社会正義の臨界――光市母子殺害事件高裁判決


http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080422/trl0804221753029-n1.htm

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080422/trl0804221810031-n1.htm

http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51282196.html

はてなブックマーク - 光市母子殺害事件の記者会見見て無い人へ:アルファルファモザイク


光市母子殺害事件、広島高裁差戻審の判決が下った。昨年の所謂懲戒請求騒動を含めて、このブログでも幾度も記事を記してきた。カテゴリ分類して過去記事を整理しようかと考えて放置していた。


正午、カーラジオで判決を聞き、私は目を閉じた。隣で運転する仕事絡みの人が、本村さんよかったな、あんな奴は生きてちゃいけない、と助手席の私に言う。ええ、と私は相槌を打つ。話はまた仕事のことに戻った。その人が、家族思いの子煩悩な人であることは知っている。社会正義は果たされた。私は、誰に目を瞑っていたのだろう。


私は、国家が人を殺すことに、賛成しない。むろん私刑にも賛成しない。国家は措き私刑において、私の賛成不賛成など関係ないことであるが。死刑制度とは国家が私刑を代行する制度ではない、そうあってはならない。今回の高裁判決がそうであったか。むろん否。


社会正義は果たされるべきであったし、果たされた。私はそれを社会正義とすることに異存ない。「それ」とは、本件の被告に死刑が適用されること。ひいては、本件の被告に対して死刑が執行されることだろう。ハードル云々がそもそも愚問であることは言うまでもない。


私が極刑としての死刑存置論者であるのは、ある個人的な問題意識とかかわる。他人と共有しうるものであるかわからない。以下に端的に記す。お断りすると気分のよい話ではない。


所謂快楽殺人者は、被害者の殺害を前提とする性犯罪者は、死刑台に送られて然るべき、あるいは、死刑台に送らないことには仕方がない。そうした認識と見解に私は同意せざるをえない。


彼らを終身刑に処したとき。獄中において生き続ける彼らは、延々と自身の犯行を想起して、ひとり愉しむだろう。愉しみ続けるだろう。死ぬまで。直裁に言うなら、マスターベーションし続ける、ということ。自身の犯行を繰り返し繰り返し想起することによって。


それは、彼らにとってとびきりの経験であり、常に鮮烈な記憶であり、尋常な他人が持ちえない経験であり記憶であるがゆえに自身の特別性の勲章であり、自身を幾度でも全能感で満たす、暴力の行使に基づく至上の快楽の体験である。何年経とうとも、死ぬまで。性的嗜好とはそういうものであり、個人の欲望とはそういうものであり、快楽殺人者にとっての自身の犯行の記憶とはそういうものだ。最悪なプルーストのマドレーヌであるが。


最悪ついでに例示するなら。もし、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の加害者が真性のサディストであったなら(そうではないと私は判断している)、当人は自身が死ぬそのときまで自身の行為を想起し反芻し被害者の顔と表情を思い浮かべてひそかにひとり愉しみ続けるだろう。再犯せずとも、また他人に漏らすことなくとも、その個人的な快楽に耽り続けるだろう。


所謂児童ポルノ法案改正問題の際に、私もまた「欲望は裁けない」と記し続けてきた。性的嗜好それ自体には貴賎なしとも。法は1回の、あるいは複数回の、犯罪行為を裁く。殺害を強姦を。それはそうなのだが、しかし上のような暗黙の事実を、被害者遺族が、見ず知らずの人間のきわめて私的な欲望において殺された者を誰よりも愛し、自身の私的な人生の一部としていた人たちが、知ったとき、そして加害当事者は終身刑であれその寿命までは、あるいは数十年を生き続けると知ったとき、そのことを耐え難いと考えるだろうことは想像に難くない。


死してなお殺され続ける、といった修辞は流石に今回は自重するが、主体が加害当事者である以上、事実上それに等しい。むろん個人の欲望は裁けないし脳内は裁けないしマスターベーションは裁けない。ゆえに。その個人を滅形せしめたいと被害者遺族が考えることは、妥当なことと私は言わざるをえない。被害者遺族が望む限りにおいて、そしてそのことが現在の社会の半ば前提である以上、快楽を目的とする殺人者の類は、死刑台へと送られるべきであると。


