集中審理、雑感


山口県光市母子殺害事件、広島高裁差戻審、3日間に亘る集中審理が終わった。公開されている報道内容についてはひと通り確認している。このことについては、幾つもの反応を頂きました、感謝を申し上げます<(_ _)>。そして。現在の時点における私の見解なり雑感なりを付記します。来月にも集中審理は予定されている、あくまでも、現在の時点における私の私なりの見解/雑感に過ぎない。焦点は巷の議論と少しずれている。


なお、3日間の集中審理の内容をめぐる報道はWebにおかれても多岐に亘り、かつ関心ある方にとっては周知のことと考えられるため、任意の記事に対して、リンクは張らない。全体としての、私なりの見解/雑感。

1.


安田氏ら弁護団の弁護方針については、一定の見当が付いたし了解もした。同意するかは全然別。この裁判については、国民感情と社会通念のことは措く、という判断だと思う。そのことについて、私は批判的であるし、犯罪被害者にとっては残酷このうえないこと。ただ、安田氏ら弁護団の意志については、私は汲む。現時点においては、被告の犯行時の主観的な動機/原因の説明に留まっている。被告の発言に脈絡と合理性あるとは、言い難い。


殺意ないし故意性の有無を争うなら、被告の主観的な証言と、物証等の客観的証拠とが、整合し得るか検証した後に、裁判官が判断する。この水準の動機説原因説の主張に「のみ」拠って殺意ないし故意性が否定され傷害致死が認められることは、現行の刑事司法においてはありえない。責任能力の有無ないし限定を問うなら、被告の精神遅滞ないし精神疾患の有無について医学的な所見が示され裁判所において認定されなければならない。


現時点におかれて、安田氏ら弁護団は、一審二審の審理において認定された被告の動機と犯行時の心理について、否を提示している。被告の動機も犯行時の主観的な心理も、行為の結果自体には関係がない。犯行時の被告の主観的な心理状態を説明すれば、責任能力の限定を証明し得るわけではない。かつ、犯行時の被告の主観的な心理状態(の、8年の後における説明)に脈絡と合理性が欠如していたなら直ちに、犯行時の被告の責任能力が焦点とされるわけではない。


私は、かつて必要に迫られて、いくらかかじったことがある。刑事裁判において問われる責任能力とは、そういうことではない。断定するけれども、被告は精神疾患者であったことはないし、現在もない。むろん知的障碍者でもない。なぜ断定して明記するかというと、触法精神障害者や、いわゆる累犯障害者に対する、誤解があっては困ると思うゆえ、かつ、誤解ゆえの偏見が生まれてはなお困ると考えるゆえです。


触法精神障害者責任能力が限定されるのは、疾患ゆえの妄想が被告を(時に凄惨な)犯罪行為へと至らしめ、犯行へと至らしめる妄想とその因たる疾患について、論理的にもまた倫理的にも、本人の責とはし得ないためです。


有名な林先生の相談室⇒『http://www.so-net.ne.jp/vivre/kokoro/index.html』 を参照したなら了解し得る通りに、妄想とその因たる疾患とは、本人が意識的/意思的に、あるいは主体的な意識と意思「のみ」によって、コントロールし得るものではない。統合失調症患者の妄想とは疾患それ自体を理由とする。妄想とは疾患自体がその悪化に伴って育む。妄想がパターン的であることも、多くそのゆえ。そして、疾患自体によって育まれた妄想とその進行が、時に悲惨な事件を引き起こす。


――本人ならざる周囲の人が、ケアして、服薬治療を継続させるしかない。統合失調症を患うことを、本人の自己責任とは、私は絶対に言えない。精神障害者の、妄想の進行ゆえによる犯罪に対して、刑事司法において、本人の責が時に問われることのない、あるいは限定されるのは、そのゆえです。


であるから。精神疾患者であったこともなく、現在もない、そして知的障碍者でもない当該の被告の責任能力を限定することは、現在の時点においては、難しい。被告は、内的な主観において如何様であれ、被告自身の意思と判断に基づいて行為した。それは、疾患ゆえの妄想に拠る犯罪行為とは、異なる。加えるなら、現時点において認定されている事実としての行為の始終からも、被告の主体的な意思と判断の所在に疑いを挟むことは、少なくとも私はできない。


