Sokalianさんへの再レス


吾輩は馬鹿である

で、トリアージ批判は一般人に理解可能なの?不可能なの? - 吾輩は馬鹿である


増田氏がはてなダイアリーを開設した模様。REVさん同様、私も嬉しく思います。Sokalianさん、idとしてははじめまして。丁寧なレスポンスを有難うございます。改めて再度お返事させていただきます。最初に。

確かにトリアージは「他者性なき一般論」でしょう。しかし、それはトリアージに限ったことでもないし、ある種の状況においては「他者性なき一般論」を用いる以外公平性を担保する適切な方法がないのも実情です。


事実、私は「他者性なき一般論」のよい例をいくつもあげることができます。例えば、年齢のみを基準とした義務教育や普通選挙。万人に平等な基本的人権法治主義。こうした概念は「他者性なき一般論」であるからこそ、成功をおさめたものです。


まさかこれらのものにホロコーストと同様の問題があるとはおっしゃいますまい。だとすれば、トリアージの件にホロコーストを持ち出したid:hokusyu氏に疑問を覚えてしまうのです。


平等や基本的人権は「他者性なき一般論」ではありません。トリアージにおいて担保される公平性とは決定的に相違します。平等や基本的人権普通選挙は任意の価値判断に規定されます。価値中立な方法論ではない。任意の価値判断とは、フランス革命において謳われたそれです。


簡単に言うなら、経済合理性に基づくときリターンなき対象に投資することは意味がない。すなわち、知的障碍者に就学義務を負わせることはリソースの浪費でしかないし、また、加藤智大の最高裁へと至る公判にもたぶん意味がない。つまり、私たちの社会は任意の価値判断において規定され運営されているということです。それはホロコーストを否定する価値観です。「これらのものにホロコーストと同様の問題があるとはおっしゃいますまい」というのはその通りです。

「第一」については、そういうことを言ったわけではありません。ホロコーストチェルノブイリという二つの悲劇を並べたわけではありません。危険性のあるものについて、危険性の質を問わずに問題視することに反論したものです。


「第二」については、経営学にも色々な立場があるということです。ドラッカーの議論については私は無知なのでおいておくとして、少なくとも件の講義で福耳先生が説いたのは「制約条件の中で最適化を行う」という発想についてです。これは純粋に数理的な手法なので、価値判断は含みません。そして、その例としてトリアージを出したことが不適当と言われているのですが、例えば核物理学の講義で核分裂連鎖反応の話を例示として出したとき、これは「核兵器という不適切な例を用いた」といって批判されなければならないのでしょうか?


危険性の質は問われていると思います。つまり、トリアージ概念を非極限状況において説くことの問題として。すなわち、「制約条件の中で最適化を行う」という発想についてトリアージを例示することの問題について。Sokalianさんは医療概念としてのトリアージを是とされる。そして犯罪行為としてのホロコーストを否とする。トリアージの例示をもってホロコーストを参照して批判すべきでない、純粋に数理的な手法であって価値判断は含まないのであるから、ということですか。問題の所在について改めて説明します。

「第三」について、また、問題をこのように数理的なモデルに落とし込む段階では、現実をモデル化する際に何らかの価値判断が入ってくるというのはもちろんおっしゃる通り。しかし、これは「道具の使い方」の問題であって「道具自体」の問題ではありません。包丁を熟練職人が使えば、芸術的な料理の腕を振るうこともできるし、殺人鬼が使えば惨劇が起こる。そして、トリアージというのは「できるだけ多くの人を救う」という目的なのだから、ホロコーストと同列だとするならば、正反対の極にあると言うべきものです。少なくとも、「最も多くの人間を助ける」ことを目的としたモデル化に倫理的な問題があるとは私には思えません。


現実をモデル化する際にナチスな価値判断が入ってくることの問題、が今回問われています。ナチスな価値判断とは何か。平時を極限状況と見なす発想のことです。トリアージとはそもそも戦場の論理です。有限な資源の最適配分が制約条件の中での最適化が問題である、ということではありません。極限状況におけるそれを「できるだけ多くの人を救う」という目的において是とすることはむろん妥当です。それが医療概念としてのトリアージです。しかし、国家が主導する任意の社会におけるそれを普通は総動員体制と言います。


