「場違いな場所で場違いな文脈で人類史の悲劇を持ち出し」ているのではありません。


http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080807/p1

はてなブックマーク - 軽蔑 - HALTANの日記

はてなブックマーク - 衒学的な威嚇 - novtan別館


現在時間がないので手短かつ簡潔に。「横槍」になってしまって申し訳ないのですけれども。

Apemanさんの仰りたいことは相変わらずよく分からないけれども、いくら自分がその辺りを大変によくお勉強されているとはいっても、場違いな場所で「ホロコースト」「ホロコースト」「ホロコースト」と声高に連呼して説教して恥じないような方に対しては確かに「軽率」だと思っているし、軽蔑もしているよ。

自分が軽蔑を覚えるのは、場違いな場所で場違いな文脈で人類史の悲劇を持ち出し、その唐突さに違和感を表明する者に対して衒学的な威嚇を行い続けるあなた方の態度だ。

(1)例の論争(そもそもの発端が何であったかさえもうよく分からなくなってしまったが)でホロコーストが例示されるのは果たして適切だったか? もっともhokusyuさんとApemanさんがそうだと言うなら、そうなのだろう。


「場違い」であることの検討、ということと思うのです。以下一般論と厳に断りますが。社会におけるトリアージ概念の必要性という議論に対してホロコーストが提出されうるか。端的に言うなら、資源配分の問題を措くとしても、社会的有用性に基づき運用される合理性の非人間的帰結、という問題意識においては提出されます。それは非人間的帰結でしょう、という指摘が当初為されたのでした。「普通にかわいそうなんですが」と。


合理性の非人間的帰結に対して社会的有用性をもって応じることは、上記のような問題意識においては指摘されうる「問題」ですが、しかし経営学の講義においては普通に正解でしょう、というのが私の感想です。人を疎外するのでなく人を枠組において承認するのが社会であり社会とはそうあるべきというのがたとえばドラッカーの基本思想であって、ナチスドイツという先例に対して社会的有用性に基づき運用される合理性の非人間的帰結を克服するべく思考され提示されたのが彼の説く経営学ではありました。


だから、合理性の非人間的帰結という指摘は経営学においては常識の範疇に属することであって、というよりは合理性について自覚する限りは常識の範疇に属することであって、社会的有用性に基づき運用される合理性の非人間的帰結に対して、普通の経営学は批判的視座を持ち合わせています、というか、それが経営学というものです。「社会的有用性に基づき運用される合理性の非人間的帰結」とは医療概念としてのトリアージの話では必ずしもありません、が。がという点にあの議論の混線があったのでした。


何を以って、彼らを叩くのか - REV's blog


救命医が人の命を救うことは社会的に有用なことですが、たぶんそういう話ではないのです。医者が人の命を救うことは社会的に有用なことである、とだけリテラルに解する世界観がナチスドイツのそれでした。女が子を産むことは社会的に有用なことである、と。私たちはドイツ民族として一体に存するがゆえにドイツ民族の構成する社会においてドイツ民族としての人間は全体に資するべく有用たらねばならない。ところでユダヤ人は無用であって全体に資するべく鬘や石鹸にならなければならない、それが社会的に有用なことである。障碍者が無用であることも言うまでもない。類の生存を唯一目的とする合理主義の結晶としてある思考です。


女が子を産むことは社会的に有用なことである、と人はおおっぴらには言わないしあまりそういうふうには考えないように、医者が人の命を救うことは社会的に有用なことである、とも人はおおっぴらには言わないしあまりそういうふうには考えない。女が子を生むことを医者が人の命を救うことを「社会的に有用なことである」とだけ見なす発想が近代どころか20世紀の産物であることは言うまでもなく、ゆえにそのような社会的有用性を至上とする思考を克服するべく格闘してきたのが20世紀後半のヨーロッパであり、反スターリニズムとしてのコミュニズムでした。で、そのような「歴史的経緯」を一切忘れて「子供が産まれて感動した」「おめでとう!」みたいなことになっているときつい私はナチスな本心を書きたくもなるのですが、そういうときはパトレイバー2のあまりに有名な台詞を思い出して自重するべく努めてはいるのでした。

「たとえ幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人々がいる。それともあなたにはその人たちも幻に見えるの」


で。肝は「あの街ではそれを現実として生きる人々がいる」ということだと思うのです。押井守がそうであるかは知りませんが(むろん左翼的な人であることは知っている)、リベラリズムとはそういうことであると私は理解しているのです。それは間違った現実認識を間違っていると指摘しないことではない、が、「それを現実として生きる人々がいる」ことに留意することではあると。「その人たちも幻に見え」てしまうのが思想というもので、そうした思想の倒錯を克服するべく現在のリベラリズムは組織され編成されていると。