繰り返すけれども、被告が主観において特異な認識を抱いている/いたことと、責任能力の所在/限定とは、関係がない。言い換えるなら、被告の主観的な動機説原因説「のみ」をもって、責任能力の所在/限定が議論され、量刑が顕著に左右されるなら、現行の刑事司法は大変なことになる。


被告が自身の行為について、主観的に「他なる選択の余地がなかった」と主張する。かかる被告の主観的な主張について、説得的かつ合理的な根拠の所在が裁判所において認定されたとき(客観的に一定の妥当性をもって裏書し得たとき)、減刑の理由となり得る。被告と弁護団が公判において後者を満たし得るか、今後の審理に拠る。


率直な私見を述べるなら。このような事件について、公判において責任能力の所在/限定を持ち出す意図が在るのであるなら、そのことに対して、身内や友人に現実の事件へと至りかけた当事者を幾人も知る、心的疾患の経験者でもある、心的疾患/精神疾患に関する当事者としては、不快が在ることを、記しておく。

2.


被告が嘘を言っているか、犯行時の本心を述べているのか、モトケン氏の指摘する通り、検察官の反対尋問によって、一定ははっきりするであろうし、今回の反対尋問については、事実上、耐えなかったと言い得ることも確かだろう。ゆえに嘘を言っている、と現時点において短絡的に断定するべきでないことも、また確かである。判断するのは裁判官。


ただし。一審二審と比して発言内容と主張を全面的に翻したことについては、自らの起こした事件に対して、裁判自体に対して、不誠実、と判断されてやむを得ないことだろう。本村氏がそのことに対して怒りを表明していることは当然のことである。


被告は、自身の起こした事件についての裁判に対して、不誠実であった。証拠採用された知人宛の手紙のことを措いても、被告が差戻審においてようやく犯行時の本心を述べているとして、そのことははっきりしている。


現在被告が述べていることが「真実」であるとするなら、一審二審において被告が述べてきたことは何であったのか。本村氏が現在問うているのは、そのことである。一審二審において死刑判決回避を最優先したがための、功利的な判断ではないのか。ことに手紙のことが在った以上、かく考えて当然のことだろう。


むろん、それは刑事被告人の当然の権利である。然るに、自身の行為に対する被告人の不誠実をして、裁判官による更正可能性の判断が左右されることもまた、ままあることである。


自身の行為とその帰結に対して誠実になれ、本村氏が被告に対してかく求めることを、妥当性を欠く要求とは私はまったく思わない。成育環境と更正可能性を前提した一審二審における弁護、一審二審における、被告の謝罪の言葉、誠実なき功利的なものであったことを、本村氏ならずとも判断するだろう。


少し、生真面目なことを記すけれども、反省や悔悟や謝罪というのは、あるいは外形的な行為でしかないかも知れないが、法廷戦術の要件としてあるわけではない。少なくとも本村氏は、そのことを主張している。そして、そのようなことを逸脱して、言い換えるなら戦術の場としてのみ、法廷があってはならないとの判断があったから、現在の差戻審へと至っているのだろう。

3.


念の為に記しておく。本村氏は被告が死刑になりさえすればよいと言っているわけではまったくない。そのように報道されている由がないわけではないといえ。本村氏は、自らが事件に対して本村氏なりの姿勢によって誠実に向き合ってきたように、事件の当事者たる被告も誠実に向かい合うべき、と言っている。


「私がこの手で殺す」と言ったときから、幾年も経った。氏は悔悟し続けている。「起こってしまったこと」に対して、自らがそのとき何もできなかったことを。そして。「起こしてしまった」当事者に対して、「自らがそのとき何をしたのか、なぜそれをしたのか」誠実に、自らに問い続け、向かい合うべきだ、と突きつけている。


その「本村氏なりの向き合い方」とその現時点における帰結に、論理的かつ倫理的な限界と、瑕疵と欠落と、偏向と、あるいは独善が在るかも知れない。当事者は、当事者であることを括弧に入れて、常に論を展開し得るわけではない。本村氏はそのことを知っている。ゆえに、そのことに対する批判はあってしかるべきだろう。付記するなら、現在の日本において、死刑存置論は例外的な立場ではない。ことに犯罪被害者としての当事者においては。


ただ。(本人の主張に準じて、犯行時の主観的な害意ないし犯意を前提せずとも)「起こしてしまった当事者」たる被告は、本村氏ほどに自身の行為と向かい合ってきたのだろうか、この8年間。言うまでもなく「起こってしまったこと」の責は本村氏には一切ない。それでも、本村氏に限ることなく、愛する者を奪われた人は自らを、ずっと責めさいなみ続ける。然るに被告の一連の、自身の行為に対する不誠実。


