スウィングと気晴らしの発見


日常雑記を。季節の変わり目というのは気分がクサる。気分がクサッているのはデフォルトであって、季節の変わり目関係ない。終風翁が仰っている通り、鬱は人生そのものであり、鬱な人生のある時点から、私は自分に関心を向けることを自然とやめた。内的な処世法でもあった、が、そもそも私は意識において外向性の人間であって、内省心をさして持たない。「あるべき自分」という概念を、遠い昔に失った。また、「ふり」をしていた、私にとっては模倣された擬似的な指向性であった。鬱病自体は、かつてずいぶんとこじらせたが。


私は、音楽にからきし疎い。耳も悪い。比喩でもあるが、身体機能の話でもある。障碍ということではない。いわゆる音響派や音楽マニアの友人があるが、ビーイングに尽きてしまった90年代前半っ子には彼らの会話は何が何やらである。むろん尽きたのは私の貧困な嗜好の問題。いかなる種類の音楽であれ、コンサートないしライブに行くという趣味がない。先日、人に誘われてクラシックのソロコンサートに足を運んだ。思い返すに、他人の誘い文句と財布とチケットばかり。それもクラシックの。そういえば、立ち寄った駒場祭のオルガン演奏会を聴いたこともあった。椅子が硬くて尻が痛かった記憶が第一、というのは、まずいだろう、むろん私が。


本は読むのだけれども、だから駄目なことくらいは自分でもわかる。ライナーノーツに依存する視聴。音楽に限らず、私の一貫した悪癖である。理由を訊かれると、疲れる、と応えている。労せず只でチケット手に入るなら行くけれどもね、とは思うし言っているけれども、もうその時点で駄目だ、論外。むろん、音楽でなければ別、美術であれ映画であれ芝居であれ講演であれ。疲れる、という理由をもう少し展開すると、私は「ノる」ことが駄目なのだ。いわゆる爆音も。


数日分をまとめて拝読した、巡回先のブログにて唐突に告知を拝見した。以前の告知は素通りしていたらしい。空けているゆえ自宅でないのだが、会場は滞在先の徒歩圏内であった。雨であったが、時間も空いており、気分転換に足を運んだ。関心というなら、一義には、失礼ながら、リスペクトする管理人氏の棒を振る姿にあったろう。杉並公会堂


もう一回宣伝。 - novtan別館


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上記のごとき私であるから、技術の巧拙も選曲の文脈も、皆目わからない。ビル・エヴァンスは好き。ただ――。


想定外のことではあった。些か閉塞気味であった私的な心境の窓が、全開放となった気がした。換気が為され、心の風通しがよくなった、私にとっては定石通りに、澱みに至るほんの刹那のことであれ。単純に、堪能した。聴き見つめているうちに、幾度か頬が緩んだことに、我ながら驚いた。なぜだろう、無性に嬉しかったのだ。音楽をただ聴くときの私の顔は、退屈を隠した無表情が常態であるのに。


このところ、映画を観ても本を読んでも、些かも気分転換はおろか気晴らしにもになりはしなかった。にもかかわらず。むろん、私の事情によるものだろう。正直に言って、内容に期待する文脈も情報も私には所在しなかったので、期待も何もしないままに足を運んだところ、規模が大きく、かつゴージャスな演奏会であったことにまずは驚き圧倒もされた。


アンコールに至って、目を潤ませている演奏者の方が幾人もあった。そして、私も些か涙ぐんでいた、頬が緩み放題のまま。演奏されたのは。


Around The World

Around The World


そして。


負けないで

負けないで


――手拍子と共に。いずれも、大好きな曲。ことに、ビーイングに情操教育を施された90年代前半っ子にとっては。書きようがなかったので、また自信もなかったので、追悼記事は書かなかった。あの、結果的に最後となったライブ映像と共に『負けないで』を聴くたび、涙ぐむのだ、私は。彼女が世を去る前からずっと。


