「問題ある?」とのこと


たとえば、国立大学に通う卒業間近の女子が言う。靖国神社に参拝するような総理大臣は私は支持できない。別に個人が靖国神社に行くことは自由であるけれども、総理大臣が参拝するのは、私はよいこととは思わない。ごく私的な集まりにおいて、言ってのける。私はそう思うから、問題ある?その人は20年弱の半生において、靖国神社の境内に足を踏み入れたことはない。大鳥居をくぐったことはおろか、大鳥居の存在すら知らない。大村益次郎誰それ?むろんのこと、遊就館に至っては、そんなものがあるの、という反応。当然のことながら、彼女は日本の近代史についても神道についても先の戦争についてもいわんや東京裁判についてもまったく無知にして無関心であり、見識など望むべくもない。確たる宗教観や慰霊観など持ち合わせているはずがない。そもそもそうした事項を個人的に問題とはしていないし、彼女の内部においてはそれを問題として検討する必要自体を感じることがなく、必然もまた存在しない。宗教観や慰霊観という概念自体が、彼女の内部においてリアリティを有して存在することがない。


そのような人間が、ごく私的な集まりにおいて自身に満ちた口調で言う、個人が靖国神社に行くのは自由であるけれども、総理大臣が靖国神社に参拝することは私は支持しない。社会的な意識を持った大学生として、社会人の見識を披露したつもりであるらしい。「意識の高い」私はそうした私的見解を率直に開陳する権利がある。私は自らの価値観として個人的にそう思うの、私の確たる見解だから、問題ある?ところで彼女はマスコミ志望であって、就職活動の結果、体育会における活動が認められたのか、その希望はいくらかは報われた。むろんのこと、意識の高い確固たる価値観を持つ彼女は、現政権と現総理に批判的であって、かかる見識をプライベートには開示し得る自らに対して、無自覚ながらいささかの誇りを抱いている。


あるいは、ブッシュ大統領がいかに馬鹿でキチガイであるか嘲笑と冷笑を交えて「批判」しているつもりの人間に、これまた私的な集まりにて出くわす。知性にあふれた、しかし自らをリベラルと名乗るような無粋を嫌う彼はブッシュの馬鹿っぷりとイラク戦争について、マイケル・ムーアの悪しき影響の類であろうが、エスプリとウィットに富んだつもりの揶揄を繰り延べて嗤ってみせる。正面から批判するにも値しない相手であるそうです。ところで彼は、政権の実力者にして真の大統領とすら呼ばれている副大統領ディック・チェイニーについて、その湾岸戦争以来の経歴について、あるいはポール・ウォルフォウィッツらネオコンの実相について、まったく見識を持ち合わせていないどころか無知であった。ネオコンという単語はさすがに知ってはいたが、チェイニーの名と役職が一致していなかった。


ええ、衆目一致でブッシュは馬鹿でキチガイでしょう。君は間違っていない。別に、私がチェイニーやネオコンについて格別な知識や見識を持ち合わせているわけでも、情報を詳細に追跡し収集したうえで精確に分析するようなインテリジェンスを持ち合わせているわけでもむろんない。50歩100歩であろう。言論の自由もまた思想信条の自由も保障されている、かつ現合衆国政権に対する「批判」であるわけがないのであるし、無粋を嫌う本人にとっては政治的な発言という自覚すらなかったりする。ごく私的な集まりにおいて、自らのポリティカルなウィットとエスプリを顕示するために半笑いで語るのは勝手なわけですが、ところで結論は、俺は透徹して物がよく見えている時流に棹差す意識が高く(ブッシュ支持者よりは)頭も良い反時代人間である、でFAですか。


別の話。実家には毎日新聞が配達される。元旦早々に脱力した。さて、例の1面記事によって初めて例の騒動の存在はむろんのこと「炎上」という単語についても「Webの現状」についてもまた知った、帰省先の若い人が、よりにもよって例の件と「炎上」について私に言う。


http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/kunrin/news/20070101ddm001040002000c.html

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/kunrin/news/20070101ddm002040009000c.html