「私たちは危機的な極限状況に直面している」とヒトラーは説き続けたし事実彼は世界を類的存在の生存闘争の場と認識していました。そして、「私たちは危機的な極限状況に直面している」という認識において戦場の論理としてのトリアージが国家の政策として遂行されました。既成事実化され自明と見なされた任意の「制約条件」が有限な資源の最適配分を国家において促したのです。最適化のためにやむなしとして、ホロコーストが行われました。その、既成事実化され自明と見なされた任意の「制約条件」がきわめて恣意的かつ権力的なものであったことは言うまでもありません。


トリアージが非極限状況において説かれるときそれはホロコーストへと至る論理と同型の問題を含む、問われているのはそのことであって、指摘されているのはそのことです。トリアージに限ることなく、方法論は任意の目的の存在を前提とします。「できるだけ多くの人を救う」という目的が是とされるなら、それは価値判断です。目的の存在を前提するとき価値判断に規定されない方法論は存在しません。私たちはなぜ包丁を発明したか、生きるため、あるいはよりよく生きるためです。それもまた価値判断です。よりよく死ぬことを説いた宗教者で歴史は満ちています。そして。

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人は生きるため、よりよく生きるために、他者の生をそのよりよい生を損ないうる。たとえば環境問題として問われているのはそのことです。環境問題に対して、では人類が絶滅すれば宜しい、という紋切型の見解があって、それもまた価値判断ですが、それは議論になりません。環境問題とは人類の存続を前提とする、すなわち目的とする、任意の価値判断に規定された議論でありゲームだからです。そして、環境問題において問われる人類の存続は、分け隔てされるものでない。それがゲームのルールです。


分け隔てたのがかつてのナチスドイツでした。分け隔てるためにトリアージ概念が持ち出されたということです。私たちが生きるため、よりよく生きるために、他者の生をそのよりよい生を損なうことは「やむをえない」として。「やむをえない」のためにトリアージという戦場の論理が持ち出された、ということです。結果、制約条件の中における有限な資源の最適配分においてユダヤ人は排除され最適化の結果としてホロコーストが行われました。そのとき前提とされた「制約条件」自体が虚偽を含み価値判断を含み、かつ危険であったということです。


このことはfuku33さんがナチスと同型の思想を持ち合わせていることをまったく意味しません。現実をモデル化する際にトリアージを参照するときそれはナチスの論理と同型の危険性を含むということです。ナチスの論理と同型の危険性を含むのではないですか、という指摘においてホロコーストを参照することは妥当でしょう。だから、危険性について否とするならそれはfuku33さんの言及したトリアージについてまず言うべきことではないのですか、とHALTANさんは指摘を受けていました。「純論理的」な問題と思います。


現実をモデル化する際にどのような価値判断を持ち込むか、ということです。そのときトリアージを参照するならそれはナチスの論理と同型の危険性を含みます。「道具自体」の問題ではない、とは、現実をモデル化することの問題ではないということにおいてその通りです。ただ。「道具の使い方」において、現実をモデル化する際にトリアージを参照するならそれはナチスの論理と同型の危険性を含む、すなわち包丁の適切な使用法とは必ずしも言えない、そう指摘されて然るべき余地があるということです。そして。現実をモデル化する際にトリアージを参照することは事実の記述でなくそれ自体が価値判断に規定されている、ということです。


「「最も多くの人間を助ける」ことを目的としたモデル化に倫理的な問題があるとは私には思えません。」その通りです、が。「最も多くの人間を助ける」ことを目的としたモデル化はその前提としてある現実が既に価値判断に規定されています。その価値判断には倫理的な問題が付随する、と指摘されうる、ということです。


「最も多くの人間を助ける」ことを目的にモデル化された現実において制約条件は自明です。その自明において人間の行動は決定されます、「最も多くの人間を助ける」ことを目的に、最適解に即して、葛藤することなく。葛藤することなく最適解に即して合目的的に行動することを決定付けられるということです。そのとき自明と見なされる制約条件は「心ならずもやむなく助けられない者がある」ことを前提に含みます。前提に含むことが召喚する、倫理的な問題があります、と指摘する際ナチスドイツをホロコーストを参照することは妥当です。


