論じられた残りのもの(政策としてのトリアージ)


トリアージ批判が理解できない理由

お説はごもっとも、しかし瀕死の重傷者を救わねばなりません


"善なる合理主義(=トリアージ)と悪なる合理主義(=ホロコースト)" - REV's blog


一連の議論について補記。最初に。

2008年08月10日 b:id:aksumi  「学問の自由」というフレームワークについてはどうお考えなのだろう?

はてなブックマーク - HALTANさんへのマジレス(倫理の枷について) - 地を這う難破船


日本は中国ではないのであるからして学問の自由は保障されていますし保障されて然るべきであってもし保障されていないならとんでもないことです。それとも、はてなサヨクというのは現代の蓑田胸喜なのですか。「学問の自由」とはそういうことと思います。

蓑田胸喜 - Wikipedia

むろん、aksumiさんの言わんとされることについてはわかります。相互批判と学問の自由は同一の基底において担保されます。誰も禁止を命令する立場にはない、ということです。「資源の有限性を前提とする経済的な合理化が『みんなのために人死にが出ることはやむをえないと思ってしまうことに私たちが後ろめたさを覚える』二重拘束としての倫理的な枷を解き放つこと」というのは経営学の学問上の前提ではありません。経営学の講義においてそうしたことを企図することは妥当と私は考えます。

でもだからっていきなりホロコーストまで飛んでしまうのもどうか。素直に、人種差別は許せない、愚かな国民に対する人気取りに人種差別的政策が採用されることはよくないで、必要かつ十分じゃないか。

http://d.hatena.ne.jp/zoppo03/20080812


「必要かつ十分」ではないです。あれがそういう話だったならどれほど了解するに楽か。そして、楽に了解してもあまり意味がないことです。人種差別は許し難い、とだけ言っても。ことホロコーストについては。

暴走したときの危険を根拠にして元のものに倫理的な問題があると説くのはどう考えてもフェアではない。大抵なものは暴走したら有害に決まっていて、それは有用なものほどそうだ。問題は暴走のリスクがどれだけあって、それをどのようにすれば抑制できるかということであって、暴走の理論的可能性ではない。


これを度外視したこの批判は、類型的なレベルの低い原子力批判のようだ。原子炉が暴走したら確かにチェルノブイリのような悲劇が起こるには違いないが、チェルノブイリには機械系にも人間系にも、日本では存在しないような構造的な問題があって、それがあの事故の発生に不可欠だったこともわかっている。しかしこの種の原子力批判はそういうことを考慮した上でリスクを定量的に評価しようとは考えず、ただただ情緒的に危機を煽る。


率直に言って、今回の件でトリアージ批判をしている人たちには同様の危うさを感じる。有り体に言えば、数式や統計が苦手な人が、定量的な判断を回避して情緒に頼るという反知性主義的後退だ。

トリアージ批判が理解できない理由

学問やってる人間をなめないでほしい、と正直思う。学問をやる上で基本的なことは、自分が何を前提においているかを意識することだ。仮に、倫理的な前提を度外視して最適解を求めるのが経営学だとするなら、そのこと自体は価値中立的なのだ。その解を無批判に現実に適用しようと政治的に動いた時点で、はじめて問題が生じる。


このことは進化論と優生学の関係を考えればすぐにわかるだろう。進化論を安直に理解すると(事実記述と価値判断を混同すると)直ちに優生学的な判断に至る。そして、優生学を嫌う人道的な気持ちが創造科学という反動を産む。まさに悪夢だ。本当の悪は「事実記述と価値判断の混同」であって、進化論じたいではないのに。


実際のところ、こういう「最適解」を現実に直ちに適用するのは学問的手続きとしても粗雑なものとしてしか扱われない。学問上の前提の倫理的判断という必要な手続きが省略されているからだ。

トリアージ批判が理解できない理由


具体的な異論に感謝します。理工系の方であるということで、説明させていただきます。根本的に誤解があると思います。


第一に、ホロコーストチェルノブイリではありません。任意の政策とその貫徹の問題です。第二に、少なくともドラッカーの議論は価値判断を倫理的なそれも含めて前提するのでその意味では(たとえば工学のような)学問ではありません。「倫理的な前提を度外視して最適解を求めるのが経営学」ではない、したがって経営学ナチスではまったくない、ということは各方面で再三指摘されており私も再三記してきました。第三に、そもそもが、ナチスの提示した最適解とは大いに価値判断含みでした。その大いに価値判断を含んだ最適解とは何であったか。


