リテラシーと反応と、法と倫理


コメントに対する、レス。長くなるので、エントリとして。


個人と他なる個人と暴力 - 地を這う難破船


通りすがりさん、ども、はじめまして。御返事が遅れまして、申し訳ありません。ネット自体を、些か離れておりました。


通りすがりさんの記しておられること、大筋においては同意します。前提としての共通認識、と考えていました。私が、故意に話をずらしたことは事実です。記した通り「メディアリテラシー」の話には関心がないためです。そのことについて、「最初のニュース」に反応した誰かを責める気も一切ないためです。

普通の人が最初のニュースを読んだときに、次のように考える訳ですよ。

1.「迷惑行為をした高校生が居た」2.「客Aが注意する」3.「それに対して挑発的な行為をする高校生」4.「客A話しても判らない奴らと判断」5.「客A高校生を殴る」


よく考えれば、2. 〜 4. は読者の脳内補完に過ぎないんだけれど、「列車内のレイプ見過ごし」とか「注意した善意の老人を刺殺」とか言うニュースが殆どだから、条件反射的に間のストーリーを結びつけちゃうわけね。


従って「高校生=話しても判らない迷惑な人、注意する側=善意の人」の前提から「論理が通じない相手を先制するための暴力なら正当防衛」。よって、今回の処分は重すぎる。→ 客A頑張れ。となるわけだ。


最初に。通りすがりさんの示された見解に対する駁ではない、と断りますが。「論理が通じない相手を先制するための暴力なら正当防衛」というのは、修辞表現としても、無茶です。そのような言葉をもって、かく考えている人がいるのであるなら、是非の判断は措きますが、無理筋な見解、とは思います。


「今回のケース」については、記した通り、「当初の警察発表と、報道の問題」に尽きると、私は考えます。再度の記者会見へと至ったことの責は、全面的に「当初の警察発表と、報道」に所在すると、私は考える、ということです。また、県警の再度の会見へと至ったことは、結果的には良かった、としか言えない。


「普通の人」であろうがなかろうが、通りすがりさんの示した通り、「最初のニュースを読んだときに、次のように考える」ことは妥当です。少なくとも私は、そのように考えます。というより。私も、一報を斜め読みした時点においては、通りすがりさんの示した1.〜5.のように、考えたし、然るべき感想を持ったのです。「――またか」と。付するなら、「――またか」というのは、公務員が懲戒処分を受けたことに対して、ではなくて、あからさまに行儀と頭の悪い子供が報道沙汰となったことに対して、ですが。


ただし。そうした「然るべき感想」を、直ちに公然において明記することは、こうした件に限らず、私個人は、やりません。私的な雑談においてなら、あるいはTVの画面に対する独り言ないし突っ込みとしてなら、口にしますが。少なくとも、自らが発信する限りにおいては、情報の精確性に能う限り留意することは、愛・蔵太さんの敬服に値する姿勢ほどではありませんが、私も前提します。ただ、そういうことでもない。


いわゆる「脊髄反射」というのは、ネットという公然における見解の提示という位相において、判断されることであると、考えています。ただし。私自身はやりませんが、あるいはやらないよう留意していることですが、他人の「脊髄反射」を云々する気にも、原則的にはならない。人は人、我は我と、それこそ普通に思うためです。されど仲良し、といくかは、措いても。


私自身は、2chに書き込むことはありませんし、むろんのこと、「痛いニュース(ノ∀`)」の管理人でもありませんが、私のような人間ばかりであったなら、すなわち2chが存在し得なかったなら、それは悲しいし、「痛いニュース(ノ∀`)」は楽しく読ませていただいています。管理人氏には感謝している。以前も記したことですが、排されるべき、とか、全然思わない。そして。かかる地点から、「メディアリテラシー」ならぬ「ネットリテラシー」の話が、始まる。措きますが、後者には関心があります。


人は人、我は我、というのは、投げているのではなく、そのこと自体の是非を云々することではない、と判断しているためです。すなわち。精確性に欠ける初報に準拠した、いわゆる「脊髄反射」自体の是非を云々することではない、というスタンスにある、ということです。


この点において、たとえば、愛・蔵太さんの敬服すべき厳格なスタンスとは、相違する、ということです。むろん、愛・蔵太さんは、何よりも先ず「範を示している/示し続けている」のであって、その点こそ、繰り返しになりますが、敬服すべきことです。そのこと自体の是非を云々することではない、というスタンスについては、「痛いニュース(ノ∀`)」に関しても同様です。


約するなら。「普通の人が最初のニュースを読んだときに、次のように考える」と私も考えます。「普通の人」であろうがなかろうが、とも考えます。ただし、その「然るべき感想」を、ネットという公然において見解の提示として示すものか、まして顕名によって、とは私は考えてしまうのです。


「思う」「考える」「独り言として言う」「TVに向かって突っ込む」「私的な雑談において口にする」ことと、「公然において自身の署名(≠実名)を付した見解として提示する」ことは、行為とそれに準じた意識の位相において懸隔がある、相違する、と、私は考えるし、それこそ「普通の人」はそのように考えるのではないか、と私は考えてしまうのです。


