覚悟のススメ
「ひっ 人質が補佐の娘さんでも殺すど おっしゃいますか!?」
「撃たす訳ねえだろ。誰が撃たすかよ、俺の娘だぞ。だが…幸いにして人質は俺の娘じゃ…ねえんだ!! こりゃ警察の…キャリアの…ピッカピカの特権だ」
(中略)
「殴るか? 殺すか? 謝るか? あ? ハンパなんだよ。貴様はビクビクと人質を見限る理由を探すバカだ。半端な理恵で屁理屈こねくりまわす舶来のバカ!! まさしくバカだ!! もう一人のバカが言ってたろ。問題は命じゃねえ社会と個人、どっちが選べってよ。集団・社会・国家・世界を統べる者たちも転覆を謀る奴等も、必要なら殺す知恵のある者は皆殺してきたんだよ。殺すってのは倫理じゃねえ…覚悟だ。もう一人のバカ、ジョージ・クリーナー・須賀原。あいつは即答する『娘であっても殺せ』とな…」
塩見の掌底が薬師寺のアゴを捉えていた。ヨダレが弧を描いて薬師寺は倒れた。
「否(いな)っ!!」
(中略)
「……否」
http://www.geocities.co.jp/Playtown/2586/outline_123-131.html
塩見は一人でパトカーを運転し、トシモンの後を追いかけた。
「殺…す」倒れた薬師寺は天を仰いで言った。
真説 ザ・ワールド・イズ・マイン 4巻 (ビームコミックス)
- 作者: 新井英樹
- 出版社/メーカー: エンターブレイン
- 発売日: 2006/09/25
- メディア: コミック
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ごく普通の前提事項を記してかくも燃えるものか。わからん。私は個人的には死刑廃止論だけれども他人にそれを勧める気にはまったくならないので死刑存置に与する立場であることは違いない。もし国民投票やったら廃止に投じるだろう。私はこと死刑問題に関しては鳩山氏を支持する、ではないな、好いている。自身の主体的判断と行動に伴う倫理的葛藤をかくも愚直に明示する公人にして権力者って、あまりいない。死刑制度が存在し存続するとき執行命令に即して特定個人の個性に国家殺人を帰責したところで意味がない。執行とその件数自体はさしたる問題ではない。
鳩山氏をめぐる問題を通して表面化したものとは何か。terracaoさんが改めて指摘する前提のもと、死刑存置の支持者に「自覚」を問うたとき、むろんそのことは了解していますが何か、了解したうえで、あるいはそれが社会正義を盾にした自身の利己的判断にして決断に過ぎないかも知れないことを知りながら、他者の命を奪う国家の判断と法相の決断を支持しているのです。とワールドイズマインの薬師寺補佐のごとき「覚悟」とそのススメを語られることがいくらもありうる、ということ。毅然とした表情で、か、あるいは悲壮感を漂わせて、かは知らんが。
自己が生きようとすることは時に結果的に他者を殺すことである。斯様な宮沢賢治のテーマに対して、むろん私はそのことを了解し覚悟している、私の手は汚れている、私はそれを背負って「強く」生きていくだろう、といったレスポンスはいくらもあって、かつそれは傍目から格好良く映ってしまったりもする。放言すると、ある種のリバタリアンはモテる、というのが私の持論で。それはつまり、自身の(あるいは存在における)「汚れ」と「罪」を「私は積極的に引き受け背負う」と公言することが格好良い、という時代精神であったりもする。いや単なる風潮か。10年来の。
薬師寺補佐曰く、殺すとは倫理でなく覚悟。それはその通り。殺すという判断と決断と行為それ自体は、倫理はお呼びでなく覚悟に基づいた、あるいは覚悟が要請される行為に違いない。そして殺すことの覚悟を語る薬師寺さんはヒロイズム全開。ヨゴレのヒロイズムというのは、ことに自身をヨゴレとよく知ってる人間のヒロイズムとは、まことに陳腐でありながら絵になるものでもあるらしい。滑稽ながらも格好良い。