そして言うまでもなく、一切は任意の目的に基づいた「現実のモデル化」という所謂机上の議論です。机上の議論で悪いということではまったくありません。そして。任意の目的に基づいた「現実のモデル化」が含む前提条件には論理の罠があります、と指摘することは妥当でしょう。むろん任意の目的に基づいた「現実のモデル化」とはそういうものです、が、論理の罠を含む前提条件を文字通りの現実と考える人もいます。fuku33さんの意図とは別に、記事が書かれ注目された以上、解毒は企図されて然るべきと考えます。

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そもそも、この種の「問題の構造に着目する」という議論は注意しないと危険なことになります。先ほども挙げたように、「お前は人間である、ヒットラーも人間である、よってお前とヒットラーには共通性がある」というような暴言を正当化してしまうことになるからで、そして今回の件は限りなくこれに近い状況だと私は考えています。「問題の構造に着目する」場合は、「構造」だけから言えることに着目するような禁欲的な態度こそが必要ではないでしょうか。話の筋が似ているからと言って糞もミソもナチスと同列に論じられてしまうのでは、それこそ「他者性なき一般論」ではないでしょうか。


「問題の構造に着目する」ことと三段論法の類は違います。ただ、私の見解においては本件は上記のような問題、すなわち現実をモデル化する際に見られる普遍的な問題であるからして、fuku33さん個人に帰する類の議論には私は賛成しません。ホロコーストの個別性や特異性を強調する議論に必ずしも賛成しないことと同様に。「問題の構造に着目する」とはそういうことと私は思います。

前半の質問は、上に書いたことで答えになっているかと思います。宅間守が包丁を凶器に使ったことについて包丁職人が(あるいは料理人が)コメントを求められても答える必要はないし、むしろ怒ってよいでしょう。


私とヒトラーは同じ人間ですが、では私が是とする世界観とヒトラーが是とする世界観はどの点において相違するか、またドラッカーの是とした世界観はどのようなものであったか、そのように考え検討することが無益とは私は思いません。つまり、ナチスの医師は宅間守ではなかったのです。そして宅間守第三帝国においてテクノクラートたりうる人間ではありませんでした。価値判断は個人に帰するものでは必ずしもありません。思想とはイデオロギーとはそういうものです。


糞も味噌もナチスと同列に論じうるものではありません、が、現実をモデル化する際にトリアージを参照することの問題について、その問題点を指摘するときナチスドイツによるホロコースト以上に適切な先例を私は知りません。対するに、その唐突や極端を指摘することは文字通り筋違いであるし、またまったく「場違い」ではありません。何が問題とされているか、ということです。

その論点はこの種の話でよく持ち出されるものですが、これについてもある種の慎重さが必要とされるところだと思います。実際、「地球は動く」だの「人間は猿の親戚である」だのと「事実を事実と提示」したことの価値判断に伴って何が起こったか(そして、現代にいたっても欧米の一部で何が起こっているか)はあなたもご承知だと思います。


ええ。承知しています。だから、現実をモデル化する際にトリアージを参照することの帰趨について私たちは意識するが吉と思うのです。「すべての人を助けられるわけではない」ことを「事実を事実と提示」することの帰趨について。そのときトリアージが例示されるなら、前提が恣意を含むがゆえに価値判断において規定された論理の罠が存します。「問題の構造に着目する」とはそういうことです。思考実験の提示がその倫理的問題について指摘されることは不当である、ということなら、本件において指摘されたのは倫理的問題以前に、論理の罠についてです。そして、論理の罠を規定する任意の価値判断についてです。


最後に。「で、トリアージ批判は一般人に理解可能なの?不可能なの?」ということですが、はてなに集う人間に一般人はいないだろうJK、という冗談は措き、私はそうしたことに関心がありません。ふだん書いていることはもっと一般性に欠けるので。読んでくれる人は読んでくれると思います。ただ、問題の所在について必ずしも了解されていないとき自分が知ることを記したく思いはします。


「一般人」というのがもし「非インテリ」ということなら私も一般人です、端的な事実として。「あたまがわるい」タグを私は使う気にはなりませんし正直うへえと思わないでもないですが、本件は傲慢の問題ではまったくないと思っています。「一般人」が知って詮無い問題関心では決してないと思うのです、こうしたことについては。むろん、「知って然るべき」というふうにはまったく思いません。