こういう感性や価値観、信じられない、最低、とのこと。むろん先方は、私がブログを運営しているネット野郎である、という事実「しか」知らない。私が運営しているブログが何であるかも知らないし教えているはずもない。社会的には充全な人生を送っている先方のWebライフは、現実の人間関係に準拠したクローズドのmixiに、意見交換ないし交流的なものについては、ほぼ限定されている。ブログなどというものを運営する人間の気が知れないとのこと、私に向かって公言する。貴方のそういった素朴で率直な感性と価値観は、リアルの知人に限定してクローズドで開示した方がよいね、間違ってもブログ等で不特定多数に向けてオープンに記してはならないよ、リスクの蓋然が前提されるから、と私が応えるに先方曰く、もちろんわかってる、私はそのようなWeb事情に詳しくなりたくもまったくないし「賢明」に振舞う必要を毛頭感じないから、はてなだか2chだかブロゴスフィアだかアルファだか知らないけれど、Webの玄人なんてものがあるとするなら、そんなものはノーサンキュー、よくそんなことに興味を持って首を突っ込みあまつさえブログなんて運営してるね、私は私の感性と価値観でそう思うから、何か問題ある?


ところで先方にとって、自らの本音たる素朴な私見に基づく裁断ないし断罪とは「リアル」の社会性に準拠した意識の高い正論であって、率直に堂々と述べるに問題やあるいはやましさを感じる筋合いなどあろうはずもないものであって、ゆえに当然のごとく理は先方にあり、したがってWebにおいて「死ぬ死ぬ詐欺」などという揉事に関わった連中は全員無駄なことに労を割く馬鹿ということになるらしい。彼女の感性と価値観に基づく素朴であるがゆえに確信的な「判断」と「見解」において、批判を容れる余地などなくその必要もまた筋合いも、本人は感じていない、だって私は個人的に20数年の実人生に準拠してそう思うから、それは自由だし云々される筋合いはないじゃない?わかっているので私は言った、俺や親しい人間に言うのは構わんが、おたくの個人的な正論を、おたくを(その実人生も含めて)知らない不特定多数には晒すなよ、自愛しなさい。当然じゃない、とのこと。なら俺にも言うな、あんたの率直な私見があくまで問題なき正論であることをあんたが信じ続けるための確認儀式に、リアル知人として付き合ってやったのはこっちであるから。なお最初に例示した方とは別の人である。


あくまで、また別の筋に準拠した話ではあるのだが、一般論として敷衍し得るであろうと思う。反時代的な人間に、少なくともそのことを意識において内面化している人間に、時代についてたとえ批判の体であろうと語らせてはならない。彼や彼女は単に、同時代を知らない。つまりは結果として認識のレベルにおいてズレまくるうえに、本人が自覚し自負する「反時代性」の外部に在るズレ(=認識の錯誤)こそが見解の提示としての言説における致命傷となる。思い付いたので脱線覚悟で記すが、たとえば、その典型が『国家の品格』であった。私は浮世離れした変わり者のエッセイスト藤原正彦を、時の人となる以前から知っていて、著作のいくつかについては必ずしも嫌いではなかったのであるが。『若き数学者のアメリカ』『心は孤独な数学者』など、だいぶん以前ではあるが、それなりに楽しく読んだものである。良き時代と本人がする英国等に誤解混じったままにかぶれてそれを綴ることにのみ適していた人が、現代の日本を語ってしまうことに錯誤があり、出版的な成功の因もまたあったのであろう。


藤原正彦 - Wikipedia


ところで当該書の内容ないしベストセラー現象をめぐっての批判は当然としても、ベストセラー現象によって初めて藤原氏を知った人が氏の過去の仕事ないし来歴について一切参照することなきまま著者本人についても糞味噌言っているのを見ると、さすがに違和を覚えないでもない。別にファンや愛読者というわけでは昔もまたなかったから憤りを覚えることはないが、養老孟司氏の『バカの壁』についてもそうであるが、大ベストセラーは著者の責ではなく意図にもまたなかった。藤原氏は資質的には一貫してああであったしああであったことは周知の事実であったのであるから、著作の内容に対する指摘とは別個にベストセラーという「現象」に関して本人を揶揄的ないし嘲笑的に批判したところで、あまり意味はない。トンデモ本がベストセラーに送り込まれるのは、買う奴そしてあまつさえ信じ込む奴が悪い、とはよく言われることである。出版社を批判するのは自由だが、であるならば、新書文化の隆盛という状況に至るまで問題は遡行し得る。


