かつての子供たち


http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070915/1189870062

批判ばかりされた子供は、非難することをおぼえる。
殴られて大きくなった子供は、力に頼ることをおぼえる。
笑いものにされた子供は、ものを言わずにいることをおぼえる。
皮肉にさらされた子供は、鈍い良心の持ち主となる。

しかし

激励を受けた子供は、自信をおぼえる。
寛容にであった子供は、忍耐をおぼえる。
賞賛を受けた子供は、評価することをおぼえる。
フェアプレーを経験した子供は、公正をおぼえる。
友情を知る子供は、親切をおぼえる。
安心を経験した子供は、信頼をおぼえる。
可愛がられ 抱きしめられた子供は、
世界中の愛情を感じ取ることをおぼえる。

ドロシー・ロー・ノルト


いわゆる「事実性」の話をするなら、概ね妥当、と言えるのかも知れない。経験的には、そのように思う。ただし。ものには言い方というものがある。


長じた、かつての「批判ばかりされた子供」「殴られて大きくなった子供」「笑いものにされた子供」「皮肉にさらされた子供」に窺える傾向、少なくとも、私が直接に知る限りの、当人がそのように「自己申告」する、かかる体験を経た「長じた、かつての子供」において、共通して、私に窺えた傾向とは、「非難する」「力に頼る」「ものを言わずにいる」「鈍い良心の持ち主」ということでは、決してなかった。一言に尽きた。「自己信頼の欠如ないし未形成」。陳腐極まる表現を用いるなら、言動において「自分を大切にしない」「御身大事でない」。むろん、男女を問わず、また性的なことにまったく限らない。当然のことながら、私は、いわゆる専門家でもない。


私自身も、「自己申告」をしてみせるなら、上記に該当する「かつての子供」であったのだろうし、事実、思春期から長じるまでは、ずいぶんと自棄であった。「笑いものにされた」ことは数え切れないが「ものを言わずにいることをおぼえる」どころか、饒舌多弁は、一貫して変わることなかった。御陰で、身体が駄目になってからも、「力に頼る」ことなくなんとかやっている。


そして。人間観と世界観の変容は難しい。現在もなお、良く言って、荒涼たる日々を好んで淡々と暮らしている。私は未来を見ず、回顧的な人間である。回顧する限り、また客観的事実として、「愛されなかった子供」「虐待された子供」であったことはない。


そうであった「かつての子供」から、直接に言われたことが、幾度かある。そうでなかった人には、絶対にわからない、と。回顧する限り、私は何も言わなかったし、その後も言わなかった。「むろん、俺とあなたは違う人生を経た違う人間であるし、換わることもできない」――とも、口にはしなかった。その人は、あるいは、あの人は、私を責めるつもりで言ったのでもないだろう、親密な相手に対する、口癖と、なっていたようだから。親密というのは、友人ないしそれ以上、のこと。


言うまでもないが。「自己申告」をエクスキューズと受け取ったことは、個人的な関係性においてはない。9歳の頃の私は、下着一枚で雪降る寒空に数時間放り出されたことはあるが、逆さ吊りにされたことはない。「俺とあなたは違う」から、「そうでなかった」以上、「絶対にわからない」。


一般論として、であったが、そうした類の「自己申告」をエクスキューズと見なす見解を示した人に対して、私的な関係であるなら、昔は必ず何か言った。問うてわかることであるが、単純に、知識というか、認識不足に由来することが多かった。現在は、機会もまずない、直接には言わない。目をつぶるべきはつぶり、笑って済ませる。大人になる、ということは厭なことである。


個人的な関係性において、「自己申告」がエクスキューズとして為されることが幾らもあることを、私は知っている。自らを省みても、厭というほど。自己に対するエクスキューズとしてなら、無数に。で。私は逆さ吊りにされたことはないから、「絶対にわからない」。ので、わからないことは直接に口にはしない。残酷な子供でない、大人の常識というのは、そういうものだろう。


皮肉として言っているのではまったくない。彼と我は常に相違する、彼岸である。常識とは、かかる前提のうえに成立している。大人の多くが常識を尊重するのは、「彼と我は常に相違する、彼岸である」ことを、長じるに際して厭というほど知るためである。


ブラックボックスを問うことの不毛から、インプットとアウトプットのみを、あるいはただアウトプットのみを、また、それをして差別と言うが、ただインプットのみを、問う人が、あるいはスタンスが、社会的な原理が、在ることを、私は了解はする。


ブラックボックスを恣意的に持ち出し、利用する人間が、当事者にも非当事者にもあることは、事実である。「社会では通用しない」ことも、いわゆる「事実性」の話として、その通りである。是非は問わない。問うべきことでない、と考える。


