覚書/カンビュセスの籤


コメントしてくださっている方も含めて。申し訳ない。最近、思うところがあって、ネットと距離を置いている。現在も。定期巡回すら、怠りまくる始末。日常の些事に追われていたことは、また追われていることは、事実である、が。巡回に割いていた時間を、積読状態となっていた本に、映画に、充てていた。そして。人の世の相に異動なきことを、改めて確認する、小林秀雄ではないが。


日常の些事は、些事に過ぎない、私は遊ぶことに関心がなく、自他の区別が甚だしい。離人的な人間というなら、その通りである。山本夏彦の喝破した通り、生来の無用の人において、用はいずれ片付くが、片付かないのは人の心である。片付かない人の心を、誂えた用をもって片付けようとすることは、錯誤の一例だろう。私は、自死を、社会的な機能において、そのように考えてしまう。たぶん、間違っているのだが。


個人的な感慨に過ぎない、と断るが、深入りするほどに、「言及したら負けかなと思ってる」となるニュースが多い。辟易しないでもない。むろん、そんなふうに思っている利口な奴こそ、負けなのである。そして。負けたことを自他ともに認める場所から記される、細く小さき言論は、無敵である。私も、夏彦大人に倣って、この世にはニュースはない、と言ってみたくもなる。そして、むろんのこと、私たちは、口を噤んでいられず、他なる囀りに、飢えるように耳を傾ける。小沢健二の歌ではないが、生きることを諦めてしまわないように。にぎやかな場所で交わされ続ける囀りに。


書きたくはない - 玄倉川の岸辺


「正義」の創造 - 玄倉川の岸辺


常識と「世間の空気」 - 玄倉川の岸辺


玄倉川さんの記事を改めて読み返した。敬意を。


書くことにする。


私には、わかりやすい言葉を用いるが、ニヒルなところがある。私は、しずかの父がのび太を賞賛したようには、人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことのできる人ではない。むろん、その逆でもない。自他の区別が甚だしいということは、人の幸せを、人の不幸を、ファーブルの昆虫記のようにしか眺め得ないということでは、あるだろう。むろん、ファーブルは自然界の不思議に魅入られ、生命の営みに心動かされていた。ファーブルと同じく、自然界の不思議とその法則から自身が脱しているということでもない。


フンコロガシの生態も人類の文明とその悲劇も、10万光年の彼方から見通せば同じことである。そして。身体が地上にあり社会的存在として日本国籍を有し固有の記憶と経験と付随する認識と感情に行動原理を規定される限りにおいて、んなことを言っているのは馬鹿以外の何物でもない。スコープの問題というのは、所在するだろう。


たとえば。「言及したら負け」と思しきニュースを追跡する折につけ、私は省みる。私に妻子があったとき、その人が残酷に殺されたなら、殺した者が背景なき子供であったなら、可能であるなら私はその子供を殺すであろうか。たぶん。私は形式主義者であるから、殺されたのが妻子であったなら、そのように処するであろう。ところで妻子というのは、私という個人にとって、大切な人であるか。形式主義者とは、一面においては、名誉と呼び習わされる面子と体面を重んじる者のことである。山本周五郎の『よじょう』ではないが。


私は本村洋氏を謗っているのではない。氏は形式主義者ではない。ニヒルな私がそうである、という話。妻子を愛する、という観念が、私にない、という話。妻子というのは愛するために在るものであるか。詮無く不謹慎な思考実験の結果として、人でなしの私自身は、本村氏の開陳する私的な認識と発言に同化し得ない、ということ。そして。同化し得ないことと同意し得ないことは、異なる。感情の回路を介さず、理解することは可能だ。あるいはそれを「同情」「気の毒に思う」と厭な言葉に変換し得るのかも知れないが、私は氏の開陳する私的な認識と発言に同意する。以前も記してきたこと。