むろん新井英樹が描く薬師寺補佐は不細工きわまる下劣漢であり、しかしながら、否、そのゆえにこそ、殺人鬼の狼藉により血に汚れ死体の散乱した雪降る路上でかく啖呵と見栄を切るときの薬師寺は、たいそう格好良いのであった。宮崎駿の描くポルコ・ロッソのごとく。
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殺すとは覚悟の問題、そんなの当たり前。ミス・バラライカだって言っている。というか、あの手の「修羅場を知る者の覚悟を平時に安穏と暮らしてきた頭でっかちの倫理観に対して突きつける」的な話、テンプレに過ぎる。むろん最後の戦場におけるランボーはそれでまったく正しい。スタローンを好きな人間に悪い人間はいない。
だからそのようなことはまったく問題ではない。問題は、そして新井英樹がWIMにおいて延々と問うたのは、殺すという判断と決断と行為の、その後の話、すなわち「繁栄の平時に安穏と暮らす私たちの社会」がいずれ直面せざるをえない「頭でっかち」ならざる必然としての倫理問題であった。法相就任以来、鳩山氏が勝手に直面しあたかも一人芝居のごとく公然において葛藤を演じる倫理問題の。
鳩山氏の一人芝居は傍からは滑稽にしか映らない。それが格好良く映らないのは「あの鳩山さん」だからに過ぎない。法相は既に13名の死刑執行を決断している。「社会正義のための苦渋に満ちた決断」として。そして法務大臣鳩山邦夫はそのことを隠さない。ゴミであることが周知されている『素粒子』に激怒し真っ向論駁するくらいに。
私の誤読含みの理解に拠るなら。玄倉川さんの指摘には、大意、私たちは他者の生命としての人命さえも、時に利己的な恣意の対象としうる、法相の死刑執行命令がそうでなくてなんであろうか、ということがある。同意。
そして、自身の執行命令という判断と決断と行為が、他者の人命を恣意の対象としうることを知っていたからこそ、鳩山氏は就任当初「ベルトコンベア式」の死刑執行を提言したのだろう。周知の通りかかる提案は批判にさらされ、鳩山氏は、自身の判断と決断と行為に対する倫理問題を、法と職責と社会正義を背負って、葛藤してもいる、少なくともそのつもりなのだろうとは察する。
「葛藤するなら判断も決断も行為も回避するべき、あるいは、執行命令を拒否するという判断と決断と行為を下すべき、自身の良心に基づいて」とは、日本国の法務責任者たる行政官に対して要求しうることではない。日本国の構成員は死刑の存置に加えて存続に合意している。立法府の存在と機能を前提する法治国家とはそういうこと。そして。葛藤を容易に超克してしまう、あるいは葛藤の必要を覚えない法相と、葛藤を本気で演じる法相とどちらが「マシ」かは知らん。
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2007年9月に鳩山邦夫法務大臣が、「法務大臣による署名」を廃止して死刑を自動化できないかと発言。法務大臣を死刑執行の責任から解放し、かつ刑執行の効率化を図り、未執行者が増加している現状に対応する事を意図して提言をおこなった。具体的には死刑執行決定権を法務大臣から剥奪し、司法当局が死刑執行者の決定を機械的(鳩山は乱数表、ベルトコンベアー方式と表現)に行い、主観的かつ恣意的な判断を介在させず、死刑囚個々の状況を考慮せずに行うべきとのものであった。
この発言に対し、死刑廃止を推進する議員連盟会長亀井静香衆議院議員(国民新党)は強く批判した。[144]このなかで、亀井は「本当は死刑の執行命令をしたくないのが本音だろう」との主旨を発言している[145]。実兄の鳩山由紀夫は死刑制度の存置に理解を示しつつも「弟としてはある意味で多少軽率な発言だった」と話したという[146]。また、死刑の自動化の弊害としてイギリスにおける死刑制度が廃止された理由は「刑執行後に絶対的冤罪が判明(エヴァンス事件)」であり、その制度の欠陥に気付いていなかったといえる。また死刑執行は「司法判断を受けての行政処分」というのが基本であり、法務大臣が事実上三権分立の統治機構を理解していなかっと指摘[147] された。
