私企業の雇用者被雇用者は公務員ではない。


人は「人材」は野から出て勝手に会社を興したり勝手に金を稼いだり勝手に人を雇ったり馘にしたりする。むろん勝手に馘にしてはならないし無法に金を稼いではならないとして国策として規制も介入もする。それをして労働者の権利と規定され、それは健全な資本主義社会においては当然のこと。そして、健全な資本主義社会におかれても人や「人材」が野から出ることを止められるものではないし、それはそういうもの。


人や人材に対してすべからくフォーディズムであれポストフォーディズムであれ国策に規定された帝大が押した判子に左右される「べき」という話には中国のような統制型でない健全な資本主義社会ではならない。「べき」がなくとも日本社会のフォーディズムにおいて現実にそうなっていたのは、言うまでもなく日本社会のあるいは世界中のあらゆる社会の大人の事情がかかわっている。たとえばコネクション。たとえば「京大生」ひいては「帝大生」という連帯意識や身内意識や帰属意識。そうした大人の事情に担保されたフォーディズム資本主義とそれを規定する国策ひいては帝大。むろんそんなものは終わるが宜しいとは誰も言わないし言えない。ただ歴史的必然はある、そのとき。貴方の培ってきた専門知も技能もそれに判子押すのは国策に規定された帝大という人材育成機関であって、その判子がビジネス社会において私企業において雇用者においてさして重視されなくなるなら、それは国家の威光があるいは信頼が失墜したのかは知らんが、ビジネス社会が私企業が雇用者がそう判断したということ。


そのとき貴方の専門知は技能は消え失せるか? むろん否。ただ、ビジネス社会へのパスポートとして旧帝大の判子が必ずしも機能しなくなったということ。ではそのパスポートに判子押すのは誰か? 何か? そもそもパスポートは要るのか発行すべきか、私企業によって構成されるビジネス社会において。日本のビジネス社会が私企業によって構成されているはずもなく、そして端的に言うなら帝大的な日の丸がリジェクトされたところで閥のごとき大人の事情がより強固に存し横行するだろうことは言うまでもない。ところで人材は野から出る。その育成を行うのは必ずしも国家ではない、当たり前のことだが。


弾さんの学は技能は専門知は帝大によって判子押されてビジネス社会へと供給されたのではない。帝大パスポートの有無が判子の有無がビジネス社会への人材供給を時に阻みもする大人の事情は国策としてのフォーディズム資本主義において強固に形成されてきた。だから弾さんは「けものみち」を行ったし、行くしかなかった。私は弾さんのような成功者ではまったくないし「悠々自適な生活」にも興味がない。弾さんが悠々自適な生活であるかも知らない。金持ちにはその気苦労があることを私は現在の商売柄知っていてだから私は恒産に関心がない。そもそも私は非モテかは知らんが根本的に非コミュだ。それでもこうしてやっている。「けものみち」を行ったから、行くしかなかったから。そもそも性分の問題といえ私には世界がけものみちにしか見えないし三島由紀夫ではないが安心している人間は好きではない。安心している人間の目の中に不安を見たいとも思わないが。

「私だって恵まれない。なのに高学歴の貴様らがなに甘えたこといってんだよーバカじゃねーの。」と言ってる人がもしいるとしたら、もっとかしこくならなければならない。世の中は本当にうまくまわっているのだ。そのような態度が多くの既得権益層に甘い汁を吸わせることになっていることを知らなければならない。


一般論として。帝大パスポートの有無が判子の有無がビジネス社会への人材供給に歴然と関与する大人の事情が国策としてのフォーディズム資本主義において強固に形成されてきたことを上のようなことを言う以上は承知しているにもかかわらず、歴史的必然において来たるべき(というかとっくに到来している)ポストフォーディズム資本主義において以下のようなことを記すとき。