私自身には、妻子を、あるいは愛する者を、守り得なかったことに対する自責の念を抱くという、内的な回路が、存在しない。私自身の内的な回路は、こうした事例においては、我が事とするなら、筆にするにはばかることでしかない。愛する者、という概念が私に存在しないわけではむろんない、ただ、愛する感情は愛する者の専権でしかないと考えている。個々の専権が交錯する関係性に、幸福が所在すると私は考えたことがない。むろん、人間は、幸福のために生きているわけではないし、楽しい想い出のために生きているわけでもない。


人間は、幸福な楽しい想い出のために、建物に火を放つ存在である。炎は炎でしかなく、焼け落ちる建築物は建築物でしかない、にもかかわらず、炎の中に記憶と感情を見出すのが、人間である。個人の死と、個人の死は、原理的にはバランスしない。然るに。個人の死をもって個人の死を求めるのが人間である。私はそのことに、否を示す気にはまったくなれない。私は相対的には死刑制度の存置論者である。私のスタンスは、諦念に規定されている。諦めた人間が、過激なことを口にするのであろう、無責任に。


私は、自分と他人は違う、ということを起点として考える。他人と違う自分、という話ではない。人間の幸福の様相は似通っているかも知れないが、不幸の様相は個別的である。アンナカレーニナ。不幸の様相が個別的であることをもって、凡の劇が始まるのであろう。御託は措く。起点を発して、自己と他の共通了解の地平を、公的な言論の位相において模索する。たとえば、本村氏と私の共通了解の地平を、あるいは、今枝仁氏と私の共通了解の地平を。原理原則を示すことは、あるいは易い。原則は常に正解である。歴史の授業も付随する。私も、自分なりに示してきたとは思う。


そして、原則が覆い得るのは状況の半分である。むろん、誰もがそのようなことは承知のうえで、半分だけでも覆わんとする。咎められること、あるいは注文を付されることでは、まったくない。私も、そのように考えてきた。橋下徹氏の示す見解に理が存するとするなら。原則を示して覆い得るのは状況の半分である、ということ。そのようなことは、原則を示す者はみな百も承知である、かつ、覆い得る半分を覆うどころか、かかる営為を妨害しもした人が言うことではない、と応じ得る話。以前に記した通り、私は橋下徹という人のことは、好きだ。なので。いい大人として、行為の責任を、法的のみならず社会的にも取っていただくことは、理路として然るべきことだろう。それが「世間の常識」。


裁判と刑事司法の原則が、状況の半分でしかないなら、残る半分は何であるか。


繰り返しになるが。私は、感覚においてニヒルなのであろう。なら万事どうでもよいはずである。面識もない他人が、個人の死をもって個人の死を求めようとも。「元少年」という、かつての子供の死が公的に決定することに対して感慨を覚える親切心を私は持ち合わせない。とうに居ない、面識なき他人の残酷な死に涙する感性も持ち合わせない。制度は制度に過ぎない。社会正義と制度の関係が問われ、かかる社会正義の内実も問われている。


私個人は、社会正義と制度の関係を、生死の問題について問う感性を持たない。正義が制度において現れることを、個人の生死については、信じ難く思うため。ゆえに、私は究極的にはリベラリストにはなり得ない。個人の生死について、制度において正義の貌が現れることを、訝しく思う。私は特定の信仰を持たない、が、個人の生死に属する限り、制度に現れる正義の顔を、私は避けんとする。弱々しくも。


イッツノットマイビジネス。原則をもって状況の半分を覆えばよい。人間は感情の奴隷と堕することを克服するべきなのだろう、一方、個人の死をもって個人の死を求めることの是非を論ずることは僭越に過ぎる。実際、論じ得ることなのか知らん、此岸のことは此岸において解することを常とした私たちにおいては。むろん、此岸のことは此岸において解するべきである。解けない式の解において難ずることがある、ということ。「赦し」の何たるかをおおっぴらに問い言挙げることを、私たちは自粛している。確かに、それは礼儀に合致することではある。賢明でもある。