また現在の刑事訴訟法の基礎を構築した団藤重光元最高裁判事(死刑廃止論者でもある)は、大臣が開催した勉強会の中で、死刑執行を自動化するのは法手続きの厳格化を定めた刑事訴訟法の精神に反しており、法律学に対する不勉強が著しいと指摘[148]した。また団藤は「鳩山大臣は世界の大勢を知らなさすぎる」と批判[149]した。
鳩山大臣は法務省内に死刑執行のあり方を検討する勉強会を発足させ、様々な方面で議論がなされている。たが、あくまで死刑制度の現状維持が基本路線となっている。また、それまで公式には全く行われてこなかった死刑囚に対する処遇に対する情報のうち、死刑の結果を実名とともに公式に発表する方針を打ち出し、2007年12月、2008年2月1日の死刑では実名報道をしているほか、2008年2月には死刑囚の病死の事実を公表している。
2007年12月18日に国連総会において、死刑の執行停止を求める総会決議を採択したが、鳩山大臣は『世論には死刑制度や死刑執行にかなりの支持がある。国連の決議があっても我が国の死刑制度を拘束するものでは、まったくない』と発言したほか、決議前の18日の閣議後の記者会見では『死刑を存続するかしないかは内政の問題だ』という日本政府の立場を改めて強調した。ただし同総会では北朝鮮による日本人拉致問題等に対する「北朝鮮の人権状況を非難する決議」も採択しているため、同じ総会で採択された決議案に対し、日本が異なる対応をした事になった。そのため神奈川大学法科大学院の阿部浩己教授(国際法)から『自国に有利な決議は最大限利用し、不利なら『意味がない』では説得力がない。日本は決議に反対することによってどんな社会を実現したいのかを主体的に示すべきだ』と批判された[150]。
この鳩山法相の死刑執行増大方針に対し、朝日新聞は6月18日夕刊付「素粒子」欄で「永世死刑執行人 鳩山法相」「2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」と揶揄した。これに対し鳩山は「人の命を絶つという極刑を実施するのだから、心境は穏やかではない。しかしどんなにつらくても社会正義のためにやらざるを得ない。宮崎勤死刑囚らにも人権も人格もある。司法の慎重な判断、法律の規定があり、苦しんだ揚げ句に執行した。死に神に連れていかれたというのは違うと思う。(記事は)執行された方に対する侮辱だ」と朝日新聞に強く抗議し、「私を死に神と表現することがどれだけ悪影響を与えるか。そういう軽率な文章を平気で載せる態度自身が世の中を悪くしていると思う」と朝日新聞の報道姿勢を批判した。これに対し抗議メールが数多くよせられたというが、朝日新聞側は「法相の名誉を汚す意図はなかった」と弁明[151]している。
安倍改造内閣において法務大臣として入閣し、2007年9月25日、安倍政権下での法務大臣としては最後となる午前の記者会見の席において「法相が絡まなくても自動的に死刑執行が進むような方法があればと思うことがある」「(死刑執行は刑確定から半年以内という規定について)法律通り守られるべき」「ベルトコンベヤーというのは何だが、(執行の順序が)死刑確定の順序なのか乱数表で決まってるのか分からない」と、死刑執行制度の在り方について踏み込んだ発言をした。午後に福田政権が誕生し、再び法相に再任したときの会見でもほぼ同様のことを述べたが「乱数表というのは不適切だと思った」とも述べた。