個人のきわめて私的な欲望が行為に介在するとき、かかる行為へと至らしめたきわめて私的な欲望それ自体を、加害当事者の滅形において裁くべく被害者遺族が望むことは致し方ないと。むろんこれは現行刑法に即した議論ではない。しかし、現行刑法に即して死刑を被害者遺族が望むことはありうる。そして、それは果たされるべき社会正義であるかと問うなら、YES、と私は答えざるをえない。地上と共存しえないきわめて私的な欲望は存する。地上を規定するのは、私たちの市民社会だ。利己に基づく他害を認めない原則のもとにある。


快楽殺人者は根本的に反省しない。自身のきわめて私的な欲望が社会すなわち地上と共存しえないことを了解しこそすれ。自身が自身であることと、自身が地上に在ることが相容れないこと、自身が自身であることが、自身を地上が受容しないこと、その必然を、早かれ遅かれ了解しこそすれ。反省とは第一義的に認識の問題ではなく、また実存的了解の問題でもない。


特異と言わざるをえない自身のきわめて私的な欲望において殺人を犯した、しかし法的な処罰を受けることはなかった著名な人物に対して、反省がない、という批判的な指摘が知識人からも相次いだことに対して、当時その人物と交流あった漫画家が記した。大意と厳に断る。なお金銭的な補償は富裕な縁者が十分に行っている。


「反省がない、ってみんな言うけどさ。あの人にとっては、反省するってのがどういうことかわからないし、あの人は、そのことでずっと困ってるんだよ。どうしたらよいのかって、反省するってのはどういうことかって、それがあの人なんだよ。反省ってなんだろうな。」


快楽殺人者は反省しない。自身の行為の悪、という発想が根本的にない。当然のことだからだ。腹が減ったら飯を食うだろう。そのとき生けとし生ける物を殺すことは悪か。そのことに対する反省とは何か。祟りなきよう供養のための宗教的な儀式でも形式的に行えばよいか。自分は他人の命を奪った、自身にとってそれは必然であった。自身にとっての必然の帰結が、自分が自分であることの必然が、社会的に悪であるなら、自分が自分であることの必然を、すなわち自身という存在を地上が許容しないなら、決着はひとつしかないではないか。


死人の供養と自身の行為の問題は別ではないか。地上で人は死に続けている。供養は為され続けている。そのことと、自分が自分であることの必然が直交するか。もし直交するなら、それは形式的な供養でなく、形式的な行為においてしか決着しない。論理として記すならこうなる。こういうのをサイコパスと言うのかも知れないが、私はあまりそういう語彙と概念を認めない。


特殊の付く漫画家が記した通り、「ある人」がそうであるように、彼らは自身の行為に対して、その性分に対して、すなわち自身が自身であること、そのような自身が地上に在ることに対して苦しんでもいるし、苦しみ続けてもいる。彼らなりに、ということであるが。あまり一般性なく他人に共感され難い苦しみであることは言うまでもないが。そしてむろん、そのような苦しみは実存の範疇であって、ひいてはきわめて私的かつ個人的なものであって、社会的には、また被害当事者とその近しい者たちにとって、何の意味もないことであるが。


ゆえに。加害当事者の肉体的な滅形含めて外形的な形式たる法の執行において報いるべきとする社会の正義は、妥当だ。そして。サイコパスと社会から判断されかねない快楽目的殺人者は、あるいはその欲望を持ち合わせる者は、そのきわめて私的にして個人的な、換言するなら実存の苦しみを、自身の滅形において解決せんとすることが、よくある。


殺人衝動の強い人間が自殺することは珍しくない。むろん攻撃衝動の内攻ということでもあるが、時に無知な、かつ対人認知において根本的な機能不全を抱える彼らは、それ以外の、自身の個人的な苦しみの解決方法を、知らない。自分しかない人間に似合の結末であるかも知れないが。反省がわからず反省の仕方がわからない人間は、自身の滅形をもって反省に代えようとする。そのとき、市民社会と彼らの指向するところは一致する。