したがって、私は、世界のNO1を目指せるような抜きん出た人々だけでなく、一般の普通の人々でも、主体的な生き方あるいはこの社会に居場所を感じられるような教育内容が用意された学校制度を新たに生み出す。あるいは、学校なんて制度をいったん捨て去って代替となる制度を新たに作り出し、ポストフォーディズム資本主義社会に適合できる、人間を今後作っていくべきではないのか?と主張したかったのだ。


弾のいうようにバカに褒美を出すような社会は私も、もちろん賛成しない。
しかし、バカになった背景に、個人の問題だけでなく、社会構造が大きく変化したという要因もあったということを議論の俎上からまったく消し去ってしまうことは断固として私は許さない!
ロストジェネレーションは個人の問題だ!と言うのと同じ構造がここにはある!


社会構造の変化が「バカ」を生み出したと言うなら社会構造が変化する以前に「バカ」とされていた人たちがあることを忘れるべきではない。「ポストフォーディズム社会に適応し損なった」ことをもってバカと断言あるいは弾言されることはむろん理不尽である。そしてiammgさんがたとえば弾さんが成功者でなく悠々自適な生活を送っていなくとも「フォーディズム社会に適応し損なった」ことをもって「バカ」とは見なさないしまして公言はしないだろう。それは掛値なしに素晴らしいことであって、それこそが教育の効能だ。教育が欠けている、というのはそういうことであるし、それは私にも耳に痛いことであって、「勝ち組」「負け組」と一時連呼された問題の在処もそこに存する。iammgさんの記事に先に言及したのは弾さんであって、しかしそのことには意味がある。

ロスジェネも今回私が紹介した就職できない京大生も、ポストフォーディズム社会に適応し損なった人々であるという議論を消し去ってはならない!
弾は強い。だから、社会を変える前に自分を変えた方が早いよーと言うだろう。
私も、私の主張を変だと言ってきた先生がいる学校が「は?」て感じで、個人として主体的に生きていくためにいろんな行動をしてきた。
しかし、弾の言葉をマジに受ける愚昧を、たとえば政治家や社会の仕組みを創っていく側がするのはバカげている。
弾の言葉は、個人がある程度個人の努力で幸せにスグなるための 処方箋 にすぎない。強者の言葉は時に劇薬だ、それを心得てあえて弾に賛成するのならばよろしい、しかしあなたがもし弾のような人間ではないのだとしたら???


弾さんは「社会を変える前に自分を変えたほうが早いよー」と言っているのではない。自分はそうしたと言っている。弾さんはそうするしかなかった。堀江貴文は人脈作りのために東大に入ったという。それは荒唐無稽とはまったく言えない話だ。「弾の言葉は、個人がある程度個人の努力で幸せにスグなるための 処方箋」などではない。能天気な個人主義者の自己肯定論や自己承認論ではない。そうするしかなかった人がそうしてきたという話だ。そして自身の才や技術や頭脳や人間的資質を見出す人との出会いがありそのことに支えられてきたという話だ。だから結構露骨に浪花節だ。浪花節がキツいとき私はすぐ閉じてしまうのだった。


つまり。自身が血の滲むような努力を重ねて培った専門知や技能は誰かがそれを見出し評価しないと、時には見込みであるいは個人の器量と度量においてある人間の専門知や技能加えて人間的資質に賭けることをしないと、社会全般とは言わないがビジネス社会には接続されず供給されない。ひとりの人間をその専門知や技能や人間的資質において買い付けるとは、値札を付すとは、すなわち与信とは、そういうことであって、その本質は賭けだ。


だから堅気の社会において一端の給料が支払われるのであって、それをユルく考えているならそれはそういう環境と発想ということであってむろんそれは悪し様に言われるべきことではない。与信をユルく考える世界は幾らもあるがそれは必ずしも堅気と言われる世界ではない。少なくとも雇用が流動化する以前のフォーディズム社会においてはそのように言われていた。だから学歴が帝大が与信枠として磐石に機能した。それが人脈や同属意識に規定された既得権益の世界でもあったことは言うまでもない。


