夜になるまえに


先月。マイケル・ムーアの新作を新宿で観た。母親に付き添って。


シッコ - Wikipedia


以前も書いたが、母親は介護業界の中の人である。ふだん映画を観る人ではない。米国の医療問題を扱った映画が話題である、と新聞で知った、らしい。母親は、監督の名前も顔も知らない。上映後にわかったことであるが、劇映画と思っていたらしい。あの眼鏡の太った人が監督であるとは露知らずに観ていたそうな。「俳優と思ってた」まぁ、ある意味そうだが。「ドキュメンタリーだったのね」。むろん、3年前の一連の件も知らない。


「有名な人なの?」
「まぁ、色々な意味で」


コンテクストを全部説明するにも途方に暮れたのでやめた。


私の感想は。


2007-09-09 - 研究メモ


のdojinさんの見解に、ほぼ全面的に同じ。

 一方、ムーアが(主にアメリカ人に)訴えかけてるのは、このような(より技術的な)議論の出発点となるような「政府を通じた社会連帯」の精神がアメリカは相対的に低い、ということだ。カナダ・イギリス・フランスの人々を登場させて、「社会連帯」とか「みなで支えあう」みたい医療保険やNHSの原理的精神の話をさせておいて、一方で、アメリカの惨状をこれでもかと見せ付けて、なおかつふんだんにアメリカ国旗を登場させているのは、彼なりの皮肉でもあると同時に、アメリカ人に対して、社会連帯の精神ってなんなの?とナショナリスティックに訴えかけているようにも読める。

 アメリカにおいては、「社会連帯」とか「みなで支えあう」っていう行為は、そこに政府が一枚かもうとすると、すぐに「社会主義」にすりかえられちゃって話が進まず、カナダやヨーロッパとぜんぜん違うところに来ちゃってるよ、それでいいのですか?アメリカ人のみなさん?
 ということをムーアは問いたかったのだろう。
 でも「社会連帯」とか「社会的なもの」って難しいですね。


アメリカ人としての自負を有するアメリカ人がアメリカ人として同胞たるアメリカ人に対して提示する問題提起を、日本で日本人が観る、というのは、どういうことだろう、とは、ネガティブに、ではないが、思った。むろん作家の咎ではまったくない。以前から感じていたことではある。にもかかわらず、私がムーアの映画を観続け、著作を手に取るのは、作家としての彼の作家性を愛しリスペクトするゆえ。いまなお。


で。私が、母親に態々付き添ったのは、介護業界の中の人であり、現場の事情には精通している母親の、一方、ムーアの顔と名前はおろか、米民主党共和党の具体的な相違も、「リベラリズム」なる単語も概念も知らない母親の、「シッコ」という映画を観ての、また描かれた問題提起に対する、感想を聞きたく思ったため。


現在、ムーアの映画と対峙するに際して、上記のdojinさんの記事においてもリンクされている、マル激の鼎談において示されてあるような複数のコンテクストを排して「虚心坦懐に向き合う」ことは、大変に難しい。ゆえに、母親の感想に、私は興味があった。


母親の感想。真顔でした。


「老後はフランスで暮らしたい。アメリカは勘弁」「キューバっていい国なのね」


. .: : : : : : : : :: :::: :: :: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
    . . : : : :: : : :: : ::: :: : :::: :: ::: ::: ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
   . . .... ..: : :: :: ::: :::::: :::::::::::: : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
        Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
       /:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::
      / :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
      / :::/;;:   ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::
 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄ ̄ ̄ ̄

付記すると、母親はフランスの新大統領を知らず、キューバ危機のことは知らないか忘れている。換言すると、映画の背景的なコンテクストにまったく通じていない。監督の問題提起の背景にも。キューバが最後に描かれる理由にも。ついでに言うと、海外旅行の経験がなく、憧れている。ま、私もガキの時分に台湾に行ったきりだが。


レイナルド・アレナスという作家があってね、といった話をしてもまったく意味がないので、私は言った。この日本においても、保険制度に問題が所在しないわけではないこと、かつ、その問題の根が深いことくらい、貴方が知らないはずがないだろう。幾つもの会社を事業所を渡り歩いた理由、リスクを知りながらも独立を決意したことの理由とは、何であったか。


むろん、言うだけ無意味であるし、さりとて母親の生き方が変わるわけでもない、内なる、信仰に似た倫理と比して、映画は無力である。実家にて仲良く渋茶を飲んだ。実家で寝て暮らしていた昔、私が毎晩聞かされた、業界の愚痴、制度の愚痴、あれは、何であったか。――わかりきっていること。私は、湯呑を干し溜息をついた。


メディアリテラシー、という言葉の意味と、その価値と、涵養の必要を、私は改めて思い知った。皮肉にも、あるいは悲しいことに、マイケル・ムーアの映画によって。


「頭がいい」問題、という議論があった、らしい。関係することか、わからない。が――。


母親は、小泉訪朝以後、北朝鮮許すまじ、横田さんかわいそう、を幾年も激越に繰り返していた。現在も言っている。北朝鮮問題の歴史的な構図についてレクチャーしても、関心は持たない、現在に至るまで。それは、半世紀前の朝鮮戦争と現在進行形のヒューマニズムに関係はなかろう、が。まして、いわゆる親心には。


