日本社会と「さしずめ、インテリ」と(御返事に換えて)


id:arkanalさん。


16日未明に、10月12日付のエントリに投稿していただいたコメントへのレスを、昨日記そうとしたところ、コメントが消失していました。むろん、私は削除しておりません。その理由もありません。システムのミス、ないし、手違いでないなら、arkanalさん御自身が削除された、と判断せざるを得ないのです、けれども。もし。私のレスが遅れていたことが、そのことに関係しているのなら、お詫び申し上げます、申し訳ありません。


以前から目を通してくださっているなら、了解してくださることと思うのですけれども。私は、コメントへの対応が、エントリにおける誤記や事実誤認の指摘等、事務的事項でない限り、あるいは、対応に至急を要すると、こちらが判断したものでない限り、デフォルトで遅れがちです。


ただ。答える以上は、自身の問題意識、ないし、認識において、一定の見解としてきちんと答えたく思うので、長文がちになり、時にエントリをもって対応する、ということになります。また。物理的に手が回らないがゆえの、不本意な詮無いレス、あるいは明確にネガティブな内容の、非建設的なレスを返すよりは、無反応がまだしも良、と考えています。経験的な判断ではありますが。


むろん、管理人として、いかなる内容のコメントも、必ずしも、有難く、とは言いかねますが、読ませていただいていることに変わりはありません。言葉を加えると、コメントに対するスタンスは、ケースバイケースとしか言えず、模索し続けてもいます。「臨機応変融通無碍に」とプロフィール欄に記しているのは、そういうことです。


arkanalさんからコメントを頂いたことを、嬉しく思うとともに、レスの内容を考えていたところでした。悠長、であることは認めます。ただ。悠長、は、少なくとも、現在の私の、ブログ運営における要諦ではありまして。


改めまして。以下。御返事を記させていただきます。


はじめまして。こちらこそ、以前から、折に触れ興味深く拝読しておりました。「再浮上」以降の、怒涛の更新には驚嘆しています。それも、あのように密度の濃い記事を、連日。思えば。石原都知事の再選をめぐる記事や、李小牧氏の著作を紹介した記事に、言及していただいたことから、私もまた、arkanalさんとそのダイアリーの存在を知りました。


私は、キューバについて一概に判断を下せるほどの知識と情報を持ち合わせてはいません。いわゆる「カストロ政権のダークサイド」については、既に周知の事項の域にあります。だからカストロ政権はダメ、ということを、安易には言えないことも、知っています。


母親の反応を聞いて、私が思ったことは、やはり、ムーアは罪作りでもある、ということでした。彼はいわゆる確信犯である、ということは、日本のいわゆるインテリにおいては、これも周知の事項です。ムーアの『シッコ』を態々映画館まで観に行くのは、日本においては「さしずめ、インテリ」(by車寅次郎)とは言わずとも、「社会問題について一家言ある」層が過半です。ムーアがいかなる人物であり作家であるか知っている人たちです。コンテクストの在処を知る人たちです。そもそも、徹頭徹尾、米国民に対して向けられているメッセージではあります。ただ。


いわゆる「非インテリ」層の無知に対して、明確にバイアスの掛かった情報を、感情的なヒューマニズムを前面に押し出して提示し、言葉は悪いですが、「煽る」。目的と志と一貫した活動に対する尊敬をもって、かかる事項について「スルー」し得るか。少なくとも、私は、母親に対する最低限の「レクチャー」を余儀なくされました。橋下徹氏が批判を被っている当然の理由を私は了解しています。


にもかかわらず。ムーアの問題意識の射程外にあるだろう、日本社会に生きる私が彼をいまなお尊敬するのは。ムーアが、骨の髄までアメリカ人であり、かかる自己を誇りとし、決してアメリカから足場を離すことがないだろうことを、了解しているためです。


『シッコ』を観て、そんなにアメリカが嫌いでヨーロッパが素晴らしいなら、フランスにでも移住してアメリカ社会批判を続けたら、という感想を嫌味として抱く人があることは、ありえることだろうと思います。むろん、それは見当を違えていて、言うまでもなく、ムーアの価値観は明確に、欧州的なリベラリズムと親和的であり、また現在のアメリカはムーアにとって生き難い国であり、そしてヨーロッパのインテリ層は彼を、あたかも亡命者の如く厚遇することでしょう、が、かかる判断と選択は、彼にとってありえないことです。