私個人の話をするなら。感覚においてニヒルなはずの私は、にもかかわらず、正義を公正を、小さき市井の個人において問うてしまう。それは、一義に自らにおいて問うということである。人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことの必ずしもできない、のび太のようには人間の出来ていない世間の凡なる人において、正義は公正は、最小単位としていかに問われ、また証されるのか、と。


少なくとも、死刑判決の予想される刑事裁判に対して激越な反応を示すことによって、証されるものであってほしいとは、私は思わなかった。そして。悲しいことに、そのことを通して問われた。世間の凡なる人の、小さき正義と公正が、最小単位において。世間の凡なる人の、小さき正義と公正は、表出の相において、批判にさらされた。さらされて然るべき表出の様相でもあったことは、論を待たない。


私は、6月の状況において、懲戒請求を行う意思をまったく持たなかった、それは、私が刑事司法に無知でなかったからでも人権意識に長じていたからでもない、一義に、行動に限らず意識感情においても怠惰がデフォルトであるがゆえに、かかる行動に及ぶ意思を持ち合わせなかったために過ぎない、とはいえ、かかる行動に及んだ人たちを批判する意思も、まして軽蔑する意思も、いまなお一切持ち合わせない。


あいにく私は司法関係者ではない。御世話になる可能性は、ないとはいえない、というより、ない、と言い切れる人間など誰もいない。ゆえに、原則を示してもきた。たぶん、私はいまでもシンパシーを覚えてはいる。懲戒請求に及んだ人たちの、行動原理に。怒りを覚えたことはない、当事者としての弁護団にも懲戒請求者にも、誰にも。まことに、感情の回路を介さず、理解することは可能である。


私は、被告を、かつての子供を、モンスターと思ったことがない。というより、そのように考えかつ公言する人がいることに驚く。レトリックでも、また宗教的な話でもないのだろう。言うまでもなく「原理的には」モンスターなどいない。浦沢直樹の名作の登場人物であるならまだしも。任意の個人をメタフォリカルに処理すること、あまつさえそのことを言辞として示すことに、私はまったく賛成しない。


本村氏とて、言辞としてはおろか、認識としても、毛頭そのようには考えていない。人間として捉え、人間同士として向き合っている。そのことと、被告の死を求めることとは相違しない。したり顔で書くことではまったくないが、身体の損傷において人間は容易く死ぬ。行為と事後の言行において、被告の量刑は問われ、被害者遺族から死を求められている。


以前も記したことであるが、私の印象においては、被告は自身の行為の実相について、了解せんとする意思を持ち得ていなかった。遺族が私以上にかく判断することは、当然のことと私は考える。あるいは。現在において、ようやく被告は自身の行為の実相について、了解せんと意思し得たのかも知れない。わからない。そうであるとして、悲しい状況、と思う。


取り返しは付かない。私見であるが、たぶん来世はない。生は一度きりである。居ない人間は、居ない。もう、どこにも。所詮この世は生きている人の世の中である。鎮魂のため投げ込まれる人身御供ならざる、生者のため殺される生者が、在る。私はそのことを肯定する。社会的に、かつ、刑事司法の制度を通じて、公的に肯定さるべきことかは、措いても。私刑はいけない、のだろう。私は相対的には死刑制度の存置論者である。


言わずと知れたことであるが、言葉は只である。現実に無理筋であったといえ、なら金銭を、という話ではない。少なくとも、被害当事者は求めなかった。言葉は只であり、「原理的に」金銭によって行為が贖われないとき、何によって、ふたりの人間の残酷な死は贖われるのか。贖いを、強く求める人が在ったなら。公的かつ社会的にも問われている問いの、司法における解は、いずれ示される。


かかる解において、司法に対する国民の信が左右されかねないことは、逃れ得ない様相となっている。少なくとも私は、そのことを歓迎しはしない。私は、いわゆる国民の司法参加を肯定し、裁判員制度に賛成である。が。そのとき、当事者としての国民において正義と公正についての意識が所在しないなら、裁判員制度の実施に懐疑を示す人たちと同様の、危機を覚えざるを得ない。