雅子さんかわいそう、を幾年も繰り返している。ロイヤリストでは全然ない。菊の歴史には一切関心ない。有吉佐和子的な、女の悲しみ、に共鳴しているらしく、それは本心であろうし、母親から有吉佐和子の著作を無数に譲り受けた私はわかるのだが、女の悲しみにおいて、階級問題は容易に捨象される、というか、無となる、その意識が、私にはよくわからない。それは私が男であるからだろうか。余談であるが、親父がそのように呼んでいたので、幼き日の私は、天ちゃん、というのは天皇の愛称と思っていた。


母親は、かつて山崎朋子の愛読者で、『サンダカン八番娼館』にはじまる彼女の主要な著作を、私は、母親の、ごく小さな書架より勝手に取って読んだ。昔のこと。息子の書痴を疎み続けた人ではあったが。


いわゆる「知識人と大衆」という意における「大衆」とは何であるか。問うなら。私見は。


抽象化の能力に欠ける、抽象性を理解しない、その価値も。ゆえに、構造の把握に向かない、志向もない。現場には通じ、日々の仕事に通じ、マイビジネスに限定して通じている。現場を、日々の仕事を、マイビジネスを、自身の生活を日常を、外的に規定し拘束する構造へと意識が向かうことはない、志向がない、ましてグローバルには。自身が構造の一部であるという認識と発想が、あまり、ない。


ゆえに。今回のことに限らず、私が、構造を提示し、マイビジネスと自身の生活という下部構造へと意識において関連させるべく、サジェスチョンもする、というか、実家に立ち寄るたびに始終訊かれるので答えている。広義の福祉政策についても同様。むろん、現場の事情については、母親の愚痴をもって私は知るばかりだ。


先日は。テロ特措法の延長問題とはつまりどういうことか、事情がわからない、と訊かれた。すべて中国共産党とそのシンパと総連の陰謀だから次の衆院選では小沢民主に投票しては駄目だよとムーアを手本に説明したら信じた。冗談です。真面目に答えました。


むろん母親は、必要最低限しかネットやらない。「ブログ」という言葉の意味もいまだにわかっていない。わからなくて宜しいが。


思えば。安田とかいう弁護士はあれはなんなのか、許せない、本村さんかわいそう、とも訊かれた。さて、何をどこから話したらよいだろう。刑事訴訟法?弁護人の職責?近代国家の原理?いわゆる親心を否定してはイケナイ。


気が遠くなったので、あぁ、あれは人間の屑だから懲戒請求したらいいよ、と答えたら、案の定、「?」という顔をされた。懲戒請求が何であるかも一連の事態も知らない。東京はたかじん映らない。幸いに、と言ってよいのやら。メディアリテラシー。いや、そもそも、法治国家に自分が生きている、という認識と発想がない。


貴方だって、やってられない顧客のためにも仕事するでしょう、我慢ならないなら端から断るでしょう、とはいえ引き受けた人をそのゆえに責めはしないでしょう、とは思ったのだが、たぶん言ったところで徒労だ。許せない弁護士と一緒に、人でなしの列に加えられてもたまらない。


西欧社会においては、あるいは、ムーアが帰属意識を有するがゆえに問題とするアメリカにおいては、上記のような事態は、原理においては、ありえないことである。少なくとも、現行においてなお、建前としては。


原理が、建前でしかなくなっていることを、ムーアは問題としている。ゆえに、彼は活動し、発言を続けている。尊敬に値する。


少なくとも、彼の人が言挙げた意における「知識人と大衆」なる問題設定を、ムーアその人は了解するはずもない。言わずと知れたことであるが、西欧社会においては機能しない問題設定である。原理が建前でしかなくなっていようとも、解はムーアのスタンスによって示される。それが、アメリカと日本の、アメリカ人と日本人の、歴史的に規定された状況の相違ではあるだろう。『シッコ』のように比するなら。


言うまでもなく。私は、「知識人」という自己規定を持たない、学歴も専門的な学もない。ただ、母親のような人に対しては、私ですら「知識人と大衆」という意における「知識人」として振舞い得る、つまり、端的に、知識を、情報を、コンテクストを、歴史的背景を、抽象された構造を、提示し得る、専門性と程遠い、半端な半可通として、であれ。加えるなら、Webにおける私のスタンスも、基本的には、その延長線上にある。否、あった、のだろう。


私には、少なくとも抽象性と、ための語彙と概念と、構造を認識し不十分ながら提示する能は、幾許かある。そして、抽象性を有する者が具体性において乖離の意識を覚え、構造を認識する者が意識において構造から疎外されがちなことも、ままあること。以前も書いたことであるが、結局のところ、私は、自分が人間の形をしていると、本当のところは信じていない。他からは人間の形をしていると映るであろうから、合わせている、「ふり」をしているに過ぎない。それをして社会性と言うと、私は思っているが。


母親も、少なくともまともな勤め人ではない息子の言うことを、真面目に聞いているわけではむろんない。健全なことである。下男の目に英雄なし、違うか。女っ気がなくなっていることに呆れているらしいが、私は心の内で笑う。


団塊世代の母親は、私より遥かに働き者であり、現場に精通し、マイビジネスに真摯である。さもなくば老後が危ういからでもあるが、プロテスタントの教会に通った若き日の名残が、強く存することを私は知っている。不正を耐え難く感じるらしきことも含めて。私の手元にある聖書は、母親から譲り受けたものである。


母親は、冗談交じりではあるのだが、最近よく私に訊ねる。ボケたら面倒を見てくれるかと。仕事柄、母親は認知症の患者と、その家族と始終向き合っている、その悲惨も、目にし続けている。私も聞いている。


私は答える。『ミリオンダラー・ベイビー』という素晴らしい映画があってね、と。