トシをとると、涙ぐむことに照れも恥じらいもなくなる。先般、友人と吉本隆明について話したところ、普通に話し始めた途端に涙ぐんで声が上ずり困った。キチガイである。酒は入ってない。照れ恥じらうどころか、こんな些細なことで涙ぐめる俺、に堂々と開き直れる、あまつさえ、かような自分を、己が情操の豊かさを、誇りにする。むろんそれは情操が貧しくなっているのである。


成程ビーイングに育まれた上等な情操、と宣ってくれた歳下の友人がいるが、小室哲哉に育まれた情操とどちらが上等であるか、と90年代後半っ子には返した。両名共に耳に糞が詰まりすぎているのである。頭にも。


ゆえに、たまには窓を開け放して換気し風通しをよくせねばならない。一瞬のことでも。私はどうやら久方振りのそれを求めていたのだが、叶うこと難しくなっていた、と、アレンジが施されたMONKEY MAJIKを聴きながら、高潮に達する演奏を見つめながら、知った。杉並公会堂大ホール、都立西高OB吹奏楽団第29回演奏会。想定外の場所と体験によって、果たした。気分が、よかった。所詮刹那にして一時のことではあったが、むろん御の字に尽きる。自らの守備範囲を外れた、唐突な遭遇のごときイレギュラーにしてアウェーな体験は、重ねてみるもの。


事実として。以上は、選曲の文脈や演奏の内容に一義には拠ることなく、私の気分の具合が反映した結果である、と言える。触媒であったかも知れない。然るに、それこそが芸術の、アートの機能であり効能ではないか。いやいや、強弁でなく、大竹伸朗さんもそんなふうなこと言ってました、確か。個々の内的なるケミストリーのため資する人間の人間的なる主体的活動。こじつけると、ブログもまたそのようなものであるのかも知れない。少なくとも、私が自ら志向するブログは。


id:NOV1975さん、勝手ながら御礼を。有難うございます。ド素人の感想に過ぎませんが、手作りで、格好良く、熱気ある演奏でした。私はそう思い、感じました。感謝します。楽団の方たちにも。感想については、アンケートに記そうかとも思いましたが、悪筆のうえ、諸々が溢れてもいたので、私的な余計な事項も含めて、こちらに記すことにしました。雨天の下、足を運んでよかった。何であれ、一義には好奇心としてのそれであれ、関心は持ってみるもの。


指揮者の、ピンとした背筋と、フルに動く背中は、セクシーでした。黒のスーツに黒のシャツにシルバーのタイ、シルバーのチーフ、堂々たる姿はダンディで渋く、素敵でした。大変に、格好良かったです。本当に。


今は亡き、名書評家<狐>こと山村修に『気晴らしの発見』という著作がある。


気晴らしの発見

気晴らしの発見


私は、<狐>ならざる「山村修」とその著作の存在を知らず、死後、手に取った。内容については詳述しない。エッセンス以外記憶も朧だ。気持ちのよい本である。開け放たれた窓に、風の行き交うような。風通しのよい文章とそれを記し得た精神を用意したものは、同書に記されたような、能動的に、気晴らしを発見せんとする、姿勢であったろう。かかる姿勢を持ち、示し得ること自体が、知性の証でもある、と、手前味噌のうえ我が田に水を引いて、私は言いたく思う。


私も、つね気晴らしを発見せんと、窒息へと至る前に、イレギュラーに動き続けよう。怠けていては、気晴らしはできないし、見つからない。重き荷を背負って長き道を歩むがごとし人生において、気分におけるデフレスパイラルを脱することは難しい、が、気晴らしにより刹那散らすことは、あるいは難しいことではない、かも知れない。山村修が、そうしてきたように。


以前、上記とは別の、音楽とは到底無縁と思しき下流な友人から、佐渡裕指揮のオーケストラの演奏会に誘われて、分際を知れ意外に思うと同時に、切符自腹だったので詳細も聞かぬままに断った。後日、佐渡裕が年に一度開催していた、フルオーケストラによるアニソンの演奏会であったことを、評判と共に知った。一部映像も見た。ルパンもヤマトも演ってた。佐渡さんノリノリ。今は後悔している。友人に感謝するべきであったね。