「普通の人」というのは、こうした事柄について、「思った」「考えた」ことを、直ちにネットという公然に、署名を付した個人の見解としてアップロードするものであろうか、と。いわゆる「普通の人」というのはそうではないのではないか、と。finalventさんも、最近、そのようなことを記しておられました。私は、同意するところです。


「発言」の位相において匿名空間たる2chが構造的にそうではない、ということはわかるし、肯定するのです。繰り返しますが、是非の話ではありません。私自身は、そのように意識し、行為するし、私は私の甲羅に似せて「普通の人」の意識を前提してしまう、我が田に水を引く、ということです。


「読者の脳内補完」について申し上げますと。


当初の警察発表に全面的に準拠して(すなわち「裏を取る」ことなく)示された「最初のニュース」には、明確な誘導性が、提示された限定的な情報と端的な文字列の構成において示されていた、ということです。換言するなら、「当初の警察発表」において、恣意性が介在したこと、「最初のニュース」がかかる恣意性を検証することなく追認して報じたこと、多くの検証がネットにおいて為された現在の時点においては、明確に判断し得ることです。


よって。繰り返しになりますが、「当初の警察発表と、報道の問題」に尽きることであり、再度の会見へと至ったこと自体の責は、全面的に「当初の警察発表と、報道」に所在し、また県警の再度の会見へと至ったことは、結果的には良かった、としか言えない。


可視の領域における、あるいは社会的な「責」の話をするなら、以上に尽きると私は判断します。個々人の内心については、個々人に委ねる以外にない。公然において干渉する趣味を私は持ち合わせません。資格も義理も筋合もない。


脱線しますけれども。換言するなら。「ネットの発言」以前に、当該の警察官に対しても、また少年にもその親御さんにも、今回の一件についての反省、を公的な言葉にして社会に対して示せ、ということを、要求することは、少なくとも非当事者の誰もできないのです。


警官が懲戒処分を受けたことは、公務員であり、警察官であり、その行為は違法であるがゆえに現行犯逮捕されたためです。「誰も傷つけていなかろうとも」飲酒運転を摘発されて懲戒処分に付された公務員は、幾人もあります。是非の話ではなく。原則において、公務員の法的な処分と個人の行為に対する当事者の内心とは、かかわりなく、かかわりを社会的に問われるべきでもない、ということです。


その先の話、については、記した通り、関心がありません。ことにこの件については。であるから、記事において故意に話をずらしました。「煽る」「煽られる」といった言を他に対してそのまま示すことを、私は趣味とはしません。ただ。


今回、当初の警察発表に全面的に準拠して示された「最初のニュース」には、明確な誘導性が、提示された限定的な情報と端的な文字列の構成において示されていました。容易に任意のストーリを「読者の脳内補完」において構成し得るものであったということです。私とて、「最初のニュース」を斜め読みした段階においては同様です。「然るべき感想」が、かかる脳内補完から容易に抽出されることも、同様です。それこそ脊髄反射的に。


「「当初の警察発表」において、恣意性が介在していたこと、「最初のニュース」がかかる恣意性を検証することなく全面的に追認して報じたこと」に、気が付き思い至るべき、ということではありません。ただ。現実の事象である限り、事象を報じる端的な文字列の行間を読み、解釈するに際して、注意深くあるべき、とは考えるのです。


任意の発言が、事後において揶揄や批判の対象となることがあるため、ではなく、現実に存在する当事者に対して失礼となり得るためです。打たれた少年がひとりあり、職を失った公務員がひとりある。少なくとも、ネットという公然において署名を付した見解を提示するなら、それはモラル以前に、いわゆるパブリクションにおける最低限の手続きであろう、と考えるのです。それこそ。私も含めて知識人でもなんでもない、「一般人の倫理観」であると。


脊髄反射」とは、思考とその過程を飛ばす(=パスする)ことと、私は考えます。語義においても。人間であるなら、大脳を使ったほうが良いのではないか、少なくとも、ネットという公然に、署名を付して自身の見解を提示する限りは、とは思いはします。私は。


現実の事象を報じる文字列としての情報に際して、読解と解釈は、個々人に内在する個別のコンテクストに依存します。あるいは個々人の知的/経験的なリソースに。それは、是非以前にそういうものです。


然るに。同一のインプットを経た結果としてのアウトプットにおいて、相違が所在することは、当然のことであり、必然です。ただ。それが公然におけるアウトプットである限り、アウトプットについて相互的な評価にさらされることも、また当然であり必然です。インプットが同一である限りにおいて、個人における任意のアウトプットへと至ったコンテクストも含めて、相互的な評価にさらされることも、当然であり必然。


Tezさんが示されたような、個人における「任意のアウトプット」を招来し提出せしめた(と考え得る)、任意の類型的なコンテクストに対する、理念型としての批判的な評価、すなわち、批判、が示されること自体は、妥当であると、私は考えます。