「良書」「悪書」とか、思っても口にする趣味は私にはない。自覚なきまま文化的な差別ないし選別に準拠しそのことを公言する志向自体が、俗物的であって、つまりは『ボヴァリー婦人』に登場するオメーである。田舎者を幻惑する野暮天という話。むろん俗物であることは無問題であるし、私もまたスノッブな野暮天という同類であるが、恥じらいという、意識化されたメタなエクスキューズ自体は持ち合わせていただきたい。藤原氏もまた結果ないし機能においては田舎者を幻惑する野暮天でしかなかったりするのであるが、少なくとも氏は天然である。天然産の無垢を収奪のうえ金銭化する人為の俗物。無垢な天使の原罪と意識家のスノッブの悪徳と、おぞましいものはいずれであるか。ナボコフの『ロリータ』に至るまで縷々描かれた罪と悪の弁証という相克と循環という共犯性である。


話を戻す。反Web的/非Web的なスタンスに意識的に準拠する人間のWeb語りというのはまず聞けたものではない。端的に、彼/彼女はWebに対して無関心ゆえに無知であって、したがって偏見に拘束された認識錯誤の「見識」を多く開陳してくれる。はぁ、としか対応しようがないのは、先方にとってWebに無関心で無知であることは「反時代的人間」の自負と誇りであるから。工学情報的な先端に通牒しているか否かという話ではない。文化的にアナログな骨董品であることをひそかな自負としてしまう態度は、若い人にも多く見られるものだ。むろん彼/彼女は、Webに自律した価値ある文化が存在するなどとは内心では思っていないし、当人が必要とするWebとは出版に代表される既存文化の延長ないし出張所として存在する出先機関に決まっている。ブロゴスフィアなど、まさしく字義通り論の外である。「良書」なる観念を信ずる文化的な差異の信徒にとって、一切をフラット化し価値的な差異を情報として均質化のうえ等価に並置するシステム自体に対して拒否を覚えることは必然であったりもする。この場合、差異を前提しての自らの目筋にアイデンティティを置く彼/彼女にとっては、フラットなシステム自体が前提する、個人に全面的に要請される価値的な選別のコストこそが拒否の対象となる。


「文化」概念とは差異に拠って構成される。概念的な「良書」を愛する人間は、金銭的な差異もまた空間的な差異すらもフラットに無化された「非人間的」な世界においては、ブックオフにて「良書」を探索するよりは最初からABCやヴィレッジバンガードまんだらけ神田神保町に行く。というか「良書」という差異の概念を構成する価値体系を支える金銭的かつ空間的な現実の設定枠としての上列記を求める。そもそも、彼/彼女は志向において、金銭的な差異や空間的な差異を文化において価値的に前提したいのであって、価値的な差異を前提しないフラットな世界を彼と彼女は唾棄する。それは「文化」概念の本義であり、「文化」概念を志向し支える人間たらんとする彼や彼女の欲望とそれに基づく姿勢は一貫しているのであって、そうした人はWebに「文化」概念の本義(=「良書」)など存在しないと本心では思っている。実際に訊いたなら「そういうものもあってもよいけどね、僕/私はあまり見ないな」と必ず言うわけであるが。


「良書」が家でパソコンに繋げばタダで読めて得、というのは「文化」概念から遠い発想ではあって、「良書」の価値的な差異を金銭ないし空間という質量によって規定する、すなわち非定量的な「価値」を定量化する、あるいは「価値」の資本的社会的な訓致という営為の一切をこそ概念的に「文化」と呼ぶ。非営利の価値的な差異を社会と個人において営利化する「文化」という概念的な営為は(19世紀フランス的な意味における)市民のスノッブな余剰活動とそれへの志向を指示するのであって、現行のWebにおいて市民のスノッブな余剰活動という古典的な図式に準じた「文化」概念が成立し得る領地が在るかというと、システムの水準において困難な状況がある。


と、いうようなことは多く考えないままに、「文化」概念を支える一員としての市民たるスノッブとしての自負をひそかに抱く、反Web的/非Web的なスタンスに意識的に準拠する人間は、ブログなどというものに無償の情熱を注ぎ無益なコストを掛ける連中を内心においては軽蔑していたりもするのであった。そのようなカネにもならない見返りなき無為な生産に時間と労力とトラブルメンテナンスのコストを投下している手間暇があったら、1冊でも本を読んで映画を観て、自己の内部に教養という価値的な差異と認識の更新をこそ蓄積したい。私は大槻ケンヂは現在でも好きだし恩義もあり尊敬してはいるが、また私もかつて罹ったものであるし続く世代にもまた手渡されていく永遠の若い時分の麻疹であろうとは思うが、なんというか、大槻ケンヂイズムを20代後半になっても実践している人間には、それのみを自己信頼の支えとしてしまう人間には、いまひとつついていけないところがある。


