「スタンスフィールド問題」


http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/071006/crm0710061125010-n1.htm


レイプものAV


http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20071007045638


http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20071008#p3


http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20071009#p1


前置。話を振られた際に、人に言うと、信じ難い、という顔をされるのだが、私はいわゆるAVをまったく見ない。過去も現在も。倫理観ゆえのことではなく、単に興味がない。性的にも用いようがない。他人の行為を見て興奮するという趣味がない、というか、わからない。二次元者でもない。いわゆるエロゲーもやらない。エロ漫画もほとんど読まない。たとえば、山本夜羽音は好きだが、そちらを目的に買っているわけではない、山本直樹と同じく。ガキの時分から、エロ雑誌にもグラビアにも、まるで関心がなかった。現在、ネットは使う。とはいえローカルのファイルが凄いことになっているというわけでもない。換言するなら、直接的な性表象と性行為には関心がない。肌を合わせることの歓びを、覚えたことがない。「ふり」は重ねた。かつての、人に対する義務意識と努力と責任感、加えて見栄は、徒労であったと結論せざるを得ない。過去の不義理と不実については申し訳なく思う。ここに書いても詮ないが。


ゆえに、いわゆるAVについては甚だ不案内でもある、が、事件のことは知っている。当時と比して、忘れてもいた。公判の報道に接した。


エロ漫画も、基本、点としてしか知らない、面どころか線すら不案内。「エロ」としてのコンテクストも作家の事情もわからない、ということだが。たとえば、名前を挙げるなら、氏賀Y太は比較的好きで、趣味嗜好において似通っている部分がある、とも思うし、作品に目を通すと、その作家性について、色々と思いをめぐらせてしまう。思い、というのは知的なそれのことだが。


生きたまま、かつ、意識を有したままの、解体や四肢切断を描く作家であるのだが、生け作りに尽きないことに、肉体の破壊と挙句の死、という毀損と人間の尊厳とのかかわりにおいて、人間性とその価値が露出する、という認識と価値観が基底に存する。また、かかる局面に官能を覚える人であるのだろう。


知的にはよくわかる、私も、かかる認識において官能を把持する人間であるから。個人的に。実用に適するか。私個人においては、そうもいかない。むろん、倫理的な理由によるものではない。


かつて、橋本治が、作家とは自分のことを他人のために書く職業であって、ゆえに難しい、と言ったが、その伝でいくなら、エロ漫画家に限ることなく官能作家とは、自身の性的嗜好を他人のために描く職業である、とは言える。そして。不案内な私の知る限り、少なくとも、個性、というか作家性の強いエロ漫画家においては、かかる原理は当たらずも遠からず、とは思う。


ゆえに。私は、私と趣味嗜好において似通う部分が存するであろう氏賀Y太に、作家の個人的な性的嗜好に、知的には共鳴し、心情的には共感すれども、最終的には乗り切れない。常に、誰であれ。結局のところ、少なくとも私の場合、個人的なる性的嗜好は他人と分かち合えるものではない。部分的な一致点としてのフラグは存するが、フラグを統御する上部構造において、納得のいくものはない、己が外部には。「我という人の心はただひとりわれよりほかに知る人はなし」気分は谷崎である。


納得がいかないことの、最大の理由に、絵であり夢でありヴィジョンでありフィクションでありファンタジーである、ということがある。リアルでない。嗜好において、そのことを最優先する加虐趣味者は、いる。リアルとは、対象の反応と感情が真実である、ということ。現実の、個人としての人格と意志を有した人間が、本当に嫌がらないことには、本当に拒絶しないことには、本当に泣き叫ばないことには、乗れない、納得がいかない、ということ。演技でも八百長でもなく、ガチでないことには。


おそらくは、当該の被告も、同様に。


buyobuyoさんの見解。全面的に同意する。

バッキー事件の問題は、そこで撮影されていたものが演技や演出ではなく本物の暴行・傷害そのものであったことに本質があるのだ。たとえば、みかけ上同じ内容のものを特殊メークを駆使して撮影した「映像表現」とはまったく意味も次元も異なる。

(前略)バッキー事件の問題は、表現の問題などではなく、犯罪行為を撮影し、それを販売していた、その犯罪行為が問題なのである。

(前略)俺は性的イマジネーションとして、無理に奪われるとか奪うというものを持つこと事態に問題はないと思うし*1、その性的イマジネーションを満足させるコンテントを提供することに問題はないと考える。しかし、犯罪行為を撮影してそれを販売することは、そういう需要供給の問題とは全く別次元の問題である。


上記増田に付された、id:furukatsuさんのブックマークコメント。

2007年10月08日 furukatsu 増田, 男女 同意する。問題は単純に個人の自由意志を無視したこと、違法であったこと、暴力を用いたこと、それだけ。趣味嗜好はそれがどんなものであっても私は認めなければならないと思う。


