雑感


年末年始は実家で、大晦日コミケにて購入した同人誌と、小林秀雄の、初期および中期の代表的な著作に限ってだけれども、改めて読み返していた。滅法面白い。確か、若い時分に図書館から全集を借りてひと通り読んではいたのであるけれども、当時は何を眺めていたのかと思った。文盲が美的な字面と口跡に酔って、啖呵に痺れていただけであったのか。だいぶん以前のこと、初読でちんぷんかんぷんであった浅田彰の『構造と力』の内容をすらすらと理解できたときにはバカみたいであるが嬉しかった。言及ではなくふと思い出したからリンクすると、小飼弾氏が平野啓一郎氏の新書を評する際に、「再読のすすめ」というものを平野氏の言に同意する体で説いていたけれど→404 Blog Not Found:書評 - 平野啓一郎「本の読み方」 、数年の経過を介して、記号としての字面を美的なフォルムとしての「体験」ではなく意味の集積と階梯として「読解」し得る契機ないし時期というものはある。別にその間「勉強」していたわけではないし、実体験としての経験値も直接的に関係するものではないと思う。


表象に対する、記号としての意味「読解」における深度ないし確度に際して、表象体験の蓄積としてのいわゆる「教養」とは、いかほどの関数として介在し得るのか。それを絶対値とするのか相対値と取るのか。私は決して、アンチ教養主義者ではないし、むしろ知識/情報偏重主義者ではあるけれど。無知と無関心を前提する、表象/事象に際する素朴な「本質論」に、私は違和を覚え自戒を込めて警戒する質である。そのようなことを、つらつらと考えている。形式と内容。文とはあるいはフォルムであるし、あるいは抽象的な意味体系である。達意をめぐる難儀とは、筆者と読者に等価に配分され、等価に損害を負う。わからん文章を書くなと責めるのも、これがわからんのかとなじるのも、多く鏡であるので自覚と自省をつね前提したうえで程々に。むろん、程度問題も、また適正値も存在する。他者による校正とは意味伝達の安全装置であり、適正値を把持する権力である。意味領域の監査を執行する校正という他者は自己と現実の他人において同時に存在する。個別的な適正値とは、筆者と読者の相関ないし共犯関係において模索され暫定的に設定される。


いわゆる教養主義が、表象体験の蓄積を前提するものであったとき、即物的な知識/情報偏重主義とは時に分岐し得る。分岐点において、精神主義の陥穽と、紙一重の場所にあるとも、思うときがある。読書体験は心を豊かにすると、さすがに口には出さないが内心において、抽象的には信じている人間というのは、いる。つまり、表象体験の蓄積が表象と世界に対する主体の認識を更新すると。事実ではあるが。体験とは意味に抽象される。抽象からの余剰は常に存在する。抽象された意味の集積が書物/文章の全部であるとは、むろん私は言わない。抽象からの余剰をめぐって非抽象的な言葉を綴る人達はいる。しかるに言葉とは意味の道具であり、本質において指示的で抽象的で操作的である。言葉の使用において具体に準拠するとは、実際にはひどく難しい。抽象された意味によって体験を代替し伝達し得ると考える人間には、私はついていけない。


表象「体験」とは、意味を「読解」することと等号としては結び得ないのであるが、個人的な表象体験を「語る」に際しては多く意味の「読解」の水準を捨象し得ない。任意の固有のリアリティに準拠した水準の、その表象に際して意味と意味が1対1的に対応することは必然である。ゆえに、抽象された部分としての意味を越えた全体性として、大替も交換も不可能な具体としての体験が欲望される。意味と体験の、抽象と具体の、カテゴリー/フレームとそこからの余剰の、古典的なパラドックスと弁証の相では、ある。ただ私は、多く記述された言葉を、抽象された意味を指示する記号として処理してしまう癖がある。だから、私は小説を、あまり読めない。「抽象的なお話」を批評と、「具体的なお話」を小説と、明解に分類したのは山本夏彦であった。本質において「お話」としては同様であるとも。


意味の階梯を表象に拠らず圧縮するか、アレゴリーを介してひらく(=表象)か。「お話」を意味の階梯とするのは、原則的に不正解ではあろうが、現代語訳するのであれば、他の解はないと私は思う。「意味の階梯」に拘束されない、あるいは「意味の階梯」として処理されない「お話」が、現代においては存在し得ないと、考えているということ。それは「物語」と現代語訳され、体験/ファクトと時に対置されるのであるが。意味に抽象されない体験とファクトとは、「意味の階梯」としての物語に棹差す理念化されたオブジェクトとして重用されるが、反意味を意味として処理せず/処理されずに提示していく道は、か細い。以上あくまでメモ。