その、ひとりの人間の専門知や技能や人間的資質をビジネス社会に接続しポートする際のパスに押す判子を帝大にすなわち国策に全面的に託してしまうことは、私はバカとは言わないし思わないが、自身の人生を国策に委ねすぎている、というか国策を信頼しすぎている、というふうには思う。そもそも判を押すのは私企業であり雇用者であって帝大でも国家でもない。だからそのとき私企業と帝大は雇用者と国家は相互の利害と以心伝心と閥のごとき結社意識同属意識においてツーカーでやっていたし空気も読んでいた。その利害は一致しなくなってきたし風向きも変わってきたということだろう、グローバリゼーションの過程において国際競争にさらされる中で。だからその点において労働問題であり構造問題ではある。


しかしそもそもが私企業としての雇用者の需要の変化に対して帝大が供給できなくなったという話であって、そういう話が実際にあるとして、入学時からそのことに気が付かなかったわけでもなかろうし、「これは、個人の問題ではない社会の問題である」というのはその通りですが、そこから「だから当該個人が社会において救済されるべき」という正義が導き出されるかというと微妙です、「当該個人」が実在するとしても。「当該個人」において選り好みの結果という話でなくまして職業の貴賎を前提しているのでないことを確認したいのですけれども。


頭や腕に値が付かなくとも若くて五体満足なら男女問わず何かに値は付きます。ポストフォーディズム資本主義とはそういうことであり最大限に良く言って垣根は閾値はカジュアル化しました。頭や腕に値札を付すのがそのことを是とするのがフォーディズムへと至る近代社会でした。山本夏彦の言う通り、身体は売買してはならないものでした。ポストフォーディズム資本主義において垣根は閾値はカジュアル化して売春は奴隷労働はJLGがかつて言った通り社会的に全面化したのでした。それがグローバリゼーションの先進国日本における帰結です。そのことを否とするなら政府の下策は言うまでもありません。既に散々既出でありiammgさんも記している通り、誰しも等しく社会において救済されるべきというのが正解です。そして両者は同じことではありません。同じことではないから政治というものが要請される。


「もっとかしこくならなければならない」と言うなら、私の考えるかしこさとは、自身の人生を国策には必ずしも委ねないことであり、国策を必ずしも信頼しないことである。アメリカほどではないにせよ日本におかれてもマクロな国策は容易に変わりうるし転換しうる。グローバリゼーションという宮台真司言うところの「生存の条件」はそれを迫った。少年期に敗戦を経験した「かしこい」人たちはそのことを肌身で知ったらしくだから彼らは国家を国策を信頼などしなかったしまして自分の人生を託したり委ねたりはしなかった。自分の人生は自分のものすなわち弾さん言うところの「自分ごと」とする軸を彼らは持った。マッチョゆえにでなく否応なく持った。


弾さんの考えるかしこさもまたそのようなものだろうと私は考えるし、ゆえに自身の人生を国策に託すかのごとく委ねてしまい国策を信頼しきって生きる人たちを、バカとは思わないが不可解には思う。むろんそのとき私は、自分をその人生を基準に断じるべきでないとは思う、が、私が自分自身を「一般の普通の人々」というふうには考えられなかったのは私個人の私的な事情に過ぎない。弾さんは普通にひとりの年齢を重ねた働く男として書いているのだろうしそれは必ずしも勘違いとは私は思わない。あの人は食わせるべき者を抱えた普通の働く男です、だから共鳴される。

