個人と他なる個人と暴力


http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070906it12.htm


http://fragments.g.hatena.ne.jp/Tez/20070906/p1


当初の警察発表と、報道の問題。「メディアリテラシー」の話には、現在、関心がない。もっとも、私自身がブックマークを利用しない理由のひとつでは、ある。とはいえ、世の中に対して公的に無言でいると、本音としての森鷗外な気分に襲われることは改めて確認したので、何か書く。本件自体とは関係のないことを。


むろん。暴力はよくないし、私刑はいけない。近代法はかく定めている、秩序は保持されなければならない、市民社会とはそういうもの。私は皮肉として書いているのではない。幾度も繰り返し記していることなので、乱暴に簡略したくもなる。原理原則は維持されなければならない。それは、トートロジーを理由とするものではない。歴史の授業については他に任せる。


言うまでもなく、を付記すると。法は適正に執行されるべきであり、「身内」であろうと、それが示されたことは、当たり前のことであるとはいえ、良き事。まして警察官とは、公務員であり、法の執行者である。公正とはそういうこと。最低線のことでもある。日本は、先進民主主義国である。


原理原則において、私は体罰肯定論者ではない。というか、学校教育についてそのようなことを公的に主張する人は、少ない、かつ、現行の社会においてマイノリティとして遇されている、と考えていたのだけれども。教育と暴力の関係は、原則と例外として処する以外にない。当初の報道から、当該の警官の行動を、例外と判断した人が、多くあったのだろう。飲酒のことは措く。


酔っ払いに若年者の教育が不可能とは、私はまったく思わないが、酔っ払っていようがいまいが、いい大人が年少の他人を無分別に殴ってはいけないし、「暴力の教育的効果」など、公然において主張するべきことではない。野蛮だからでも粗暴だからでもない。例外を原則として騙るなという話である。加えて、例外は背中によって語れ、貴兄の背中をもって、という話。国民学校において、教育という名において時に何が行われたか、著述家として長じた幾人ものかつての小国民の告発を、知らないわけでもない。


私は、家族にも他人にも、ティーンの時期にはよく殴られ蹴られ暴力を行使された人間ではあるが、またそのことを「お互い様」として回顧する、野蛮で粗暴な人間であるが、教師に殴られた記憶はない。資産家の子息の多く通う私立とはそういうものであるから。私はまるで資産家の子息ではなかったが。


私において「暴力の教育的効果」は存在したか?私という、かつての野蛮で粗暴で情緒不安定な少年の、人格的な陶冶としてそれは機能したか?端的に答えるなら、イエス。むろん、それは私個人の事情である。私は、ことさらに荒っぽい地域を地元として育ったわけでも、むろんのこと、スラムのヨハネスブルグのロアナプラのシティオブゴッドの住人であったこともない。先進都市において、暴力は、共同体を離れ、内攻している。内攻したまま、継承されている。なお。私個人の事情において、DQNを再生産する予定もない。相も変わらずほぼ不能である。


33歳警察官と16歳少年というのは、社会的関係の以前に、対面の個人間において、力関係の上下が介在するだろう。報道から判断する限り、当該の少年が札付きであったとも思えない。権力的な上下関係の介在する関係ないし状況において、個人間の相互的な信のなきままに、行使される/行使された暴力は、そのこと自体において、義ある暴力ではないし、正当化し得る暴力ではないよ。であるから私は、「暴力の教育的効果」なる言辞を、認めない。何をいけしゃあしゃあと、と思う。乱暴に言うなら、帝国陸軍ハートマン軍曹は、そのような教育をやったけれども。


ひらたく、また陳腐に言うと、個人間の愛と情の関係性なき暴力に「教育的効果」は、かかる言辞を示す人間の考えるような意味の「教育的効果」は、ないよ、という話。むろん、個人間の愛と情の関係性と、血縁や性関係の存在は、かかわりない。


難しいのは、実際に、なんとも言いようのない話を、私たちは生きている限り見聞するためである。別れたら、と増田であったならブクマをもって即答するであろうし、愚かだね、と、報道に接するようなまったくの他人事としてなら嘆息の身振りを示し得ることでも。一般論ないし原理原則論として、であるなら、別れたら、がFAで、にもかかわらず別れないなら、愚かだね、と嘆息してFAである。


私たちは、特別に愛しているわけでもない他人に対して、程を越して詮索することも、干渉することも、できない。また、そうしないことの正当な理由を手にしている。むろん、賢明とはそのことであり、個人主義者はかかる正当な理由の存在する社会を歓迎する。ただし。正当な理由を公然において、否、渦中にある、愚かしくも葛藤する他人に対して、口にすることに、「暴力の教育的効果」を言挙げることと同様の、空しさを覚える。私自身の私的な事情であるとは断るが。