「本当の悪は「事実記述と価値判断の混同」」ではありません。「本当の悪」であるかはわかりません、が、本件の要点は「事実を事実と提示することの価値判断」にあります。

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私事ですが先日『闇の子供たち』を観てきたので、少し、それに即して記してみます。臓器移植技術者に対して人身売買の非道を説いても筋違い、というのはその通りです。私たちの社会は臓器移植技術を必要としている、あるいは原子力のように。


昔、養老先生が切れていた。「私は他人の臓器をもらってまで生きたいとは思いませんね」と養老先生の面前で言った、それも医者がいたらしい。――健康な人間がほざくな、生まれつきの故障した臓器を抱えて長年の人工透析に耐えてから言え、話はそれからだ、と。技術と機会あるとき「他人の臓器をもらってまで生きたい」と人は思うんだよ、と。私も、健康な友人に会うたびその内臓がほしいほしいと口癖のように言っている、内臓を完全に駄目にした人を知っている。むろん友人は引いているが人とはそういうものであると知っている。私は不健康なので私のは欲しくないらしい。


ところで臓器移植技術は必要なのか、放っとけば死ぬ人間は放っとけば宜しい、という見解もあって、そしてその見解は少なくとも他者との対話を志向するものではない。倫理性とは結局のところ他者の存在を前提しそれを志向することです。他者性なき一般論に倫理的な問題が存することと学問上の前提とは関係がない。前者を指摘することは後者に顧慮しないことではまったくない。優生学の問題とは、他者性なき一般論を学問を偽装して倫理的な問題を捨象して説くところにあります。

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先に示した対立は、繰り返しになりますが、前提を全てに必ず適用すべしというのと考えるときは外してみることも必要というのの対立だと思っています。そして、時には本当に限られた資源により、倫理の枷を外さなければならないことがあり、それがトリアージなどに繋がっている、と考える。sk-44さんは「全員平等に死ねば宜しいということでもまったくない」とおっしゃるし、それには同意したいけれども、時に「じゃあ平等に死ねばいいのか!」と詰問したくなる視点の押し付けがあることは否めないのではないでしょうか。

ひとりのため。 - novtan別館


他者性を問うあまり「全員平等に死ねば宜しい」になることの問題、というのはあります、が、トリアージに対する批判的別解とは「放っとけば死ぬ人間は放っとけば宜しい」であってそれは見解ではあるが他者性なき一般論でしかない。そしてホロコーストへと至る過程においてナチスはゲットーのユダヤ人に対してそのように処しました。「放っとけば死ぬ人間は放っとけば宜しい」と。手を差し伸べる要はなくそうすべきでもないと。


なぜなら国家の政策として既にトリアージが行われたからです。ユダヤ人の判定はユダヤ人であることを理由に「黒」でした。トリアージの結果として判定が「黒」だったのであって殺すために殺したのではない、というのがナチス戦犯たちの後の言い分です。国家が政策としてトリアージを遂行するという発想自体がアレであることには思い至らないのが第三帝国の高官たちでした。


その教訓を経て第二次大戦後の欧米社会はひいては先進国世界はあります。近代国家はまた人間社会は「放っとけば死ぬ人間は放っとけば宜しい」では立ち行かないし回らない。少なくともドラッカーはそう考えていたし、信じていました。そしてたぶんにそれは事実命題でもある。他社性を一切捨象した人類社会は終わりへと向かうでしょう。


そして。近代国家は人間社会は「放っとけば死ぬ人間は放っとけば宜しい」では立ち行かないし回らない、と考えるところから政治が始まる。端的に言うなら、政治とは「放っとけば死ぬ人間は放っとけば宜しい」では立ち行かず回らないと考えるところにおいて、では何を優先し何をやむなくペンディングするか、決定し試行し続ける営為です。正義において。