彼は、自分が住み、暮らし、いずれは死ぬであろうアメリカを、変えたく思い、あるいは自身が住み暮らしやすくなるよう、アメリカとその精神を愛するアメリカ人として、変えんとしています。彼のような強靭な価値観と行動力の主を、また、肥満体に髭に眼鏡にキャップ、生粋の米国産ボンクラな風貌、かつキャラクターの、筋金入りの叩き上げリベラルを、育み、包摂するのも、アメリカ社会とその歴史であり、アメリカンスピリットです。


映画好きなので、その伝で述べますが、ウォーターズをカサヴェテスをスコセッシをショーン・ペンを、そしてイーストウッドを育んだのは、唯一アメリカです。かつて、町山智浩氏がムーアに深くコミットした理由が、今となってはよくわかります。どれほどに、ヨーロッパにおいてもてはやされようが、彼らの足場は、大仰に言うなら魂は、端からアメリカにある。


斯様な、あるいは奇形的な国アメリカを、そして、自身の感性と価値観を育んだ斯様なアメリカ社会を、弊もひっくるめて愛し誇りともする知的な人々に、奇形的な国日本に住み暮らす者として、自身の感性と価値観を育んだ斯様な日本社会を、弊もひっくるめて愛し誇りともする者として、同族意識を覚えるのです、私は。シンパシー、と言うと相違するのですが。


『マーダーボール』という、昨年公開されたドキュメンタリー映画を観た際、改めて、斯様なアメリカと、その原理を弊もひっくるめて誇りとする人たちに対する思いを、新たにしました。


マーダーボール [DVD]

マーダーボール [DVD]


マーダーボール - Wikipedia


それは。かつてarkanalさんが言及してくださったように、李小牧氏のような、中国に生まれ育った知的な人におかれても、あるいは、キューバに生まれ育った知的な人におかれても、同様であるとは思います。むろん、死の直前に自伝『夜になるまえに』を著した時点において、アレナスはそうではなかったでしょう。了解されることです。晩年の彼の悲しみに、私は思いを寄せる部分があります。一方的なものとして、であれ。


知的であること、「さしずめ、インテリ」であることにおいて、現代アメリカ社会はありえない、とか、現代日本社会はありえない、とか、現代中国社会はありえない、というふうに、一概には断ずることはできないと思うのです、私は。むろん、現代日本社会は、「国民の意識」のレベルにおいて、やばいと思わないでもない事柄が、無数に所在する。「さしずめ、インテリ」である限り、瞭然であるとは思います。対する「ダメ出し」は、知識を情報をコンテクストを有し構造を認識し得る「さしずめ、インテリ」の責務ではあるでしょう。ただ。


arkanalさんのスタンスがそうである、ということではまったくありませんが、私自身は、いわゆるエリーティズムのスタンスを採りません。というか、感覚としてわからないのです。そして。「フラット」なる現行の、また今後の、少なくとも日本のインターネットにおいては、自覚的なスタンスとして、であれ、エリーティズムとその露出は機能として無と考えています。切込隊長氏が示した現状認識は、悲しいことに、全力で正しいです。


はてなブックマーク - 続・日本社会はフルボッコ先を求めている: やまもといちろうBLOG(ブログ)


現在、私はいわゆるウヨサヨ問題にほとんど関心を持てなくなっています。にもかかわらず。以上、私はスタンスにおいて「右より」である、ということの改めての表明でしかないかも知れませんけれども、arkanalさんが投稿してくださったコメントに対する、あるいは、コメントを投稿してくださったことに対する、レスに換えます。


arkanalさん、態々、密度の濃いコメントを書き込んでいただき、ありがとうございます。レスが遅れたこと、また、そのことによって余計な気掛かりを与えてしまったのであるなら、そのことについて、申し訳なく思います。失礼しました <(_ _)>。