「加害者」「被害者」という言葉を、私は今回個別には用いていない。この、任意の修復不可能な行為をめぐる、負債としての意識における当事者間の非対称性をこそ、本村氏は公的に問うているし、犯罪被害をめぐって社会に広く問われていることだ。結論を言うなら、私はそのことを不正義と考える。本村氏は不正義と公的に主張している。


「任意の修復不可能な行為」について、その事故性を言挙げることによって、当事者の意識の負債は軽減され得るか、行為者の意識の負債の軽減にのみ資する言論/議論において、当事者間の負債としての意識の非対称性がいっそう昂進することを、首肯し得るか。事実、セカンドレイプにおいて問われているのは、そのことである。


――しかし。それは司法の場において最終解の示されるべき問いであり、司法制度「のみ」が贖うことを要請する問いであるのか。


そのような倫理的な課題は、当事者の問題である、という立場はあってよい。ただし、私は社会的正義というものは存在すると信じる立場であるから、「当事者の問題」として済むこととは思っていない。


加えるなら、Googleは森羅万象について「当事者の問題」を認めない。であるからこうして、局外者ながら、口を出している。Googleの制する現行のWebにおいて「当事者の問題」は、可視化された情報に原理的には存在しない。原理的な事情を前提するなら、口を出すべきと判断するときもある。

4.


端的な疑問。被告が現在述べていることが、この事件の「真実」であるなら、検察が上告することなきまま、あるいは上告が棄却されて、二審判決が確定していたなら、「真実」は語られぬまま、「嘘偽り」が司法において確定し、おそらくは、被告の知る「真実」は葬られていたことになる。本村氏は、真実を語ってほしい、と二審においても、主張していた。


むろん、本村氏の求める誠実に対して被告が応える義務は、外形的な規則としては存在しないし、存在してはならない。死刑判決の回避を前提することが当然である限り、刑事司法においても妥当な判断と選択ではあったろう。法廷とは裁判制度とはそのようなものである、と言ってしまえば、それはその通りである。


かかる刑事裁判の形式性に対して、問題提起を行ってきたのが、本村氏ら犯罪被害者であり、日垣隆氏や藤井誠二氏らであった。「真実」と「誠実」は裁判所の管轄外である、「起こってしまったこと」としての「任意の修復不可能な行為」に必然的に付随する(上述の)「倫理的な課題」は、当事者が個別にかつ私的に(僥倖なら「当事者間」にて)解決するべき「当事者の問題」である、刑法が刑事裁判がそれに関与する余地は原理的にはない、と言ってしまったとき、かかる司法は裁判制度はその原理は、国民の信任を全面的に得られるか。


犯罪被害者の立場と感情、あるいは上述の「倫理的な課題」について、社会的正義の観点からも遺棄されるべきでは絶対にないが、刑事司法とは別なる場所において解決せんと公的機関は市民社会は企図するべきであって、それらを刑事裁判の形式性に対して無原則に介入させるべきではない、原理原則の倒壊に繋がる、との反論は存在する、その理と立場を私は認める。


現時点において、私が思うことは、自身の修復不可能な、言い換えるなら取り返しの付かない行為に対して、被告は誠実に向き合うことをしてこなかった人間であるのだな、ということである。私は誠実という言葉とその概念を信じる人間である。


予期される死刑判決のことを措いても、現在は、違うのかも知れない。被告は初めて、自身の行為に対して真面目に向かい合わんとしているのかも知れない。その点、失礼ながら、私は本村氏とは見解を異にする。あるいは、そのような被告の資質をして、弁護団は現在の主張を展開しているのか。比喩的に言うなら――自身の行為に対して向き合うことのかなわない人間であった――と。


安田氏が、一審二審の弁護人の対応について批判的とも取れる言を、集中審理後の記者会見において述べていたことを、記しておく。是非の判断は、措く。一審二審の弁護人は最高裁における弁論の決定された際に、被告の弁護を降りている。そして、最高裁における弁論から急遽、現在に至るまで被告の弁護を引き受けているのが、安田氏である。



http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/column10-benron.htm光市事件における最高裁弁論要旨【1】



http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/column10-benro2.htm光市事件における最高裁弁論要旨【2】



http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/column10-kantei.htm【鑑定書結論部分】