例の件、補遺三題


まず、前記エントリについて、いくつもの反響をいただきまして、ありがとうございます。補足ということではないのですが、いわゆる「見えないトラックバック」をほのめかした類のものと受け取られてしまったようなので、御本人が目を通していることを前提して、筆者の側から1点だけ。Apemanさん、当該のエントリは貴方や貴方のブログのコメンテーターの方達と私がかつて交わしてきたやりとりを想起しながら、つまりは暗に貴方達を対象として記した類のものでは一切ありません。私が書きながら考えていたことはまったく別のことであって、かつ長らく考えていた、多く実生活における複数の事例を前提としたものであり、そもそも反Web/非Web的な人間とWeb的な人間との意識における切断といった状況をまずは問うていたりもする。


ApemanさんやApemanさんがブログにて相互にリンクされているような方達は、当該のエントリにおいて私が論じている「対象」であるはずがない。当然のことです。皆さん、無知でも無関心でも理論に疎いわけでもまた筆下手でもまったくない。と、いうか、以前も記しましたが貴方は言葉の裏をあまりに読み過ぎていると、率直に思います。と記せば、私は「は?」とブクマコメントにて記しただけですよ、とかおっしゃるのが貴方であるのですが、お互い過去の経緯を相互の言に投影しているということでしょう。音羽さんが当ブログに書き込まれる直前まで、貴方のブログのコメント欄において展開された、私もまた複数回書き込んだ、呉智英氏をめぐる長大なやりとりのことを暗に指していると貴方は受け取られたのかわかりかねますが、私はエントリにて記したような状況には方々にて出くわしています。ブログ開設以前のWebにおいてもまた実生活においても。完全にそちらの話です。であるから、その後音羽さんと交わした一連のやりとりについてもまた、前記エントリの内容には関係がなくインスピレーションすら改めて与えられたわけではない。以前から考えてきたことであったので。そもそも、Apemanさん達も、またついでに言えば音羽さんも、Webでの活動において非常にアクティブではないですか。なぜ「は?」となるかな。


なお、ブックマークのタグを見たところ、むろんブックマークしていただけることは有難いことですし大変参考になるのですが、なんといいますか、筆者の意図から逸脱した文脈が発生しかねない予感に気が付いたので記しておきます。当該のエントリにおいて、いわゆる右左の話は筆者の意図のうえではまったく前提されていません。そういった話ではない。指摘されて初めて、ああ言われてみれば「はあちゅう」氏と共通項があるのだろうか、とは思ったりしました。「右」「左」といった単語は当該のエントリにおいて一切使用してはいません。「ウヨ」「サヨ」などという語は私は基本的に用いない。記したことですが、例示した実在の方達は自らを「左」とする意識や認識は前提的にない、というか欠落しているうえに(冒頭の彼女が就職内定した「マスコミ」とはいわゆる「左傾的」なものでは全然ありません)、事実においてまったく違います。靖国もブッシュも「死ぬ死ぬ詐欺」も、別に彼らは「左」的な文脈に意識的に準拠して「拒否」しているわけではない。自明のことですが、そうしたポリティカルな話ではまったくない。と、いうか、Webに意識においては繋がっていない、とはそういうことであったりもします。「嫌韓」はともかく「ネット右翼」という言葉を彼らは説明しないと知りません。「左翼」と聞いて彼らの脳裏に浮かぶのは朝日新聞社民党(ないし日本共産党)です。むろん彼らは朝日新聞など馬鹿にしています、特段の理由もなく。つまりは、骨の髄までテンプレートな非政治的人間、ということです。「非政治的」という意識すらなきままに。最近対面にて出くわした事例が立て続けにそうであった、という話に過ぎません。毎日新聞の記事をめぐる件は、単に、マジで存在したやり取りなのです。


しかし、Apemanさんに今なお読んでいただいているとは(ホッテントリに入ったからかな)、有難いことです、皮肉でなく本当に。関心の分野と価値観において多く相違するとはいえ、私は、Apemanさんの姿勢については本当に敬しているので、無用にして不毛な誤解を避けるためにこうしてわざわざ記しているわけですが。とまれ、本年も宜しくお願いします、間接的な体であれ、批判と指摘をいただけるなら幸甚です。


それと、ブクマコメントにて指摘があったのですが、すみません、唐突に登場した「大槻ケンヂイズム」とはつまり、対他を前提した自己の文化的な差異性「のみ」をアイデンティティの価値的な基盤に置くがために、文化的な差異化自体を内面化したうえで自己目的化する考え方のことです、むろん大槻氏本人はそうであったことはないけれども、かつての氏が啓蒙してきた価値観において、時に振りまきもした幻想にはそうした側面があった、それこそ「個人の体験的な私的認識」としてそう考えるからこそ、かかる理由から引き合いに出したのですが、いささか的確でなかったとは思います。謝。