また、「『この大臣はバンバン執行した、この大臣はしないタイプ』などと分かれるのはおかしい。できるだけ、粛々と行われる方法はないかと考えている」と述べたうえで、改善も視野に入れた勉強会を省内で設けたい意向を示した。なお、鳩山は安倍政権下では死刑執行のサインをしていなかったが、福田政権下では2007年12月7日に、3人の死刑を執行した。これに伴い、現行憲法史上初めて、執行対象となった死刑囚の名前を公表した。同日の衆院法務委員会では、「国家権力によって人の命を絶つわけで、斎戒沐浴(さいかいもくよく)してサインをさせていただいた。大きな心の痛みを感じるが、法に基づいて粛々と実行しなければいけないということで、逃げることのできない責務と思って執行させていただいた」と、記者会見では、「本日3名の方に執行いたしました。ご冥福をお祈りします。果たさなければならない職務であると、それをもって踏み切りました」と述べた。翌2008年2月1日にも、3人の死刑を執行。同年4月10日にも4人の死刑を執行し、同様に対象となった死刑囚の名前を公表した。
2008年6月17日、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の死刑囚ら3人に死刑を執行。このときは死刑囚の弁護団が再審に向けた準備を進めて鳩山に執行延期を求める要望書を提出していたが、「事件の残虐性を考えると執行を猶予することはできない」とした。これにより、鳩山の法務大臣就任後に死刑が執行された死刑囚は13人となった。朝日新聞夕刊コラム「素粒子」では鳩山を「永世死刑執行人」「死に神」などとして紹介。これに対し鳩山は大激怒したという。
鳩山は法相として2007年12月から4回にわたり計13人の死刑執行を命令し、1993年3月の死刑執行再開以降の法相では最も多い執行命令を下している。なお、刑事訴訟法は「確定から6カ月以内に法務大臣が死刑の執行を命令し(第475条)、当該命令から5日以内に執行する(第476条)」と規定している。
自動式死刑執行の提言は、法相としての自身の責任回避と多く受け取られた。しかしながら私が思うに、鳩山氏は、死刑執行に際して任意の恣意が介入する余地を能う限り排するべく企図したのだろう。それが氏の問題意識としてあった。現在も。そして私は思うのだが、個人が法相としての責任を引き受けて死刑執行命令を下すことは、そもそも妥当な倫理解であるか。
私たちは他者の生命としての人命さえも、時に利己的な恣意の対象としうる。そのことを「引き受ける」「背負う」ことは、まして結果的にでなく積極的に殺す者がかく自らを認識しその認識を開示することは、単なる薬師寺補佐のごとき「覚悟完了している俺」の居直りとヒロイズムをしか用意しないのではないか。そしてお人好しにお人好しと説教する。むろん私は覚悟という自己陶酔の果てに無茶をやり華々しく散る薬師寺さんが10年前から好きだが、その夜郎自大に対して誰かが「否っ!!」と言うべきとは思う、無力であろうとも。
鳩山氏は、現在の日本における死刑執行制度が、個人の人命を恣意の対象とすることを了解していた。公正に基づくそのことに対する疑義が、鳩山邦夫という人にはあった。そして、その疑義は正しい。結果鳩山氏は、日本社会が合意する社会正義において恣意を能う限り公正に運用するべく法相の責務において図ってきた、と自負するところではあったろう。執行件数をもって鳩山氏を「死神」とする評は二重三重の意において誤りである。
言うまでもなく、社会正義の要諦たる公正とは天が采配するものでも神が決定するものでもなく、否、そんなモンに任せておいてよくなったためしがなかったからこそ、人間としての個人が意思において実現せんとするものだ。他者の生命や個人の人命にかかわることであろうとも。死刑制度の存する日本国は人命の無前提な尊重を正義とはしない。人命の采配において社会正義の要諦として公正が問われる。