言うまでもないことであるし、「これを書いた人」においても上記の言葉は、そうしたものであったはずであるが、上記引用は、親ないし世の大人に対して示す言葉であって、子供に対して、あるいは、「かつての子供」に対して、示す言葉ではない、示してはならない言葉である。仮に、「いわゆる「事実性」の話をするなら、概ね妥当」であったとしても。


子供ないし「かつての子供」に対して示す言葉であるなら、美しい日本語には、要を得た簡潔にして端的な表現が、慣用句が、ある。「お里が知れる」「蛙の子」と。かかる美しい慣用句を、仮に「いわゆる事実性」において概ね妥当であったとして、任意の個人に対して直接に口にする人間は、その場で殴られてやむなしと、私は考える。


「かつての子供」であった、すべての親と世の大人に対して示すとしても。かつての「批判ばかりされた子供」「殴られて大きくなった子供」「笑いものにされた子供」「皮肉にさらされた子供」において、少なくとも、長じた当人がそのように「自己申告」する「かつての子供」において、自己信頼が形成され難いことは、私の個人的な経験から示すなら、多い。


相違する彼と我でしかない他人のことはどうでも宜しい、基底における自己信頼に欠ける人間は、何よりも、本人がつらい。少なくとも、我と相違するに過ぎない他と比してそのことを認識し尽きることなく反芻してしまう質の人間においては。


無根拠にして不当な自己信頼に満ち溢れているがゆえに、思いやり深い人間とはまったくいえない私は、基底的な自己信頼に欠けるゆえに、思いやり深くあらんとする彼は彼女は、否、基底的な自己信頼に欠けるゆえに、真正に思いやり深い彼は彼女は、私的にして一定密なかかわり合いにおいて、あるいは失敗し、陰険に喧嘩し、あるいは陰険に喧嘩を回避し、相互の度重なる失敗を経ての無数の遺恨と、着かず離れずの愛着のうえに、糸の切れない限り、よりうまくやっていけるようにはなっていく、まれなる奇跡として。互いに、変わることはないけれども、我と彼/彼女の関わりにおいて、賢明にはなっていく。


偉大なる淀長さんは、表向きそのようには言わなかったけれども、「人間勉強」とは、あるいは知りたくも学びたくもない厭な科目を必修する連続である。自立/自律した近代的な個人たる人間の愚かしきの底なしを学ぶ始終である。否。自立/自律した近代的な個人、という認識が、私的にして密な関係性において、容易に溶解し瓦解することを知るのである。


社会的ならざる私的な関係性の過程において、私の傲慢が、彼/彼女の自己信頼なきが、変容し得るわけではまったくない、それはそれ、であることを、私的な関係性にある相互は承知している。散々利用しておいて何であるが「不干渉原則」というのは、便利な言葉と概念である。しかし。他人を変えようとすることは、傲慢の最たるものであることを、学ばないほどに私や彼/彼女が痛い目を見なかったわけでも愚かであったわけでもない。


非専門家の私見に過ぎないと断るが、「自己信頼」の欠如ないし未形成において、他人を変え得るのは、社会的な関係性の介在に限るのであろう。私的な関係性は、いかに親密であろうと、自立/自律した近代的な個人における変容の契機を何ももたらさない。私の直接に知る限り、もたらしたことはなかった。ゆえに、彼/彼女について、社会的な関係性の介在に尽力する人々に対する敬意を、自己信頼にかかわりなく列外の人間たる私は持ち合わせる。


「それ」が、乱暴に総括して示すなら、愛の不在に発したとき、長じた「かつての子供」における自己信頼の欠如ないし未形成において、「かつての子供」たる常に不完全な個人の愛をもって補填し得るものがあるのか、あったのか、私はいまなお、わからない。自己信頼なき人に対して、任意の個人の好意をもって、我ならぬ彼の自己信頼を贖い得た事例を、マザー・テレサならぬ、傲慢な世俗主義者の私は直接には知らない。個人の好意ならぬ、神の愛をもってなら――?


言葉が過ぎた。が。言葉遊びではなく。美しき日本において、世間様が神様であるなら、あるいは御客様は神様であるなら、その愛をもって報いる以外に、すなわち、経済に規定される現行の社会における、社会的な尊厳の獲得と保持以外に、彼や彼女の胸を張らせる回路は、存在しないのだろうと思う。物心の話をしているのではない。


原義を離れた、世に流通する解釈における「留保の無い生の肯定を」という言葉に関心はない。ただ。社会という位相においてその生を強く肯定されなければならない彼や彼女というのは、居ると、私は考える。それが、「私たちの社会」に限定された、先進民主主義国住民のエゴであったとしても。


私は逆さ吊りにされたことはない、そして、逆さ吊りにされた「かつての子供」のすべてが、少なくとも親に愛されはした私のように、不当な自己信頼に満ち溢れているわけでも、他者との私的な交渉、すなわちコミュニケーションを、意識において前提しないわけでも、子供を生み育てることを端から志向しないわけでも、ない。