思考実験と将棋


捨て駒にされる将棋の駒は「かわいそう」か - 吾輩は馬鹿である

ご冗談でしょう、Apemanさん - 吾輩は馬鹿である

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長めに引用させていただきます。

福耳氏の講義の主旨は、状況は所与のものとしてその中での行動を考えよという問題に関するものであって、トリアージはその一例として持ち出されたものである。


つまり、必要に応じて話の枠組みをあらかじめ限定した上でものを考えてみよ、というのが福耳氏の問題提起である。そして、これに対して「かわいそう」という反応は「ナイーブ」と呼ばれて当然であろう。話の前提を否定してしまっては何の意味もないからだ。


本記事冒頭に掲載した架空の問答はこの状況を説明したものである。この観点からすると、「トリアージのような極限状況を発生させないためにはまず医療資源を充実するなどの対策を取るべき」といった批判はずれているとしか言いようがないのだ。その話は、「資源が限定されていると仮定して」の思考実験を終えた後の検討としてなすべきことである。言ってみれば、361目という限定された陣地を取り合うゲームである囲碁を目の前にして、「碁盤を拡げれば石が殺し合ってまで陣地を拡げなくてすむのに!」と批判するようなものだ。意味がないのである*1。


そして、私が「価値中立的」であると強調しているのはここでいう囲碁や将棋にあたる「思考実験」のことなのだ。なるほど確かに学問的成果を現実に適用する段階では倫理性が問われよう。それは当然だ。だが、思考実験の段階で様々な極限状況を想定しておくことは、現実に対峙する上でも有用な訓練であろう。極限状況においてトリアージを行うしかない、という結論を思考実験にて痛感することによって「トリアージをできる限り回避できる策を考えよう」というような思考も触発されるのである。


いずれにせよ、倫理が問われるのは、思考実験などの考察を得て結論を公表する段階であって、思考実験を行う段階ではない。そして、状況をモデル化して思考実験を行うという手法は多くの学問分野において普遍的に行われている方法論であり、これを批判するのはそれこそ無茶というものであろう。

もちろん、モデルの適切さというものは存在します。そして、ホロコーストが現実のモデル化に基づく合理主義の帰結だとするのであれば、そのモデル化(目的や制約条件の設定)に倫理的問題があるはずです。それに異論はありません。


しかしそのことが直ちに、現実のある種のモデル化の問題を指摘するものではありません。例えば、ナチスにせよオウムにせよ、極端な価値観の元で行動している集団の行動を我々は分析するわけですが、これはまさに、ナチスやオウムが行った「現実のモデル化」を追究しているものです。そして思考実験でそれを追認することにより、彼らのどのような思考法に問題があったかを探り当てるのです。


このことから、ある種の危険性を元に思考実験自体を批判することは、逆にその危険性の内実に関するの思考停止を促すことになると言えるはずです。私はこれを危惧すればこそ、福耳先生への批判に強い関心を持っているのです。


思考実験が倫理性を括弧に入れる、それ自体を批判することは妥当性に欠ける、というのはその通りです、が。思考実験の提示はその括弧の括弧性について了解を前提とする。了解は経営学の学問的前提に含まれている、にもかかわらずfuku33さんが記した当該のブログ記事を批判することは不当である、ということなら、まさにそれが論点です。トリアージが参照される「現実のある種のモデル化」に付随する倫理的問題ないし危険性について、そもそも批判的視座が当該の記事において所在したか、あるいは前提されていたか、ということです。


経営学の講義においてそのような思考実験を提示することは無問題と私は思いますが、それは思考実験の提示に際して限定性と括弧の括弧性について了解が存するというおよそ常識的な前提に基づいて、です。それは経営学以前の学問における前提であるでしょう。前提の不在について任意の生徒に帰責したのが当該記事の趣旨でした。私はそのことに異論なしとはしません。了解の不在を学問的前提の不在に拠るものと読みうる記事ではないからです。


現代社会をトリアージ状況として説明することと経営学的思考を説くために任意の思考実験を提示することはまったく違います。Sokalianさんは後者の話をなさっているのですよね。そして、fuku33さんが記した当該記事は趣旨において両者が混同されている、というのが主要な論点です。「経営学的思考を説くための任意の思考実験」を現代社会の説明として提示するがごとき論旨であった、ということです。fuku33さんの本意は措き。


当該記事は「経営学的思考を説くための任意の思考実験」が括弧に入れる倫理性を目的論的に捨象しているに等しい、ということです。「できるだけ多くの人を救う」「最も多くの人間を助ける」という医療概念としてのトリアージの目的論を「拝借」して。


その目的論は必ずしも自明ではない、ということを指摘するために当初のtoledさんによるものも含めてトリアージへの言及が為されました。「できるだけ多くの人を救う」「最も多くの人間を助ける」という目的論を自明とするのが医療概念としてのそれでない「トリアージ」を是とする立論です。それが批判さるべきとは必ずしも私は思いませんが、ただ、自明ではないということです。その自明を前提に医療概念としてのそれでない「トリアージ」の是を論じるなら自明でないことを指摘せざるを得ません。