社会を大局的に捉え、弾もいうバカに優しい社会をマジで創るには、弾の処方箋は単なるなぐさめごと、気晴らしごとにしかならない。


「弾もいうバカに優しい社会」というのは、国策に自身の人生を託しうる社会のことだろう。国策を信頼しうる社会のことだろう。それを「マジで創る」ことに私が賛成しないはずがない。国策に自身の人生を託しうる社会が国策を信頼しうる社会がそのための国家とその政策が、理念的に素晴らしいものでないはずがないしそれはなくてはならないし誰かがマジで創ろうとしなければならない。あるいは私たちが。少なくとも没落し終わりかけているこの国の半世紀単位の存続を志向するなら。弾さんのように終わって構わないとするのでないなら。だからiammgさんは。

私は、処方箋ではなく、大局的な視点にたった社会のトータルデザインを考えていく。
そのために、これから社会に出てたくさんのことを勉強したい。
本を読んで知識をためこむのはいいことだ、しかし、その知識を私は必ずや社会に還元するべく行動者になるつもりだ!


と記す。皮肉でもなんでもなく掛値なしに素晴らしいと思う。それを正しくエリートと言うのだから。それがエリートの発想であって、国家主義であろうと日本国の存続を志向する限りそれは絶対に必要だから。なので、このことは強く書いておくけれども、iammgさんのこの発言は冷笑されたり嘲笑されるべきものではない。まして学歴云々を根拠にエリートとその使命を説いているのではない。ただそのとき、国策を信頼することなく己の人生を託すことなど考えたこともない、処方箋で浮世を渡ってきた利己的な非エリートとして、記しておきたいことはある。


国策を信頼することなく己の人生を託したこともなく「大局的な視点にたった社会のトータルデザイン」や「弾のいうバカに優しい社会をマジに創る」すなわち国策に自身の人生を託しうる社会を国策を信頼しうる社会をそのための国家とその政策を構想しグローバルなポストフォーディズム資本主義において改めて社会を再建するべく発想し行動することのない者そのことに冷淡な者には、そうする理由がある、ということ。弾さんは必ずしも太平楽を並べているのではない、たとえば「家も火事になった!」ことやそれに伴う経験において弾さんの表明する苛烈な個人主義が支えられていること。すなわち、フォーディズム資本主義とそれに即した国策から遺棄されあるいはリジェクトされ「相応の」値札を付された持たざる者がかつてのフォーディズム社会において多くあったということ。大学に行けなかった者帝大を出なかった者として自身の技能や専門知のパスポートに判を押され相応の値札を付されてきた者が。そして、そのような者は、弾さんがそうであるように、あるいはmuffdivingさんがそうであるように、パスポートに判を押すのが国家でも帝大でもそしてフォーディズム社会においてそれらとツーカーしてきた私企業まして大企業でもなく結局は人でありひとりのひとりの雇用者や責任ある立場の者あるいは共に働く人々であることを知っているということ。


根本的に人の感情というのがわからない私もまた国籍さえ様々な他人とさっぱり不得手な外国語と身振りを交えて日々話を付けて人の商いという止まらない列車を運転している(『英語でしゃべらナイト』には感謝している)、金にはまるでならんし無責任男なので正直に言ってヨゴレな車中から飛び降りたくて仕方ないのだが話も通さずそうしたら走行中の列車が事故るだろうことは違いない。あるいは、根本的に人の感情がわからないからこそ都合がよいのかも知れない。少なくとも、国策を信頼することなく己の人生を託したことなくそのことを経緯含めて再三公言する者を単なる強者の処方箋として捨て置くならそれは国策を信頼し国策に自身の人生を託しうる社会のためマクロな政策に関与せんとするエリートではない、理念的には。常套句を用いるなら「他者への想像力」の問題であり、それはすなわち政治の問題。


「他者への想像力」がなぜ必要か。相違する立場において個々の利害は衝突しその衝突する利害を調停するのが例外状態ならざる平時における政治の役割でありその具体化が個々の政策であるから。「他者への想像力」なくして個々の立場の相違に基づく利害を調停することもまして「弾のいうバカに優しい社会をマジに創る」「大局的な視点にたった社会のトータルデザインを考えていく」ことも叶わず覚束ないから。そして他者への想像力は他者をその存在をその言葉を知ることによってしか萌芽せず養われないとこうしたことについてはリアリストの私は思うから。「フィギュア萌え族」に対する偏見を私たちはこれまで幾度「有識者」の口から聞いてきただろう。改めて冒頭の有村さんの言葉に対する反論になるが。