ブログの継続的な運営における個人単位のインセンティブに想像が及ばない、ないし他人のそれを自己満足として処理する人間は、結構なことではありますが。Webに関心のない自らをこそ誇りに思う、意識において骨董的な文系男子と女子の価値観は、かつて私も同様であったし(その理についてもまた)了解するのであるが、とまれ、かかるスタンスを対面の私に対して露骨に示すのであれば、現代の文化世相の一切について沈黙せよ、少なくとも無知に基づく価値的な僭越は遠慮してくれとは、正直思ったりもする。むろん金持ち喧嘩せずとやらで、自らを精神的な金満家と信じる人間はいわゆる「議論」になど関心を示さず価値を置かない。あまつさえ、それをクールなスタンスと、単なる口下手筆下手が思い込んでいたりする、と饒舌家は考えたりもする。現代の文化世相の全般において、Webというファクターが介在しないものは、またそれによって多少なりとも変容を迫られなかったものは、およそ存在しない。


事象の一切において、原理論と段階論という別個の水準が、常に存在する。率直で素朴な、自己の欺瞞なき実感に準拠した原理論/本質論としての意見というか感想を、なんらの準備もないままに他にパブリッシュする人間というのは、自らを本質において聡明と思っているらしき、すなわち「自己の欺瞞なき実感」の正鵠を内的には確信しているらしき、少なくとも現実に私がそう判断せざるを得ないような人に、多い。むろんそれは、本質においてどうであるかはともかく、認識においては聡明ではないわけであるが。原理論と本質論さえ踏まえれば状況としての事象の一切を把持し得るとする認識こそが、聡明ではない、つまりは故意であれ無自覚であれ段階論という水準の捨象という欠落を指摘せざるを得ない、ということである。


記してきた具体事例に拠って言うなら、Webの介在という段階論/状況論としての水準を捨象したなら現代の文化世相の全面は把持し得ないし、近代史観も宗教観もまた先の戦争に対する見識もひいては東京裁判や戦後の日中関係に対する定見も、暫定的にさえも持たず持つ要も感じないままに、首相の靖国参拝を個人的な本質論に準拠して裁断したところで多く説得的には機能し得ないし、大統領の知的拙劣という周知の事項のみをいまさら揶揄的に指摘したとして対外的には批評とは判断されない、言い換えるなら発言者の見識とその卓抜が認定される経路が示されることはない、また、現行のWebのシステムないし大状況に関するリテラシー以前の基礎知識すらなきままに、本質主義的な批判を外野から繰り延べたとしても、少なくとも私はかかる正論に対して、はぁ、以外の感想を持ちようがない、ということである。


正論家を敬する私は正論にリスペクトを覚える者ではある。正論とは論駁の余地なき確定的な原理論/本質論の謂いである。ゆえに正論とは常にリテラルには正しい。「戦争はよくない」も「人類ある限り戦争は根絶し得ない」も共に正論である。そして言うまでもなく、こうした論駁の余地なき原理論/本質論は現在において多く無効である。段階論としての状況というファクターの一切を超越的かつ抽象的に捨象し無視しているから。べつだん文化に限ったことではない、段階論/状況論を捨象ないし無視したうえで原理論/本質論としての水準にのみ準拠して、現代の相を論じたところで、全般において錯誤の介在による誤差が発生し得るし、誤差を結果する段階論/状況論の捨象という錯誤について指摘されたところで主体にとっては無問題とするのが、意識において「反時代的」な原理論者/本質論者である。


いや、だから御自由ではあるけれども、とはいえ、たとえば、本職の批評業界や広義の人文業界ないしアカデミズム、あるいははてな2ch界隈等において百家争鳴のもとに数十周回の反復を経て検討されてきた周知の問題設定について、議論の経緯についてすら知る気もないという理由のもとに捨象というか無関心と無知の居直りの相として無視したうえで、自らの体験的かつ素朴な実感という内在的なリアリティにのみ準拠した「原理論」「本質論」としての見解いや「見識」を堂々と直接的にぶつけられたところで、少なくとも私は困る。仕方がないからファクトに関するインフォないしは参照項としてのメタな枠組と時には歴史的な構図の話を滔々と説明すれば、そういう話じゃないんだよね、と。あまつさえ、そうではなくて貴方はどう思うの、と体験的で素朴な実感としての見解の提示のみを端的に、と言えば聞こえは良いが要は摘出的に要求される。むろん先方にはコンテクストという概念は単語ごとない。つまりは複数の文脈の相対的な置換性といった発想はまったくないし、かかる発想に準拠したメタな議論に対する軽視こそが「個人の体験的な私的認識」を最優位に置く彼/彼女の矜持でもある。彼/彼女はメタレベルに準拠した「批評」など無用な高見の理屈と思っている。そうした人間は、たとえばむろんのこといわゆるポストモダニズムを嫌う、というか知らない。別に構わないのであるが、同席のうえ話を向けられているらしき私はとりあえず困る。