鳩山氏は、個人の人命が恣意の対象とされうることを法相として個人として前提し、社会正義たる公正の実現されるべく、執行命令という判断と決断と行為に臨んでいる。死刑制度とは、個人の人命を奪う法制度である。そのとき、能う限り恣意の差し挟まれることのないよう、鳩山氏は当初「ベルトコンベア式」の執行を提案し、そして現在、法相として個人として恣意の差し挟まれる余地を能う限り排するべく、執行命令という判断に決断に行為に臨んでいる。私はそう理解している。繰り返すが執行の件数はまったく問題でない。死ぬことの決まった人間は既にこの世にいない人間である。日本国におかれては。関係性から排除された人間はこの世にいない人間である。
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鳩山氏は、「あの鳩山」の人でもあるからして、浮世離れした側面を持ち合わせる人物ということになっている。私も、かくも話題の人物となる以前から氏のことはワッチしているが、それで間違いないと思う。
浮世離れした側面を持ち合わせる人であるから、社会正義の実現たる死刑執行に自身が法相として関与し責任を負うときかくも律儀なのだろう。それが傍から奇矯と映っても。そして鳩山氏は浮世離れした側面を持ち合わせる人であることが周知されてもいるから、徒に英雄化されることもなく、御本人にとっては必然としてのヒロイズムに同調する人も居ない。
『素粒子』のごとく、鳩山邦夫という人に対して「そんなに殺したいのか」と指摘することはおそらく的を外している。世の中、グリーンマイル的なフィジカルかつ心理的な諸事には一切かかわることのない「絞首台の開閉ボタンを押すだけの簡単なお仕事です」に社会正義の実現のため従事したがる人は報酬ある限りいくらも居る。
死ぬべき者が死ぬことは世の摂理であるからして誰のせいでもないということになっている。現代人は覚悟完了を口にするに得意である。殺す覚悟と対にして従容として死ぬことが私たちの美徳である。死を前にして潔く男らしくあることが格好良い。
死刑囚監房の刑務官がボタンを分担するのは「グリーンマイル的なフィジカルかつ心理的な諸事」が日常として存するからである。人生とは「フィジカルかつ心理的な諸事」の集積と私は思うけれども。死刑囚であろうとなかろうと。だから人は時に殺すことに躊躇するし、死に際して従容としてもいられない。みっともない醜態をさらけ出す。
国民の意思において死刑制度が廃止されたなら、鳩山氏はむろん従う。というか従わざるをえない。贔屓目の私見だが、率先して従うだろう。事は任意の社会における社会正義とそれを執行する個人の責務の問題であるから。
国家主義云々以前に、利己的な人殺しは少なくとも遺族が望む限りは殺されて然るべき、と考え、それを公言もする人は多く、そしてそうした人に対して、自身が人殺しに加担していることの自覚を問うたところで、了解としての覚悟完了を言明されることもまた多い。その覚悟完了に対して論駁しうるか、否、覚悟とは論駁を要請するものではないから覚悟なのだ。殺すことの覚悟と、自身の主体的な判断と決断に基づき殺した後の倫理と。
言うまでもないことであるが死刑執行について法務大臣鳩山邦夫は徒に非難中傷さるべきではない。その点に問題は所在しないと私は思う。死刑執行とその法務大臣の承認にまつわる、すなわち、死刑を存置する社会の構成員の誰しもが当事者たりうる個人の人命を奪う行為にまつわる、恣意性とそれを引き受け背負うことの覚悟を完了してしまうことの問題こそが、問われる。容易にインスタントに完了してしまうことがいくらもあることの問題が。
鳩山氏は、覚悟を完了せんとして果たせないままなのだろう。それが、人として「まとも」なことであるか私は知らない。ところで先日実家に立ち寄ったところ母親は宮崎勤の死刑執行について20年も執行されなかったことが遅すぎる、と憤慨していた。他人を殺したら自分も死ぬことを覚悟するに決まってると。こういう見解を聞かされるたび私は為にする殺人を自重する思いを新たにするのだった。「覚悟」というのは便利な言葉だ。