2008年07月31日 y_arim  insanity, education, society, work  もういい加減にしてくれどいつもこいつも。一般論として語ろうとしている問題に自分語りで返すのはほんっっっと意味ナシ/あと「高学歴エリート」の話だよ。エリートの定義は問うてない。そこ読めてないひと多すぎ。


第一に、少なくとも『弾氏への応答』においてiammgさんは高学歴エリートでなく正しくエリートの話をしているしそれはまったく問題ない。第二に、だから一般論として語ろうとしている問題に自分語りで返すことには意味があるし必要、少なくとも、その一般論を語っている人が正しくエリートを志向しているなら、そう宣言しているなら。それを捨象した国策論には、あいにく私は関心を持てないし弾さんも関心を持てないだろうし、関心を持てない者は捨て置けというのは別にそれは政治としては構わないが下策というふうには思うし、それはフォーディズム社会におけるエリートであってポストフォーディズム社会の理想を語るなら片腹痛いと言わざるをえない。そして少なくとも正義ではない。


ロスジェネ論壇というのは端的かつ粗雑に言うなら国策として皆に判子を、という主張だ。それに同意しない人もいる。それがネオリベないしバカリベであるかは知らない。国策として皆に判子を、というのは正しくエリートの発想であってそれは構わない。国策としての判子をあるいは疑うことなかった「弾のいうバカ」が人生を棒に振ってよいとは誰も思わないしまして技能や専門知はビジネス社会でなくとも社会に供給されるべきだ。そもそもそれが国策の根幹であったのだから。


ただ、国策としての判子なくして構わない、少なくとも私はそれでやってきたしそうするほかなかった、という人を単なる強者の処方箋として国民の枠外に片付けて「バカに優しい社会」の理想を説くなら、そしてその実が国策として皆に判子を、であるなら、それこそ単なる国家主義でないか、あまりに古典的な、というふうに私は思う。コミュニズム国家主義的に実現しようとすることは「新たに生み出す」どころか古色蒼然であることを除くなら別に構わないけれども、それをエリートとは私は考えない。エリートというのが理念でなく実態を指すのでないなら。実態を指すなら日本国においてエリートとは変わらぬ現役の面々である。大人の事情にも精通している。私は少なくとも、自分の人生を国策に預け託す気にはならない、むろんそれは第一に私の性分の問題ではあるけれど。そして結局、弾さんのことを「神だと奉り、毎日弾の記事をブックマークしていく人々」に(そういう人がいるのか私は知らない)弾さんの記事が個人的な処方箋として「単なるなぐさめごと、気晴らしごと」を与えているなら、ではiammgさんの発端の記事は何であるか。


社会とは立場が相違する限りにおいて利害が衝突する、そのことを捨象して理想とその実現を説くのは構わないがそれは国家主義以外の何物でもなく国家主義を問題と思わないことも別に構わないが問題を肌身において知るがゆえに反国家主義の立場を旗幟を鮮明にする者に対して強者は捨て置けとするなら戦前的というか上意下達な古典的国家主義と言う以外にない。いや革新官僚志向は結構なことであるけれども、新しくはないし、それをエリートとするのも古色蒼然としか言いようがない。繰り返すが別に構わないのだが、社会とは立場が相違する限りにおいて利害が衝突する、そのことを捨象して理想とその実現を説くなら古色蒼然たる国家主義としか言いようがなく革新官僚志向としても下策である。


