こんにゃく畑でつかまえて

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081008-00000012-mai-soci


♪こんにゃくばたけでふるーつたーべーたー、というCMのあれか。私は食べたことないのだけど蒟蒻畑好物の交際相手が切れておりその対応に追われたのであるからして私の味わった精神的苦痛について消費者庁ならびに野田大臣に謝罪と賠償を(ry  『スーパーサイズ・ミー』というドキュメンタリー映画について話した。


スーパーサイズ・ミー - Wikipedia


直接には関係のないこと。先日、友人が電話で唐突に国家について考えている今日このごろと言う。そういう柄ではない。友人は法的かつ社会的にグレーな商売を三度の飯より好きで手がけており、新たな立ち上げに際して、その法的かつ社会的な位置のグレーとその歴史的な恣意性ひいては恣意の内実の些か不当について否応なく改めて考えるに至ったそうな。


溝口健二の『赤線地帯』ではないが、法的かつ社会的な位置のグレーへと至るその歴史的経緯には戦後の政治的思惑と一種のロビイングの結果としての恣意が介在し、にもかかわらず体制によって決定されたグレーとその恣意は現在の業界全体を悪弊含めてなお規定し、そして決定された灰色のずっと後に生まれた友人もまた現在その法的かつ社会的な灰色に自身の誇るべき生業を規定されている。否応なく。


その灰色は自身が矢面に立つことさえなければ通常殊更に意識されるものでないが、すなわち自身の利益のみを見て無知のままでもいられるし、保守的な社会道徳を口にするにとどまらず信じさえしていられることだが、いざ意識されたときその危うさにぞっとすることもあると言う。だから人は役人に警官に盆暮と付届する、なんせ行政には監督責任があるし、ホリエモンは有罪判決なので、と私は答えた。むろん盆暮と付届をしているわけではないし監督責任とは本来そういうことでない。行政の監督責任という概念の便利についてフライドポテトウメェ、と持参の箸でつまみながら考えるという話。というか、否応なく考える。いや物の喩えであって私は胃腸がチャイナシンドロームなので強烈な油はしばらく食っていない。


簡単に言うなら、万一の保障なきことが法的かつ社会的な灰色の意味であり帰結であるからこそ、商売人は保険を打つ。法治国家におかれては。そして法的かつ社会的な灰色が歴史的に規定された政治的な恣意と利害調整の産物であり妥当性に疑念あることを知ったとき、人は、少なくとも納得しない。むろん、世間について了解あればこそ灰色の理由を知る者であればあるほど幾らも挙げることができる。そして灰色よりも信じるべき白や黒を個々人が頑固に持ち合わせている、口に出さずとも。生活や妻子や性分や、友人のように三度の飯より好きな快であることや、責任意識や、あるいは親と子の盃であったりする。べつだん思想信条や信念の部類でもないし、まして正しさの問題でもない。


米倉涼子主演の『モンスターペアレント』というドラマを見ていて面白かったのは、そして改めて確認したのは、人は納得しないから暴走するということ。そして納得の根源は決して自身が信じる市民社会の理念でなく、個人の個人性に依存するということ。個人の個人性に依存する納得の根源に対して、職業的に処方箋を示すことは近代社会においては難しい。というか、某ブックマーカー氏のおそろしく一貫した「カウンセリングのススメ」はまったく正しい、と言えなくもない。そのような前提においては。個人の個人性に依存する納得の根源を社会に対して要求することをメンヘラと指し示すなら。


友人曰く、顧客の被る被害という意味では万一はまずない。ただ万一を蓋然として諸々を考えたとき、公的な保険なきことを改めて反芻する。そして他のいかなる保険も結局のところ法と社会の恣意には打ち克つことができない。盆はいつでも裏返される。私が曰く。現代は事態の責任を無限に追求できる世の中であるということ。そして社会は知らず法は責任の無限追及の強い味方であり、社会は空気次第でそれに加担も抑止もする。


任意の恣意が、社会の醸成された空気に基づいて、あるいは社会の空気を意図的に形成しさえして、事態の責任を無限に追及して誰かを合法的に屠ることがある。あるいは意図なくとも結果的に破滅させることは幾らもある。そのようなことを起訴休職中の外務省主任分析官が言っていた。しかし、もし不正が実際にあったならそれと問題は別だろう? うんにゃ。だから、咎あるとき事態の責を無限に追求することを押し留めるものは何もない。合法的な制裁が社会にはあって、人は空気を読む。そして咎なき者はいない。他人の咎を隙と指摘する順応主義者はあっても。


罪なき者のみ石もて投げよ、というふうには、咎なき者のみ石もて投げよ、とは言えない。それがかつて丸山眞男が痛烈に批判した「無責任の体系」である以上は。しかし任意の咎をもって事態の帰趨について責を負うことが企業の社会的責任であるなら、電子レンジや洗濯機や乾燥機や冷蔵庫に『乳児を入れないでください』と銘記する必要も生じるだろう、死人が出る蓋然に零はなく、零を指向するのが企業の社会的責任である限りは。


それを与太と考えるのが社会の空気であって現在の空気はそのような閾値を示している。そして、閾値は水銀の死んだ温度計程度に上下しあるいは振り切れるのがコモンセンスなき社会の意味でもある。ならばこそ、一般に、行政は「事態の帰趨」という概念についていっそうの無限責任を要求されるだろう。社会的責任という概念についてコモンセンスなき社会に標を示すなら。「仕事をした」という顔で済むことでもなくなる。それが世界の選択なのだろう。