「個人の体験的な私的認識」の内なるリアリティの、その絶対性を意識において相対化することなく信じる彼らこそ、無自覚なままに近代的なロマン主義に洗脳されきっている人間であるのかも知れない。「個人の体験的な私的認識」の内的なリアリティという絶対性に対して、外部から相対性という半畳を挿入する行為は、彼/彼女にとっては「個人の体験的な私的認識」の否定と同義であり、許しがたい無法なのである。いわく、お互いの勝手でしょ、ときには、他人の内なるリアリティがわからず、かつそれに対して配慮を払えない奴呼ばわりされたりもする。私に限らず、原則として、わかるものではありません、だから表出に限定して私は対応しているわけです。私に対してかかる話を持ち出したうえで見解を示したのであるから、あるいは見解を示すことなく質問したのであるから。


むろん私も含めて、個人の体験的な私的認識とは、時にファクトや道理を故意であれ無意識であれ捻じ曲げているわけですが、他人の個人的なバイアスそれ自体を準公的な場で言挙げ合う趣味自体は私にはないけれども、ファクトのレベルに準拠した補正的な話を一個の情報ないし参照項として示しただけで、自己の個人的なバイアスを形成する内的なリアリティを否定されたと過剰反応されても、困ります。その話を持ち出したのは先方であって、先方が提示した見解に対して私は対応的な見解を、段階論/状況論としてのファクトのレベルに限定して、あるいはメタレベルに限定して、参照的にリファレンスとして述べているのであるから、自らの体験的な私性個人性という印籠を振り回して、排他的にシャッターを下ろすないし感情的に反撥しないでください。言語化し得ず語り得ない領域にこそ、彼/彼女の体験と私的な個人性という、内なるリアリティとしての交換不可能なアイデンティティが存在していて、それは表出し得ないがために絶対であり唯一である、そのことはわかりますが、そもそも自己の見解をパブリッシュするということの意味を理解しているのでしょうか。


私的な絶対性/唯一性は公的で集合的な外部に掲示された瞬間から、相互的な相対性/複数性の相関という領域において関数的に処理される。絶対とは常に個人の内部においてのみ維持される。そして相互的な相対性の全面的かつ全開放的な並置化と均質化による差異の消失というフラットな地平において、パブリッシュされた体験的な私性としてのプライベートな認識と感情は、一個の情報としてのみ記号的に処理される。そのような、ファクトとしての状況論/段階論に耐え得ない、自己の私性という内的なリアリティを信じる人間が、原理論/本質論としての水準にのみ準拠することは、つまりは段階的な暫定状況としてのWebやブログ運営や2chといったファクターを意識において捨象し拒否することは、あるいはブログの運営において個人の体験的な私性を自己相対化/メタ化することなく、不用意かつ直接的に表出してしまうことがあるのは、当然の筋道であるのかも知れない。


ただし、ブログ運営者としての私は思うけれども、Webという価値的な差異を原理的には構成し得ないノンバランスで非個人的な、無限の相対性と複数性に規定されたフラットな相関の地平においてこそ、個人の体験的な私性という内的な実感は、表出というパブリクションの外部に常に隠れる、そして、隠れた実体なき虚数としての「私」を外部が視る蓋然は、かつ解釈という不可視のケミストリーは、あるいはそれが可視化される蓋然は、失われることはない。疎外論的な枠組に私は与しない、かつ、否定神学的な認識にもまた、私は全面的に与することはない。個人の体験的な私性がWebにおいて消えることはないが、それが価値的な差異を、少なくとも古典的な図式において構成することはない、ということである。あるいはWebの外部においてもまた。これこそ、原理論/本質論としての水準に準拠した、認識と判断ではあるが、これは価値判断の介在する「正論」というよりは、ファクトでしかないなぁ。