「大局的な視点」に立って問題を提起することは大切なことである。それが、未来があるということ。未来というのは過去のことと知るとき、私たちは未来に向けて行動することを忘れる。未来とは「変えられた」と思うものであり変えるものではない。人間社会の半分がそのリグレットで構成されていることを知らないとき、その人には実質的な未来がある。たぶんそれが、若さということ。他人を見るということは、その人のリグレットを見ること。それに対応することのない政治に政策論に私はさして意味を感じない。政治とはいつだって鎮魂だ。リテラルにもメタフォリカルにも。他人を見てリグレットを見ないなら、それは悪しき政治である。利害とは結局のところカネでない、それをカネに換算することが政治であり政策である。「バカに優しい社会」の第一歩だ。「バカに優しい社会」を志向するなら、だが。高学歴就職難民のリグレットに想像力を働かせるためにも、教育に欠け至らない私はその声を聞いてみたくも思う。「当該個人」の。


ここにいるのは頭がよくて仕事がない人たちですね、と岡田斗司夫は自身のトークライブで客席に言って喝采されたそうだが、確かに頭がよくて仕事がない人たちはある。そのとき、頭がいいなら仕事あるだろうJK、あるいは起業するなりして仕事を創るだろうJK(途上国の物売りを見習うべき)、それが頭のよさだろうJK、という話にはむろんならない、が、つまりそういうことではある。社会に供給される/されないとして論じられる頭のよさとは、判子に預けられた頭のよさではある。


むろん社会とはビジネス社会のことではない。だから、判子などそれを押すことなど要らない、という主張はむろんあるしそれは見識だ。国策として皆に判子を、というのもまた見識ではあるが先の主張とは相反する。いずれにせよ判子とは公文書の話でなく人が決めることだ、現在もなお、そしてフォーディズム社会の昔から。公務員になるのでないなら、そして理学工学を修めたのでないなら、コミュニケーション云々以前につまりそういう話なのだ。簡単に言うと、学があろうが頭がよかろうが虚言症はまともには使えない。というか、学があるほど頭がよいほど虚言症は困る、露見が遅れるので。念の為に書いておくと、この虚言症とはビョーキの部類の話であり、私の経験則であってiammgさんとはまったく関係がない。


私はそういうふうにやってきたし、世の中はそういうふうにやってきた人によって構成されている、今なお、フォーディズム社会の昔から。そんな当たり前のことがある。判子を公文書の話として考えるのは、公務員か「社会のトータルデザイン」に与しうる大手企業のことしか端から考えていないと、つまりそういうことではないか。高卒の私の母親は先般ケアマネージャーとして独立し起業した。仕事仲間と協力してやっている。所謂「底辺労働者」ばかりだ。みなそういうふうにやっている。「少しは考えろ」と言っているのではない。正しくエリートを志すとは、それを前提するということ、否応なく。私は読み書き算盤以外に公教育から学んだ覚えがないし、御陰様で一所不在の生活破綻した社会性に欠ける人間であるが、だからこそ生きる知恵は公教育の外部で学ぶものだろう。それをもしマッチョと言われるならそうするしかなかった根本的非コミュとしては単純に困惑するのだった。


腕一本根性一本の成り上がり者と弾さんのいかにもな言説に対して藁人形こさえることも結構であるけれども、成り上がるしかなくそうなったところで成り上がり者としか見なされない人というのが昔も今も幾らもいます、社会構造の問題と言うなら。だからそのような人が社会において救済されるべきという正義が導き出されるか、むろん微妙です。誰しも等しく社会において救済されるべきというのが正解です。そして両者は同じことではありません。同じことではないから政治が要請される。後者に至ることは前者を捨象することではありません。それらを捨象して天下国家とその変革を語るなら青年将校とは言いませんが革新官僚のメンタリティですねと言うよりほかありません。むろんそれは自由ですがそれが正義であるかというと戦前ではない社会におかれては微妙です。一般論としても、そういう話です。


長距離走者の孤独 (新潮文庫)

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