みんなのために死んでいい人間などいない、というのがリベラリズムです。そして、結果的にもみんなのために死ぬ人間をみんなで決めるのが政治です。異論はあることでしょうが、少なくともアガンベンは現代世界の直截な政治をそのように解きました。だから。政治の政治性に対して自覚的であれ、というのがリベラリズムの現実解となり基本原理となる。みんなのために死んでいい人間などいないのであるからして。対するに批判として、みんなのために死んでいい人間などいないのであるからみんなで死にましょうが現実解であり基本原理ですねわかります、ということになぜなるのか私はわからない。


そして、みんなのために死ぬ人間はみんなで決める必要ありませんプログラムにおいて決定されます、よって政治は要りません、というのが所謂全体主義であり、優生学です。全体主義とは「みんな」を前提に任意の社会における政治を塗り潰す発想のことです。他者の死を「みんな」の名の下にプログラムし自動決定するシステムです。

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誰もホロコーストの話をするなとまでは言ってない。ではなくて、水戸黄門の印籠のようにホロコーストを持ち出すのはやめませんかといっているに過ぎない。出てくる文脈にそれだけの違和感を感じたし(僕だけではなく)、その結果として「ホロコースト」という言葉そのものが単に威嚇としてしか機能してない。これって、実際に体験して死んだ人たちが望んだことなんですかね。


したがって、

(私注:安易に)あたかも他者を全体主義者であるかのように言うアナロジーは良くないのではないでしょうか? 自分はこのことしか言っていないと思うんです。

というHALTAN氏の一言で、もう十分だと思う。

http://d.hatena.ne.jp/zoppo03/20080812


「これって、実際に体験して死んだ人たちが望んだことなんですかね。」という発想が「「ホロコースト」という言葉そのもの」を威嚇たらしめること、それはわかります。私たちの同胞でもない半世紀以上前に死んだ人間個々人のことはどうでも宜しい。という物言いを他者性なき一般論と言います。半世紀以上前に死んだ人間個々人のことをどうでも宜しいと思わない人たちがいるから、政治は存在し要請されます。人類社会の必然として。言うまでもなく、現在においてなおホロコーストをめぐる議論は政治であることを免れません。それは必然です。


主義者であるかはわかりかねますが、というか私はまったくそうは思いませんが、しかし、他者の死を非政治的に決定する政治システムは全体主義です。死刑論議に顕著ですが、私たちは他者の死を政治的に決定するから責任を覚える。時に後ろめたさを覚える。前法相が提案した「自動死刑執行」の問題とはそこにあります。前法相の提案に私たちが抵抗感を覚えたことも。たとえば所謂南北問題について先進国で言われるように、そのことが徒に自身を責めさいなむ規範となるならそれは問題です、が、トリアージとは何か。

そうじゃなくて、トリアージとは、予め適用すべき要件を事細かに、現代社会としての倫理の面も十分に組み入れてパッケージしたものである、と考えることが出来る。その場合、パッケージ化されたことによって、現場の人間もパーツとして、個々の倫理から開放された状態で従事できる。この個々の倫理からの開放が正しいかどうかは措く。

トリアージの善悪 - novtan別館


医療概念としてのトリアージとは何か。他者の死を政治的に決定しないためのシステムであり、プログラムです。政治とは立場の相違に基づく利害の衝突とその調停です。私の死と他人の死は違う、私の近親者の死と誰かの近親者の死は違う、私の同胞の過去の死と誰かの同胞の過去の死は違う。だから大規模災害の際の組織的救命活動において政治を導入してはならない。それは「現場の人間」の負担のみならず経済的合理性にも資する。加えて政治問題を引き起こさない。最適解の以前に最善解です。


そのゆえにトリアージとは他者概念を前提することなく志向することなきプログラムです。そうあるべきだからです。ただそれは政治ではありません。政治なき政策において他者の死を経済的かつ合理的に決定し当該社会の構成員の負担を取り除く、それは全体主義的発想です。それを全体主義的発想と言うのです。そしてそれは途上国で臓器買う先進国の構成員の負担を取り除いてきた論理でもある。


私たちは死にかけている人に手を差し伸べたいと思う、それは人間社会の事実記述では必ずしもない。価値判断を含む。他者の存在を前提し志向することもまた価値判断です。政治とはそこから発する。他者の死を経済的かつ合理的に決定し社会の構成員の負担を取り除く政治の欠如した社会とその政策を全体主義と言う。それが暴力装置を有する国家において貫徹されると時にホロコーストへと至る。