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なので。私は「覚悟」を言葉として公言することを好まない。他人に問うことはもっと好まない。公言することはヒロイズムでしかない。つうかBLACK LAGOONではないのだから。そもそも言ったモン勝ちである。「俺は覚悟を持って奪っている/殺している」「俺は自身が奪っている/殺していることを引き受け背負っている」そう言ってしまえば誰も「そのことを証明せよ」とは言えない。内心は忖度しえない。
鳩山氏は氏なりに責務ゆえの「重い」倫理を抱えそれを引き受け双肩に背負っているのだろうが、少なくともそのつもりなのだろうが、そしてそのことは体全体に現れているが、それを公言するならヒロイズム以外の何物でもない。むろん鳩山という個人の個性に国家殺人の恣意を帰することはそれこそ切断操作の典型である。
自分の持っている残酷さには徹頭徹尾自覚的でありたい、とブログに記した人がいた。むろん尊敬すべきその人のことではないが、自身の持ち合わせる残酷さに対して徹頭徹尾自覚的であることを言明し公言する事実残酷な人間が支持される、傍から格好良く映る、ということはいくらもある。広義のモテの古典的構造ではあるが。つまり小泉純一郎とはそういう人ではあった。そしてそれは小泉という事実残酷な人のヒロイズムの、ひいては自己肯定の源泉であった。
自覚することと自省することは違う。そして自省とは本人にとっての必要の問題であり生存の条件の問題である。自身の持ち合わせる残酷さに対しては徹頭徹尾自覚的でありたい、と言葉にして公言することを事実残酷な人間である私は好まない。ただ、私は残酷な人間であるがゆえに判断や決断や行為において事後的に倫理問題を不在証明のごとく問う必要がない。倫理解は前提条件に含まれている。それをしてトートロジーと言うのだけれども。
好き好んで孤独な人間の自己肯定はトートロジーの様相を呈する。鳩山という人の、小泉という人の、そのトートロジーの反映が好き好んで孤独になろうとはしない人を困惑させる。だから人は鳩山氏を死神と呼び小泉氏をキチガイと呼んだ。好き好んで孤独な人間に対して君は孤独だなと言っても何の意味もないどころかむしろ本人の自己肯定のトートロジーを強化する以外の何物にも資さない。
だからこそ。私たちは自身の持ち合わせる残酷さに対しては徹頭徹尾自覚的であらねばならないのだろう。残酷な人間にとっての自己肯定の源泉たる覚悟完了と個人として引き受けられ背負われた「汚れ」「罪」を社会的欺瞞として暴くためにも。そのトートロジーとしてのヒロイズムに翻弄されないためにも。自身の持ち合わせる残酷さに対して徹頭徹尾自覚的であることを、いかなる自己肯定にも利用させないために。
覚悟完了の殊更な公言が格好良いものとされる社会は――私は所謂リベラルに立脚する者ではまったくないが――危ういし脆い。根っから残酷な人間の自己肯定に喝采するほど人は概念としてのタフネスに飢えているのだろうか。タフネスとはそういうことではない。私は自身の内なる風景の寂寥に辟易している。
資本主義の発展が資本主義の矛盾を増大させる、と言ったのは誰だったか。死刑執行の増加が死刑制度の矛盾を増大させ誰の眼にも可視とするかも知らん。むろん法務当局は歴史の発展を食い止めるべく「安牌」を切っている。いずれにせよ裁判員制度の実施を控えて百家争鳴を呼んでいる。あのとき鳩山法相が職を辞さずしてよかったとも私は思う。人柱はそのためにも数十本は必要である。13本では足りない。
むろん! 私たち日本国民は、歴史の発展のため、そのことを引き受け背負っていかなければならない。社会正義において時に自身の利己のため他者の生命を奪うことの覚悟と共に。鳩山邦夫と共に。以下循環。社会の名のもとに殺すことは案外難しい。21世紀においてなお個人の覚悟が公然と要請されるくらいには。
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