すなわち、人が過去を記憶しようとする営みそれ自体が(その記憶の内容以前の問題として)気に入らない、というメンタリティが存在しているのではないか、と。このような「破壊予告」を投稿する人間が同時に「靖国神社で再会して昔を語り合う元将兵や遺族」の姿にも憎悪を抱く・・・というのは十分あり得ることではないかと思う(これはそのような人間像を有意味に描きうるということであって、今回の「犯人」についての予測ではない)。

被爆電車、運転中止 - Apeman’s diary

被爆電車爆破予告を行うような人間は恐らくはむしろ「右」だろう。そういう者が「『靖国神社で再会して昔を語り合う元将兵や遺族』の姿」に「憎悪を抱く」とは思えないが、双方共に歴史を直視できない人間の類型として例示されているのでしょうかね? 真正面から歴史を直視する者こそ、「憎悪」というほど激しい感情ではないかもしれないが、いまや広島観光のウリのひとつとして運行されているに過ぎない被爆電車や、戦前戦中に郷愁という美しい幻想を求めて靖国神社に向かうような「元将兵や遺族」には複雑な感慨を抱くのではないだろうか?もちろん観光に過ぎないにせよそれでも被爆の遺産が運行され続けていることには意味があるんだとか、幻想であっても当事者たちの慰めになっていればいいじゃないかとか、そういう議論はあるでしょうがね。


ナチスドイツによるホロコーストは、ドイツ民族の「生存の条件」を第一次大戦後の深甚な社会不安に乗じて煽りまくった挙句の「社会的有用性に基づき運用される合理性の非人間的帰結」として実現しました。要点は、ドイツ民族のひいては類としての人間の「生存の条件」をドイツ国民に対して予め煽りまくったこと。それはまったくアドルフ・ヒトラーという個人の特異な世界観であったのだけれども、様々な外部要因の加担において人々はそれを呑みもした。そして武装親衛隊の連中がそれを信じまくって最終的解決を具体化し実現したことは言うまでもありません。


だから。新たなる「生存の条件」として提示されるグローバリゼーションを、私たちの「生存の条件」として自明の現実のごとくグローバリゼーションとそれに適したあるべき社会と個人の生き方を説く言説を、煽りとして警戒する立場があることは「歴史的経緯」に鑑みて妥当なことです。グローバリゼーションは現実ですが、そういうことではない。あのとき「私たちのドイツの危機」は現実であったかも知れませんが、だからドイツ民族のひいては類としての人間の「生存の条件」を煽りまくって無問題という話でもない。


ホロコーストが持ち出されるのは「社会的有用性に基づき運用される合理性の非人間的帰結」という問題意識ゆえのことでは必ずしもありません。むしろ「生存の条件」として現行の経済を説きそれに適したあるべき社会と個人の生き方を説くことにおいて問われます。現行の経済は現実です。ただし、それを「生存の条件」と煽ることは価値判断を含みます。そして、社会的有用性に基づき運用される合理性の非人間的帰結を「生存の条件」という前提においてやむなき現実解とすることは、批判されて然るべきことですし、ホロコーストを持ち出して「場違い」なことでもありません。なぜか。「生存の条件」という前提は誤りであるかも知れず検討の余地を有するとき「生存の条件」という前提をまた自明としてのそれをもって「やむをえない」とすることは、詐術の範疇としての疑念なしとはしないから。


トリアージ」概念を社会において導入するとは、そういうことです。「社会的有用性に基づき運用される合理性の非人間的帰結」を「やむをえないこと」とするための免罪符です――強く言うなら。「社会的有用性に基づき運用される合理性の非人間的帰結」に対する、ドラッカー的な克服の回避です。ドラッカーは「私たちの生存の条件」について強く煽るような言辞を、私の知る限り説きませんでした。私はグローバリゼーションを「私たちの生存の条件」とは考えていますが、それがドラッカーの主張同様に価値判断を含むこと、すなわち賭けであることは知っています。私の雑駁な了解において端的に言うなら、大戦の教訓に基づいて「私たちの生存の条件」という煽りを回避する試行として欧州社会において提示された選択肢として「第三の道」はありました。以上、あくまで一般論として、ですけれども。

(前略)お二方とも人類が行ってしまった歴史的愚行について何年も何年も大マジメに考え続けてきたのだ。それだけの篤い学識をお持ちになる方々の警鐘や啓蒙が理解できない者は確かに「あたまがわるい」のかもしれない。