リテラシーの話でも民度の話でも公民教育の有無の話でもない。個別利益の主張は行為において正しい、個別利益とその個別的な主張を担保する、個別利益を一義に離れた、公なる概念が正なる概念が義なる概念が、前提において存するなら。前提についての意識を、裁判員制度にかかわる私たちは、共有するか、個別利益と思想信条信念において相違する個々人の、生命線たる、共通了解の地平として。国民と法曹の意識が違えることよりも、私はそのことを心配する。


奪われた命を、別なる命によって贖う発想は、少なくとも「原理的には」成立しない。むろん、いわゆる「遺族感情」がかかる「原理」を関知しないことは、全面的に正しい。「原理」を前提に解の示され得る問いではない。であるからといって、任意の重大事件の刑事裁判に対して、第三者が激越な反応を示すことによって、問いの解が示されるわけではない。


承知のうえで、「気が済まない」がゆえに激越な反応を示すのであるなら、それは、弁護団は措いて、能う限り激越な反応を示すことを抑制している、本村氏に対する非礼と私は考えざるを得ない。状況に対して、弁護団ならびに被告の言行に対して、誰よりも「気が済まない」のは、誰であるか、言うまでもない。「空気」を読んだうえでの「自重」は被告を弁護団を鑑みて、死刑廃止論者の左翼を鑑みて、示されるものではない。敵を同じくするなら味方となり得る、という発想は、間違っている。橋下氏が本村氏の「味方」となり得たか、残念ながら、到底そうとは言えない。


私は、死んでいい人間などいない、とか、まったく思わないが、また自身についても他からかく判断され得ることを認識において前提するが、そのことと死刑制度の存続とは、一義には関係しないし、させてはならないことである。被告は、「元少年」というかつての子供は、「死んでいい人間」であるから、死刑判決が予想されるのではないし、私自身も、また、ことさらに「死んでいい人間」とは思わない。「モンスター」でなく人間である以上、任意の人間の生死それ自体の是非を第三者が安易に判断し得るものではない、と考えるから。行為と言動に鑑みても。


ただ。第三者ならぬ被害当事者が、行為と言動ゆえにその人の死を強く求めたとき。社会正義と制度としての刑事司法の、ありうべき関係を問うて、公的かつ社会的にそのことを求めたとき。相対的には死刑存置論者たる私自身は、この一件については、やむなきとは考える。制度としての刑事司法におけるアンサーは、高裁判決において示されるであろう。回答を、待ちたい。


自らの直接的な利害にかかわりなき限り、万事どうでもよい、かく思えたら、信じ込めたなら、自らを説得しきれたなら、どれほどに安楽であろう。浮世のことはすべて茶に、と山本夏彦は言ったが、むろん彼は本当にそのように思っていたわけではない。であるから、「そのように」言った。かかる二重性において、言葉は発され、機能し、私はなお、只なる言葉の効用を信じたくも思う。


浮世のことはすべて茶に、と、他と比するなら考えているはずの私は、本当に真正に、浮世のことはすべて茶に、と考える人間に出くわすと、どうしようもない違和感を覚える。修行が足りない、ということかも知れないが、修行を積み悟りへと至ることが、生臭坊主への一歩であろうとも思う。世間の凡なる人において、小さき正義と公正が、内なる問いとしてどうしようもなく問われることを、手前味噌ながら私は肯定したく思う。


それをして倫理と呼ぶのであろうし、リンリリンリと時に凡なる人は鈴虫にもなるのだろう。口を噤んでいられぬ人の囀りに、私たちは、否、私は、結局のところ、飢えるように耳を傾ける。そして、にぎやかな場所に幾許かの異を輪唱に加える。口を噤んでいられぬ凡なる人の囀りの一例として。生きることを諦めてしまわないように。内なる小さき正義と公正を、つね確認し点検して。