私たちは死にかけている人に手を差し伸べたいと思う、そのことを欺瞞と見なし否としたのがニーチェを盛大に誤読したナチスの価値判断でした。ヒトラーという人は、私たちが死にかけている人に手を差し伸べたいと思うことをまったく信じなかったし認めなかったし、そもそも信じられなかった。そうした世界観はヒトラーに限られたことではまったくないし、過去の話であるわけでもまったくない。


むろん、ヒトラー政権の誕生がそうであったように、政治の欠如したプログラムとしての政策は任意の社会において圧倒的に非対称な利害関係に基づき政治的に決定される。「本当の悪」と言うならそれが本当の悪です。他者性なき一般論においてそのことをまるっとひっくるめて肯定するなら、それは全体主義的発想です。全体主義的発想だから悪いということではありませんが、私はドラッカーの読者なので価値判断において否とします。

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人身売買は何が悪いだろう。圧倒的な非対称関係において他者としてある人体が金銭で買われることが悪い。しかしそれは経済的かつ合理的な最適解ではないのか。先進国の子供にどれほどの社会にひいては世界に還元さるべき資源が注ぎ込まれているか。命の値段とはそのことで、だから、人身売買が悪であることはあくまで政治的に決定される、他者の存在を前提し志向する任意の価値判断において。


それが涵養されたのもまた先進国です。経済的かつ合理的な最適解において圧倒的な非対称関係を捨象し圧倒的な非対称関係に置かれた存在を結果的にも抹殺する、そのことをまたそうした発想を否とする基盤に他者概念とそれへの志向が存します。それは、ホロコーストを経た先進国世界の社会的前提でした。過去形としなければならないか、未だわかりかねます。


人身売買の議論に対して臓器移植技術の価値中立を説いたところで筋違いとしか言えず、そして臓器移植技術は価値中立ではない、環境問題が価値中立でないように、それが政治ということで、事実の記述と自称する価値判断がそのとき乱舞します。人が死ぬことは事実の記述です、そこから先は価値判断の範疇です。「私たちは死にかけている人に手を差し伸べたいと思う」は事実命題ではない。たとえば御釈迦様なら意にも解さないでしょう。そして地下鉄で価値中立な神経ガスは散布されました。神経ガスが価値中立であるはずもないのですが。


救命医療自体が詮無い、どのみち人は死ぬし死はそれ自体悪ではないのだから放っとけば死ぬ人間は放っとけば宜しい、という価値判断含みの自称事実記述は他者性なき一般論です。そのような事実記述に対する価値判断から、長い長い人類史における価値判断の積み重ねから、災害時の救命医療は臓器移植技術は、そして原子力は生まれました。トリアージにおいて他者概念は要らない。要請さるべきではない。ただ他者を前提も志向もしない社会政策論は所謂全体主義的であるということです。私たちの社会は圧倒的な非対称関係に置かれた他者の捨象と結果的な抹殺を価値判断において否とするところに成立しています。優生学が否とされるように。それが「寛容」の意です。

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直截には。任意の社会において、救うべき命と救うに難い命を結果的にも判断し選別する営為が政治です。そして、それを「トリアージ」的概念において経済的に合理化するなら、社会の構成員に対して判断の負担を取り除くため説かれるそれが妥当であるか、グローバリゼーションを前提する言説が時にその現代的な類型であるときそのことをどう判断するか。本件において問われたのは、そのことでした。「歴史的経緯」に鑑みて妥当と判断しない立場がある、ということです。それをして左翼と言うならその通りです。なお周知の通り私は左翼ではまったくありません。


そして、任意の社会において救うべき命と救うに難い命を結果的にも判断し選別する営為を「トリアージ」的概念において経済的にも合理化し社会の構成員に対して判断の負担を取り除くため説かれた「生存圏」概念が、ホロコーストへと帰結したことを、そしてそもそもそれは端から判断ありきで結果論を先取りするべく持ち出された「トリアージ」概念であったことを、私たちは歴史的事実として知っている、ということです。その問題とは何であったかということです。国家が人間を殺すことを問題と私たちが思うなら。私もまた、原理的には肯定できません。

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

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