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フルキャストで食って4年になる俺が思うことをつらつらと


大阪のビル火災についても同様のことを思ったが、それは我が事としての自己批判でもあるのだが、複雑化した現代社会において人は、法王庁の抜け穴ならぬ法の抜け穴を欲している、率先して。消費者としてユーザーとして、挙句被雇用者として。そのニーズに応えるのが商売人で、かような共犯は万一を想定しないことで成り立っている。万一の際死ぬ側がそのことを勝手に覚悟しているのは御自由で、その御自由を見込むのも商売。


日雇派遣とは有体に言って人買いの範疇なのだが、しかし買われることそれ自体について人は問題としなくなってもいる、保障が万全なら売買されることそれ自体については無問題と。自分の肉体であり人生であると。マルクスどころかドラッカーさえ死んだということであって、保障が万全であろうと売買それ自体が社会において問題というのが今回の措置の意味だろうが、売買それ自体を問題と、そしてそれはきわめて社会的な問題であると、売買される側が思わなければ、それは自分の都合という話になる。売買春の合法化論を人気エントリで目にしたときも思ったことだけれど。


むろん自分の都合で構わない。「社会主義なんて知ったこっちゃないけど、今期だけ給料上げてよ」は通用しないのだが、マルクスはとうに死んだのだから。「働く側のニーズに合致した働き方」それを提供することを否定できるものではない。いわんや水商売においてをや。


分別なき馬鹿にも売ることを前提するのが大量生産大量消費の意味であって、馬鹿が買うことを想定していない、は反論として成立しないし想定していないはずもない。想定されているのは足切りであってその範疇については問われもする。馬鹿は買うべきでない、はコモンセンスであって、そしてコモンセンスが死んだなら消費者の論理が優先される。なので、ガキが死んだくらいで私の楽しみを奪うな、が正しく消費者の声として反論たりうる、交際相手が言っていたように。それが分別かは知らない。


先日、国会質疑で民主党の議員だったと思うが、民間で使えない公務員は駄目な公務員と考えてよいのではないかとずいぶんと露骨な言葉で言っていた。消費者の声最強という話だろうか。次の選挙で落選しないとよいがと思って、だから中継承知で無理難題を言っていたのかと合点行った。代議制はそれでよいとも思うが。


こんにゃくゼリーに話を戻して言うと、ひところの大麻云々についても思ったことだが、ニーズの存在を前提する需要と供給は規制論を牽制するものではない。問われるのはニーズの内実であって、酒や煙草が、あるいは私の好物たるコーヒーが、その依存性と有害性にもかかわらず嗜好品と見なされているのは、渋谷にある『たばこと塩の博物館』を訪ねてみればわかるが、あるいは恵比寿の麦酒記念館や神戸のコーヒー博物館を訪ねればわかるが、嗜好品産業がしきりにプロパガンダ啓蒙する通り、嗜好品が嗜好品として受容されてきた長い長い歴史と文化的背景、ひいては経済的な背景があるからで、日本において大麻は必ずしもそうではないし、こんにゃくゼリーはまったくそうでない。だから規制論は妥当ということではむろんない。危険性と死人の多寡において餅や煙草や自動車と容易に比較して論じうるものでないということ。


メーカーに「製造物責任」はある。子供が死んだから規制するということでもないだろう。ただ私たちの社会においてこんにゃくゼリーを受容し嗜好品として末永く付き合っていく契機を、おそらく私たちは失った、あるいはその歩みにおいて一旦後退した、そういうことではあるだろう。私は未成年の頃に無茶な煙草の喫い方をして身体を壊してやめた。それきりだが、人類史はそれきりであることを選択しなかった、人類が長い年月において経てきた、後にニコチンと名指されることになる化学物質とその危険性との付き合い方は、毒物の嗜好品としての文化的な受容は、現代においてなおひとりの個人のニコチン受容史として再現される。


ひとりの人間の煙草との、あるいは酒との、コーヒーとの付き合い方に、人類がそれを嗜好品としてきた歴史が集約されて存在する。だからポストモダンでプレモダンな現代においてなお、人間は面白い。そしてその列に大麻を加える発想はあるだろう、日本が文化史的にそうでないということであるから。私は現状大麻規制に賛成で、ドラッグのろくでもなさは嫌というほど知っているが。麻薬を通じたボーダレスという議論は私に言わせればまったくまともでない。ボーダレスでなくトラフィックだよ。


人類史においてニコチンで死んだ人間は数えきれない。アルコールを嗜好品として自身において真に受容することなく早々に死んだ人間もまた、数えきれない。なあにかえって免疫力がつく、はむろん嘘である。こんにゃくゼリーは未だ戸羽口に立っており、そこで強制的に緞帳を下ろして構わないか。私は賛成でない。グローバルスタンダードは知らんが、キケンがアブないこんにゃくゼリーを人類とその叡智が嗜好品として獲得し真に受容する長い長い道程の、その突端に現在の日本人はいる。骨を手にしたばかりの猿人のように。私たちには河豚という誇るべき歴史と勇敢な死者の列がある。近代や法治国家や公共を袖にして、そんな与太を綴りたくなりもする。


むろん、死んだ子供の縁者はそれでは「納得しない」だろうが、先述の通り、説得が納得をもたらすことは原理的にない。納得させることは誰かの血を流すことで、それが昔も今も政の意味で、そんな政は糞とは私は思わないが、コモンセンスなき大量消費社会において、馬鹿な消費者の納得がメーカーの血を流させることが他なる消費者の納得を呼ぶはずもなく、他なる消費者の納得が誰の血を流させるかが政の新たなフェーズであるとき、野党議員の露骨な公務員Disに合点行くのだった。合点はまったく支持を意味しない。選挙は近い。選挙権なき交際相手の業腹は私が愚痴を聞いたわけで、『スーパーサイズ・ミー』では納得してくれませんでした、当然のことながら。愚痴るより買い貯めるべきと言ったら納得してました。自分の都合は強い。消費社会はその集積を熱源としその集積において成立している。