いわゆる体罰肯定論に対する批判も、犬云々についても、かかる理念型としての「任意の類型的なコンテクスト」とそれに準拠した典型的な言説に対する、批判としては、有効にして妥当なものであり、私が「全面的に同意するのだけれども」と記したのは、そういうことです。


私は、かかるTezさんのエントリに反応し、言及する体をもって、記事を記しました。すなわち理念型としての「任意の類型的なコンテクスト」をめぐって、私自身の思うところを示した。故意に話をずらしたというのは、そういうことです。


換言するなら。Tezさんのエントリに目を通すことがなかったなら、当該の記事は書かなかったことでしょう。「メディアリテラシー」の話に関心がない理由のひとつは、愛・蔵太さんのような人を除いて、ことに現在は、うんこの投げ合いに用いられてばかりの概念と、私には窺えるためです。

今回のケースでもそうだが「暴力」を肯定する人は少なくて、この場合は「迷惑行為に対する注意」を行った勇気を肯定しているのではないかと。

今回はたまたま読者の脳内補完が良くあるケースと違って、善悪の担い手が逆転してしまったため、混乱を生じているが、本来は。


「暴力で物事を思い通りにしようとする行為は悪である。しかし非難を受けようとも、暴力を振るわざるを得ない状況もあり、その時に躊躇しない勇気は称賛されてしかるべきである。」ってのが一般人の倫理観じゃないかね。


ええ。仰る通り。そう、思います。私自身の事情に属する事柄ですが。他の言論に対して、「個人の事情」と「公的な言説」はかかわりない、ということか、と判断することがあります。むろん、私は私の関心と問題意識から些か二項対立的に曲解しているのです。実際、両者にかかわりなきことは、その通りかも知れません。そして、私は、少なくとも自身の発言については、そうであることに耐えられなくなっているのです。


「一般人の倫理観」とは、通りすがりさんの示されたようなものである、と私は考えるし、肯定されるべき、と考えるし、同意すべき正論、と考えます。かかる「一般人の倫理観」を、一般人が率直に開陳し得る、そのことによってうんこの飛び交うことのない、ネットの状況を、私は志向する者です。


「最初のニュース」に即しても。「「迷惑行為に対する注意」を行った勇気」と、「公務員が暴力行為によって懲戒処分に付されたこと」は、両立し得る事柄です。個人における倫理と、集団における規範と、社会的なルールと、法は、相違するし、また、かくあるべきです。


相違する限りにおいて。「法の公正」という「社会的なルールの貫徹」とは別個に、また「あるべき規範」の検討とは別個に、個人における倫理とそれに基づく行動が、たとえば「勇気」として賞賛されることは全面的に妥当であり、「賞賛されてしかるべき」とする「一般人の倫理観」を、一般人たる私は肯定します。


通りすがりさんの示された通りであったなら、内心において、「賞賛」したかは措いても、私は肯定的に判断したことでしょう。「賞賛されてしかるべき」と思う人があることも、当然のことと考える。法と社会的なルールに基づいた処分に留まることなく、本人が「非難を受けて」いたなら、なおのこと。あるいは、公然において肯定していました。記事を掲示して。


私が、「最初のニュース」に際しても、「痛いニュース(ノ∀`)」における反響から、端的な文字列の行間を、斜め読みでなく改めて読み、懐疑を抱いたのは、判断において、留保を付するべきファクターが、少なくとも私にとっては、初報の記述においても散見されたためです。


当初の警察発表が、いわば右から左へと報道された段階において、当該の警察官に対して「賞賛」が寄せられ、県警に対して抗議が寄せられたことは、「反応」として妥当であり、また「賞賛」を寄せ、実際に県警に対して抗議を寄せた人たちの、言動に対して総じて云々する意思は、少なくとも私は、持ち合わせません。


「「暴力」を肯定する人は少な」い。「「迷惑行為に対する注意」を行」う際に、消極的な選択肢として、目的のための手段として「暴力」とその行使を手札に加えることの是非と、任意の個人における「勇気」の所在は、評価に際してバランスし得るか。公的な言論ないし議論の地平においては、原理的にバランスし得ません。行為とその動機は、位相において線的には均衡しません。「別問題」です。――ただ。現行の社会における評価の水準に際しては。また個々人においては。


個別の事情ないし個人の倫理を、「公的な言説」という一般論の地平において処理することに対する、耐え難い違和感が、現在の私には所在します。繰り返しますが。「暴力で物事を思い通りにしようとする行為は悪である。しかし非難を受けようとも、暴力を振るわざるを得ない状況もあり、その時に躊躇しない勇気は称賛されてしかるべきである。」――ええ。一般人の、肯定されて然るべき倫理観と、私も思います。それは、私自身がかかる倫理観を肯定するためではあります。「称賛されてしかるべき」かは、措いても。


法と社会と規範と倫理は、位相において相違します。いかなる位相に照準するか、混線したのが、この件に対する一連の反応であったのではないか。私はかく考えています。


長々と、失礼致しました。<(_ _)>