問題の所在――久間発言


http://www.asahi.com/politics/update/0703/TKY200707030243.html


http://www.asahi.com/politics/update/0630/TKY200706300263.html

 久間氏は「我が国の防衛について」と題した講演で、東西冷戦下で米国と安全保障条約締結を選択した日本の防衛政策の正当性を説明する際、原爆投下に言及した。

【久間氏の発言要旨】

 日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。
 幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。
 米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った。

 久間氏は講演後、朝日新聞の取材に対し、「核兵器の使用は許せないし、米国の原爆投下は今でも残念だということが発言の大前提だ。ただ日本が早く戦争を終わらせていれば、こうした悲劇が起こらなかったことも事実で、為政者がいかに賢明な判断をすることが大切かということを強調したかった」と発言の意図を説明した。


「日本が早く戦争を終わらせていれば、こうした悲劇が起こらなかったことも事実で、為政者がいかに賢明な判断をすることが大切かということを強調したかった」がために「幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。」と公的に発言したら、少なくとも長崎の人たちは怒るでしょうね。


北海道は占領されずに済みましたが、幸いにも8月15日に戦争は終わりましたが、長崎に原子爆弾は投下されました。踏み込んで言うなら。北海道が占領されずに済んだことと、長崎に原子爆弾が投下されたことと、何の関係があるのかと、長崎の人は考えるかも知れません。被爆者にとって、残された者にとって、二世にとって、被爆とは、個人の生活を襲った殺戮であり、暴力であり、悪意であり、苦痛です。今なお。いかなる因果も理由もなきままに。


米国が原爆投下を決定し、第2の投下都市を長崎としたことに対して、長崎の人たちはいかなる関与も持ち得ず、いかなる責も存在しなかった。日本国民であったという責以外は。日本国民であったゆえに被爆したのは、日本国民のうち、広島と長崎に居た人たちでした。


投下と投下都市を広島と長崎に決定したのは時の米国政府であるけれども、そこに暮らす人たちは、米国政府の決定に関与することなく、知ることさえなく、他の日本国民と同様に銃後の日常を暮らし、そして原爆は投下され、多くの人が殺され、被爆し、後に亡くなり、二世という存在を残した。


むろん、時の日本政府には為政者には歴とした責が在る。責のひとつに、国家の大計ありきとして、市井の生活する民たる国民を蔑ろにしたことが在る。その構造の、為政者における思考様式の、60年を経ての反復を示していることに、ゆえに反撥を被ったことに、長崎選出の議員たる久間章生氏は気が付いているのであろうか。気が付いたから辞任した、ということであるはずはない。


逝去された宮沢喜一氏の政治的な評価をめぐって、切込隊長氏が「ミクロの体験談をマクロの政策評価で語るなと言われれば「そうですね」という話である」と記していたけれども、防衛大臣たる久間氏が語るところの「我が国の防衛」「日本の防衛政策」とは「マクロの政策」の最たるものであり、「国家の大計」とも言い得る。


被爆者の、あるいは現在の長崎の人たちの「ミクロの体験談」と、そこから紡がれる「思い」「感情」は、氏の立場上、巨視的に「国民全体の利益と幸福」を視野に据えたとき、捨象されることのあるものかも知れない。かつて岸信介が判断したように。


「東西冷戦下で米国と安全保障条約締結を選択した日本の防衛政策の正当性」のもと、沖縄の人たちの「ミクロな体験談」とそこから紡がれる「思い」「感情」が、時に「捨象」されてきたように。言い換えるなら、遺棄されてきたように。


それは「しょうがない」ことかも知れない。久間氏ならずとも、戦後の平和と繁栄を欺瞞のもとに享受した国民はみな本音の内では思っていることかもしれない。岸信介の高笑い。


ところで。62年前とは異なり、現在の日本は主権在民の民主主義国家である。「国家の大計」としての「マクロの政策」のもと、「ミクロの体験談」とその集積たる「市井の国民の思い」を捨象して構わない、ということには、少なくとも建前上はなっていないはずである。「国家の大計」たる「マクロの政策」に責を負う立場であることは承知しているし、経験と見識と能力あるなら尊敬もする。