言うべきことではないが、しかし言うべきと強く思うので言うが、それは彼らなりの最大限の誠意であり、倫理である。地上に場所なしと市民社会に規定されそれを受け容れることが。市民社会が望み執り行う自身の滅形の受容が。愛の紐帯によって構成された社会による復讐を自身の生の帰結とすることが。むろん、彼らは彼らなりに、人を愛してきたし、愛そうとしてきた。その結果が残酷な殺人であり、彼らのきわめて私的かつ個人的な愛が決して紐帯を構成することなく、ゆえに社会を構成する愛の紐帯と相容れることなくとも。人を正しく愛するとは、どういうことだろう。


いずれにせよ愛の紐帯によって構成される市民社会は、彼らのような存在を受け容れる余地を持ち合わせない、むろん持ち合わせるべきではない。市民社会の寛容とはそういうことではないし、市民社会は原理的にも、また実態においても、愛の紐帯によって構成される。彼らのような存在を理解する筋合もない、のだろう。他害の禁を平然と破棄し、愛の紐帯を嘲笑し、市民社会に報いんとすることない、あまつさえ毀損し侮蔑する人間を、市民社会は外形的に包摂するべきか。それとも地上に場所なしとするか。


宅間守以降、控訴あるいは上告せず、もしくは自ら取り下げて、死刑確定する死刑囚が目立つ。山地悠紀夫しかり小林薫しかり、あるいは最近の松村恭造しかり。むろん人に拠るが、いずれ死刑は回避しえない(だろう)がゆえに「自棄になっている」ということもありうるだろうが、私は個人的に、彼らは自身の滅形という形式において、実存的な解決と、社会的な解答を、彼らなりに企図したのだろう、と考える。


彼らは彼らなりに自身とその存在に苦しんだのだろう。意識と存在の相違と言うべきか。ままならないことというのはなるほどある。山地悠紀夫の事件に私はかつて幾らか暗澹とした。仔細は控える。むろん、死刑は妥当である。本人にとっても妥当だろう。


光市母子殺害事件の被告もまた、死刑の妥当をいずれ了解し「罪深き」自身の肉体の滅形を受容するだろう。死の修行を彼なりにやりとげるだろう。私が記していることは気違いの部類だろうか。気違いたる私の了解は。彼らが、きわめて私的な欲望において犯した行為のため、自身の肉体の滅形という形式において、「罪深き」自身という、実存的な解決と、社会的な解答を、了解し自ら進んで受容することに、そして死ぬそのときまで小菅に在る彼らに、幾らか瞑目することだけだ。


自らが、実存において、また社会的にも、地上に場所なき存在と了解することは、自身という、人を殺した肉体の滅形を受容することは、どのような人間にとっても、悲しい。自身の死の了解と受容が、彼らにとっての世界の了解と、それに対する最後の存在の投企としてあるからこそ。


自身の死の主体的な了解と受容において、彼らは自身の人間としての尊厳を守る。胸を張って自身の死を受け容れるべく。刑場における「要は、勇気がないんでしょ?」は古今東西の普遍である。キューブリックの『突撃』ではないが。

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『突撃』において結末の刑場は冒頭の戦場のネガとしてあり相似を描き、つまるところは同じことであると、作家は示している。「要は、勇気がないんでしょ?」の号令のもとに勇気のない者たちが虚勢を張って従順かつ立派に殺されていくのが古今の戦争であると。厭な普遍であるかも知れない。


ゆえに。本村洋氏の以下の言葉は必ずしも不適当ではない。「不穏当」ではあるかも知れない。

本村  胸を張って彼には死刑を受け入れてもらいたい。胸を張れるまでには相当苦悩を重ね、自らの死を乗り越えて反省しなければいけないと思う。そうした境地に達して自らの命をもって堂々と罪を償ってほしいと思う。できればそういった姿を私たち社会が知れるような死刑制度であってもらいたいと思います。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080422-00000014-maiall-soci


自身の死に直面してこそ人はその人間としての尊厳を問われ、世界に対する存在の投企として回答を示す。そこに人の真価が問われる。同意不同意はあれど、本村氏の死生観は決して浅薄ではない。「胸を張って彼には死刑を受け入れてもらいたい」「自らの命をもって、堂々と罪を償ってほしいと思う」――この言葉に、私は本村氏の書割でない深甚な認識と思考を読み取る。そして修羅を。あるいはそれが一般性を欠き傍から特異に見えかねないことも。私が記しているようなことは、氏は承知しているはず。そして、氏は自らを決して例外とはしない。


