処罰の在処

小女子を魚というのが悪質という裁判官とそれを支持する者は、問題が全く見えていない - kentultra1の日記


実在する小学校で小女子を焼き殺す、が冗談として解される余地については措き、また行動は撤回しうるものでなく発言も行動であってそして撤回すればやっちまった行為の尻が拭けたことになるわけでもないことも措き、言論統制云々を措きリスク蓋然とその対処とそれに付随する現代の責任問題についても措き。「認識とその欠如に基づく行為に対する処罰」は成立するか、と顛末を確認して私は思ったのだった。


日時特定のうえ名指しでスレ立てまでして、当該の小学校に恨みでもあったのかしらと、そもそも私は逮捕の報を聞いたとき思った。公的な表現に際する実在の固有名に対する配慮とか、言うだけ無意味なのだろう。つまり、固有名とは人生と責任の集積であることが想像しえないなら。翻るに、加藤智大の結果的に犯行予告となった書き込みをリアルタイムで見ていたとして、私が通報したはずもなかったろう。事件の後に悔やむかは知らない。誰かに止めてほしかった、と供述していると伝え聞く。


「真に受ける」ことに思い至らないのはリテラシーの問題でなく、まさに「想像力の欠如」であって。他人のことを自身と区別して考える、という発想がない人のことが、私は素でわからない。そんなふうにやっていたらそのうち殺されるよ、と私は他人を見て思うことがある、トシを取って、自分から率先して殺されたいと「私は」思わなくなった、ということでしかないのだが。自分のルールを他人と折衝する経緯に欠けた人だったのだろう。そのことこそ本件顛末の問題と私は思う。別に判決はどうでもいい。逮捕歴や前科が勲章になるといかなる担保もないのに勝手に思い込んでいる人というのはいる。むろんそれは勘違いなのだが。


名指しされた小学校の父兄ら関係者がスレタイを閲覧する蓋然の皆無を、普通は想定できない。自分が書いていることを「当事者」が読む蓋然について自明と私は思っているが、自明と思っていないならそれが文字通りの匿名発言の特性だろうか。私は文字通りの匿名発言をしたことがないのでわからない。


法は唯一「行為に対する処罰」を付すのではない。親の子殺しと児童性愛者の子殺しは同じこととしては裁かれない。そして唯一「認識とその欠如に対する処罰」を付してはならない。行為を裁くことにおいて認識とその欠如に対する処罰を付すとき、執行猶予判決が妥当な処罰であるか、「認識とその欠如に対する妥当な処罰」の如何をもし求めるなら、私は些か考え込む。実刑判決を是としているということではむろんない。懲役とその猶予が教育刑たりうるか、ひいては教育刑という概念は可能か、という話、今更ながら。


自身が当事者として責任を負う世界の外部に他人が当事者として責任を否応なく負わざるをえない世界があって、それは社会という名において繋がっている。他人の当事者としての責任は自身の範疇にない、とする認識とその社会的な意における欠如が人の行為を独善たらしめる。むろん独善であっても構わないのであって、無敵の人かは知らんがそうならそれで構わない。ハワード・ヒューズのように盛大に他人を巻き込んで何かに打ち込んでほしいとも他人事ながら思うが。


そして、他人の責任を認識において自身の範疇とすることを「教える」とき、執行猶予判決が正しく教育刑たりうるかと問うなら、現行法の範囲という話にしかならない。天下に知らしめるなら一罰百戒としてそれで構わないということになるが、さて本人に対しては。というか、処罰の形式論としては妥当としか私には言えないし特に感想もない。


自身が当事者として責任を負う世界の外部に他人が当事者として責任を否応なく負わざるをえない世界がある。そのことに対する認識的な欠如に対してもし処罰を付すなら、それは執行猶予判決ではなかったろう。社会のひいては他者の存在に対する認識へと至らしめることが、行為に基づく認識とその欠如に対する処罰であるなら。そう。認識とその欠如に基づく行為に対する処罰でなく。


本末転倒を是とする限り、皮肉にも、現行法の範囲は処罰たりえない。それは古典的な話でもある。むろん、そもそも論として、法理念の本末転倒は是としえない。社会のひいては他者の存在に対する認識へと至らしめることが、認識とその欠如に対する処罰であるとき、そのような処罰を法が付すことは越権行為にほかならない。


馬鹿を懲らしめるには、という話でないことは大前提で、馬鹿を懲らしめるために法的制裁があるという議論は議論としては成立しない、実情は措き。実情を是としうるものでもない。「教える」と言うが、自分に得をくれない人の上から目線は人を教育しない。良くも悪しくも、それが現在の前提ではある。教育刑という上から目線、という案件は厄介なので措く。司法は人を教育しうるか。そういうものではない、教育刑は不可能である、とは言いきれないことがあるから、難しい。しかし個人における認識の欠如を補填することが、現在もなお、社会の社会としての使命であるなら、そして概ね個人の個人としての幸福でもあるなら、補填の処方箋は模索さるべきだろう、むろん、法のほかに。


近代において、処罰ならざる罰とは、誰が何によって与えるのだろう。私は今でも、ラスコリニコフがなぜ「改心」したか、筋道立てて他人には説明できない。その再生の意味を、自分ではわかっていることであっても。現代人は、他人の誰かの顔をした超越性が、必要なのだろう。時にそれを恋愛と言うかは知らないが。社会問題を他者に内在する醜悪さのようなものに帰責させたり起因させたりする議論に私は関心ない。

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