現行の社会に暴力が存在する限り、暴力を、その存在を「身をもって」知らしめることによって、現実に存在する暴力に対する対応と対処と免疫と抵抗を学ばせる、という、質の悪い割礼のごとき「教育的効果」が、暴力の行使には、ある、とする発想がある。個人間の愛と情の関係性が介在していなかろうとも。ひらたくかつ陳腐に言うなら、世間と人生の厳しさを、この世が理不尽であることを、身体において「理解」させる、と。身体に恐怖と脅えと緊張を叩き込む。時には性的にも。私が知る「教育的効果」とは、そのことである。


むろん、暴力を行使している人間が、または、暴力を行使したがる人間が、かく考えるうえ、かかる事実性に準拠した言辞によって得をする。現実に、暴力の行使の最中において、または、暴力の行使と同時に、そうしたことを口にする人間は、虐待の対象や共犯者に対して、言い聞かせ、「骨の髄まで」「教え聞かせる」人間というのは、いくらもいる。「おまえのためだよ」。


私は、自分がとんでもないサディストであることを、後に「骨の髄まで」知った。むろん、以上をグロテスクなジョークとしか思えないことは、健全な認識であって、それを堅気という。いずれにせよ、広義の虐待の論理ではある。


愛情が、あるいはその裏腹が、あるいは単なる損得が、直接的な、時には性的な、暴力ないし攻撃として露出する人間というのは、そのことに長じている人間というのは、いわゆるDQNと限らずとも、普通にある。それは間違っているのだけれども、だから?というのが当人の認識である。愛し情を覚える限り、愛と情は浮世の一切を越える。法を遵守する堅気の側におかれては、そうした人と世界観にはかかわらぬが吉。


暴力はよくないし、私刑はいけない。近代法はかく定めている、秩序は保持されなければならない、市民社会とはそういうもの。ところで。暴力はよくないとも私刑はいけないとも考えない人間というのは、普通にいる。つまり、法を前提しないで発想し思考し行動する人間というのは。そうした人間は、人一倍法を意識する。法を自らの規則とすることなく、遵法意識を自らの規範とはしないだけのこと。市民社会を前提することなく、秩序を身贔屓と置換し得るなら。


むろん。私たちの多くも、時には警察官も、市民社会を全面的に信じているわけではないので、彼らをしてフリーライダーとも一概には言えない。意識において堅気ではない、ということ。そして。法の執行者にして公営の暴力装置たる警察の公正を全面的に信じる人間は、堅気においてもさしてない。日本は先進民主主義国である、が。現行の警察に暴力の行使を一任することの理不尽を覚える者の理を、私は時に了解する。


フライデー乱入事件はむろん愚行であるが、また傍において溜飲を下げ傍から公的に喝采を送った者が無責任であったことは論を待たず、「主犯」も喝破していることであるが(ただし、かかる喝采は「主犯」の復帰を支えたファクターのひとつであったが)、むろん北野武はいまなお自己の行動原理については「反省」などしていないし改めてもいない、公言している。刑に服し、法的な務めはとうに終えている以上、また講談社との実質的な和解が果たされた以上、社会的な問題はない。そして。


溜飲など下げる必要もなく喝采も送らず沈黙しているが、同じことを考え、やる人間は、過去も、現在もいくらもある。俺の女が殴られた。誰だ。わかった。ならそいつを殴るか。むろん、野蛮で粗暴な個人が一方的に決済するものである限り、判断は先入見と誤認と誤解と勘違いを含む。「オトシマエをつける」という考え方をする人間は、そしてそのことを躊躇なく行動に移す人間は、べつだん特異な人間ではない。近代的な市民社会を生きる文明人としては、どうであるか、知らない。否、言うまでもない。


言うまでもないこと。質の悪い未成年者は、少年法の存在を了解している。少なくとも、成人同様に裁かれることの少ないことは知っている。知ったうえで「悪さ」をする。ティーンの悪知恵とはそういうもの、という話に過ぎない。私が少年であった当時、改正以前は、ことにそうであった。私は、14歳の時分に、原文に目を通した。当時はネットに触れたこともなかったが、授業をフケて参じていた学校近くの図書館において関係する書物をしきりに漁った。


むろん、少年法に態々目を通す14歳において、遵法意識が涵養されるかと言うなら、そのはずもない。身に覚えと心当たりがあるからに決まっている。それでも。鑑別所も少年院も経験せずに長じたことは、僥倖であったろう。振り返って、また省みて、切実に思う。


当該の16歳の少年が、そのように質が悪かったとは、到底思えない。であるから、関係のない話ではある。ただ。10年以上の以前、16歳の私は、結果的には、興味本位の濫読と、暴力によって、もっともよりよく教育され陶冶された、お互い様ではあったけれども、と、回顧するのである、個人的に。学校教育?識字能力については感謝している。


Tezさんのエントリにリンクしたのは、異でなく、というより、全面的に同意するのだけれども、事態に対する見做し方の相違に、改めて、反省的に考えることがあったので。また、Tezさんが本当に疑問に思っているようであったので。