私は、自身の死に直面しての「要は、勇気がないんでしょ?」を、是非以前に残酷と、そしてグロテスクと考えるけれども、それは私の見解である。死ぬことの決まった、執行を待つ死刑囚には覚悟完了する以外の自身の尊厳の提示の道はなく機会もない。すなわち。本村氏は被告をあくまで一個の人間と見なしているからこそ、死刑執行の瞬間まで被告は人間としてあってほしいと、人間として自身の来たるべき死を受け容れてほしいと、一個の人間として切に望んでいる。


氏は、被告を一個の人間と見なしていないから死刑を望んできたのではない、一個の人間と見なしているからこそ死刑を望んできた。被告は自身の死に直面しない限り一個の人間としての尊厳すら示そうとしなかった。本村氏はそう考えている。死に際して人間としてあることの尊厳を示すことに、人間の人間としての価値がある。氏が自著において記した通り、氏の配偶者が被告に殺害される際、そうであったように。


相当に問題含みなことを書いていることはわかっている。おそらくは事件を契機として形成された、以上のような本村氏の死生観を、受け容れない人はあるだろう。しかし、このことは明記しておきたいが、氏は認識において、ひいては発言において、被害者の被害者性に収まりかえっているのではない。私は、本村氏の一個の認識と思考に敬意を払うと共に、是非を措き、かかる死生観に規定された人の世の死刑の歴史を、残酷と思う。むろん、本村氏をその残酷へと一方的に追い込んだのは、被告の残酷な殺人行為と、その後の言動である。人間の尊厳。死を対価として指し示されるそれを、私は、ひどく残酷と思う。


死刑存置論者の私は、幾らか瞑目する。気違いついで問題ついでに言うなら、私は、自身の死に対する了解と受容を、自身に唯一残された存在の投企としての尊厳の提示とする彼らを、道誤って奈落に落ちた愚かな兄弟と勝手に考えてしまう。そうした発想それ自体が、彼らに対して失礼きわまることは言うまでもない。


私が、少なくとも彼らと比して愚かでないなら、それは、法や監獄や警察捜査の事情を幾らか知っていたことでも、ガキの時分から本と映画とTVとアートと一人旅と異性くらいしか主体的な趣味がなかったことでもなんでもなく。


人間の生には、蓄積される時間的な価値が誰にも等しく存し、それをして人生と呼ぶがゆえに、人間の生は等しく尊重さるべきと考えていたこと。ガキの時分の私が、現在に絶望しても未来に対して絶望しようとしなかったこと(単純に、一刻も早くオトナになりたかった。そのために背伸びし続けた。目出度くオトナになった現在、自分が死ぬまでガキであること、未来に希望なく否が応でも現在に価値を置かなければやってられないことを知る。ガキの頃、私はいくら楽しもうとしても、現在を楽しむことが、どうしてもできなかった)。


おそらくは(決して多くない)縁者や友人やかつての恋愛の相手や、目つきの甚だ悪い少年であった私をなぜか一時的にも好いてくれた少女たちや、私という存在の、その生の価値を認めてくれた人たちによって涵養された認識のために、行為において反社会的たることを10代の時分から能う限り自重しえたこと(むろん、それでもなお難しかった)。人間の生は存在は等しく尊重さるべき、たとえそれが殺人者の生であろうと存在であろうと――という原理的な認識を個人として育んだこと(なぜなら、人間の生が存在が等しく尊重されないなら、私もまた死んでよい人間である、と認識においてさえ結論しなければならないから。むろん認識において結論してはいる。死んでよい人間があるなら、私もその列にはあるだろうと。私は殺人者ではない、幸運にも)。――それだけだ。


そのことを了解しなかったことにおいて、彼らは私と比して愚かだったのだろう。――でも、と私は思う。自身が人を私的な快楽を目的に殺すと縁者に迷惑が掛かるから御法度、という理屈を、縁者なき人は、あるいは縁者が自身の眼前で自死した人は、あるいは縁者を自ら殺した人は、了解するだろうか。私は縁者なきすべての人を貶めているのではない。だから、彼らは愚かだったのだろう。しかし。