(2)無教養な者のこの種の事象に対する無関心・無理解も問題だが、反面、ホロコーストのように人間の暗い部分に突き刺さってくるような事件は、知れば知るほど余り語りたくなくなるものだと自分は考えていた。この種の話題は、何を言っても欺瞞になってしまったり、あるいはただのキワモノ趣味に堕してしまう危険性があるので、取り扱いについてはよほど慎重に行わなくてはならないと思う。ところが、どうもApemanさんはそうではないらしい。Apemanさんには、そうした欺瞞や露悪を自らの中で克服されてきた自信が相当におありになるのかもしれない。仮にそうだとすれば、自分のように無知で無教養で勇気もない人間にはとても太刀打ちはできない方であらせられるなあと思った。


ところで物の考え方の根がナチスな私はホロコーストを「人類が行ってしまった歴史的愚行」とも「人間の暗い部分に突き刺さってくるような事件」ともまた「人類史の悲劇」とも思わない。考え方の根がナチスであるとはそのように修辞的に人の生死含めて物事を考えないということであるけれども、あのくらい理性の光と人間性への楽観的認識と文明への信頼に裏打ちされたリテラルな行為はないと思っている。その結果として人が大勢ガス室で死んだが、宇宙開発だって人類を月に送るために死者は出る。ヘルシングの少佐ではあるまいし、別にSSは人を殺すために人を殺していたのではない、サディストはいたが、建前として人類の前進とドイツ民族の存続のため心ならずもやむなく最終的解決を選択し実行していたに過ぎない。


趣味の悪い逆説は措き、現在の人類社会においてはホロコーストはイクナイこと、というか絶対悪ということになっている。絶対悪として思考停止することなく色々と見ていくと滅法興味深いし現在の議論に敷衍しうるが(あれは単なる人種差別主義の問題ではまったくない)それは措き。


ホロコーストという価値判断において否とするよりほかないような犯罪行為を持ち出して貴方の主張の延長はそこですよと指摘することは威嚇の部類である、というのはわかります、が、それを言うなら、トリアージという価値判断において是とするよりほかないような医療行為を持ち出して貴方の認識はその点において足りないですよと指摘することもまた威嚇の部類であるかも知れません。極限事例を持ち出して為にするかのごとく参照するべきでない、ということなら。


言うまでもなくホロコーストトリアージは極限事例としても対照に位置します。ホロコーストとは極限状況の無検討な僭称と煽りに基づいて導き出されたマッチポンプな最適解であり、トリアージは普通に誰のせいでもなくマッチポンプでもない極限状況において要請される行為です。それをして前者の悪意を後者の善意を決定的相違として指摘することは妥当であり、そして社会的概念として導入を要請されるトリアージは、少なくともマッチポンプな最適解でないか検討の余地が存します。一般論としては。なお、経営学の講義風景としては非難さるべきこととも私はまったく思いませんが、それは私が教育に最適解も妥当解もなしと無責任な立場において考えるからです。


「わからない」ことの表明 - novtan別館


最初に拝見したとき、何のことを指しているのかわからなかった。この場合の「わからない」とは「貴方がたの依拠する文脈には乗りません」という明確な意思表示です。人文的な議論とは文脈的な議論です。


HALTANさんに対して、僭越ながら私なりの個人的な意見を申し上げるなら、Apemanさんは文脈的な了解が存するなら文意明瞭な人であって決して徒に衒学的に威嚇する類の議論をする人ではない。その「文脈的な了解」が難物なのだけれども。で、「貴方がたの依拠する文脈には乗りません」「貴方がたの持ち出す文脈には乗りません」というのは、むろんそれは自由ですが、文脈的な議論に対して駁するなら文脈的に駁するべきとは思うのです。一連の議論は、無知とかそういう話ではありません。


批判ということではなくて、「貴方がたの持ち出す文脈には乗りません」ということは十二分に了解されています、そして本件についてホロコーストが持ち出されたことは「場違い」ではありませんし威嚇の類とも言えません。文脈を細かく読むならわかることです。そして文脈を細かく読んだうえでそのような文脈に対して不同意であるなら、御自身の拠って立つ文脈について説明されないと少なくとも先には進まないと思います、先に進める意思あるなら。


元記事を記した人に他意はなかった、ということなら私もそう思います。だからそういう話ではない、ということと私は理解しているのですけれども。「にもかかわらず」ホロコーストを持ち出して「叩く」ことの問題と言うなら、私の見解は人それぞれの正義があると言う意外にありません。元記事を記した人に信じる正義が為すべき正義があるように。そして性格の悪さについてはブロガー皆お互い様です、私については言うまでもなく。引用するとわかるのですけれども、HALTANさんの文章は老獪で政治的です。「横槍」として。

「3年前、この街に戻ってから俺もその幻の中で生きてきた。そしてそれが幻であることを知らせようとしたが、結局最初の砲声が轟くまで誰も気付きはしなかった。いや、もしかしたら今も」


「今こうしてあなたの前に立っている私は、幻ではないわ」

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