「酒が入ってるのはちょっと」という意見を目にするが、それはどうか。素面でかかる振る舞いに出る人間は立派な人間であるか。男気のある人間であるか。これを立派だと思う人は町で同じような振る舞いができるのか、もしくはそうすることができる人間になりたいのだろうか。私から見ると、それは単に粗暴な振る舞いでしかない。


「男気」についてはわかりかねるけれども、「立派な人間」ではない。「立派だと思う人」がいるなら、そのことが、私にはよくわからない。「そうすることができる人間になりたい」ということも、よくわからない。粗暴であることは、または「市民」を逸脱しての不品行は、あるいは、意識において堅気でないことは、何かによって贖われることではない。贖うべきでもない。

それから、またぞろ体罰の持つ不思議な力に魅入られている人がいるが、その教育的効果はどれほどのもので、どれほど確かなのか相変わらずよくわからない。こういう主張をなさる方から体罰の具体的な効果を聞けたためしがない。「愛ある鉄拳」で立ち直った実体験を聞いたり読んだことはあるのだけれども、それはその人が昔私の家で飼っていた犬より頭が悪いという話でしかないように思えるだけで、納得できない。両親も私も弟も、あの子を打ったりはしなかった。しかし人間が犬より馬鹿だというのは、いかにも奇妙な話だ。


たいそう恐ろしくもあった親父はグレていた私より遥かに腕力が強く喧嘩にも長けていたので、両親は私を「打った」、というより幾度もボコボコにされ病院に行く羽目となったことも1度ではなかったが、あるいはそれは「愛ある鉄拳」であったことを、現在の私は言い切れる。私は相対的にも家族に恵まれ、両親に愛された。性的な嗜虐者となったことは彼らの責ではまったくない。グレていた、かつての私が「立ち直った」とするなら、それは鉄拳のゆえではなく愛のゆえである。


ガキの時分の私が、かろうじて人を殺めることがなかったのは、親父が私を半殺しにしながら「骨の髄まで」「教え聞かせて」いたためである。おまえが他人を殺したら俺がおまえを殺す、と。それが人間の掟だ、と。まじであったことは言うまでもない。いまでもまじであろう。倫理的で生真面目な人であるから。


長じて、親友に冗談交じりで話したところ、愛されているな、としみじみ言われた。親父が老いて、私もそう思う。むろん、本人が死の床に付くまで口にはしないが、感謝している。理解し難い話、と思われる人もあるかも知れない。ごく普通の、そこらへんに転がっている相対的にも幸福な家族の話、と私は思っている。反復する気は、まったくないが。一般論とし得ないことは言うまでもない。


私は、人間が犬より馬鹿であることは、当然のことと思っているし、それが人間の価値とも思っている。犬ではない人間は、愛とその裏腹の暴力の、錯綜したくびきからは、逃れ難い。個人においては、一生を費やしても。むろん、それは社会的な規範をめぐる議論とは別なる話。原則に対する例外の話。原則においては、換言するなら、社会における規範を問うとき、人間は、犬より馬鹿であってはならない、決して。

正当防衛や刑罰を別として、人間を苦痛や恐怖によって正しくあらしめることが教育的指導としての暴力の効果だというのならば、それはそれ自体が守ろうとしている正義を貶める行為である。そのような行為を賞賛する心底がよく理解できない。


私も、そのような行為を「賞賛」する心底はよく理解できない。私見を述べるなら。それをやることの「正当な理由」を公的に手にしたい人間が、賞賛する。「市民」であるのかないのか、あるいは、意識において堅気であるのかそうでないのか、はっきりしてもらいたい、と私は臆病者に対して思う。「正当な理由」を公的に手にすることなくとも、やっている人間は平然とやっているのであるから。今現在も、そこらの世の隅で、社会人の顔をした人間が、普通に。困ったことに、そして、悲しいことに、「人間を苦痛や恐怖によって正しくあらしめることが教育的指導としての暴力の効果」というのは、真実である。


「人間を苦痛や恐怖によって正しくあらしめること」を「教育」とは言わず「調教」という。一方通行の「調教」を望み、歓びとする人間は、昔もいまも、多い。性的な話では必ずしもない。他人を苦痛や恐怖によって支配し屈せしめることは、換言するなら、他社の人間性を、尊厳を、直接的な身体を通じて心底に及んで蹂躙することは、犬ならざる人間の「社会的な」欲望である、それを「愛」「情」あるいはそれゆえの「教育」と、自ら望んで錯誤することも含めて。「そのような行為」へと至る心底については、私は「理解」はしている。私自身は、人殺しとならないために、そうした類の愛と情を、自己において性と切り離した人間である。曲折があった。


以前、他意を含んだ好意を寄せられるたびに思った。――何を思ったか書くことはやめる。淡白な、その気のない変わり者と周囲に思われている。ほぼ不能であることは、長いつきあいであるなら、言ったり言わなかったり。性的には他人を暴力によって支配し尊厳を奪い肉体を破壊して死に至らしめることしか考えない人間であることは、流石に言わない。大抵は。


暴力を個人において語る、とは、自分自身とその来歴を語ること、と、私は思っている、勝手に。