昔、『オフィス北極星』というマンガに、このような台詞があった。人を愛する者だけが、愛されるに値する。その通り。では、人に愛されなかった者は? あるいは、愛する人の死を自身の愛としてしまった人は。性欲の問題に尽きるとは、必ずしも言えないから、難しい。むろん分別の問題ではある。


宗教的な話では必ずしもないと断るが。自身が地上に存在することそれ自体が、愛を享けている証であると、自身の滅形としての死を了解する人は信じないだろう。むろん、生きること存在することそれ自体が世界の悪意であり人間を塵芥とする類の罰であるからだ。ゆえに死の了解においてのみ人はその尊厳を問われる。人間であることを問われる。自身が死に直面したそのときに。悲しい世界観であると言うよりほかない。その悲しい世界観を持ち合わせてもいる死刑存置論者の私はただ、必然としての死刑判決に、執行に、幾らか瞑目するだけだ。死刑囚に対する宗教者の活動は、敬意に値する。


既に改めて言明するまでもなく、現在、私個人は被告の動機面の幾らかについて弁護側主張に同意する。むろん殺人は殺人であり、死姦は死姦だ。劣情は劣情であり、性欲は性欲だ。乳児に手を下す者は、多く自身がかつて乳児であり誰かの庇護下にありそれ自体が愛であったことを、知らないか、忘却しているか、あるいは自身のそれを他に敷衍しない者である。繰り返すが年齢を勘案してなお死刑判決は妥当だ。


しかし。被告が犯行当時18歳1ヶ月であったこと、被告の行為に被告の主張する内的真実が存し、かつ被告はそのことを取調段階においてまた一審二審において主張しなかったことには理由が存したこと、そのことについて弁護団の主張に同意するし、差戻審においてはそのことを被告に主張させるべく非難覚悟で臨んだこと、被告の主張する内的真実について法廷を通して幾らか公知されたこと(少なくとも、現在、私は被告の主張する内的真実について、大枠ではありうること、と経験的に判断している)、その意図せざる結果も含めて(弁護団が被告の死刑を意図したとはまったく思わない。方法的な是非についてはテクニカルに問われることではあるだろうが、もはや私の任ではない)、安田好弘氏ら弁護団の仕事に、改めて敬意を払いたく思うし、またかつての自らの短絡的な判断について、ここに謝罪を記したく思う。


また、事実認定を争ったことをもって反省の有無としたうえ死刑適用の根拠ともするかのごとき点については、形式的にも判決要旨に些か異論なしとしない。むろん、被告の行為とその結果は変わらない、そしてそのことに対して、被告は反省しているかと問うなら、記してきた通り。私は裁判員制度に賛成なので、素人が司法のプロの判断に対して意見を述べるべきではないとかまったく思わない。私がこの事件の裁判員に任命されたなら、判決後も一生掛けての宿題とするだろうとは思う。


自身のことがわからないことは悲しいと思う。18歳1ヶ月の私は幾らかそうだったろうと思い返す。あるいは、自身のことは死ぬまでわからないのだろう。わからないままに自身の滅形としての死を望まれたこととして了解する人間を、私は愚かと思う。そして瞑目する。


自身のことがわからない人間にとって、わからない自身のしたことは他人事である。それをして無反省と言うし、被害当事者はたまったものではない。自身のことがわかっていたとして、警察官に説明して了解を求めうることかと自問しただろう。一審二審の弁護人も同様に示唆したのだろう。やむなきこととも思う。事実、差戻審の法廷において、被告の主張した内的真実は裁判官に無反省の現れと判断された。


むろん、無反省の現れではある、が、被告の主張する内的真実が、それを再構成した弁護側の主張が、必ずしも荒唐無稽とは、現在私は思わない。繰り返すが、被告の行為とその結果は変わらない。被告が嘘を言っているとは必ずしも私は思わないが、被告が嘘を言っていないとして死刑適用に際する情状たりえるか、そのことには議論があるだろう。