そして、目的論的に人間の選択と行動を限定することの非倫理性は極限状況という前提において「合理化」される。合理化が是を担保する、ということです。目的論的に選択と行動が限定される極限状況下における個人の是はその社会的前提において規定されます。自分ひとりがあるいは愛する者ひとりが助かるなら知らん人間100人が死んでも致し方ない、というのが人間です。だからトリアージが最適解でなく最善解として導入される。繰り返しますが、トリアージは目的論的最適解である以前に倫理的最善解です。「純倫理」という言葉に対する違和感を記していた人があったのですが、倫理的最善解であるがゆえに純倫理的問題でない、ということです。


経営学的思考を説くための任意の思考実験」が括弧に入れる倫理性について目的論的に棄却されるとき、それは目的論的最適解において倫理性を公式に棄却するために為される思考実験の提示である、ということ。つまり、括弧に入れられているはずの倫理性は記事において端から棄却され中身なき括弧だけが残る、その括弧を「経営学的思考を説くための任意の思考実験」でなく事実の記述のごとく提示する内容の記事であった、ということです。換言するなら、記事においてfuku33さんは目的論の是において括弧を是とし倫理性を棄却しようとしている。


言うまでもなく、思考実験における括弧とは事実の記述ではありません。普遍を志向する先進国社会は倫理性を棄却しないことにおいて成立しているからです。(資源が無限でないという意味での)資源の有限性が真であることと資源の有限性ゆえに倫理性を棄却することの偽はまったく別です。そして後者は学問の前提とは関係のない話です。「ゆえに」とは恣意であるからです、任意の目的と価値判断を含んだ。


括弧は括弧でしかない、それが学問的前提です。学問的前提に対する了解の有無と福祉業界に入って数年で燃え尽きることの間には因果関係がありません。余談ですが私の母親は学問的前提の「が」の字も知りませんが福祉業界に入って10数年、未だ燃え尽きることを知りません。fuku33さんが両者に「当たり前だよこれじゃ」と因果関係を見出すのは、学問的前提に対する了解の有無の問題でないと考えているためです。少なくとも当該記事において、学問的前提の限定性についてfuku33さんはSokalianさんの示しておられるようなスタンスに立ってはいません。その是非を措くとしても。

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「この将棋というゲームでは、持ち駒を全部捨て駒にしてでも、相手の王様を詰めることが大事なんだよ」


「そんなの、捨て駒にされた駒がかわいそうです!」


「このような、合理主義に基づいて目的達成のために無慈悲に犠牲を払う態度はホロコーストに通底する!」

この場合の「モデル」という言葉をお間違いではありませんか?


簡単に言えば、「将棋は戦争をモデル化したゲームである」というのがこの場合の「モデル」です。そして、福耳先生のやったことは、「経営学における最適化のモデル」に緊急時の状況を代入すれば「トリアージ」が有力な解として得られる、という例示にすぎません。違う状況を代入すれば違う解が得られますし、そうすることで「状況を変えればどうなるか」ということを体感することができます。


なお、トリアージのように人命救助に優先順位付けを迫られる状況は「極限の非人間的状況」だけで発生されるわけではありません。たとえば、医師が一人しかいない病院で患者二人の容態が急変すればどうなるでしょうか

アホ話の補足 - 吾輩は馬鹿である

たとえば、これが詰将棋の問題に不備があったとき問題を作り替えるとしたら、あなたはこれを非難なさりますまい。「将棋とトリアージが事例の価値としてまったく異なる」とあなたはおっしゃるのですから。しかしあなたがお忘れなのは、将棋は戦争ゲームであって、将棋の駒は兵士の擬人化なのですよ。将棋を考えるということは「人が死ぬ」という状況をモデル化したものを思考実験で、冷たい論理のもとに扱うということなのですよ。将棋は、相手の王様を詰めなければどうしようもないという状況なのですよ。それが許容されるのであれば、思考実験でトリアージが要請される状況を想定することのどこに問題があるのですか?


学問の自由は、タブーに敢然と立ち向かうことに価値があります。もっとおぞましい例を挙げるならば、ゲーム理論の本のいくつかには核戦争のモデル化が具体例として載っていますよ。そして、こういう考察は絶対に必要なことです。「囚人のジレンマ」的に、誰も望んでいないのに核戦争が勃発するような状況を事前に回避するために。


学問的前提において目的論を括弧に括ることないなら目的のためする思考実験の提示は現実解の提示と区別が付かない、否、同じことです。将棋というゲームにそのルールに目的はありません。戦争はそれ自体が目的を有します。そして、記事において提示された極限状況におけるトリアージという思考実験は、将棋というゲームではまったくありません。


思考実験の提示が問題なのではありません。思考実験が括弧に入れるものを任意の目的論に即して捨象するなら、それはそもそも倫理性の捨象を目的として提示される思考実験なのであって、将棋であるはずもない。そして、学問的前提を括弧として限定しないとき思考実験は現実の了解と区別が付かない、否、同じことになる。すなわち、倫理性は捨象されるにとどまらず現実において棄却される。そのことを指し示す記事であったということです。


