弁護士であることと人間であること


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懲戒請求」の検索から来訪される方がある。6月より、幾度も記してきた。改めて、乱暴と粗雑を承知で、事情について私なりに説明したく思う、願わくは、懲戒請求の当事者が読まれることを。


先ず。「国民感情」は措きます。僭称、ということではなく、「国民感情」については巷間言われる通りと私は思いますが、然るに、「国民感情」とは、個々人の判断と自由意志に基づく主体的な行動に先んじてあるものではありません。申し訳ないけれども、レスについては控えさせていただいた「腐肉の臭」さんのコメントにある通り、「懲戒請求は自己責任で」は前提です。


自由には責任が付随する、というのは決まり文句ではなく、個人の判断と自由意志に基づく主体的な行動として、個人において為された行為の、リスクとベネフィットは、一義には行為主体たる個人に帰する、という原理の謂です。かつ、行為に際して内心を忖度されないゆえに、行為の帰結において外形的な対応が要請される、という原理。ゆえに、個人の判断と自由意志に基づく主体的な行動として為された社会的行為について、社会的な責任が、行為当事者に付随することは、原理的にはやむなきことです。「国民感情」は措きます。


貴方から見て、ありえないことをやっている弁護士がいる。貴方はその人物をありえないと思う。貴方は、その人物が「弁護士として」ありえないという判断を下し、その是非を、当該弁護士の所属弁護士会に対して問う、フォーマルな手続に則って。


懲戒請求とは、個人が、「弁護士として」ありえないことをやっている、「弁護士として」ありえない言行を示している、と判断した、任意の弁護士について、その職務適格性を、個人の判断の理由たる「『弁護士として』ありえない言行」の有無とその是非について、所属弁護士会に対して問う、法的行為です。


「ありえない弁護士」というのはなく、あるのは「ありえないことをやっている」「ありえない言行を示している」弁護士、です。ゆえに。調査ならびにジャッジメントの対象は、当該弁護士の「ありえないこと」「ありえない言行」の内実。かつ。「弁護士として」という条件が前提されます。


「『弁護士として』ありえないことをやっている」「『弁護士として』ありえない言行を示している」か否か、が、任意の弁護士の言行について問われる。そして。当該弁護士の所属弁護士会に対してフォーマルに問う以上、問う側に、かかる判断へと至った理由を、準客観的に示し得る、という前提が、要請はされます。少なくとも。示すよう要請されたとして、フォーマルな手続においては、順当なことではあります。


当該の弁護士が「『弁護士として』ありえないことをやっている」「『弁護士として』ありえない言行を示している」と、貴方が判断したことの理由を、示し得る、そうあるべきでは、あります。さもなくば、弁護士会としても、当該の弁護士が「ありえないことをやっている」「ありえない言行を示している」か否か、判断材料が乏しき場合、手続を進めることができません。


これは、濫用されたならたまらない制度です。判断理由なきを承知で「ために」為されたなら、当該弁護士会への「業務妨害」へと接触し得ます。フォーマルな制度である以上、意識においてカジュアルに利用するなら、かつそのことが明白であった場合、それは「濫用」と判断されます。


橋下徹氏のブログに原文のリンクが所在する、今枝仁氏が送付した求釈明書。その要旨を、私なりに記すなら。貴方が懲戒請求を申立てた対象弁護士について「『弁護士として』ありえないことをやっている」「『弁護士として』ありえない言行を示している」と貴方が判断したことの、その理由が不明瞭であるゆえ、確認したく思う事項が所在する、御説明願いたし、ということです。


原則において。実際に返答するか否かとは別に、先方の「確認したく思う事項」については説明し得るはず、なのです。先方の示す確認事項について説明し得ない、ということは、懲戒請求の前提を、先ず満たさない、ということであるから。


本件懲戒請求の個々について、申立自体が適格性に欠ける、という判断を有する人が、あります。換言するなら、「ために」為された行為であるという判断を、有しています。


要点は。「『弁護士として』ありえないこと/言行」と「『人間として』ありえないこと/言行」は、少なくとも、懲戒請求に際しては、否、本件については、相違する、ということです。換言するなら。「『弁護士として』ありえない」と貴方が判断する理由について確認しているのであって、「『人間として』ありえない」と貴方が判断する理由について示したとして、懲戒請求の要件は満たしません。ことに、本件については。


