HALTANさんへのマジレス(倫理の枷について)


承前⇒「場違いな場所で場違いな文脈で人類史の悲劇を持ち出し」ているのではありません。 - 地を這う難破船


http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080808/p1

はあ・・・合理主義の究極の帰結としてのホロコーストの検証ということでしょうか? 「トリアージが暴走すると怖いことになるかもしれないよ?」という話ですか? だったら素直にそういう話をすればいい。


「みんなはひとりのため」を外した「ひとりはみんなのため」が暴走するとアレなことになる、という話です。「ひとりがみんなのためになることによってひとりのためになるべく社会を考える」がドラッカーの当初説いた経営学でした、「ひとりがみんなのためになることによってみんなのためになる」とするナチスの構想した社会を克服するべく。ナチスはドイツ社会の歴史的多様性を合理的に均一化し類的概念において一切を塗り潰しました。ヒトラーは「私たちの危機」をその切迫性を説き続けました。日々説かれる「私たちの危機」はその切迫性は現代日本社会においても他人事ではありません。「私たちの危機」において個人を単位とするネオリベ的な解があり、一方、共同体を単位とする解も、あるいは国家を単位とする解も存します。雑に言うなら。


最大多数の最大幸福へと還元さるべく資源を合目的的に配分せんとする思考において近視眼な感情論は無益である、というのはその通りです、が、それはそもそも現場の思考でなくその還元さるべき対象の妥当については議論が存します。本当に最大多数の最大幸福であるかまたそれへと還元さるか、と。みんなのためにおまえ死ね、と言って言われた相手が納得するか、難しいところです、ユダヤ人もガス室で納得したか、難しいです。みんなのために誰かが死ぬ、という議論はそのことを含みます。すなわち死ぬ誰かの主観を、それを構成する個を。


むろん医療概念としてのトリアージとはそういうことではない。だから、そもそもが所謂擬似問題である、ということです。みんなのために死んでいい人などいない、というのがリベラリズムです。みんなのために人死にが出ることはやむをえない、というのがナチスドイツの合理主義です。別にナチスの高官は殺人狂だったわけではない。


しかしそれは現代日本社会とは接点において薄く現在の日本においてホロコーストへと至る蓋然は低い、あれは極端な世界の話であって、にもかかわらず現代日本の社会的な議論においてホロコーストを持ち出すこともまた極端に過ぎる。そうした見解があることはわかります。ところであれは極端な世界の話ではまったくありません。


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みんなのために人死にが出ることはやむをえない、と私たちはどこかで思っています。それが悪いということでもまして罪であるということでもない。ただそのことを経済的に合理化することは、悪くも罪でもありませんが、危険ではある、ということです。


みんなのために人死にが出ることはやむをえない、そう思ってしまうことに私たちは後ろめたさを覚えています、それは倫理的なダブル・バインドであるのですが、資源の有限性を前提とする経済的な合理化はその二重拘束を倫理的な枷を解き放ちます。


これははっきりと書きますが、fuku33さんが当該の講義においてまたエントリにおいて企図したことはそのことです。それが悪いとは私は思いません、まして罪であるとはまったく思いません。fuku33さんは解き放たれて然るべきと考えている。そのことが批判さるべきこととも私は思いません。それは確かに経営学的思考の第一歩であって、言うまでもなくfuku33さんは差別主義者ではまったくない。


そして現実に、倫理的な二重拘束において自身の選択や行動にひいては存在に過剰に苦しむ人が、ことに若い人にあるとき、その枷は解き放っていい、時に無用な苦しみでしかないのだから、と私は言いたくなることがあります。少なくともそれは学問するとき無用な枷でしかないこともあります。しかし、資源の有限性を前提とする経済的な合理化がそのダブル・バインドを倫理的な枷を解き放ったとき、かつてSSの無法がまた関東軍の専横が横行したことも事実です。だから。

この騒動の最初の方に言ったんだけど,これは結局,道具に責任がある文化圏に組みするApeman氏と,道具になぞ罪は無い(つまり,使う人にしか罪はかぶせようがない)文化圏に組みするHALTMAN氏がかみ合わない論争(再開後は既に論争ですらないと思うけど)を続けていると理解すべきではないだろうかと.


トリアージに方法論としてのホロコーストを見るか,得られるべき結果としての人命救助を見るかと言う意味で最初から全くかみ合っていないし,たぶんかみ合うことはない.

道具に罪はある文化圏と道具に罪は無い文化圏は交われない - smectic_gの日記


このことについてはある程度その通りとも思うのです。ただし、この場合の「道具」とは「資源の有限性を前提とする経済的な合理化が『みんなのために人死にが出ることはやむをえないと思ってしまうことに私たちが後ろめたさを覚える』二重拘束としての倫理的な枷を解き放つこと」です。


すなわち、そのこと自体を問題と見なすか、あるいは鋏は使いようであってホロコーストは論外であるがそれによってより多くの人を合理的かつ経済的に救いうる、と考えるか。後者であるfuku33さんはその典型的かつ端的な事例として、災害時のトリアージを例示しました。むろん、そのこと自体は、ことに経営学の講義においては妥当です。


私が思うことは。より多くの人を合理的かつ経済的に救うこととホロコーストは案外と表裏であって、決して論外と倫理的に断じて済むことでもない、ということです。すなわち、「より多くの人を合理的かつ経済的に救う」という発想自体が倫理的な問題を含むということです。その倫理的な問題について公然と問われて然るべきとは私は必ずしも思いませんし、REVさんがよく皮肉るように全員平等に死ねば宜しいということでもまったくない。ただ一般的に取り扱うならそのことに留意しないと擬似問題でしかないだろうということです。あのとき「葛藤がない」と指摘した人があったのは、そのことです。すなわち、必ずしも人格的な非難でなく論点の提示であったのですが。