戦争はゲームではない、というのは、不謹慎の問題でも非倫理性の問題でもなく、まったく別のものであるにもかかわらずゲームを戦争のモデルと見なすなら任意の目的とそのための恣意を含むということです。その目的それ自体が批判されうるということです。不謹慎であるからでも非倫理的であるからでもなく、思考実験の提示として妥当性を欠くからです。


将棋は戦争をモデル化したゲームではありません。ゲームとしての将棋を参照して戦争をモデル化するなら任意の目的とそのための恣意を含みます。その「任意の目的とそのための恣意」は学問の前提ではまったくありませんしそもそもそれは思考実験ではない。そもそも論として、兵隊を駒と考えないことが現代先進国社会における戦争論の前提です。兵隊を駒と考える思考実験の目的が倫理的な枷を解き放つことであるなら、それは自由ですが公に記事を書いたとき批判はされるでしょう。「現場の人間」からも。


というか、兵隊を駒と考えることの目的が「戦争に勝つこと」であるなら先進国社会においてそのような思考実験はまったく現実に使い物にならない。戦争は政府中枢が勝手に引き起こすものでなく国民の支持を前提とするものだからです。ゆえに倫理問題を棄却しうるものではないからです。だから戦争は大義を必要とする、むろんイラク戦争におかれても。倫理問題を一切捨象して戦争をモデル化したところで、現代の先進国社会においてはためにする議論でしかない。近代以降の軍事学とはそういうものではありません。


ためにする議論とは、倫理問題の捨象を説くため「だけ」に為されるものであってそれ以外の何物でもないということです。有益か無益かと問うならそれは無益です。まして現実の事象を参照して倫理問題の棄却を説くなら「原爆投下はやむをえなかった」と同じことでそれは批判されて然るべきことです。ゲームとしての将棋を参照して現代の戦争をモデル化することはむろんそれは自由ですが有益か無益かと問うならまったく無益です。無益であるにもかかわらずそれをするならためにする議論であるということです。現代の学問とはそういうものではありません。つまり、ゲームとしての将棋を参照して現代の戦争をモデル化することではないはずです。


「現代の」とは、モデルは普遍でないということです。国連の存在に始まり、近代以降の「歴史的経緯」に規定されてあるのが現代の戦争です、それを将棋を参照してモデル化するなら、非倫理や不謹慎以前に、端的に頓珍漢です。経営学軍事学の範疇と見なしているとしても無理です。そして軍事学の範疇を経営学として説くこと自体が目的論的転倒です。「経営学における最適化のモデル」をトリアージを参照して説明するとは、そういうことです。転倒した目的論が、ためにするトリアージの参照を要請した、ということです。その転倒した目的論は学問の前提とはなんらかかわりがありません。社会的諸関係に対する認識の問題であるからです。


以上、将棋の話に即して言うなら、ですけれども。戦争をモデル化すること自体は無問題ですが、現代において将棋がそれであると言うなら黙する以外にないということです。つまり、なぜ比喩にせよ将棋が、すなわちゲームとそのルールが出てくるかということなのですが。当該記事においてfuku33さんはそのような話をしているのではありません。将棋を参照して現代の戦争を論じているのではないのです。「現代の戦争における最適化のモデル」が将棋であるはずもありません。そして、目的論として「拝借」されるトリアージはまったく自明ではありません。


fuku33さんは現実に使い物になる思考実験を思考実験として説いているはずです。当該記事に限らず、一貫して。むろんそのこと自体は問題ではありません。だから、それはSokalianさんの問題意識ではないのですか、ということです。当該の記事に即するなら、学問的前提の括弧性を旗幟として議論しうることではないということです。


思考実験そのものの問題でなく、任意の思考実験の提示におけるその論理の罠ないし陥穽が意味する任意の目的に問題が所在する。ゆえにfuku33さんの当該の記事は批判された、ということです。そしてそれは学問とその前提の問題ではまったくない。

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「できるだけ多くの人を救う」「最も多くの人間を助ける」という目的論において誰かを救い損ねることと殺すことは違います。その相違を目的論の妥当において問うことは不可能です。繰り返しますがナチスは人を殺すために人を殺していたのではない。目的論の合理的な運用において、倫理問題を全面的に捨象したときホロコーストは引き起こされました。だから、目的論の合理的な運用において倫理問題を問うことは常に必要なことである、というのがホロコーストを経た現代先進国社会の前提と私は考えます。極限状況とはその例外のことです。すなわち、私たちの社会は目的論それ自体が倫理問題と共にあります。


本件は、トリアージの目的論的妥当において問われたのでも合理主義それ自体の是非において問われたのでもない、目的論の合理的な運用において倫理問題を問うことを目的論的に棄却することの是非として問われた、と私は考えています。それが論点です。fuku33さんの当該記事が批判を受けることは妥当です。よって、「全体最適はナチ」「合目的性はナチ」という話ではまったくありません。加えて、選別イクナイという話でもなく、選別の合理化は倫理問題への顧慮一切なきとき直線的にホロコーストへと至りうるがそのことに対して批判的視座を持ち合わせるべきではないかという話です。すなわち、トリアージの現場に存するような葛藤を。


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