「人間として」ありえるか否か、すなわち「人間として」の是非は、綱紀委員会の判断の管轄外です。換言するなら、「人間として」の是非「のみ」をもって、弁護士の職務適格性を問うことはできません。というか。いかにして問い得るのか、手続論を私は聞きたく思います。


任意の個人の言行がある。「人間として」如何、のジャッジメントは、個々人の判断として、その表明を含めて、むろん自由です。キチガイと呼ぼうが屑と記そうが鬼畜と連呼しようが。ただ。任意の個人の人間としての是非「のみ」をもって、社会的な処罰/制裁をフォーマルに加えることを、その発想を、近代社会は原理において否としています。異端審問であるからです。現実において相違すれども。復讐するは我にあり、という言葉を私は思い出します。


「弁護士として」は「人間として」に優越するか、弁護士であることは人間であることに優先するか、と問うなら、少なくとも本件については、それは法曹の法曹であることの原理にして倫理、換言するなら、職務適格性にかかわる事項、すなわち、プロフェッショナリズムの在処である、と私は答えます。


粗雑な例え、は好きではありませんけれども。外科医は、大嫌いな奴の手術であろうと、「人間として」許し難い者の手術であろうと、乳児殺しの屍姦者の手術であろうと、自らの引き受けた患者である限りは、命を救うべく全力を尽くすことでしょう。


外科医にはオペを断る自由もあります。しかし、オペを引き受けた以上は患者を救うべく全力を尽くす「べき」であるし、オペを引き受けたことをもって、「『医師として』ありえないこと/言行」であるとは、医師不適格であるとは、言えません。


むろん。手術の方法に著しい問題があり、あるいは甚だしい医療ミスが所在したなら、そのことについて批判されるべきであるし、時に法的責任すら問われます、「医師として」の職務適格性も問われることでしょう。要点は、一義には、テクニカルな事項に所在しません。自身の担当する患者を結果的にも遺棄したことにおいて、「医師の使命」の閑却をこそ一義に問われます。


当該弁護団は、「弁護士の使命」「法曹の使命」を閑却しているか。私の判断は、一貫して否、であり、現時点において否、です。批判は為されて然るべきですが、職務適格性を問われるべきではまったくない、ということです。


「弁護士としての使命」を閑却することのない弁護士は、そのこと自体において、「人間として」正しい。個々人の感情を措くなら、それは私たちの近代社会の原理的な基盤に属する事項です。すなわち、社会的な正当性/妥当性が、強く言うなら、社会的な正義が、存する、ということです。


弁護士は、弁護士であることにおいて、「人間として」ありえないとされる言行も、時に公に示さなければならない。それは、為されて然るべき批判を措いて、敬意に値することと私は思うし、近代社会は、原理的な基盤において、かかる存在に対して尊厳を与えています。


「『人間として』ありえないこと/言行」と「『弁護士として』ありえないこと/言行」は、表出の相においては原理的に一致しません。ただ。それは、弁護士会/法曹と「国民感情」との相違、といったことでは必ずしもありません。相違というなら、相違が存することは、原理的な要請ゆえのことであり、機能としての社会システムにおける相違の、その基底において、社会を構成する原理的な基盤において、共有されるヒューマニティーにおいて、一致します。弁護士であることと、人間であることは。


現行の社会は複雑化し、感情の回路はシステムの機能分担を迂回して他と接続する。感情は、個々人の社会的な立場から自由ではない、ということです。「顔が見えず実名と所属のわからない」インターネットにおいて、社会システムの機能分担を迂回することなく感情の回路が直接的に接続し反応し合い一気に集約されたことが、今回の事態を招いた、ということではあるでしょう。対するに、たとえば今枝氏が、社会システムを介して対応を示すことが、横暴とも、私は思えません。ことは社会的な事態であるから。


懲戒請求とは、システムに帰属する社会的行為です。少なくとも。社会的な個人として、実名と現住所をもって為されるフォーマルな行為です。カジュアルな意識において為されるべき行為ではない。以前に記した通り、私においては元来の怠惰ゆえに、個人情報を弁護士会に提示すること自体が、そもそもありえないことでした。


悲しいことではありますが、私は、今枝氏の判断の妥当性を認めざるを得ません。以上、記してきたような前提を了解して懲戒請求した人が、どれほどあったか、現在、各所における発言に目を通す限り、悲観せざるを得ません。暗澹ともします。


――暗い話です。