その通り、と思う。「性的イマジネーションとして、無理に奪われるとか奪うというものを持つこと事態に問題はない」――buyobuyoさんも「っていうか、わりと普通の事象と思う」と、注釈を加えているけれども、仰る通り、それは当然のことで、前提事項。性的嗜好それ自体には貴賎はない。換言するなら、「性的イマジネーション」の問題ではない、これは。「イマジネーションでは済まない性的嗜好」の問題。であるから、言うまでもなく、二次元は関係ない。エロ漫画家も官能作家もNice boat.も、敬し陰ながら応援もしている氏賀Y太先生も。


ただ。否、ゆえに。「その性的イマジネーションを満足させるコンテントを提供すること」の問題ではあるかも知れない、とは私は思う。当該ビデオの実際のユーザーについてはわからない。が。当該の被告は、「性的イマジネーションとして、無理に奪われるとか奪うとかいうものを持」っていたわけではない。犯罪に該当する行為ありきであったのだろう。「本物の暴行・傷害」――すなわち、自由意志の無視と強制。女性の、あるいは女に限らず人間の、人間性を、人としての尊厳それ自体を、毀損することを目的として。


『レオン』における、ゲイリー・オールドマン演じる悪徳麻薬捜査官スタンスフィールドの台詞に、次のようなものがある。窮地に陥ったナタリー・ポートマン演じるマチルダに、生きたいか、と尋ねる。マチルダは頷く。彼は応える。それはよかった、面白くないからな、生きたいと思わないやつを殺すのは。


かかるメンタリティを性的な領域において持ち合わせる人間は、幾らもある。当該のビデオが、そうした層の需要を満たしていたのか、現在も満たしているのか。少なくとも。当該の被告の欲望は、満たされはしたのだろう。

女優が演技ではなく、本当に苦しみ嫌がる姿を映像にすることで、売り上げを伸ばしていた。


「ガチの犯罪行為を撮影して販売しているスナッフビデオみたいなもの」とbuyobuyoさんは的確に説明しているけれども、スナッフビデオと言うなら、その通り。そして。スナッフビデオはガチでないと仕方がない、ヤラセでは納得のいかない人というのは、ある。「売り文句」として、であれ。それは、「スナッフビデオ的」なポルノの生命線ではある。そのようなものが存するなら。存してよいなら。


そのような「性的イマジネーションを満足させるコンテントを提供すること」に問題は所在するか、と問うなら、犯罪行為は有無なく処罰さるべき、自由意志を無視しての性行為および暴力の行使は犯罪、という、正論ではあるが、あるいは木で鼻を括ったような回答になる、少なくとも私は。性的嗜好それ自体には貴賎はない、のだけれども。


私見と断るが。SEXはコミュニケーション、といった類の決まり文句は多くの人が示す。言葉はわかるが、率直に言って、私にはわからない。結局、わかりはしなかった。けれども。やはり。対象とコミュニケーションのおよそ成立しない、あるいは、対象との相互的なコミュニケーションの成立を前提しない、まして、対象の心身の毀損を一方的に志向する類の、性的嗜好ないし性行為は、対象が人間である場合は、リアルにおける実践は自重していただきたく思うし、すべきと思うし、私も自重している。私は、その元気もないが。身体の事情については幾度も記したくはない。


では。他人の行為を見ても興奮しない私は必要ないが、リアルにおける実践を自重する者が、代替的なポルノを求めた際には。「演技ではなく、本当に苦しみ嫌がる」ことに官能を覚える人間においては。「その性的イマジネーションを満足させるコンテントを提供すること」には問題は所在するか。当該のビデオは現在も販売されている。むろん、問題は所在するに決まっている。


性的嗜好それ自体には貴賎はない、犯罪行為は有無なく処罰さるべき。原則としては正論、そして、両正論は時にコンフリクトを起こす。「二次元と三次元」「脳内とリアル」という問題設定の機能しない、犯罪行為と等号により結ばれる、性的嗜好、それ自体に貴賎はなかろうが、テクニカルに、リスキーとは思う。強姦が癖となった常習に、二次元あるいは脳内で終わらせろ、とサジェスチョンしたとして、何も言っていないに等しい。そして。行為がエスカレートすることは、必然。


私は、性犯罪に対する厳罰傾向には原則的に賛成する。ステーキチェーン店の事件についても、裁判官の示した判断を支持する。自重を招来せしめるものは社会性と個人の理性であるが、意識において社会から疎外された人があり、あるいは社会を洟も引っ掛けない者があり、理性の適正な機能において怪しからん人間があることは、論を待たない。損得勘定以外ない、が、性の領域において、損得勘定の物差は狂う。ゆえに、司法の強制力が露骨に前景化したとしてやむなきとは思う。


かつて、村崎百郎が、ヴィクトール・エミール・フランクルへの敬意を示して言った。人間の強さとは、腕力でなく精神力である、と。自身のイリーガルな性的嗜好に正直に行動する人間は、同族として言うなら、理性以前に、辛抱と忍耐と根性と工夫が、すなわち精神力が、足りない。たぶん、それは、強さが足りないのだ。私はそう思っている。