改めての原則の確認として。具体的な弁護内容について、裁判員でもない一般国民の了解を求めるべきことでないことは言うまでもなく、事件は会議室で起きているのでなく現場で起きているように、審理はインターネットでもTVのスタジオでもなく法廷で行われている。むろん公判が社会的な注目を集めることは妥当であるし、意見は幾ら言ってもよい。ゆえに裁判官は「司法のプロ」であるのだから。


また、修復不可能な加害行為における加害被害当事者の直接対峙を避けるために近代刑法と日本の警察・司法はあるが、しかし被害当事者が被告の量刑について意見を述べてはいけないはずもなく、それが社会的な同意を得てはいけないはずもない。司法は原理的にも、市民社会の社会正義とその実現としてあるべきではある。


「額に汗して働く人が報われる社会にしたい」と就任時に述べた東京地検特捜部長があったが、そしてその後いかなる摘発があったか周知の事実であるが、その件は措き、「額に汗して働く人が報われる社会」が近代国家における司法の理念のひとつであることもまた確かだ。無法者とその利益独占を野放しにしないために。「額に汗して働く人が報われる社会」――それは、理念としてある私たちの社会の正義の、最低限綱領ではあるだろう。念の為にお断りしておくが、額に汗しない人が報われなくてよいとかそういうことではない。話が違う。私もどちらかといえばそうであるし。


本件は、立法の問題ではなく、現在ある極刑の運用の問題であった。そして。「ハードル」云々は措き広島高裁は、あるいは最高裁は、本件の内容に対して極刑の適用を選択した。「特に考慮すべき事情がない限り」現行法の定める最高刑をもって臨むべきであると。結果、被告に死刑が適用された。私が妥当と考えていることは幾度も記している。


本件について被告に死刑が適用されることに異存あるなら、極刑としての死刑を廃すべき、ということであり、それは立法府の問題ではある。本村洋氏とその犯罪被害者としての主張の問題であるはずがない。ボールは、私たち日本社会の構成員へと投げ返されたのだ。そのことは本村氏もはっきりと述べている。投げ返したのは本村氏ではない、現在の司法だ。対するに日本社会の構成員は、本村氏の長い苦闘と、氏が言う「3人の死」を糧に、いかなるターンとするか。


本件について被告に死刑が適用されることに異存なし、とする社会正義に、私は同意する。社会正義という言葉を私は皮肉として用いているのではむろんない。社会正義なき社会を私はまったく望まないし、市民社会において市民社会の社会正義は最低限綱領としても貫徹されるべきだ。その社会正義が死刑の存置を選択するとしても。そのとき。「ハードル」云々以前に、個別の審理とその判決の問題ではない。


自身の愛する家族が見ず知らずの人間のきわめて私的な欲望から残酷に殺されることは、私たちの市民社会の社会正義の一線に触れることだろう。むろん私はそれに同意する。自身の愛する者が残酷に殺されることは自身の人生が奪われることと等しい。そのことにも先述の通り同意する。しかしながら。


そのことを裏返すとき。愛する者の欠如において市民社会の社会正義に対して違和を抱かざるをえない、市民社会の社会正義に馴染みえない存在としての人間もまた、等しく私たちの社会を構成している、ということでもある。むろん現在の私のように、納税し選挙も行く善良な市民として在る限りは無問題。そのような存在すら市民社会市民社会であることにおいて包摂しなければならない、わけではむろんない。さもなくば終身刑などというものは存在しない。そして。


そのような存在の生を市民社会市民社会であることにおいて包摂しなければならない、わけではむろんない。それが死刑存置国日本における市民社会の社会正義の論理的帰結である。死刑存置論者の私はそのことに同意する。市民社会の社会正義は、主体的行為に即して任意の存在の生を、形式における肉体の滅形として了解する。


かくて宅間守は死刑執行されたが、宅間という存在を、その言葉を思想を、記憶した人間は忘れない。市民社会の社会正義が、刑法を介して果たされることの意味とは、そういうことだ。その臨界が、今回の死刑適用としてあったのだろう。常に、臨界としてあるべきこと。本村氏が強調していた通り、そうであってほしいと願う。本件は死刑適用基準の問題ではない。おそらく根本的に反社会的な人間だろう私は、市民社会を構成する愛の紐帯において、それを自らの半生に賭けて信じるところにおいて、かろうじて市民社会に包摂されている。いちおうの善良な市民として。