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そしてそもそも思うことなのですが、ホロコーストを極端な世界のこととしてタブー化しようとする人に限ってホロコーストのことを知らない。HALTANさんが引用する当該部において私が暗に言っているのはこういうことです。ホロコーストを過剰にまた紋切型に修辞してタブー化してしまうことこそ「欺瞞」であり「キワモノ趣味」である。数百万人が組織的かつ計画的に殺されると人類史の悲劇ですか。そういう紋切型の修辞こそ「欺瞞」であり「キワモノ趣味」と私は思う。


日本はヨーロッパでもアメリカでもない、すなわちナチスホロコーストについて触れることの反響が欧米社会と比して強くない、がゆえにそのことについて多少なり闊達に物を言うこともできる、あるいは麻生太郎のように。否定的枕詞を連ねずともおおっぴらに関心を示すこともできる。そのときに「人類史の悲劇」といった紋切型の修辞を用いて現代日本社会の議論において徒に持ち出すべきでないとすることは、それは結構なのですが、ひょっとしてHALTANさんは本当にホロコーストのことを殆ど知らないのですか。知らない、にもかかわらず持ち出すに自重せよと言われる、それは反戦平和主義者の軍事忌避ゆえの軍事知らずとよく皮肉られる話と何が違うのでしょうか。


ナチスホロコーストは結構なことです、だからナチスホロコーストを忌避して結果そのことについて知らない、あまつさえそのことについては持ち出すに自重せよ人類の原罪であると他人に言う、あれはまったく人類の原罪ではありませんが(端的に言えばナチスカトリック的な発想と親和的ではありません、当たり前のことですが)、それこそよく皮肉られる「軍靴の足音」ではないのですか。ナチスホロコーストに関心持って自習の結果を見せ付ける奴キモイ、ということなら、所謂ミリオタが散々言われてきたことでもあるし、私は大いに甘受しますが、S・キングの『ゴールデンボーイ』のような認識をナチスについて示されてもそれはあまりに素朴にキリスト教的な解釈ですねと言うよりほかありません。いやキングは好きだし同作は映画含めて好きですが。


私がことナチスホロコーストに関心持つのは自分が20世紀後半の先進国に生まれた文明社会に生きる理性的な文明人だからですが、結局のところ「資源の有限性を前提とする経済的な合理化が『みんなのために人死にが出ることはやむをえないと思ってしまうことに私たちが後ろめたさを覚える』二重拘束としての倫理的な枷を解き放つこと」こそ理性的な合理主義者の善意と人間性への楽観主義に基づく神殺しの最終実装であったわけです、ナチスドイツが是とした。チェスタトンの慧眼畏るべしということです。


「だから」経営学ナチスと言って貶めているということではまったくない。鋏は使いようということです。経営学において鋏が目的とするところは人です。いま生きている人です。人を目的として鋏を使いようと考えるのが、ナチスを克服するべく構想されたドラッカー経営学でした。しかし鋏は容易に人を殺してしまう、倫理的な枷を外すとはそういうことである、そのことに留意することが、かつて行われたホロコーストに留意するということです。ゆえに、ドラッカーは組織を倫理的な枷として構想しました、人をひいては個人を目的とする組織として。


ごくわかりやすく、敢えてキリスト教的に善悪で言うなら。善なる合理主義(=トリアージ)と悪なる合理主義(=ホロコースト)が存するときその分岐は意図の善悪において決定されるものでは必ずしもない、だからこそ個人の意図の善悪を前提しない倫理的な枷としてドラッカーは組織を構想しマネジメントを説いた。――そういうことです。


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少なくともhokusyuさんは「経営学者=ナチス」と言わんばかりの牽強付会を行っているわけで、そんな人の話を真面目には聞けませんよ。


「何が問題とされているかわからない」「何が問題とされうるのかわからない」ということについては私が勝手に答えたく思ったのでお答えしました。むろんHALTANさんが納得されるかは別問題です。私の悪文は事実です。HALTANさんを「あたまがわるい」とは、多くの人がまず思っていない、むろん私も思っていない。fuku33さん個人が叩かれて然るべきであったとは私自身は思いません。


私の考え方を述べるなら、軽蔑すべき行為と人は、少なくともネットでは分けます。そして仮に軽蔑すべき者があるとして、そのことと任意の問題に対する判断は分けます。私がhokusyuさんをその行為を軽蔑すべきと判断しているということではないということを念の為記しておきます。他人に対して直接かつ直截にネガティブな言葉を投げ付ける、私自身はそれはネットではやりませんしその甲斐も見出せないのですけれども。むろん人は甲斐のために個人として発言するわけではありません。


私は、軽蔑もまたその自己基準も表沙汰にすべき類のこととは思いませんが、軽蔑すべき行為が者があるとして、軽蔑すべき者の言論や問題意識もまた軽蔑さるべきとは、まして軽蔑すべき者が問題とすることは問題ではないとは、まったく考えません。持論ですが、軽蔑には軽蔑をもって返礼されます。そして直接オトシマエ付けることのかなわないネットにおかれては、軽蔑に軽蔑をもって返礼するよりも、マジレスにマジレスをもって返礼した方が、精神衛生上も宜しいのではないでしょうかというのが私見です。ふだんあまり反応にレス返さない私が言っても説得力皆無なのですが、HALTANさんにはマジレスさせていただきました。軽蔑すべき他人を貶めるよりは、議論を煮詰めるべきです、チェスタトンに惹かれながらも決してチェスタトンにはなりえない近代合理主義者の私はそう考えてきたのでした。

木曜の男 (創元推理文庫 101-6)

木曜の男 (創元推理文庫 101-6)