そのうえに、否、そのゆえにこそ、「ミクロの体験談」とその集積たる「市井の人々の思い」を慮り、公的な言行によって国民に証し立てしていくことが、主権在民の民主主義国家における「国家の大計」「マクロの政策」に責を負う者の務めであり、エリートというものであり、かような為政者に対してこそ、国民は信を寄せ、尊敬を示すのではないかな。


少なくとも、軍事と防衛政策に責を負う立場に在る人は、かくあってほしい。欺瞞ゆえに証し立てすることの難しかったとしても。私は、久間氏個人の屈託に対して、理解を寄せるところがある。


60年以上前、「国家の大計」「マクロの政策」のもと、長崎は被爆都市となった。「日本が早く戦争を終わらせていれば、こうした悲劇が起こらなかったことも事実で、為政者がいかに賢明な判断をすることが大切」というのはその通り。然るに当時の為政者の判断において欠如していた賢明さとは、自らが責を負うべき民に対する視点の欠如でもあって、その、民に対する視点の欠如は、久間氏の発言からも、汲み取れてしまう。62年前の為政者の判断において欠如していた賢明さは、久間氏からも欠如しているように窺える。


「国家の大計」「マクロの政策」と「ミクロの体験談」「市井の人々の思いと感情」とが、たとえ「衆愚」のゆえに折り合うことのなかろうとも、両者を架橋せんと公的に発言し行動していくことが、代議士の、政治家の、為政者の、仕事であるはずだ。


国民とは顔を持った市井の人々であって、その「思い」「感情」を天下国家へと汲み上げていかずして何が政治家か、と思う。官僚ではない。貴方を国会へと送り届けてきたのは誰なのか、貴方を国会へと送り届けた人たちは、その「利益」だけではない、「思い」「感情」を国会へと送り届けんとして、貴方に投票してきたのだよ、と思う。


長崎は日本国の「国体」の人身御供としてあったのではない。いわんやそこに暮らす人たちがそうであったわけでは絶対にない。当事者の覚えたその理不尽を、戦後の日本国は、その為政者たちは、購い得たか。国体の存続と自己の人生を勝手に秤にかけられてはたまったものではない。


「しょうがない」ことの周知であったとしても、「国家の大計」に携わる人が公的に口に出すことじゃない。普段口にこそ出さないが、今なお多くの日本人は腹の底では辛く悔しく思い続けている、あの民間人の虐殺を。現在の長崎に生まれ暮らす人々の人生に、原子爆弾が影響していないとでも考えているのか。


「国家の大計」「マクロの政策」にのみ拠って「国民全体の利益と幸福」が実現されるなら、国会議員など要らない、天下国家を設計する官僚がいればよい、60数年以前のように。そして、その帰結が広島と長崎へと至ったからこそ、戦後、主権在民は実現されたのではないのか。久間氏の発言に垣間見える意識は、62年前の為政者における賢明さの欠如と、様相を同じくしている。


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蛇足。「「しょうがない」は自分の口癖である(「まぁ、いいや」も)」との久間氏の言を聞いて、不謹慎かつ失礼ながら、苦笑してしまった。なぜなら、私の口癖でもあるから。口癖ということは、認識と思考の様式ということでもあるから。であるから、かの淡白な辞任表明と辞任理由、辞任会見も含めて、久間氏という人の有り方や処し方については、わからなくもない。


とはいえ。私は自らの資質と性格を知っているゆえ、議員に立候補しようとは考えたこともない。請われることもないであろうけれども。民の思いと感情を、推し量れない人間は、背負う甲斐性も受け止める気概もない人間は、慮れない人間は、そのことを責められたとして柳に風として在るよりほかない人間は、政治家にはならないほうがよい、だろう。個人の資質と性格の構造問題であって、語彙の多寡の問題ではない。